第64話:二月に消えたシュプールを 後
雪を被った南アルプスが広がっている。空気が澄んでいて、鼻の奥がツンと痛んだ。白樺林が広がっている。雪上を走った白い風が俺の昂りを冷ましていく。
絶景だった。
「……」
だからどうした。
「トランクに道具積んであるからね」
銀千代がニコニコしながら車を降りる。スキー場の駐車場で荷物を取りだし、防寒着を羽織る。
「……」
来てしまった。
地面は白く空の青が際立っている。気温は低く、天気はいい。
「なんでこんなことに……」
「じゃあ、六時間後にまた来るから車で集合ね」
俺の腕に絡み付いた銀千代が運転席に座る稲田さんににっこりと微笑んだ。
「わかりました。すみません、ありがとうございます」
まあいい。
来てしまったものはしかたない。
幸い、銀千代が気をきかせて俺のスマホを持ってきてくれているし、親に連絡しておこう。と画面をみたらバッテリーが二十パーセントしかなかった。充電途中でコードを引っこ抜いてきたらしい。くそが。
「スキーか……」
終わったことを嘆いても始まらない。
中二のスキー教室以来である。滑れるだろうか。
ゲレンデは早朝だというのに人が多かった。
ロッジのような建物で受付を済まし、出たところでスキー板をはく。太陽光を雪が反射して、眩しくてたまらない。ゴーグルで目を守る。銀千代が準備したスキーセットは完璧だった。
リフトに乗って、初心者用コースから始める。
「まず滑りかたね!」
俺にプライドなどはない。
銀千代にスキーの楽しみかたを素直に教わる。
「体を前傾にするだけで滑っていくの!」
スーと前へ進んでいく銀千代。
「……」
そのまま彼方へ消えてくれるとありがたい。
「でっ、次はね!」
無駄に教え方がうまい。
お陰様で基本姿勢を思い出すのに時間はかからなかった。
昔とった杵柄というのか、数分練習すれば、もとの通りには滑れるようになった。
あとはひたすら並走してこようとする銀千代から逃げるだけの作業だ。
何だかんだでスキーを楽しんで、お腹がへったので、ご飯を食べて、また滑って、日がくれる前に帰ることにした。
「えー、ゆーくん、もっと滑ろうよ。ナイターのほうが空いてていいよ」
全身がなれない運動でバキバキだったし、体力もないのでボチボチ限界だった。
それにこれ以上いたら家に帰れなくなる。
日が明るいうちに撤収しよう。
スマホのバッテリーもヤバイし、親を心配させるわけにもいかない。
渋る銀千代を説得してなんとか稲田さんの待つ車に戻ったところで、最悪の展開に頭が痛くなった。
「あー!」
「お、おかえりなひゃい。ま、まってましたぁ」
ガチャリと運転席のドアが開いて、赤ら顔の稲田さんが降りてきた。
正面から顔を見るのははじめてだったが、一目で様子が変だとわかった。焦点が合っていない。
「稲田さん、お酒飲んでるゥ」
「にへへへ」
「な、なにをばかな」
銀千代の白々しい発言を受けて、稲田さんの右手に視線をやると、ストロングゼロの空き缶が握られていた。
「す、すみません、さっひまで、ロッジで待ってたんですけど、な、ナンパがひどくて、車に移動したにゃ、寒くて、暖とろうって思っひぇ、飲んひゃいまひた。にへへ」
呂律が回っていない。明らかに飲みなれていない人である。そんな人がストロングゼロを飲むはずがない。たぶん。
「もう、稲田さんったらー、これじゃ車運転できないねぇ」
「あーい、すいまてーん」
へらへら笑って謝罪する稲田さん。予定調和か。
千鳥足で銀千代の前に来た稲田さんはゆっくりと頭を下げて、顔をあげた。
すごくいい笑顔をしていた。ありとあらゆるこの世の残酷さを、忘れたような無垢な笑顔である。
「困ったなぁ。運転手さんがこれじゃあ、帰れないねぇ」
銀千代が空々しく呟いた。
「……呼べよ」
「え?」
「運転代行を呼べよ……っ!」
「!?」
銀千代の眉毛がぴくりと動いたが、すぐに元に戻った。
「ダメだよゆーくん、運転代行なんて呼んだら物凄い費用とられちゃうよ」
「そーですよー。にへへへへへへ、すみません、自分のミスで、すみません、ひゃはは」
何が可笑しい。
絶対故意だ。企みが読めてきたぞ。こいつ、外界から隔絶された空間を無理矢理作り出して、雪山遭難的なやつを行おうとしているに違いない。
道理で滑っているとき「もう完璧だよ、そろそろ超上級者コース行こうよ!」とか「ねー、ゆーくん、あっちのさ、あそこのさ、ほら、ちょっと段差になってるところでジャンプしてみない?」とか、過保護にしては珍しく挑戦を促してきたと思った。
俺が初心者用コースから移動しなかったから計画が崩れて急遽稲田さんにお酒を飲むように指示したのだろう。手間のかかることを。
「いや、麓の電車が通ってる所まで下ろしてくれたら俺は帰るから」
「だ、だめだよ、そんな、移動にお金がかかっちゃうし、仕方無いから稲田さんのお酒を抜けるまで、ここでゆっくりしようよ」
「お酒って、どれくらいで抜けるんだ?」
「人によるけど五時間ぐらいかな」
「たぶん下までバス出てるよな」
スマホで確認しようしたが、バッテリーがゼロになっていた。くそが。
「ゆーくん、あきらめて泊まろうよ」
「泊まる? どこに?」
「うん! 実はね、この辺りにミシュラン五ツ星のホテルがあってね、さっき問い合わせたら、一部屋空いてるんだって!」
なんで問い合わせしてるんだろうね。
「ツイン一部屋だけみたいだから、残念だけど稲田さんには車中泊してもらって」
「真冬に車中泊したら死ぬだろ」
「うん、そうかもね」
「そうかもね、じゃねぇよ」
「……まあ、仕方無いから、ツインルームだけど、なんとか三人で借りて、稲田さんにはバスルームで寝てもらおう」
元殺し屋かなにかかな?
「俺がソファーで寝るからお前らベッドで寝ろよ」
「……たぶん交渉すればもう一部屋ぐらい借りられるから、稲田さん一人部屋、ゆーくんと銀千代が同じ部屋にして」
「俺を一人部屋にしてくれ」
「……」
銀千代は少し考えるように眉間にシワを寄せていたが、やがて口角を上げて、にやりと微笑んでから続けた。
「とりあえず、さ、部屋割りは後で公平にチンチロ辺りで決めるとして、ひとまずホテルに移動しようよ」
四五六賽しようとしてるな。
「まて」
「え、なに? ホテルならここから歩いて五分くらいのところだよ」
「そうじゃない。ミシュランガイドで五ツ星とか言ってたけど、そんな良いところに泊まれるお金あるのかよ。いくらすんだよ」
「一人一泊十万円くらいかなぁ」
「じゅ……」
「うん、でも、安心してね! 実はこんなこともあろうかとお金たくさん持ってきてるんだ、ほら!」
銀千代は嬉しそうにポケットからお財布を取り出して、見せびらかすように中身を開いた。札束が無造作に入れられていた。
「何泊でもできるよ!」
「……」
「さ、行こう、ゆーくん」
「……」
「ゆーくん?」
「そんだけ、お金あるならさぁ」
「あ!」
「運転代行を呼んでください」
「ぐぬぬ……」
ホテル泊まるより、絶対そっちの方が安いから。
「こりゃあ、一本とられしたねぇ……!」
ケラケラと稲田さんがおかしそうに笑うのを冷めた目付きで銀千代が睨み付けていた。




