第62話:二月のチョコレート戦争
体育のあと、廊下を歩いていると、すれ違った下級生の沼袋から呼び止められた。
「どうやら誤解があったようです」
少しだけ照れくさそうに、手に持っていた手提げから「たけのこの里」を取り出し、
「お詫びにこれあげます」
ぐいっ、突き出された。
「ああ、どうも」
条件反射的に受け取ってしまう。
「誤解ってなんの話?」
「先輩の、その変態的な、せ、性癖とか。そういう……」
はたと気がついた。以前銀千代に吹き込まれたやつか。
「……いや、なに言われたのか知らないけど、たぶん銀千代が誇張して伝えてるだけだから」
「そうとはいえ、ありのままを受け止める勇気がないなら話しかけないで、と一喝されたのは、たしかに、私も軽率だったと思ったんです。他人と相対しているとき、目の前にいる人の心のうちまで、私はまったく考えずに生きていました。表面的で浅い人間付き合いをしていたと反省したんです」
真面目か。
「職場の、その、大人の女性とかに聞いたら、先輩の性癖は分類的にいうと、まだノーマルで、そーゆーのは、普通だから、気にする必要はないってアドバイスもらいました……」
「……」
「若干アブノーマルに足を踏み込んでいるとも言ってましたが」
俺の性癖を周りの人間に広めるのはやめてほしかった。
「だから、私がまだ子供だっただけなんだと、やっと気付いたんです」
「はぁ、そうですか」
「だから、これは独善的な考え方をしてしまったことをこめてのお詫びです」
渡されたたけのこの里を見る。きのこの山の方が好きだけど、ぶっちゃけどっちでもいい。どっちもうまい。
「……勘違いしないでくださいね」
じっとパッケージを眺めていた俺に沼袋はぶっきらぼうに言った。
「なにが?」
「 っ!」
聞き返したら、「それじゃあ、また!」と大股歩きで去っていた。女子はよくわからん。
教室に戻ると、銀千代の机の回りに人だかりができていた。見知らぬ女子ばかりだ。リボンの色を見ると他学年の生徒も混じっているようである。
「な、なにごとだ」
列の一番後ろのいた鈴木くんに声をかける。先ほど沼袋に声をかけられたとき、気を聞かせて先に教室に戻っていたので、俺よりも現状を把握しているはずだ。
鈴木くんはひどくつまらなそうに目を細めて教えてくれた。
「うちのクラスのやつもそうだけど、わざわざ他クラスから来て、銀ちゃんにチョコ渡してんだよ」
「チョコ?」
「にしても、友チョコとかいう文化滅びろって感じだよな」
「はっ!」
憂鬱な月曜日で忘れていたが、今日は二月十四日、世間的にはバレンタインデーだ。
「はっ!」
先ほど渡されたたけのこの里に目を落とす。
「はっ!」
沼袋の表情。照れたような赤ら顔。「勘違いしないでくださいね」という化石のようなツンデレな台詞。
「はっ!」
しまった!!
そうか、そういうことだったのか。
このチョコはお詫びではなく、単純にバレンタインデーのチョコで「勘違いしないで」というのは「勘違いしてくれ」という裏返しで、「心のうちまでちゃんと考える」というのは、つまり期待してよかったということ!
それを、俺は、なんということだ、フラグをへし折ってしまったのか!?
ああああ!
世界が歪んで見えている俺に、
「どしたん?」
と鈴木くんが訊いてきた。
「な、なんにもない」
ほんとうになにもなかったのだ。
何かが起こる可能性はあったのに!
取り繕って、自分の席に戻ろうと思ったが、銀千代の取り巻きが邪魔でしばらく座れそうになかった。
人がひくのを待とうと掃除用具入れに背中を預けたとき、
さながらモーゼのように人の波が二つに割れて、威風堂々たる面持ちで銀千代がこちらに向かって歩いてきた。
「ゆーくん、体育お疲れ様。走ってる姿、かっこよかったよ」
狂気的な笑みを浮かべる。女子は体育館でダンスの練習だったはずなのに、なんで運動場にいる俺の姿がわかるのかは謎だった。
「疲れたゆーくんに糖分をとってほしくてチョコ用意したんだ」
「あ、ああ、ありがとう」
なんでもないのに少しだけ後ろめたくなってきた。
「本当は持ってこようと思ったんだけど、鞄に入りきらなくて、ゆーくんの家のお風呂場にあるから、帰ってからのおたの、……ん?」
沼袋から貰ったたけのこの里は、後ろ手で背中に隠していたのだが、
「ゆーくん、背中になにかあるの……、かな?」
「いや、別に……つうか、なんで俺んちの風呂場にチョコがあ」
「背中のもの、見せて」
「……なんもねぇよ」
「嘘だッッッ!」
いきなり怒鳴るな。耳が痛いだろ。
「……なんでお前に見せないといけないんだよ」
「見たいから」
目に、目に光がない。
なんかどす黒い。
クラス全体がざわついた。
「お前には関係ないだろ」
「ゆーくんのことで銀千代に関係ないことなんて一つもないんだよ」
「付き合ってもないのに束縛するのやめ」
話してる途中にも関わらず銀千代の両手が王蟲を発見した大人みたいに伸びて、俺が後ろ手に持っていたたけのこの里のパッケージを取り上げた。
「なに、これ」
「なにって、……たけのこの里」
ざわざわ……、とギャラリーがどよめく。お前らはもっと関係ないだろ、っと叫びたかった。
「明治製菓ぁ……!」
怨嗟の声が銀千代の腹の底から出た。メーカーは関係なくないか?
「……もらったの?」
「……」
「誰かに?」
「……」
どうしよう。
ベストな選択肢が思い浮かばない。
けど、
すくなくとも、
「買ったんだよ。小腹がすいて。さっき、購買で」
沼袋の名前を出したら悲惨なことになりそうだから、避けておこう。
「……」
銀千代はしばらく無言で取り上げたたけのこの里を見つめていたが、やがて、鼻で息をはいて、
「なぁるほどぉ!」
と安心したように笑顔になった。
「購買部のおばちゃんがゆーくんにチョコあげたんだね」
まて、ちょっと勘違いしてる。
「いや、あげたとかじゃなくて、買ったんだよ、俺が。腹へったから」
「でも、おばちゃんの手からチョコを受け取ったのは事実なんでしょ?」
「いや、えっと……」
「田島さん? 柳井さん? 桜島さん?」
「……だれだよ」
と一瞬思ったが、おそらく学食のおばちゃんの名前だ。なんで特定しようとしてるんだ、こいつ。
たけのこの里を学食で買っただけなら、なんの問題もないだろ、と言いたいところだが、銀千代の行動はまったく読めないし、誰かを傷つけそうだったので、
「購買の横にお菓子の自販機あるだろ、あそこで買ったんだよ!」と適当にごまかしたら、
「もう、それを早く言ってよー」
と上機嫌に手をたたかられた。
「じゃあ、はい、ゆーくん、これ返……あれ」
手に持っていたたけのこの里の箱を銀千代は凝視した。
「この箱、一回開けて閉じたアトがある……」
てっきり新品だと思っていたが、どうやら沼袋の食べ掛けだったようだ。
「食いながら歩いてきたんだよ」
「……」
銀千代は俺に許可を要請するでもなく、無言で箱の蓋を開けた。
「あ」
「え」
箱のなかには「きのこの山」が入っていた。
「……」
銀千代がちらりと俺を見てきた。いや、なんだこれ、どういうことだ。
無表情の銀千代は箱をいったん近くの机に置くと、取り繕ったような静かな微笑みを浮かべ、俺を見つめてきた。
返事のしようがないので、作り笑いで受けて、肩を小さく竦める。
なおも銀千代は笑顔のまま、きのこの山を一粒つまみ上げた。
「……」
よくよくみると形が不恰好だ。不揃いだし、大きさもまちまち。とても工場で作られたようなものには見えない。
箱の底には、付箋のような手紙が貼られていた。銀千代はそれをはがし、目を細めた。
『二時間目が調理実習だったんで作ってみました。先輩はきのこの山がお好きだと聞いたんでサプライズ(*´∀`)♪』
銀千代は走り出していた。
次の授業開始を知らせるチャイムが鳴り響いていたが、彼女には関係なかった。
つられて俺も走り出していた。
暴走する銀千代が、沼袋のクラスにたどり着くまでの勝負だった。
俺は銀千代を止めなければならない。




