第65話:三月某日、春の海 前
三年生の卒業式があった。
晴れの舞台だというのに、来賓客は親類のみに限られ、人数がかなり絞られた小規模なイベントになったらしい。
コロナで日常も非日常も奪われた先輩方は、慌ただしい世界情勢のなか、世間からも忘れさられたように巣立っていった。
下級生は休日で、大勢の見送りは禁止されている。
お世話になった先輩も特にいないので、部屋にこもってゲームをしていた。忘れたい現実がいくつも転がっている気がした。
今日は久々に春らしい気温で、桜はまだ咲いていないが、新しい門出には十分すぎるほどの晴天だった。
来年がどうなるかわからないけど、無事に大学に入学できてればいいなぁ、と画面の中のキャラクターを動かす。アイテムかと思ったらキノコだった。
「ゆーくん! お出かけしよっ!」
吹き込む冷たい春の風。どこか花の匂いが漂う。部屋の窓を外から開けた幼馴染みの金守銀千代は、サッシを乗り越えて部屋に入ってきた。日常過ぎて注意する気も起きない。
「なんでだよ」
「ゆーくんと海がみたいからだよ」
「フゥン……」
ゲーム内のメニューを開いて、セーブして、電源を落とす。
「海って広くて大きくて綺麗で二人で見るとそれはもうエモくて」
「まあ、いいか」
「沈みいく夕日とかみてたら、きっといい感じになると思、……え、いいの?」
意外なものでも見るように銀千代の目は大きく見開いた。
「ああ、暇してたところだしな」
クラゲを喚んでもボスに勝てなくてイライラしてたところだ。こういうときは一回気分転換したほうがいい。
「ほんとにいいの!?」
「しつけーな、なんだよ」
ジッと俺を見ていた銀千代は、「バイタル、心拍、脈拍……」とぶつぶつ呟き、
「ワァ」
幸せそうに両の手の指を胸の前で組み、にっこりと微笑んだ。
「久々の青春モードだね」
「……なんだそれ」
「えへへ、ゆーくんには年に数回、物語っぽい青春をエンジョイしたくてたまらない時があるんだよ」
「ないよ、そんな時」
「このくそ寒いのにわざわざ寒い海にいく意味がわからん。ピコピコしてんだから、邪魔すんなよ」
「は?」
「いつものゆーくんならこう言うはずなのに、今日は銀千代の提案をすんなり飲み込んでくれたから」
「……」
冷静に考えてみると、たしかにそういうときがあるような、気がする。いい映画や音楽に出会ったとき、無性に、こう、叫び出したくなるような感傷が。
でも、肯定するのも照れ臭いので、ごまかすように俺は持っていたコントローラをテレビ台の下にしまった。
「青春モードの時のゆーくんはいつもより歯の浮くような台詞を言いがちで、 すごくロマンティックなんだよ」
「やめろ、なんか……」
無性に恥ずかしくなってきた。
「ちょっと待ってね」
銀千代は「むー」と唇を引き結んで、目を強く瞑りながら、こめかみの部分をトントンと叩き出した。
「なにしてんの?」
「青春モードのゆーくんはいつもの銀千代とは相性合わないから、青春モードの銀千代に成ることにしてるんだ」
なに言ってるのか、全然わからなかった。わからなくていいような気もしてきた。
「んっ。それじゃ、行こうか。ゆーくん! 準備はもうできてるよ」
銀千代が手を差し出してきた。
たしかに部屋に来た時とは、どことなく雰囲気が違う気がするが、
「いや、外出る準備くらいさせてくれ」
俺はパジャマのまんまだった。
外着に着替えて、玄関の前に行くと、車が一台路駐していた。柔らかな日差しを浴びる青いボンネットは、数日前にスキーに行った時に乗車したものと同じである。
「さ、ゆーくん、乗って乗って」
がちゃりと後部座席のドアが開いて、銀千代が顔を覗かせる。運転席にはマネージャーの稲田さんがいた。暇なのかなこの人。
車に乗りこみ、シートベルトをつける。
「おはようございます」
と挨拶したら小さく会釈された。
「あの、ありがとうございます、なんか……」
「……」
稲田さんは目礼し、正面を向いた。
「返事して良いよ」
銀千代が上機嫌に声をかけた。
「あ、はい、あの、今日は運転手します。稲田心です。よろしくお願いします……」
「よろしくはしなくていいよ。運転だけ集中して」
「は、はい。す、すみません」
前回もこのやりとりした気がするな。少しだけかわいそうに思い、思わず稲田さんに声をかける。
「別に仕事じゃないんだから、プライベートまで銀千代の世話をする必要はないんじゃないですか?」
「……その、誰かの役に立つのが、う、嬉しくて……」
ちょっと照れたように言われたけど反応に困る。
「尽くす女アピールしてるのかな?」
横から低くドスのきいた声がした。
「あ、いえ! えっと、すみません、あの、わ、私の性格なだけで、そんな意図は、決して、あ、ありません」
パワハラの現場である。
凍りついた場をなんとか和ませよう声をあげる。
「でも仕事もプライベートも銀千代に振り回されてたら、なにもできないでしょ」
「楽しんでやらせていただいています」
洗脳済みみたいな目をしていた。
「銀千代と付き合ってたら友達なくしますよ」
呆れながら言うと、稲田さんはぼそりと、「もとから友達、い、いないんで大丈夫です」と呟いた。
なんも大丈夫じゃないだろ。
「銀千代も休みの時ぐらいマネージャーさん解放してやれよ」
さすがに哀れに思って、横の銀千代に注意すると、
「ちゃんとプライベートは尊重してるよ!」
と、グッと親指をたてられた。
「稲田さんには同じ会社の同期に付き合ってる人がいるんだよ。新卒でお互いの悩み相談しているうちに、付き合い始めたんだって。銀千代はね、恋する乙女の味方だから、稲田さんのことも応援してるんだよ。今度同棲するかもって言ってたよね」
「ぎ、銀千代さん……」
「ん?」
「あ、あの、私、先週、カレシにフラれました……。すみません……」
「え、なんで」
「仕事ばかりで、なんなんだと、言われて……」
「……」
車内が一瞬お通夜みたいになった。同じ会社の同期に言われてたらおしまいな気がする。
気まずい沈黙を破ったのは銀千代だった。
「フリーになったってアピールしてるのかな?」
どんな会話しても地雷を踏みそうな気がする。
「そ、そういうわけでは……。あの、単純に私の性格がダメなだけで、ほ、本当に申し訳ないです……」
卑屈すぎである。生まれもった性質かは知らないが。
「だ、だから、ともかくお仕事、とか、あの、銀千代さんのお手伝い、して、嫌なことを忘れたいんです……はい」
照れたように言う。ワーカホリックってこうやってできるのかなぁ、と思った。この人も案外変な人である。
「手伝ってくれて助かるけど、ゆーくんにあんまり色目使わないでね」
銀千代がじとっとした目で稲田さんを睨み付けた。
「き、気を付けます」
「本当に大丈夫?」
「あ、あの、安心してください。その、わたし、ゆーくん……のこと、えと、あまり、タイプではないんで。大丈夫です」
なんで俺が傷付かなくちゃいけないんだ。
「ゆーくんがタイプじゃないってどんな目してるの?」
「すすすすすみません。え、えっと、か、かっこいい方だとは思います、け、けど、私は、その、もっとガッシリしたタイプが好みなので。ま、マッチョというか。なかやまきんに君が好きなんです」
「……」
「ぱ、パワー……」
パワーのない発言だった。滑ったというやつである。
「……いいでしょう」
深く一度銀千代は頷いた。
なんだったんだ、この停車時間は。
「あ、あの、それじゃ」稲田さんは小さく「出発します……」と呟いてから、エンジンをかけた。




