第69話:四月に叢雲、花に風 後
靴を履きかえ、銀千代は校門を出た。
校庭の脇に植えられた桜はすっかり花を散らし、地面にピンク色の絨毯を敷いていた。
夏日が続いている。春はいつのまにか過ぎ去ってしまったらしい。
道路脇に青色のワゴン車が路駐していた。運転席には若い女性、マネージャーの稲田さんだ。どうやらこのまま職場に向かうらしい。
助手席に座り、「よろしくね」とシートベルトをつけた銀千代は退屈そうに窓の外に目線をやった。車がゆっくり走り出す。
「今日はドラマの撮影です」
稲田さんが声をかける。銀千代は「うん」と小さくうなずいた。野球部の掛け声とチャイムが遠くになっていく。
「渡した台本は読んでいただけてますか?」
「読む時間なかった」
昨日とか、わりとあったと思うけど。
「え、ええ、だ、大丈夫なんですか? このあとすぐ撮影ですよ?」
「いま読む」
パカリとダッシュボードを開けて、中から冊子を取り出し、パラパラとそれを捲った。持ち帰ってもないんかい。
「覚えた」
数十秒後、驚異的なスピードでページを捲りきった銀千代は、ダッシュボードに台本を戻した。
「ほ、ほんとうですか」
「うん。完璧だよ」
「だ、大丈夫ですか?」
「まあ、任せてよ。銀千代、演技は得意だから」
車は一路東京へと向かう。全体的にこいつ仕事なめてるな、って思った。
携帯の充電が溜まらない。
ランプはずっと赤のままだ。
どうやら、無駄に容量を食うアプリらしい。銀千代の私生活を見るのも飽きたので、一旦アプリを落としたところで親に呼ばれた。
明日の葬儀についてだ。軽く段取りがあるらしい。といってもかなりの遠縁の葬儀なので、受付をやるとかではない。
おそらく母親は世間一般的な常識として、俺に葬儀の参列の仕方をレクチャーしたいのだろうと、なんとなく思った。
ご焼香のやり方を教わって、部屋に戻る。身内に不幸があると色々と大変だ。
充電もある程度溜まっていたので銀千代のアプリをまた開いて見てみた。
「あれ?」
画面が真っ暗だった。
「壊れたのかな?」
音量を上げてみる。
風の音がする。微かに葉が擦れる音も。どうやら屋外らしい。
映像配信機能がダメになったのだろうか。もしくはメガネ型隠しカメラのレンズが壊れたか。
「……ひと……はレ」
徐々に音が大きくなる。衣擦れと僅かな息づかいが聞こえてきた。
「ん?」
耳をすませば。
「俺、お前が好きだっ!!」
「え?」
若い男の声。
どうやら銀千代がまた告白されているらしい。
わかっていたことだが、ずいぶんとモテる女だ。ある意味羨ましい。
「いつから?」
暫しの沈黙の後、銀千代が口を開いた。
「いつから、私のこと、好きだったの?」
間違いなく銀千代の声だ。小さくもハキハキとした口調。
「初めて、お前を見たときから、ずっと……ずっと、俺はお前が好きだった」
男がたどたどしくも自信に溢れた返答をする。
「付き合ってください!」
僅かな沈黙ののち、
「こちらこそ、よろしくお願いします」
可愛らしく震えた声で銀千代が返事を受けた。
よろし、
え?
「あいつのことは、もういいのか?」
「うん……」
銀千代も男も涙声だ。
「もう、いいんだ……。追いかけても届かないなら、私は、もう」
感傷に滲むような小さな声だった。
「ぜってぇー! 幸せにする!」
「うん……お願いします」
ぶっわ、何かが広がる音がして、パラパラと水が弾ける音がした。どうやら噴水があがったらしい。
ドラマティックな展開だが、頭がぐるぐるして現状が飲み込めなかった。
心臓がばくばくと高鳴る。
いや、ちょっと、まて。
落ち着け、どういうことだ。
「天国にいるアイツの分も、俺が、お前を守るから……」
天国?
は?
飲み込めない言葉が脳を巡り、一つの解答となって弾けた。
あ、これ!
「はいカットー!!」
音量がマックスだったので鼓膜が破れるかと思った。あわててボリュームを下げる。
監督とおぼしき人物の声で、カットがかかる。
どうやらドラマの撮影らしい。そういえば車の中でそんな事言ってたな。
「いやぁー、二人とも良い演技だよ! さいこーだ!」
「あざます!」
先ほど銀千代に告白していた男がお礼の声をあげたところで、ガサガサと音がして、スマホに現状が写し出された。どうやらメガネケースに入れられていたらしい。
「ぎ、銀千代さん、すごいです。もう、ほんと! すすすすみません、涙が、止まらなくて、ずびっ。過去の淡い初恋を引きずる少女の葛藤と新たな旅立ちが繊細な演技で表現なされていて……!」
マネージャーの稲田さんの手からメガネを受け取った銀千代は素早くそれを装着した。一瞬写った彼女の表情は不機嫌そのものだった。
稲田さんの鼻は真っ赤だった。撮影で泣いてしまったらしい。どんだけ感受性豊かなんだよ。
「稲田さん」
「あ、はい!」
銀千代は小さく囁くように言った。
「銀千代、こういう仕事は受けないでね、って一番始めに言ったと思うんだけど……」
「こ、こういうというのは……」
「ドラマは別にいいの。演技するのは得意だし、好きだから。だけど、嘘でも知らない誰かを好きなんて言いたくないし、言われたくもない。わかるでしょ?」
稲田さんの赤くなった顔が、血の気引くように青くなっていく。相変わらず信号機みたいな人だ。
「そ、そそ、その、銀千代さんの演技がすごく良かったって、現場に来ていた脚本家の方がインスピレーションを受けたらしくて、急遽なんですが、途中でストーリーが変更したらしいんです、はい、その、……すみません」
「そうなんだ。それじゃあ、稲田さんのせいじゃないね。どうすればいいのかな」
「いや、でも、その、はい、すみません」
銀千代は浅くため息をついて、歩き出した。
目線の先には椅子に座ってオーバーリアクションで俳優を誉める監督がいた。
「君たち最高! 演技力、ルックス、何もかも素晴らしい!」
椅子に座って、前のめりになりながら出演者をべた褒めしまくる監督。めっちゃいい人そうだ。
「すみません」
ファミレスの店員を呼ぶようなトーンで銀千代は話しかけた。
「ん? おー、銀千代ちゃん! いやほんと君すごいね! さっきの演技もよかったよ! 涙が自然に流せる女優が最近少なくてね! 君は特に目力が良い。君ほど感情豊かに演じられ」
「銀千代、ラブシーンは無しでお願いします」
「……いまさらなに言ってんの?」
現場が凍りついた。
共感性羞恥がやばいので、アプリを落として、夕飯の支度をしている婆さんたちを手伝うことにした。
見なかったことにしよう。
相手が一人の時に何してるかなんて、知らない方がいいに決まっている。
やっぱりプライバシーというものは大切なのだ。
夜風が薄れ逝く春を流していく。細い月におぼろ雲がかかっていた。
このアプリを使うことは二度とないだろう。




