最終話
これから夜に差し掛かろうとしている時間帯であった。日は傾き、空には鮮やかな橙色が広がっている。
「はぁ……はぁ……!」
夕日に照らされる森の中を、サンスは走っていた。その後ろにはアグスティナを背負っている。
木々の間をひたすらに駆ける彼の後方では、とある大きな建物が炎に飲み込まれていた。燃え上がりながら、崩れていく。それはバーウィック家の屋敷であった。
息を切らしながらサンスは走っている。背負っている彼女の体温を感じる。絶対に護らなくては、と強く意識する。
――本当に、突然のことだった。
一体何があったのか、その詳しい経緯について、サンスもアグスティナも何も知らない。ただ突然、大きな悲鳴や物音が屋敷中に響き渡った。
駆けつけたサンスが見たのは、一人の男と、その左肩で唸り声を上げる魔獣の頭であった。人間と魔獣が同化しているようなその異様な様相に、彼は思わず息を飲んだ。
その男の周りでは、館の護衛や使用人が何人も死んでいた。男は一瞬だけサンスの方へと目をやり、また視線を戻した。しかしただその一瞥だけで、この男は本当に危険なのだと、彼は本能的に理解した。サンスの身体が勝手に震え始める。
そんな危険人物の前に、一人の男が立ちはだかった。
彼の名前は、エフライン・ルドヴィア。サンスに剣術を教え込んできた師匠であり、また、両親のいない彼にとっては親代わりのような人物であった。
彼は一瞬だけ、サンスと視線を交わした。師匠はその目で言った。やるべきことは分かっているな、と。
サンスは全身の震えをねじ伏せ、駆け出した。
そして彼はアグスティナの護衛として、彼女を背負い、屋敷から逃げ出した。
師匠とはもう二度と生きて会うことは無いだろうと思いながら、彼は本気で走った。その尋常ではない脚力での、全力疾走であった。
森の中を、ただひたすらに走り続け、気づけば日は完全に沈みきっていた。
既にバーウィック家の屋敷からはかなり離れ、その燃え上がる炎の明かりすら、もう完全に見えなくなっている。
夜の森を無闇に進むのは危険だと判断し、サンスはその足を止めた。
彼の脚力で本気で逃げてきたのだから、通常ならば完全に振り切っているはずである。しかし、あの男と一瞬だけ目が合った時のその恐怖が、彼に油断することを許さない。万が一敵が近くにまで来ていた時のことを考え、彼は明かりをつけなかった。
サンスとアグスティナの二人は、ただ深い森の暗闇の中で、腰を下ろして休息を取った。
「……一体、何が……」
彼女はぽつりと呟いた。
「俺も、何も分からない」
「……どうして……何のために……」
彼女は俯きながら、ぶつぶつと呟く。その肩は震えていた。サンスは腕を伸ばし、彼女を軽く抱きしめる。
物心ついた頃には既に彼女の側にいた彼であったが、彼女がこれほど動揺している姿を見るのは、始めてのことであった。
暫く何事かを呟き続けていた彼女は、やがて黙り込んだ。二人の間に沈黙が漂う。静かになったことにより、夜の深い闇が、ぐっと自分達に迫ってきたような気がした。彼女を抱きしめているその腕に、自然と力が入る。
長い沈黙の後、やがて、彼女は再び口を開くと、言った。
「許さないわ」
彼女のその声を聞いて、彼の背筋はぞわりと震えた。
見れば、この暗闇の中、彼女は今まで見たことがない程静かで、険しい表情をしていた。その両目の奥に、炎が灯っているのを感じる。
彼女のその様子に対し、彼は不安と同時に、強い共感を覚えた。彼女を護り、逃げる事に必死だったサンスの胸中に、遅れて、激しい怒りと憤りが押し寄せてくる。
強く、復讐を願った。
この時二人の中に灯った炎は、それからずっと燃え続けている。これが自然に消えることは無いだろうと、サンスは確信していた。この戦いに決着が着くまで、ずっと、この炎は内側から己を焦がし続けていくのだろう、と。
◇
サンスは夢から醒めた。
見ていたのは、バーウィック家の屋敷が激しく燃え上がっている時の光景だ。それは今日に至るまで、何度も何度も繰り返し見てきた夢であった。
覚醒した彼は、ゆっくりと目を開けていく。
そこには穏やかな青空が広がっていた。薄い雲が緩やかに流れていく。
ざわりと、木々の枝葉が風に揺らぐ音が聞こえてくる。
意識はひどくぼうっとしていた。頭の中に靄がかかっているかのように、思考をうまく働かせることができない。
すっと、誰かが彼の顔を覗き込んできた。
「目を覚ましましたか?」
見覚えのあるその顔に、彼は記憶を探る。そして一拍遅れて、その名前を思い出した。
「ルフィナ……?」
「はい」
「……俺は……」
聞こえた己の声は、弱々しく掠れたものだった。
一先ず起き上がろうとするが、うまく身体に力が入らない。その様子を見て、ルフィナが言った。
「まだ、あまり動かない方が良いと思いますよ」
サンスは何とか顔だけを動かし、自分の周りの状況を確認する。しかし、森の中のどこか、ということは分かるのだが、それ以上のことは何も分からない。
「ここは?」
「正確な位置は私にも分かりません。あの後、何とかバジャルドの元から逃げて、そのまま闇雲に進んできましたから……」
見れば、彼女の服は全身がひどく汚れていた。所々破れており、幾らか血が滲んでいる箇所もある。既に回復は済ませているのだろうが、ここに来るまでに随分と大変な目に遭ったようだ。
「……そういえば、ティナは?」
頭だけを動かして確認するが、アグスティナの姿はどこにも見当たらない。
「ティナさんの消息については、私も分かりません」
ルフィナは言った。
「未だあの建物の中のどこかに隠れているのか、あるいは逃げ出せたのか……。私はサンスさんを引っ張って逃げるのに精一杯で、確認することはできませんでした」
「……」
隠れていたとしても、逃げ出していたとしても、どちらにせよアグスティナが危険な状態なのは変わらない。
彼女はここに居る二人とは違い、直接的な戦闘能力は殆ど無い。二人なら簡単に無力化できるような相手であったとしても、彼女にとってはかなり大きな脅威となってしまう。
アグスティナの護衛であるサンスとしては、居ても立ってもいられないような状況である。しかし今の彼の頭は、まるで何日も眠り続けていたかのようにぼうっとしており、その危機感はどこか遠いものだった。
そんな彼に対し、彼女は言った。
「バジャルドとの戦いのことや、これからどうするかということ……話さなくてはならないことは、沢山あります。ですが……まずは、教えて下さい」
彼女の声は強張っていた。その表情には強い警戒と、そして幾らかの怯えがある。
「――サンスさん、あなたは、一体何なんですか?」
二人の間の空気が、ぴんと張り詰めた。
「あの時、あなたは完全に、バジャルドに心臓を貫かれました」
ルフィナは続ける。
「その直後、私は思い切り爆発魔術を使い、部屋を壊し、天井を落とし……それに紛れて、何とかあなたを引きずって逃げることに成功したんです。ですがその時にはもう、脈拍は停止し、呼吸もしていなかった。身体もどんどん冷たくなっていく。……サンスさんが死んでいるのは、もう間違いありませんでした。……なのに……」
彼女の声は震えていた。
「必死に逃げて、ここまで来て……それで、サンスさんが死んでしまったら、もうどうにもならないと思って……本当にただ、駄目元で、あなたに回復魔術を使ってみたんです」
「……」
「そしたら――あなたの心臓は、また、動き始めた」
彼女の目には、明らかに恐怖の色が浮かんでいる。
「どんどん、私から魔力を吸い取っていくみたいでした。私は怖くなりつつも、回復魔術を続けて、そして、最終的に、あなたは生き返った……。私は回復魔術には自信がありますが、それでも、死んだ者を生き返らせることなんてできません。ありえません。あなたが、始めてでした」
一拍の間の後、彼女は更に続けた。
「……魔族の、それも大気中の魔力が集まることで自然発生した、オリジンなどと呼ばれる者達の中には、死亡が確認された後に、回復魔術で蘇生する……という事も極稀にではあると、前に聞いたことがあります。これは、身体の大部分が魔力で構成されているために、魔力を注ぐという行為が、そのまま命を注ぐということと殆どイコールになっているのが理由です。言うまでもなく、私達のような普通の魔族や、ましてや人間に起きるような現象ではありません」
彼女はそこで言葉を切った。
二人の間を、緩やかに風が通り抜けた。木々の揺れる音が、妙に大きくサンスの耳にまで届く。
再び、彼女は口を開いた。
「サンスさんは、魔族ではない。そして、人間でも、ない……。あなたは、一体何なんですか?」
目が合う。強く問い詰めるようなその視線から、逃げることはできない。
サンスは、ゆっくりと口を開いた。
かつて、このリストナム王国と魔族との間で行われていた戦争において、王国側は常に苦しい戦いを強いられていた。
そもそも人数は圧倒的に王国側の方が多く、戦力に大きな差があるにも関わらず、強力な魔術により翻弄され、うまく戦果を上げることができないでいた。
そんな中、戦争が始まった初期の頃から、軍の中では、彼らに対抗するために強力な魔術兵器を開発するべきだ、という意見があった。
しかし、人間が魔族に魔術で対抗しようと言うのが、そもそも無理のある話である。開発者達の手により、幾つか兵器が作られたが、その殆どはまともに機能することもなく消えていった。
しかし、長引く戦争による焦りの中、やがて王国の研究者達は、捕らえた魔族の捕虜を実験に使うようになった。そしてそれにより、停滞していた研究は、飛躍的な進歩を遂げることになる。
それ以降に開発された兵器の幾つかは、戦場で多大な戦果を上げた。開発者達はその成果を褒め称えられた。
やがてそんな彼らは、それまでの研究の集大成として、戦争を終らせることができる程の、一つの大きな計画に着手し始める。
が、結局、その計画が完遂するよりも早く、魔族と人間の戦争は終結した。
どちらが勝利したということも無い。両者共が戦争による損害に耐えかね、ただ互いに、これ以上戦い続けることはできないと判断した結果であった。
しかし、ちょうどその終わる直前に、彼らが取り組んでいた研究は、ある一つの成果を生み出していた。
もう少し時間があれば、この戦争は王国側の勝利で終わっていたのかもしれない。それは彼らにとってひどく無念な結末であった。つまるところ、彼らの開発した魔術兵器は、それだけの可能性を秘めたものだったのだ。
「――それが、俺だ」
長い説明の後、サンスは淡々とそう告げた。
「魔族の身体の構成を参考に作られた、魔族を殺すための生体……。人間の形をとってはいるが、俺は人間じゃない」
彼は言う。
彼の身体の内部には、複雑な魔術回路が直接組み込まれている。彼の強力な身体能力強化と魔術耐性は、魔族と戦うことを想定して埋め込まれた力であった。
魔族の多くは、魔術に頼った戦い方をするため、武器を使って接近戦を行うことはあまり得意ではない。つまり、相手の魔術を無効化し、なおかつ強力な近接攻撃ができる存在がいれば、王国側は一気に有利になる――それが、この兵器の基本思想である。
もちろん、サンスのような存在が一人二人居たところで、多少有利にはなるものの、戦争を終らせるほどの圧倒的な力ではない。しかし、開発者達の中では既に、この兵器を数百人単位で量産する計画が立っていた。
傍から見れば、その計画には重大な倫理的問題があるように感じる。しかし、既に捕虜を実験の材料として使うようになっていた彼らにとって、その程度のことはもはや問題では無かった。それだけ追い詰められていたのである。
サンスの身体に組み込まれている魔術回路は、その強力さ故に、人間に直接組み込むことはできない。その魔力の流れに耐えられるよう、彼の身体の構成は、人間よりも魔族のものに近くなっている。むしろ、一般的な魔族よりも、体内の魔力の純度は高いとさえ言えるだろう。
しかしもちろん、先程ルフィナが例に出したような、魔族の中でも特別純粋なオリジンと呼ばれる者達とは、流石に比べ物にはならない。一度死んで生き返ったということに対しては、サンス自身も全く想定外の事であった。
彼の蘇生に関しては、その魔力純度の高い肉体はもちろん重要ではあるが、それ以上に、ルフィナの回復魔術がそれだけ凄まじかったというのが大きい。バジャルドに心臓を刺された際、彼は完全に、死を意識していたのだ。
そうしたサンスの説明を、ルフィナはじっと黙って聞いている。
彼はそのまま、自分の過去についても語っていく。
「もう少し早く誕生していれば、俺は戦場に行って、魔族を殺していたんだろう……。だけど、そうはならなかった」
生まれたばかりの彼は、人間や魔族と同じように、小さな赤ん坊であった。
本来であれば、戦争の終結とともに不要になり、破棄されるような存在であった。しかし彼はそうはならず、何らかの都合や偶然により、バーウィック家へと流れ着いたのだ。
この辺りの経緯について、彼は何も聞かされていない。恐らく何かしらの理由はあったのだろうと彼は推測しているが、実際のところは不明である。
そしてバーウィック家に来た彼は、ちょうど同じ時期に生まれたその家の令嬢の護衛として、育てられることになった。
ちなみに、彼自身がこの事実を聞かされたのは、僅か三年程前のことである。それまで彼は完全に、自分は普通の人間だと思っていた。
物心ついた頃から、その右手首には常に腕輪を装着させられ、絶対に外してはならないと厳命されていた。それは彼の身体能力や魔術耐性を抑えるためのものであり、それによって、普通の人間と何ら変わりのない生活を送ることができていたのだ。その腕輪もまた、三年前に師匠から本当のことを聞かされた時に、外すこととなった。
「……」
彼の話を、ルフィナは俯いたまま静かに聞いていた。
実際に戦いこそしていないものの、彼は魔族と戦うために作られた兵器であり、魔族である彼女とは本来相容れない存在である。彼女が疑問に思っていることに気がつきながらも、彼が今までその正体について話さなかったのは、それが大きな理由であった。
やがて彼女は、ゆっくりと顔を上げた。
「分かりました」
ルフィナは言った。
「あなたが、魔族と戦うための兵器だということについて……いくらか私も、思うところはあります。ですが、もちろんそれはサンスさん自身の思想とは関係ないということも、分かっています。私は既に、あなたに助けられていますから」
「……ああ。俺自身は、魔族がどうだとかを考えたことはない」
「むしろ、謝らなくてはなりません。ごめんなさい」
彼女はそっと頭を下げた。
「話し難いことを、無理に聞いてしまって」
「いや、良い。顔を上げてくれ」
「はい。……ありがとうございます。話してくれて」
彼女はそう礼を言った。
そのやり取りにサンスは、すっと肩の力が抜けたような気がした。その感覚によって、彼は今更ながらに自覚する。魔族である彼女に、自分の正体をずっと黙っていたということに対し、彼は自分が思っていた以上にストレスを感じていたということを。
「――ごめんなさい。話を戻しましょうか」
サンスの正体についての話が一段落すると、ルフィナは気を取り直したような様子で言った。
話をしている間に、サンスの身体の調子は少しずつ戻ってきていた。彼は上体を起こし、彼女と向き合う。
今話し合い、考えなくてはならないことは、バジャルドを一体どうするのかということと、そして――。
「はぐれたティナさんとは、どうすれば……」
「――」
アグスティナはここにはいない。まだあの建物のどこかに隠れているのか、あるいは逃げ出したのか……それとも、既に捕まってしまっているのか。
先程ルフィナから話を聞いた時は、まだ頭も覚醒しきってはおらず、意識がぼうっとしていた。しかしそれも少し落ち着いたことにより、改めて、強烈な焦りがサンスの胸中にこみ上げて来た。
無意識の内に、彼はアグスティナを助けに行くため立ち上がろうとする。が、身体の調子はまだ戻っておらず、ただバランスを崩しただけであった。
「落ち着いて下さい。無理ですよ。サンスさんは数時間前に、一度死んだんですから……」
運良く彼は蘇生することができた。しかし彼の体力は、根こそぎ奪われてしまっている。
「心配なのは分かります。ですけど、今から行くのはダメです。このまま行ってもまた死んでしまうだけですよ」
「それでも――」
「まずは、サンスさんが戦える状態にまで回復しないといけません! 一先ず今は、休みましょう」
よほど切羽詰った表情をしていたのか、ルフィナはそう必死に宥めるような声で言った。その様子に、彼にいくらか冷静さが戻ってくる。
深く一呼吸した後、彼は言った。
「分かった。とりあえず、調子が戻るまで待とう」
ルフィナはほっと安堵の息を吐いた。
アグスティナとはできる限り早く合流したい。しかしそのためには敵の拠点にまた乗り込む必要があり、そうなれば再びバジャルドと戦闘になる可能性も高い。
だとすれば、まず第一に考えなくてはならない問題は――。
「――バジャルドを、どう倒すかと言うことです」
ルフィナは言った。
「直接的に戦っていたのはサンスさんですが、後ろから見ていて、バジャルドについて不自然に思う点があったんです」
「不自然?」
「はい。……そもそもの前提ですが、バジャルド・ベンタインは人間のはずです。その状態で、サンスさんと同じレベルの身体能力強化と魔術耐性、その上更に上位魔術まで使っている時点で、もう明らかに異常です」
「ああ。そうだ」
その異常さについては、戦っている最中にサンスも考えていたことではあった。
身体能力強化と魔術耐性の二つだけだったとしても、その効果を十分に発揮しようとすれば、人間の身体では負荷がかかり過ぎてしまう。だからこそサンスのように、魔族でも人間でもない新しい生体を作り出す研究が進められていたのだ。
サンスの肉体は、戦争が終わった時点での研究の最終成果である。あれから十数年、彼が更に魔術研究を続け、発展させてきたのだとしても、普通の人間がそれを使えるようになっていると考えるのは、流石に不自然だ。
「間違いなく、何か裏があります。……そしてそれに関しては、一つ、心当たりもあるんです」
「何?」
「さっき私、サンスさんが殺された後、その身体を引きずるようにして逃げてきたって言いましたよね。……でも、そもそもこれ、おかしいんですよ」
ルフィナは言う。
「バジャルドの力があれば、私が逃げたところで、すぐに走れば追いつくことができます。こちらはサンスさんを引きずっているので、もちろん速度だって出ません」
「……にも関わらず、逃げ切ることができた?」
「はい」
バジャルドにしてみれば、わざわざ逃がすメリットなど無い。普通に考えれば彼女の言うように、追撃してくるはずであった。
「ここで、一つの仮説を考えてみました。――バジャルドは、あの建物から出ることはできないのではないか、という」
「……」
彼女の言葉に、彼は思考を巡らせ始める。彼女はさらに説明を続けた。
「魔術の中には、場所や空間そのものに何らかの仕掛けを施すものがあります。例えば、魔術を使って敵を迎え撃つ際に、自らの足元に予め何か特定の印を刻んでおくことで、その魔術の効果を高める――という程度のことは、一般的にもよく使われる手法です。またそれの応用として、建物それ自体に何らかの魔術をかけておく、というのも珍しいことではありません」
「……そうか」
サンスはゆっくりと頷いた。
「つまり、バジャルドもそうした仕掛けを予め用意してあって、その支援を受けていたからこそ、あれほどの力を発揮することができていたということか?」
「はい。恐らくバジャルドは、その仕掛けの効果範囲の中でしか、あの力を十分に使うことができないのでしょう。だからこそ、範囲を越えて逃げた私を追撃することができなかった……そう考えれば辻褄が合います」
「なるほど……」
「もし本当に、そういった仕掛けによってバジャルドが力を使っているのだとしたら……大本のその魔術を停止させることができれば、バジャルドは今の力を失い、大幅に弱体化することになると予想できます」
彼女の考えが正しければ、少なくとも身体能力強化や魔術耐性に関しては、普通の人間が使用可能なレベルにまで、その効果は格段に落ちるはずである。
「だとすれば、本人と戦う前にそれを先に壊してしまうというのも、作戦としては十分ありだな」
「はい」
サンスは考えを巡らせる。
そういえば、と、こちらも彼女に話しておくべきことがあることを、彼は思い出した。
「俺の方も、一つ、バジャルドについて気がついたことがある」
「何ですか?」
「バジャルドが使っていたあの姿を消す上位魔術だが、気になることが一つあった」
昨晩の戦闘を思い返しながら、サンスは言う。
彼の記憶に強く残っているのは、バジャルドが彼への攻撃を、一度大きく外した時のことである。その時サンスは、バジャルドが姿を消した後、少し移動していたのだ。
「バジャルドがあの上位魔術を行使すれば、こちらはその姿を見ることができなくなる。しかしそれと同時に、奴もまたこちらを見ることができなくなっている、という可能性が高い」
戦いの中で考えた仮説について、彼は彼女に語っていく。
「まだその正体ははっきりとは分からない。ただ、俺達がバジャルドが消えたように感じた時、恐らくはバジャルドの視界からもまた、俺達は消えている。奴が攻撃をする際に参考にしているのは、消える直前のこちらの位置だ。だからこそあの時、バジャルドは思い切り攻撃を外してしまった」
「……確かに、そう考えれば納得できますね」
「もし、魔術の発動と同時に、奴も俺達のことを見失っているのだとしたら……そこに、バジャルドの隙はある」
その性質をうまく逆手に取ることができれば、バジャルドにこちらの攻撃を当てることもできるだろうと、サンスは考える。
「もう少し休めば、俺の身体も幾らか動くようになるはずだ。そうしたら、一度、宿に戻ってしっかり休息を取ろう」
「はい」
「今晩までに、俺の体力とルフィナの魔力を回復させる。そして夜に、また、乗り込む」
「私もそれが良いと思います」
昨晩、敵の拠点に侵入する過程で、サンスは多くの敵を斬った。バジャルド一派の規模から考えれば、三分の一ほどが無力化されたような状態の筈である。既に組織としての体勢は崩れ、昨日の今日ではまともに襲撃を警戒することさえできないだろう。この隙を突き、時間を空けずに一気に攻めるというのは、順当な判断であった。
「休んで、作戦を練って、そして、次こそは――」
サンスは一度敗北し、死んだ。その事について彼が思うことは、もちろん沢山ある。
しかしアグスティナのことがある以上、ここで引くことはありえない。彼は決意を新たにした。
◇
バジャルド一派が拠点として利用しているその建物には、多くの部屋がある。バジャルドの部下達が日常的に使用する部屋は、一階と二階に集中している。それより上の部屋は、あまり使われることのない施設や、ただの物置として利用されている事が多かった。
そうした、数多くある物置部屋の中の、一つ。
遠くから人の足音や声が聞こえて来ていた。昨晩の戦闘による被害などについて、慌ただしく処理をしているのだろう。その雑多な音を、物陰に身を潜めながら、アグスティナはただじっと聞いていた。
サンス達が苦戦し始めて直ぐに、彼女は一人身を隠した。自分が居ればそれだけで、彼女を護るためにサンスの行動が著しく制限されてしまうということを、彼女は理解していた。
その後、彼女は彼らの戦闘を最後まで見ることもできないまま、この物置へと避難してきたのだ。
(……どうやら、二人は負けて、逃げたみたいね)
聞こえてくる断片的な会話の内容から、彼女はそう推測する。
しかし。
(サンスが、死んだ……というような話が、時々聞こえてくるのが、怖いわね……)
胸の奥が、ぐっと苦しくなった。
生きている、と信じたい。傍からは死んだように見えたとしても、サンスの頑丈な身体とルフィナの強力な回復魔術があれば、逃げた後で回復している、という可能性は十分に考えられる。
(サンスが死んでいる場合のことは、一先ず考えないでおきましょう)
彼が死んだ場合、バジャルドに勝利する方法はもうアグスティナには思いつかない。以前考えた時も同じ結論に至ったが、彼が死亡した時点で、自分達の敗北はほとんど確定してしまうのだ。つまりそれは、考えるだけ無駄とも言える。
(サンスとルフィナは両方生きていて、バジャルドと再戦しようとしている、という前提で考えてみましょう)
彼女は思考を切り替えていく。
果たして、今の自分にできることは何か、彼女は考える。彼女にはあの二人程の戦闘能力はない。彼女は強力な上位魔術を使うことができ、また下位魔術に関しても、普通の人間よりは上手く使いこなす自信がある。しかし、それだけである。
その辺りを歩いている一般の警備であったとしても、正面からぶつかればかなり危うい戦いになるだろう。そんな戦闘能力に欠けた彼女にできることは、そう多くはない。
(まずは、私自身が生き延びること。……そしてできることなら、バジャルドに対しての情報を集めること)
情報というのは言うまでもなく、バジャルドの常軌を逸したあの強さについての情報である。彼のあの力は、明らかに人間の範疇のものではない。何か裏があるのは明白であり、その秘密を知ることができれば、間違いなくそれは彼の攻略へと繋がるはずであった。
しかし、じっと物置に隠れたまま情報収集などできるはずもない。何かしら、危険を冒す必要がある。
(さて、どうしようかしら……)
誰かに見つかれば、それだけでかなり危険な状況へと追いやられてしまう。しかし、うまく上位魔術を発動させることができれば、重要な情報を得られる可能性もある。
そうして、情報を得る手段について色々と考えていた彼女の思考を、聞こえてきた足音が遮った。その足音は、彼女のいる物置部屋へとどんどん近づいて来る。
(え……? もしかして)
彼女がここに隠れてから、既に数時間が経過している。その間、人が前を通り過ぎる事は何度もあったが、部屋の中へと足を踏み入れて来た者は未だ一人もいない。しかし――。
(――来るっ!)
物陰に身を隠す彼女の耳に、扉が開く音が届いた。そして、人の気配が中に入ってくる。
アグスティナの心臓が、どくんどくんと跳ね始める。
入ってきたのは一人だけのようであった。
その男は棚へと手を伸ばし、何やら物を色々と動かしている。何か探しものをしているような様子である。
彼女は息を殺して身を潜めながらも、もしかしたらこれはチャンスかもしれない、と思う。
(あちらはまだ私に気づいていない。奇襲をかけるなら、このタイミングしかないわよね……)
男は棚を探しながら、ゆっくりと彼女へと近づいてくる。しかし彼女の隠れている方向とは反対側の棚を探っているため、彼女に対しては、完全に背を向けているような状況である。
アグスティナの喉がごくりと動いた。ぴりぴりとした緊張感が、彼女の全身を包んでいる。彼女はそっと己の左手へと目をやった。そこには指輪の形をした魔術具が装着されている。
ルフィナのように全ての指に一つずつということはなく、あるのは二つだけである。爆発魔術と、雷撃魔術。大きな音を出すことができないという状況から考えて、彼女は迷うこと無く雷撃の方を選択した。
男が近づいてくる。緊張により乱れる呼吸を、意識して落ち着けていく。早鐘のように鳴る心臓の音が、ひどくうるさく聞こえた。
そして。
「――っ!」
アグスティナが動く。
物陰から飛び出すと同時に、背を向けている男へと向かって、その左手をかざした。そして雷撃魔術を行使する。
薄暗い部屋の中が、一瞬だけ白く瞬いた。バチンと空気が弾け、閃光が走る。
「うぁっ!!」
雷撃を受けた男は、彼女が想像していた以上に大きな悲鳴を上げて床へと倒れた。そのまま全身をびくびくと痙攣させる。
(今の声、誰かにっ!?)
焦る。男が入ってきた時からずっと、部屋の扉は開いたままである。
彼女は彼の様子を伺い、声を出すことができない程十分に感電していることを確認すると、そっと扉の方へと向かった。
廊下から他の足音は聞こえていない。近くには誰の気配も無い。彼女は安堵と共に、音を立てないようにゆっくりと扉を閉めた。
一息つく間も無く、彼女は男のところへと戻りロープを取り出した。そして未だ全身を痺れさせている彼を、拘束していく。視界と口を覆い、そのまま念入りに縛り上げていく。
それから暫くすると、ようやく痺れが落ち着いてきたのか、男は拘束されたまま手足をじたばたと動かし始めた。その動きには強い怯えの様子が感じられる。アグスティナは彼の首筋にナイフを当てた。
「動かないで」
そう脅すと、男はピタリとその動きを止める。
彼女は彼に気取られないよう、静かに深呼吸をして心を落ち着けた。こうして敵を尋問する際に、サンスが側にいないのは初めてのことである。今までは、何か問題があったとしても彼が対処してくれる、という安心感があった。しかし今はそれが無い。
恐怖により身体を微かに震えさせている彼に向かって、彼女は言った。
「今から、口を塞いでいるこれを外すわ。ただし大きな声を出した場合、このまま喉をかき切るから」
男は首をカクカクと縦に振って答えた。
彼女が猿轡を外すと、彼は開口一番、呻くような声で言った。
「た、助けてくれ。命だけは……っ」
その声は震えており、心底恐怖している様子が伝わってくる。
「別に俺は、団長と同じ意思を持っているわけじゃないんだっ。本当にただの成り行きで、ここに所属することになってしまって……。この部屋に入ったのだって、本当にただ、ちょっと探しものがあっただけで。だから、殺さないでくれっ」
彼はそう必死に訴えてくる。そうして命乞いをされるのは、アグスティナにとって初めての経験であった。彼女はいくらか動揺しながらも、それを悟られないように気をつけ、言った。
「別に、条件を聞いてくれれば命までは奪わないわ」
「えっ?」
「簡単な事よ。……私に攻撃をしないこと。ここから出た後も、私がここに隠れている事は誰にも言わず、すぐにこの建物から去ること。そして二度と、バジャルド一派とは関わらないこと」
淡々と彼女は告げる。
「これらが守れるというのなら、すぐに解放してあげてもいいわ」
「も、もちろんだ。攻撃しない、誰にも言わない、もうこことは一切関わらない」
男は強く頷きながら言う。そんな彼に対し、アグスティナは告げた。
「ダウト」
――アグスティナの上位魔術は、その前提として、対象が何か嘘を吐かなくては行使することができない。対象が嘘を吐き、それに対し彼女が「ダウト」と宣告することで、その魔術の発動条件が満たされる。
その宣告が正しく、対象が本当に嘘をついていた場合、その相手は強力な催眠状態に陥る。その後対象は、彼女からの命令を全て、無条件に遂行するようになる。
命令の内容や回数に制限は無い。が、その催眠状態が続く時間は限られており、それは僅か五分間である。彼女は上位魔術を行使してから五分の間は対象に自由に命令することができるが、その時間を越えた場合、催眠は完全に解除される。達成するのに五分以上かかる命令であった場合、それを完遂することはできない。
また、上位魔術をかけられ命令されている間のことは、記憶としては一切残らないようになっている。対象からしてみれば、五分間の記憶がぽっかりと空いているような状態になる。
今更言うまでもなく、かなり強力な上位魔術である。しかし、この魔術を使うにあたって、注意しなくてはならないことが大きく二つある。
一つは、対象が嘘を吐いてそれを指摘する、という発動条件の都合上、敵が嘘を吐かなくてはそもそも何もできない、という点である。問答無用で戦闘に巻き込まれた場合や、頑なに敵が無言を貫く場合、また、その発動条件が相手に知られてしまっていた場合も、この上位魔術を成功させるのは著しく困難になってしまう。
そしてもう一つは、発動条件であるダウト宣告は、一人につき一回しか使用することができない、という点である。五分間命令をした相手にもう一度上位魔術を行使する、ということができないのはもちろんのこと、厄介なのは間違えて宣告してしまった場合である。
対象が何も嘘を言っておらず、失敗してしまったとしても、それもまた一回としてカウントされてしまうのだ。
今、攻撃をしないと言った彼に対し、彼女は「ダウト」と告げた。これは彼女が、それが嘘であると確信して告げたわけではない。むしろ、失敗した場合を想定した上での、このタイミングの宣告であった。
男が嘘を吐いていた場合はもちろん、アグスティナの上位魔術が発動する。この場合は彼から好きに情報を聞き出し、そして用が済めば、人目のつかないところで自害させるという何時もの方法を取ればいい。
反対に、彼が本当のことを言っていた場合であれば、上位魔術により命令することこそできないものの、こちらに攻撃をしないという彼の意思を確かめることができる。その場合、仮に拘束を解いてそのまま逃したとしても、こちらとしては特に何のデメリットも無い、という訳である。
既に今まで彼女は、上位魔術で自害を命令するという間接的な方法で、敵の命を奪ってきている。
が、命乞いをするその姿を前に、彼女が何も思わない訳がない。このタイミングでダウト宣告をしたのは、できればあまり殺したくはない、という彼女なりの甘さが現れた結果であった。
――しかし、彼女のその宣告と同時に、彼の身体はがくんと震えた。そして彼の全身の力が、一気に抜けていくのが見て取れた。彼女の上位魔術が、成功したのである。
彼はこちらに敵意を持っていながらも、それを隠していた。だとすれば、今回も命令の最後には、彼を殺さなくてはならない。
彼女の胸中に漣が立つ。しかし時間も限られているため、彼女は頭を切り替え、彼に命令した。
「私がこれからする質問に、全て正直に答えなさい」
「はい」
男は従順に頷く。
「まず、昨日侵入者があった件について、今はどうなっているのか、その状況を知っている限り教えなさい」
「はい。まず昨晩の侵入者は三人居たことが確認されています。賞金の掛けられているサンス・ルドヴィアとアグスティナ・バーウィック、そして以前から度々目撃されていた、正体不明の魔族の女が一人です。昨晩の戦闘の結果としては、団長が敵の主力であるサンス・ルドヴィアを殺害したということです。ただ遺体は残っておらず、共に居た魔族の女が、それを引きずって逃走したと聞いています」
「……」
殺害、とはっきり彼は言った。心の奥から不安や恐怖がこみ上げてくるのを、ぐっと抑える。今は冷静に尋問を続けなくてはならない。
「他には?」
「共に確認されているアグスティナ・バーウィックに関しては、その所在は全く不明です。恐らくは既に外に逃走していると考えられています」
「逃げた侵入者に対して、追撃をしたりは?」
「していません。昨晩の被害は大きく、そのような余裕はありません」
一先ずは、彼女がここで想定していた通りの流れである。サンスの生死こそ気になるものの、それ以外の状況はそう悪くはない。
彼女はそこで、いよいよ本題に踏み込んだ。
「バジャルドは、人間にしてはありえないくらい強い力を持っているみたいだけど、その秘密は何か知っている?」
「いえ、分かりません」
「直接じゃなくても良いわ。不自然に隠そうとしていることだとか、そういう心当たりは何か無いかしら?」
「……」
男は記憶を探るように思案した後、言った。
「関係あるかどうかは分かりませんが、限られた人間以外の出入りが禁止されている場所なら、あります」
「それはどこ?」
「地下の研究室の、さらに奥の部屋です。無闇に近寄ってはならないと、強く厳命されています」
「……なるほど」
実際にそこに何があるかは分からない。ただ少なくとも、彼が秘匿すべきだと考えている何かがあるということは間違いない。
「その部屋の位置について、詳しく教えなさい」
「はい――」
そして彼女は、男からその場所への行き方を聞き出した。
やがてそれが終わると、彼女は深く一息つき、彼の全身の拘束を解き始めた。既に彼女の上位魔術がかかっている彼は、逃げようという素振りさえ見せない。
全ての拘束を解き終わると、彼女は言った。
「質問はこれで終わりよ。最後の命令をするわ」
「はい」
「あなたは今からこの建物を出て、できるだけ離れなさい。そして極力人に見つかりにくい場所を見つけて、この魔術の効果が切れる前に、自害しなさい」
「分かりました」
彼は淡々とそう頷くと、静かに一人、部屋を出て行った。
遠ざかっていく足音を、アグスティナはじっと聞く。
自害しなさい。既に何度かした命令であった。しかし未だに、その言葉の軽さと意味の重さに、強い目眩のようなものを感じてしまう。
彼を拘束した直後の、命乞いをしている様子を思い出しそうになったところで、彼女はその思考を打ち切った。感傷に浸る前に、今は考えなくてはならないことがある。
(……地下に、バジャルドは何かを隠している)
その部屋がどこにあるかは聞き出したが、それはここからかなり距離があった。今から動いたとしても、誰にも見つからずにそこに辿り着ける可能性は非常に低い。
もし発見されて戦闘になってしまえば、彼女に勝ち目はない。
様々な可能性を考え、思考を巡らせた挙げ句――彼女は元の場所へと戻り、静かに床に腰を降ろした。
(待つしか、無いわね)
今のタイミングでは、どう動いた所で自殺行為である。
サンスとルフィナが今も生きているのならば、再びここに戦いを挑みに来るはずである。そうなればまた、この建物の中は混乱に包まれ、彼女が動くことのできるチャンスもやってくるかもしれない。
アグスティナは深く息を吐いた。物置の暗闇の中、彼女は一人身を隠しながら、仲間が来るのを待ち続けることを選択した。
◇
じわりと、深い底から意識が浮上する。目覚めと同時に、彼、バジャルドは全身に纏わりつく鈍い重さを感じた。
横になったまま、彼はぼんやりと天井を見つめる。
外では既に日は沈み、窓からはうっすらと白い月明かりが差し込んできている。時計を確認すると、もう真夜中であった。昨晩の戦闘から、丸一日近くが経過している。
彼はサンス達との戦いの中で、かなり強力な身体能力強化や魔術耐性を使用した。とある仕掛けによりかなり軽減はできているものの、それでもその負担は決して軽いものではない。また、そこまで深くはないものの、彼はサンスの剣を受けてしまっている。半日近く休息をとったとは言え、蓄積したそれらのダメージは簡単に回復するものではなかった。
彼はゆっくりと身体を起こした。全身の筋肉や関節がギシギシと軋む。
背中の古い烙印が、じんわりと熱く痛んでいた。彼が強い疲労を感じている時は、よくそれに追い打ちをかけるように、その痛みは蘇ってくるのだ。彼はぐっと奥歯を噛んだ。
(本当に、散々な結果だな)
彼は声に出さず呟く。
昨晩のこちらの死者数は、二十人近くに達している。この集団の規模から考えれば、とんでもない被害である。
対して、こちらは敵の主力であるサンス・ルドヴィアを殺害することには成功したが、その遺体は回収できていない。となればもちろん、その報酬を得ることもできないだろう。彼より高額の賞金がかかっているアグスティナ・バーウィックに至っては、いつの間にか完全に見失ってしまっており、今はどこに居るのかすら分からない。
ひどい損害を負っておきながら、こちらは何も得ることができていない。さらに今の組織の状態では、逃げた敵を追うことさえできない。
しかし、そうした散々な状況でありながらも、バジャルドは一先ず、サンスを殺したことに対して幾らかの安堵を覚えていた。
昨晩の犠牲者の殆どは、彼の剣によるものであった。その主力である彼を無力化した以上、仮にまた攻撃を仕掛けてきたところで、今回ほどの被害は出ないだろう、とバジャルドは考える。
あの魔族の娘と、途中から姿を消しているアグスティナに関しては、幾らか不安が残ってはいる。しかし、間違いなくサンス程の戦闘能力はないだろう。
(とはいえ、完全に油断もできないか。何か、妙な魔術を使うらしいからな……)
昨晩、不審な動きをする部下が居たという報告が入っている。恐らくは何かしらの魔術を使われ、操られていたのだろう。
厄介な力である。警戒はしておかなくてはならない。
そうして、昨晩の戦いとこれからの行動について考えていたバジャルドの元に、バタバタと慌ただしい足音が近づいてきた。そして部屋の扉が、勢い良く開かれる。
「バジャルド団長!」
「何があった?」
不穏な気配に、彼が立ち上がる。
「し、侵入者です!」
部下は呼気を乱しながらそう告げた。
「昨日逃した二人が、また、乗り込んで来ています!!」
彼がそう言うと同時に、上の階から大きな爆発音が響いた。
◇
「――っ!」
サンスは勢い良く、目の前の敵に対して剣を振るった。刀身が白銀の線を引き、数瞬遅れ、鮮血が迸る。その一太刀で相手は絶命した。
彼の後方で、爆発音が響いた。振り返ると、ルフィナが後ろに向かって爆発魔術を行使していた。
その爆発は、駆けつけてきていた警備を吹き飛ばしながら、廊下を大きく陥没させ、下の階まで穴を開ける。通路を遮断し、敵の動きを鈍らせようという意図だろう。
慌ただしく人の声や足音が聞こえて来る。侵入者に気づき、敵が集まりつつあるのだ。
サンスは近くの部屋の扉を蹴り破り、中をざっと見渡す。確認を終えると、また次の部屋へと向かう。
――深夜に、サンス達は闇に紛れてこの建物へと再び戻ってきた。昨晩とは違い、見張りは殆ど居なかった。
戦闘による死者が多く、人手が足りなくなっているのだろう。そして更に、サンスは死んだということになっており、バジャルド側もこちらがまた攻めてくるとは想定していなかったはずである。
サンスは闇に紛れ、ルフィナを背負い建物の外壁を登っていった。壁を登るなどと聞けばかなり困難な芸当のように感じるが、彼の身体能力を持ってすれば別にどうということのない動作であった。そして昨晩とは違い、二人は最上階から建物の内部へと侵入していった。
二人は、上からひたすらに部屋の中を確認して行った。敵を見つけては、助けを呼ばれる前にそれを絶命させる。それを繰り返していたが、長くは続かず、つい先程完全に見つかってしまったのである。
サンス達は部屋をざっと見渡しては、次の部屋へと向かう。こうした確認作業をする目的は、二つある。
一つは、この拠点のどこかに居るであろう、アグスティナと合流することである。隠れているのか捕まっているのかは分からないが、生きてさえいるならば、まずは彼女と合流するのが最優先であった。
そしてもう一つは、バジャルドの戦闘能力を支えている何かを見つけ出すことである。ルフィナの予想では、この建物のどこかに、バジャルドの魔術行使を支援している仕掛けのようなものがあるらしい。それを探し出し、破壊することができれば、バジャルドとの戦闘がかなり有利になるのは間違いなかった。
しかし。
「ここも、違いますっ」
「くそっ。駄目か!」
何も手がかりが無いからと、闇雲に探した所でそう簡単に見つけることはできない。
二人は更に、出会う敵を始末しながら、部屋の確認を続けて行く。時間の経過と共に、腹の奥から焦りがこみ上げてくる。
サンス達は通路を駆け、進み――そして曲がった所で、その足を止めた。身体を沈め、深く構える。
「――お前は不死身、なのか?」
二人の前に、バジャルド・ベンタインが立っていた。もともと厳しい顔をさらに険しくし、彼は強くサンスを睨みつける。
「不死身じゃない。運が良かっただけだ」
彼が蘇生したのは、その身体の特殊さと、頑丈さ、そしてルフィナの強力な回復魔術――更にはそれだけではなく、無数の偶然が己に味方した結果なのだと、彼は思っていた。
ふと、サンスは己の手が微かに震えていることに気がついた。
目の前に立つこの男は、一度己の命を奪った相手である。次に死んだ時、また同じように生き返ることができるとも思えない。恐怖を抱かないはずがなかった。
彼はぐっと手に力を入れ、その震えを押さえつける。
そして、サンスはバジャルドに向かって駆け出した。
二回目の戦いが、始まる。
◇
部屋の外からは激しい喧騒が聞こえてきていた。慌ただしく警備が走り回り、時折叫び声も上がる。
やがて、上の階から爆発音が響いた。恐らくはルフィナの魔術だろうと、物置部屋に隠れながらアグスティナは予想する。
(やっぱり、来た……!)
ルフィナが一人で再び乗り込んで来た、というのは考えにくい。間違いなく、その側にはサンスの存在もあるはずである。
彼がバジャルドに殺されたという情報もあったが、それは間違いだったというわけだ。アグスティナは一先ずほっと胸を撫で下ろす。
(二人が乗り込んできた目的は、バジャルドとの再戦、そして、私と合流することね)
自身の安全だけを考えるならば、二人の元へと向かった方が良いのかも知れない。しかし今までに散々考えてきたように、彼女には直接的な戦闘能力は殆ど無い。合流したところで、彼女は足手まといにしかならず、三人になることで戦力はむしろ低下してしまうだろう。
(やっぱり、私は単独行動をしたほうが良いわね)
何より、彼らと合流する以上に、彼女にはやらなくてはならないことがあった。
扉の外を無数の足音が駆け抜け、遠ざかっていく。彼女はじっと、人の気配が無くなるまで待った。
深呼吸を一回。心を落ち着け、覚悟を決め、彼女はそっと扉を開いて部屋を出た。
左手では常に魔力を練っておき、何時でも雷撃魔術が使えるように準備しておく。彼女はそのまま早足に通路を移動していった。
(ちょうど、二人が上階から侵入してくれたのが良かったわね。今、建物の中の警備はそっちに完全に気を取られている。だから、私が地下に行くだけの隙もある!)
上位魔術により聞き出した道順を思い返しながら、彼女は進んでいく。
階段を幾つか降り、さらに移動する。
もし敵と鉢合わせたら……という緊張で、彼女の心臓は激しく打っていた。服の内側では、全身がじっとりと汗をかいている。
怯えながら進んで行くが、幸運にも、彼女は誰とも遭遇すること無く、地下へと続くその階段の前に到着した。
上階の方から、大きな音が響いてきた。激しい戦闘が行われているようである。既にバジャルドとの戦いが始まっているのかもしれない。
二人の無事を祈りながら、彼女は階段へと足を踏み出した。地下に降りていくと共に、周りの空気がすうっと冷たくなる。壁に取り付けられた明かりが、頼りなく階段を照らしている。
最後まで降りると、更に通路が伸びており、そこには扉が三つ並んでいた。アグスティナは迷うこと無く、一番奥の扉へと向かう。
(聞いた話が正しければ、ここが……)
バジャルド一派の中でも、彼に許可されたごく少数の人間しか立ち入ることの出来ない部屋である。
その扉の前に立ち、彼女は気づいた。ちょうど目の前に来るような高さの位置に、一枚の紙が貼られていた。
『この部屋で一緒にゲームをしましょう』
そんな文言が書かれている。
(……ゲーム?)
彼女は困惑する。何かの暗号だろうか。よく分からないまま、彼女はその扉を開き、中へと足を踏み入れる。
「――――」
と同時に、彼女の視界はぐにゃりと歪んだ。空間が捻じ曲げられていく。ぐわんぐわんと頭の中がかき回されていくような感覚。その不快さに、彼女は思わず目を閉じる。
(これは、何っ!?)
どうすることもできず、彼女はただその異常な感覚に翻弄されていく。
十数秒程が経過すると、やがて、その強烈な感覚は落ち着いた。軽くふらつきながらも目を開け、辺りを確認する。
するとそこには、巨大な空間が広がっていた。
「え……?」
地下にある部屋にしては、明らかに広すぎる。降りてきた階段の長さから考えて、その天井はあり得ない程高い。
彼女が後ろを振り返ると、そこには、あったはずの扉が完全に消えていた。
その異常事態に、身体の奥から本能的な恐怖がこみ上げてくる。
(これは――)
一拍遅れて、彼女は自分が、何かしらの罠に引っかかったことを理解した。
膨大な空間の中、よく見てみれば、あちこちに様々な物が置かれていた。ビリヤード台、ダーツボード、ルーレット……その他、何かの遊戯を行うための道具が、この空間には無数にあった。
先程目にした、ゲームをしましょう、というフレーズを思い出す。彼女は自分の迂闊さを思い知る。あの張り紙が何かのきっかけであったのは間違いない。
足音が聞こえた。アグスティナは素早くそちらへと身構える。
そこには、一人の女性が立っていた。警戒を露わにするアグスティナとは対象的に、その女は悠然と佇んでいる。
彼女はアグスティナと目が合うと、緩やかに微笑んだ。上品さの中に強い敵意を忍ばせたその笑みに、アグスティナの背筋がぞくりと震える。
「まず、自己紹介をしましょう。私の名前はイルザ・フィリュック。……あなたは、アグスティナ・バーウィックですね?」
「……ええ。そうよ」
警戒しながら彼女は頷く。
「この空間は、あなたの魔術?」
「ええ。素敵でしょう。私の上位魔術。あなたがゲームの誘いに応じてくれましたから、無事に発動することができました」
イルザと名乗ったその女性は、そのまま続けて言った。
「それでは、ルールの説明をしますね――」
◇
激しい剣撃音が連続して鳴り響く。
バジャルドと刃を交えながらサンスは、彼の動きが、昨晩より幾らか鈍くなっているのを感じ取る。
強力な身体能力強化と魔術耐性。人間でありながらそれらを使うことに対し、やはりその肉体にはかなりの負荷がかかっているのだろう。昨晩のその疲労が今も残っているのだ。
しかし、攻撃の鋭さが多少落ちたとは言え、それは戦いの趨勢がひっくり返るほどのものではない。その戦いは未だバジャルドの優勢である。
「――っ!!」
連続した剣撃の中、サンスは勢い良く攻撃を叩きつけ、バジャルドとの距離を強引に空けた。
(使え……)
サンスは内心で呟く。
(使え、あの魔術をっ!)
彼はバジャルドが上位魔術を発動するのを期待する。
すると、サンスの願い通り、彼はその魔術を行使した。彼の姿が完全にかき消える。
(来た!)
それを目視すると同時に、サンスはルフィナと共に素早く後ろへと下がった。そして直前まで自分達の居た場所からの間合いを計り、サンスは剣を構える。
数秒の間の後、バジャルドが姿を表した。と同時に、彼は剣を振るう。その攻撃の軌跡は、つい直前までサンスの居た場所を正確に捉えていた。しかし、既に彼は移動しているため、バジャルドの攻撃は当たらず、ただ空を斬る。
そして、攻撃に失敗したバジャルドに対し、サンスは勢い良く剣を振るった。
「――――」
バジャルドの目が見開かれる。
しかしもう遅い。彼は完全に、サンスの攻撃の間合いに入っている。サンスはそのまま力強く、その一撃で戦いを終わらせるつもりで、一気に刃を走らせた。
彼の剣が肉を裂く。一瞬遅れて、バジャルドの鮮血がばっと飛び散った。
「ぐぅっ……!」
彼は痛みに呻き声を上げる。その傷はかなり深い。
が、動けなくなるほどではない。
完全に不意をついたサンスの攻撃に対し、バジャルドはギリギリのところで身体を捩り、己の位置をその攻撃の軌道から僅かにずらしていた。
――サンスは、バジャルドが己の姿を消す時には、彼自身の視界からもまた、他の人物の姿も消えているのではないか、という仮説を立てた。
その仮説が正しいとするならば、それはつまり、バジャルドとサンスの条件は同じだということを意味している。そこで、バジャルドがこちらの位置を推定して攻撃をすることができるのであれば、こちらもその出現位置を推定し攻撃を仕掛けることもできるのではないか、とサンスは考えた。
その結果、戦いを終わらせる程のダメージではないものの、サンスはバジャルドに深手を負わせることに成功した。バジャルドは直前まで敵のいた位置を攻撃する……それが分かってさえいれば、その出現位置はかなり絞り込むことができるのだ。
バジャルドの足元に、彼の傷から溢れた血がぽたぽたと溢れ落ちていく。
サンスは己の立てた仮説が正しかったことを確信する。しかしそれと同時に、貴重なチャンスを一つ、ふいにしてしまったこともまた、理解する。
(この不意打ちが効くのは、今が最初で最後だ)
サンスの今の攻撃によりバジャルドは、こちらが上位魔術の特性に気づいている、ということを察知するだろう。となれば、これ以降は今までのように不用意にこの魔術を使うことは無くなる。本来ならこの機会を最大限に活かし、この一撃で相手を戦闘不能にするべきであった。
とはいえ、これが無意味だったというわけではもちろんない。今の攻撃により、バジャルドは警戒し、その上位魔術を使う頻度は一気に減るだろう。相手の戦術の幅を狭めるという点においては、十分に意味のある攻撃であった。
サンスとバジャルドが、距離を空けて向かい合ったまま、数秒が経過する。
やがて、彼は動く。と、サンスが認識したと同時に、またしても、その姿は消えていた。
(――?)
サンスは困惑する。今のような反撃を警戒し、これ以降はその上位魔術の使用はぐっと減るだろう、と彼が予想していた矢先である。
戸惑いを覚えながらも、サンスはルフィナと共に後ろに下がり、バジャルドの出現に備える。その意図は分からないが、同じように攻撃を仕掛けようとしているのなら、もう一度反撃してやればいい。
しかし。
(遅い――)
バジャルドが姿を消してから、先程の倍近く時間が経過している。しかし彼は一向に現れようとしない。
(タイミングをずらしているのか? それともまさか、逃げた? ……いや、姿を消した状態で、今の傷の止血をしている可能性も)
彼は迷い、思考を巡らせる。が、そこに突然ルフィナの声が飛んだ。
「右ですっ!!」
そちらに顔を向け、確認するような余裕さえ無かった。
サンスの右側、死角に現れたバジャルドが、勢いよく剣を振り下ろす。
そこはルフィナの魔術壁の範囲外であり、サンスもまた、その位置から攻撃が来るとは一切想定していなかったため、それを上手く防ぐことができない。
「――ぐぁあっ!!」
サンスの右肩から腹部までを、バジャルドの剣先が深く抉った。燃えるような激痛が走る。
彼は痛みに歯を食いしばりながら、バジャルドへと反撃をする。しかし彼はそれを受け止めようともせず、再び姿を消した。
「くそっ!」
「今回復します!」
ルフィナが回復魔術を行使し、白く柔らかい光が彼の怪我を包む。
バジャルドが消えた後、サンスは移動した。本来ならば先程と同じように、敵の攻撃のタイミングを逆手に取り、相手を斬ることができたはずであった。
(でも、その移動後の位置もまた、知られていた……!)
バジャルドの上位魔術について、一瞬でも攻略できたと勘違いした自分に対し、強い怒りが湧く。彼はそこまで甘い相手ではなかった。
その戦いは昨晩と同じく、サンス達の劣勢のままである。彼は強く歯を食いしばった。
◇
「まず、早まったことをしないように先に言っておきますが、私を殺してもこの空間から出ることはできませんよ」
イルザは最初にそう言った。
「暴力などで、相手に直接的なダメージを与えるのはルール違反です。その場合はこのゲームに敗北したと見なされますので、気をつけて下さい。……とはいえ、あなたは見た所、そうして暴力に訴えるタイプでは無いようですが」
「……」
「もう周りを見て予想もついているかもしれませんが、私のこの上位魔術は、相手とゲームをするというものです。この空間には、無数の遊戯、ゲームを行うためのあらゆる道具が設置されています。少なくとも、この国で一般的に知られているようなものであれば、全て網羅してあります。これらのゲームを使って勝敗を決める、というのが基本的なルールです」
「……やっぱり、あの張り紙が発動条件だったの?」
「ええ。正確には、ゲームをしようとこちらが誘い、相手がそれに了承する、というのが条件です」
つまり、『この部屋で一緒にゲームをしましょう』という張り紙を見て、その後で部屋の中に足を踏み入れたことにより、その条件を間接的に満たしてしまったというわけだ。
「……応用が効くのね」
せめて、入る前に張り紙を破り捨てでもしておけば、発動を回避できたのかもしれない。アグスティナは自らの迂闊さに歯噛みする。
一つ運が良かったことがあるとすれば、彼女がアグスティナと同じく、直接的な攻撃をするようなタイプの敵では無かったことである。もしそうでなければ、アグスティナはとっくにもう死んでいただろう。
「ルールの説明を続けて」
アグスティナはそう催促する。既にこちらが相手の上位魔術を発動させてしまっている以上、そのルールに従って突破口を考えていくしかない。
「まず、あなたにはどのゲームで私と勝負するか、決めてもらいます」
「どれでも良いの?」
「ええ。ここにある物でできることなら、なんでも構いません。こちらが了承できるような内容であれば、別にオリジナルでゲームを作ってくれても良いですよ」
イルザは穏やかな笑みを浮かべたままそう告げる。ひどく気に入らない笑顔であった。
アグスティナはそこで、重要な事を尋ねた。
「それで、勝ったり負けたりしたら、どうなるのかしら?」
「あなたが勝った場合、この上位魔術は強制的に終了し、もとの場所に戻ることができます。そして、私が勝った場合は――」
彼女は淡々と言った。
「あなたは死にます」
「……」
一拍の間を置き、アグスティナが呟く。
「随分と、あなたに有利なルールなのね」
「もちろんですよ。私の魔術ですから、当然です。その代わり、ゲームの選択権はあなたに与えてありますから」
こちらが勝っても、ただここから脱出できるだけ。対してこちらが負けてしまえば、奪われるのは命である。ゲームの選択権などではとても釣り合いのとれない、一方的なルールである。
「ちなみに引き分けの場合は、特に何の変化もありません。その場合は再戦してもいいですし、別のゲームに切り替えても構いません」
イルザはそう付け加え、言った。
「私の上位魔術の説明は以上です。それでは、ゲームを選んで下さい」
「……」
アグスティナは考える。
部屋に入る時に見たあの張り紙は、イルザの用意した罠である。だとすれば、その奥には間違いなく、何かしら護らなくてはならないものがあるということである。上位魔術で聞き出した情報と合わせて考えれば、そこにバジャルドの強さに関係する何かがあるのは、もう殆ど間違いない。
恐らくは既に、サンス達とバジャルドとの戦闘は始まっている。だとすれば、少なくともイルザは、バジャルドが戦闘に勝利するまでの間、部屋の奥に敵を入れてはならないということになる。
つまるところ、イルザの根本的な目的は、バジャルドが戦いに勝利するまでの時間を稼ぐことである。
もちろんゲームには勝つつもりでこの罠を仕掛けているのだろうが、実際の所、仮にイルザが敗北したとしても、こうしてアグスティナをこの空間へと引きずり込んだ時点で、既に時間稼ぎという目的の大部分は果たせていると言える。
逆にこちらとしては、できるだけ早くここでの勝負を終わらせ、この空間から脱出し、部屋の奥へと向かうことが最終的な目的となる。
こうして彼女が思考している間にも、サンス達の戦いは続き、バジャルドによって追い詰められている可能性もある。
(でも、焦ったら駄目。勝負を早く終わらせようと思えば思うほど、思考は短絡的なものになっていく……)
恐怖や焦燥といった感情を押さえ、アグスティナは更に考えを巡らせていく。
(……イルザの言ったルールには、一つ穴がある)
イルザは、暴力などで相手に直接的なダメージを与えれば敗北になる、と告げた。しかしその言い回しからすれば、明らかに、アグスティナのその上位魔術は該当していない。
その隙をうまく突くことができれば、そもそもこの勝負をまともに受ける必要もないだろう。
(だけど、チャンスは一回だけ……)
彼女の上位魔術は、一人につき一度しかダウト宣告を行うことができない。絶対に失敗してはならないのだ。その使い所は考えなくてはならない。
アグスティナはその空間内をざっと見渡す。ゲームを行うための道具が、本当に沢山用意されている。彼女にとって、書籍で見ただけのものもあれば、実際にやったことのあるものもある。
一応、彼女にとって多少は心得のある、チェスなどのボードゲームも置かれている。が、心得があるとは言え、それはあくまで、普通に嗜む程度の話である。
こんな上位魔術を仕掛けてくる相手なのだから、もちろん、こういったゲームにはかなりの自信があるのだろう。遊びでやったことがある程度のアグスティナが、彼女に真っ向から勝負を仕掛けたところで、勝利できる確率はひどく低い。
彼女は更に、考えを深めていく。早く終わらせなくては仲間が危険になるという焦りを押さえ、敗北すれば死ぬという恐怖を押さえ、ただ、己が勝利する方法をひたすらに探っていく。
やがて、長考の末、アグスティナはそっと顔を上げた。
「決めたわ。何のゲームをやるのか」
迷いの無い声で、彼女はそう告げた。
◇
「トランプはあるかしら」
アグスティナは言った。
「ええ。もちろんですよ」
イルザは彼女を案内するように歩き出し、アグスティナがその後に続いた。
そして二人は、小さな卓の前へとたどり着く。カジノで使われているテーブルのように、その上面には緑色の生地が張られている。
その卓の中央には、未開封のトランプが一セット、置かれていた。
「さっき少し言っていたけれど、こちらの考えたオリジナルのゲームでも、別に構わないのよね?」
「はい。もっとも、ルールに何か偏りがあった場合などは認められませんけど」
「その問題は無いわ。それと、トランプはもう一セット頂戴」
アグスティナの要求に従い、イルザは二セット目のトランプを用意する。
「先に聞いておきたいんだけど、トランプをシャッフルする時はどうするの?」
「色々と不安もあるでしょうから、あなたが行うということでどうぞ。もちろん私も見ていますので、何か誤魔化しがあれば指摘させて頂きますが」
シャッフルをしている間に細工をする、というのはイカサマではよくある手法である。しかしイルザには、彼女がそれをやった所で、見逃さないだけの自信があった。
「仮にイカサマがバレた場合は?」
「即、敗北となりますよ。……するつもりですか?」
「いえ。ただの確認よ」
アグスティナは淡々と言う。
「それで、オリジナルと言いましたが、どういったゲームをするつもりですか?」
「ルールはすごく簡単よ」
そして彼女は説明を始めた。
「私達はこのトランプを、一セットずつ、ジョーカーを抜いた状態でシャッフルして、それぞれの側に置く。そして互いに一枚だけ引いて、裏向きのまま場に出すの。その後オープンさせて、互いのカードを比較する。……マーク等は何も関係ないわ。ただ、その数字の大小で比較して、大きかった方を一勝とする」
「……」
イルザは黙ってその説明を聞く。
「その後、場に出したカードはそのまま流し、次にまた新しく一枚を引いて、同じように比較する。こうして勝敗を決めていって、先に連続して十勝した方が、最終的なゲームの勝者とする」
「……連続して、十勝?」
「ええ。そうなる前に全てのカードを場に出し終えた場合は、その都度シャッフルしてまた最初から再開する。その場合にも、連勝記録は継続するわ」
アグスティナはそこで、全て話し終えたとばかりに、口を閉ざした。
「それだけ、ですか?」
「ええ。これだけよ。……あ、ごめんなさい、言い忘れてたわ。もし両者が同じ数字を出してしまった場合は、その勝負は無効として流し、次のカードを引く、ということにするわ。その場合も連勝記録は継続する、ということで」
アグスティナはそう付け加えるが、問題なのはそこではない。
イルザは困惑する。
彼女が言ったルールは、ひどく単純だ。完全にランダムになっている状態からカードを引き、それを場に出して、数字の大小を比較するだけ。
どちらの数字が大きいか、というルールは、トランプを使ったゲームでは多い。アグスティナの提案したこのゲームは、それらを極限にまでシンプルにした形と言えるだろう。
にも関わらず、イルザはひどい戸惑いを覚えてしまっている。その理由は言うまでもなく、このゲームが、ただ運にのみ依存しており、プレイヤーが戦略などを挟む余地が一切無いということである。
(完全にランダム。完全に、ただの運だけ。くじ引きと殆ど変わらない。……それも、連続して十回勝利? そんなの、どれだけかかるか……)
今の状況について、イルザは再考する。
現在、恐らく既に侵入者はバジャルドと戦闘を始めている。アグスティナがこのタイミングで地下に来たということは、恐らくその目的は奥にある仕掛けを壊し、仲間の戦況を有利にすることだろう。
そして、アグスティナのその目論見は正しい。地下の奥には確かに、バジャルドの強さを支えるための魔術的な仕掛けがある。だからこそイルザは、あの張り紙による罠を用意し、敵襲に備えていたのだ。
(目的からすれば、この人は今直ぐにでもここを出て、部屋の奥へと向かいたいはず。にも関わらず、こんな、完全に運任せのゲームを……。それも、決着がつくのにどれだけの時間がかかるかさえ分からないようなルールで、一体、何故?)
よほど運に自信があるとでも言うのだろうか。
考えれば考える程、分からなくなっていく。
「黙り込んでしまったみたいだけど、もしかしてダメだったかしら?」
「いえ……」
アグスティナの様子からは、焦りのようなものは感じられない。ただ単に感情を隠しているだけなのか、それとも――。
イルザはそこで思考を打ち切った。明らかに不自然なルールではある。しかし、これを拒否する理由はこちらには無い。
こちらが圧倒的に得意なゲームで、さっさと勝って終わらせる、というのが一番の理想ではある。しかし彼女の提案したゲームは、その次くらいには好ましいものだ。仮に負けてしまったとしても、彼女を長い時間こちらに拘束することができるのだから。
もし何かイカサマをするつもりであったとしても、イルザの目は決してそれを見逃さないだろう。その場合は直ぐに見破り、こちらの勝利で終わらせることができる。
イルザはアグスティナに対し、頷きを返した。
「分かりました。そのルールでやりましょう」
「受けてくれて良かったわ」
そして、二人のゲームが始まった。
アグスティナは、それぞれ二つのトランプの束の中身を見ていった。問題がないことを確認すると、ジョーカーを抜き、カードをシャッフルしていく。
その手付きはあまり慣れたものではない。とても何かイカサマができるような状態ではなく、また仕掛けようとしたところで、イルザならば何の苦もなく見破ることができるだろう。
その後、アグスティナがシャッフルを終えたトランプの束が、それぞれの位置にセットされる。
「それじゃ、一回目を始めましょう」
「はい」
二人はそれぞれ一枚カードを引き、裏を向けたまま場に出す。そして、同時にオープンする。
イルザがクローバーの七、アグスティナがハートの四。このゲームではマークは関係なく、数字だけを比較する。
「私の勝ちですね」
「ええ」
まずはイルザの一勝である。ちらりと様子を伺うが、アグスティナが何か動揺している気配はない。
比較を終えたカードを退かし、それぞれ再び次のカードを引く。
オープンすると、次はイルザが八で、アグスティナが十。アグスティナの一勝である。
(……まぁ、こうなりますよね)
完全にただの運で勝負している以上、連続して勝利が続くという保証はどこにもない。何回か連続したとしても、すぐに妨害され、その連勝はリセットされてしまうだろう。
再びカードを引き、三回目の勝負をする。次もまた、アグスティナの勝利であった。
しかし四回目を引くと、今度はイルザの勝利である。
その後も、ゲームは淡々と続いていく。
一切の戦略性がないため、二人はただ機械的にカードを引いては、出していくだけである。片方が連続して勝ったとしても、せいぜい四回五回辺りで相手側に妨害され、ストップしてしまう。
特筆することもなく、静かにゲームは行われていく。
そして気づけば、二人の引く札は全て無くなっていた。
「それじゃ、一セット目は終了ね」
アグスティナはそう言うと、二人分のカードをそれぞれまたシャッフルしていく。その手の動きを念のために確認しながら、イルザは己の中でどんどん不信感が膨らんでいくのを感じていた。
彼女にイカサマをする素振りはない。少なくともこの一セット目は、本当にただ、この運任せのゲームを淡々とこなしているだけだ。
何かを企んでいるのだろうと、イルザは思う。
あくまでただ見た印象ではあるが、アグスティナはこうした運や偶然というものに頼るようなタイプには見えない。どちらかと言えば、緻密に策略を練ってから戦いを挑むような性格に感じる。
そんな彼女が、こんな運任せのゲームを提案したのだ。隠された意図や裏が無いと考えるほうが不自然である。
(にも関わらず、その企みが、全く読めない――)
じわりと不安が広がる。
そんな彼女に対し、アグスティナは感情の読めない声で言った。
「二セット目。始めるわよ」
トランプの山がそれぞれ設置される。
イルザは一枚目を引くため、そっと手を伸ばした。
◇
「――くっ!」
突然現れたバジャルドの攻撃を、サンスはその剣で咄嗟に受け止めた。激しい金属音が響き渡る。
彼に防がれると直ぐに、バジャルドはまたその姿を消した。
「はぁっ……はぁっ……!」
乱れた呼吸を漏らしながら、サンスは辺りを見渡す。
戦闘が始まってから、既に幾らかの時間が経過していた。
バジャルドの動きを、サンスは読み切ることができない。予想できない方向から攻撃を仕掛けてくるため、サンスはどうしても後手に回ってしまい、上手く防ぐことができない。彼の身体には着実にダメージが蓄積していっていた。
先程は確かに、サンスの攻撃はバジャルドに当たった。そのことからして、彼が姿を消している間は、彼もまたこちらが見えていない、というサンスの仮説が正しかったことは間違いない。
(だけど、それに対策されてしまった……!)
サンスはバジャルドが姿を消した後に移動した。にも関わらず、彼はサンスに対してその攻撃を当ててみせた。
一体どういうことなのか、考えて、すぐに彼は思い至った。
(簡単なことだ。バジャルドは、こっちが移動した後にまた、その位置を合わせ直しただけ――)
バジャルドがサンス達の位置を見失うのは、自身が上位魔術を行使しているからである。だとすれば、一度解除してしまえば、その位置を再確認することもできる。
サンスとルフィナに気付かれないように、一瞬だけその上位魔術を解除し、位置を確認した後、すぐにまた姿を消す。ただそれだけで、こちらの位置は修正されてしまう。
「……っ!」
サンスの視界の隅で、何もない空間から、バジャルドの姿が現れたのが見えた。しかし彼がはっきりとその目で捉えるよりも早く、バジャルドの姿はまたかき消える。
こちらの位置だけを確認し、即座にまた上位魔術を発動させたのだ。それを見たサンスは、ルフィナと共にその位置を移動する。
(こうして、バジャルドが確認する瞬間を俺達が視認できる時もある……。だが、それに気づかなかった場合が問題だ)
相手がこちらの位置を確認するのを、全て把握することができれば、サンス達もそれに完全に対応することができる。しかし、もちろんそう上手くは行かず、こちらがそれを見逃すこともある。
その場合に備えようするならば、方法は一つしかない。それは、見られたという確信があろうと無かろうと、常に動き続けることである。
しかしそんなことをしてしまえば、相手がこちらの位置を特定できないのと同様、こちらもその出現場所に待ち構えて攻撃をする、ということももちろんできなくなる。
未だ、彼のこの攻撃方法への対処法を、サンスは何も思いつくことができていなかった。
バジャルドがこちらの位置を確認するのを見てから、さらに幾らかの時間が経過する。
嫌な予感がし、また場所を変えるべきだとサンスが足を動かした所で――。
「――っ!!」
上から、攻撃が落ちてきた。
サンスの頭上に現れたバジャルドが、その剣を勢い良く彼へと振り下ろす。ちょうど移動しようとしていたタイミングだったため、ギリギリのところで身体を捻り、致命傷だけは何とか避ける。しかし、それでもその剣先は、サンスの身体へと深く入り込んでいた。
彼の鮮血が飛ぶ。
「くっ!」
攻撃をしてきたバジャルドに向かって、サンスは痛みを堪えながら剣を振るう。しかしバジャルドは直ぐに姿を消し、その剣は当然のように空を斬った。
「はぁっ……はぁっ……」
ルフィナに回復魔術をかけてもらいながら、彼は移動する。
「まずいなっ……」
「はいっ。完全に、翻弄されてしまっています」
回復を続けながらルフィナが言う。
「どこにどう移動しても、バジャルドの攻撃を回避できるという保証はありません……」
「ああ」
そして今の状況であれば、こちらから攻撃を当てることもできない。
唯一この戦いに救いがあるとすれば、それは、昨晩ひどく苦しめられた、接近戦で一気に連続攻撃を仕掛けるという、あの戦い方をして来ていない点である。
剣を交わした感覚からして、明らかに彼の身体には昨晩の戦闘の疲労が残っている。身体能力強化を存分に使った攻撃は、今の彼には負担が大きすぎるのだろう。
「――一先ず、部屋を出るぞ。……このままだと、なぶり殺しにされてしまう」
「はい」
バジャルドは今、姿を消しており、彼もまたこちらを視認することができていない。この状態で部屋から離れれば、上手く行けば、彼は一時的にこちらの所在を見失うことになるだろう。
二人は素早く部屋を出た。部屋を後にする間際、ルフィナは振り返り、その左手の平を部屋の中へと向けた。
その手から放たれた爆発魔術が、轟音と共に、空気をびりびりと震わせる。
彼女が狙ったのは、その部屋の床であった。床は砕け、あらゆる物を巻き込みながら下の階へと落ちていく。少しでもバジャルドを足止めしようということだろう。
サンスはルフィナと共に通路を移動していく。
(できることならやはり、例の仕掛けを見つけ出して壊したい。それがベストだ。だけど、今の状況じゃそれも難しい……!)
彼に追われ、戦闘を続けながら何かを探すというのは、あまり現実的な戦い方ではない。
強い焦燥を感じながら、サンスはルフィナと共に早足に駆けていった。
◇
二人は、最後の一枚のカードを場に出した。そして同時にオープンする。
その数字は、イルザが三、アグスティナが七である。ここまでイルザが六連勝していたのだが、それが妨害されるような形であった。
「これで、七セット目が終了ね」
アグスティナは淡々と言い、二人分のトランプを、それぞれシャッフルし始める。
――七セットが終了しながらも、イルザとアグスティナのゲーム状況は、一向に変わってはいなかった。
淡々とただカードを出し合い、勝敗を決めていくだけ。片方の勝利が連続することもあるが、十回まであと一息……というような場面にはまだ遭遇していない。ゲームの展開に起伏は殆ど無く、その進行は静かなものであった。
しかし、そうしてゆっくりと時間が過ぎていく中、イルザの胸中では不安がどんどん膨らみつつあった。
アグスティナは何故、こんなゲームを提案したのか。ずっと考え続けていたが、未だにその答えは出ていない。
何か裏があるはずだ。自分の気づいていない所で、何か敵の策略が進行しているはずだ。……そんな強い疑念が、繰り返しひたすらイルザの意識を叩いている。
「それじゃあ、八セット目、始めるわよ」
シャッフルを終えたアグスティナが、それぞれの位置にトランプを置いた。
「はい……」
イルザは頷き、ゲームを続行させる。
何の進展もない、ただ不毛な時間が展開していく。
やがて、ついに耐えられなくなり、イルザは口を開いていた。
「このゲームは、どういうつもりですか?」
こちらが動揺していることを、相手には悟られたくない。そう思っていながらも、彼女にはこれ以上耐えることができなかった。
様々なゲームに精通している彼女だからこそ、この意図の分からないゲーム展開に対しての苦痛も、人一倍大きかったのである。
「どうして、こんなゲームを……これじゃ、いつ終わるかも分かりませんよ」
不信感を露わにしたイルザのその問いを聞いて、アグスティナは小さな笑みを浮かべた。
「やっぱり、不自然かしら。このゲーム」
まるで、こちらが罠にかかったのを見たかのような、余裕のある笑みであった。イルザの中にあった嫌な予感が、更に増幅する。
「私がこのルールを提示した理由は、恐らく、あなたと同じよ」
「……?」
「目的は、時間稼ぎ」
言いながらアグスティナは、場にカードを出した。イルザもそれに続く。同時にオープンすると、アグスティナの一勝であった。
彼女はそのまま、ゆったりとした動作で使用後のカードを退かしていく。焦らされ、堪えられなくなり、イルザは聞いていた。
「時間稼ぎ、ですか?」
「ええ」
静かな口調でアグスティナが言う。
「あなたは元々、あの部屋に侵入する相手に対して罠を仕掛けていたのでしょう? でも、この上位魔術が発動することで、あなたはここに来てしまった」
「……」
「つまり今、あの部屋にあなたは居ない。となれば当然、あの罠ももう機能していない」
彼女の指摘に、イルザの胸の奥がざわつく。
アグスティナの言う通りである。こうしてゲームを始めてしまった以上、決着がつくまでは、上位魔術を別に発動することなどできない。
「聞いていなかったかしら? 侵入者は、三人だって」
「……聞いていますよ。もちろん」
「私は、バジャルドのあの強さを何とかするために、ここに来た。そのまま私が戻らなかったら、仲間達はどう思うかしら?」
言いながら、アグスティナは次のカードを場に出した。一拍遅れてイルザもそれに倣う。
オープンすると、イルザの一勝であった。しかし、もはや喜びも何も感じない。
二人は使用したカードを退ける。
「私の仲間は二人いる。私達の主力はサンスなの。だからその場合は、多少の危険を犯してでも、彼が一人でバジャルドを抑え、そしてもう一人があの部屋へと向かう」
アグスティナは言う。
「今、あの場所を守っていたあなたは、私との勝負で忙しい。だから今なら張り紙に関係なく、あの扉を通過し、奥へと向かうことができる。――つまり、私がここで勝負を長引かせれば、それだけ、仲間が部屋の奥へと向かうための時間を稼ぐことができる、ということよ」
彼女の発言を聞き、イルザは考える。
イルザはこの勝負を受ける際に、例え決着まで時間がかかったとしても、団長が戦闘を終わらせるまで時間を稼ぐことができれば、それで構わないと思っていた。
しかし、仮にアグスティナの言っていることが真実だとすれば、その発想は完全に裏目に出てしまったということになる。
イルザの中の焦りが、更に膨れ上がる。
もちろん、ただ適当なことを言って、こちらを動揺させようとしているだけかもしれない。今の発言は完全にただのハッタリで、本当は時間が経つのを恐れているのかもしれない。
頭の中ではそうした可能性を考えながらも、アグスティナのひどく余裕のある態度が、イルザの内心を揺さぶっていく。
「どうしたの? 次のカードを引いて」
アグスティナに促され、イルザは止まっていた手を動かし、カードを引く。場に出してオープンすると、今度はイルザの負けである。
一進一退どころではない。こんなことを続けていれば、本当に決着が何時になるのか分からない。
時間が過ぎることで、こちらが有利になる可能性と、あちらが有利になる可能性。敵の真意について何とか推測しようとするが、実際の所、イルザにはとにかく情報が足りていない。
外界から完全に遮断されているのは、アグスティナもイルザも同じである。外で何が起こっているのかは全く分からない。もしかしたらこうしている間にも、イルザの居ない部屋を通過し、奥へと誰かが向かっている可能性さえある。
彼女が考えている間にも、カードによる勝負は続いていく。しかしどちらが連勝することもなく、相変わらずそのゲームに起伏は無い。
やがて、場に出すカードが全て無くなった。
「八セット目も、終了ね」
アグスティナはそう言うと、落ち着きのある手付きでシャッフルをしていく。初回からずっと監視してはいるが、何か細工しようとする素振りは見せない。
彼女の思惑が時間稼ぎだとすれば、そもそも彼女もこちらと同じく、最初から勝敗など考えていないのかも知れない。負けたら死ぬというのに、その表情に迷いは見えない。
イルザは考え続ける。
やがて、アグスティナがシャッフルを終え、それぞれの場にカードがセットされた所で、イルザは決心した。
(今の段階では、何も分からない――)
アグスティナの発言の真偽は不明であり、それを確かめる手段もない。しかしそれが本当だという可能性がある以上、このまま時間稼ぎを続けることはできない。
だとすれば、取れる手段はもう一つだけである。
(私が勝って、このゲームを終わらせる……!)
九セット目のゲームが始まった。二人はカードをそれぞれ場に出し、オープンしていく。勝って負ける、取り留めのない勝負が続いていく。
カードのシャッフルはどちらもアグスティナがやっているため、そこにつけ入る隙は無い。しかしイルザは、そのような所で何かを仕掛けずとも、カードをすり替える手段など無数に持っていた。
そもそも、トランプを使ったゲームはかなり多いため、どのような挑まれ方をしたとしても対処できるよう、彼女はその服の内側に多くの仕掛けを施している。
イルザは最初の説明で、イカサマがバレれば敗北になる、と告げた。恐らくはアグスティナもその時気づいただろうが、それはつまり、相手にバレなければ問題にならない、ということを意味している。
アグスティナはその手付きからして、明らかに完全な素人である。イルザのように慣れた者がイカサマをしたところで、それに気づくことはありえない。仮に何か不審に思った所で、その証拠を見つけることなど到底できないだろう。
(大丈夫、普通にやれば、勝てるっ!)
九セット目の、十回目と十一回目が、イルザの勝利であった。その偶然による二連勝に追随するような形で、彼女は勝負を仕掛けた。
慣れた手付きで、決して気づかれること無く、そっとカードをすり替える。そして迎えた十二回目のカードオープンでは、アグスティナが九、イルザがクイーンである。三連勝となった。
イルザはイカサマをしたのだが、アグスティナは一切不審に思った様子もなく、淡々と勝負を終えたカードを退かしていく。
(これなら、行ける……っ)
明らかに気づいていないその様子に、イルザは勝利を確信する。
そのまま彼女は、カードをすり替えながら連勝を重ねていった。
もちろんこの勝負は完全な運であり、アグスティナが急に高い数字を出す可能性もある。しかしこちらがキングやクイーンといった絵柄を連続して出していけば、流石にそう簡単に負けることもない。
その運の良さをアグスティナが不審に感じる可能性もあるが、それは覚悟の上である。疑われた所で、簡単に追求できるような証拠は残していない。
イルザの勝利が続いていく。
そして、八連勝目を迎えた。
「……」
アグスティナはじっと、場に出されたカードを見つめる。何かを疑っているような気配を感じる。
しかし結局彼女は何も言わないまま、そのカードを退けた。
そして次の勝負もまた、イルザの勝利であった。
これで九連勝目。あと一勝で決着が着く。
アグスティナはそっと顔を上げた。そしてイルザと目を合わせる。
「……」
「何ですか?」
「……いえ。何でもないわ」
アグスティナは何も言わず引き下がった。その表情は、心なし強張っているようにも見えた。
そして、次のカードをそれぞれ場に出す。
ここで一勝すれば、最終的なイルザの勝利が決まる。そしてもちろん、彼女は既にカードをすり替えてある。
イルザはカードをオープンするため、手を伸ばす。しかし、そこに――。
「――待って」
アグスティナが言った。
「手を止めて。……あなた、急に運が良くなったわね。まだ九セットしかやっていないのに、もうここまで決着がつきそうになるなんて」
「そうですか? でも、今出ているこのカードがどうなるかは分かりませんから」
そう言うイルザを、アグスティナはじっと睨みつけた。
「あなた、イカサマか何かしていないかしら?」
来た、とイルザは思った。
彼女はイカサマをしている。既にカードもすり替えてある。しかし、アグスティナに分かるような証拠は何も残しておらず、立証することはできないだろう。
「イカサマなんてしてませんよ。何か証拠があるんですか?」
そんな、勝利を確信した彼女のセリフが、敗北の決め手となった。
アグスティナは告げた。
「ダウト」
◇
ゲームのルールを決める際に、アグスティナには考えなくてはならない一つの前提があった。
それは、正面から正攻法でイルザに挑んだ所で、勝つことは基本的にありえないだろう、という前提である。
このようにゲームで勝負をするという上位魔術を使っている以上、その実力は並大抵のものでは無いだろう。ゲームに勝利することに対しては、かなり早い段階で、彼女は完全に諦めていた。
正攻法で勝つことのできない相手と、どう戦えば良いのか。もはや考えるまでもなく、その手段は一つしか無い。上位魔術である。
アグスティナのダウト宣告は、一人につき一回しか使うことができず、失敗することは許されない。そこで彼女は、イルザが絶対に嘘を吐かなくてはならないような状況を考えた。
そして思い至ったのが、イカサマというルール違反である。
イルザが何か仕掛けをしている際に、「イカサマをしているか?」という質問をする。イカサマがバレれば敗北する、というルール上、彼女はそこで絶対に嘘を吐かなくてはならない。
つまり、イルザがイカサマを行ったことさえ分かれば、アグスティナの勝利は確定するのである。
そこで彼女が思いついたのが、完全に運任せで数字を比較するという、このゲームのルールだ。
戦略の入る余地が無ければ、純粋な実力でアグスティナが敗北することはない。十回連続で勝利するという条件はなかなかに難しく、確率的に、そう簡単に満たせるものではない。
全く動きの無いゲーム展開は、イルザのようにゲームに慣れている者であれば尚更、耐え難いものだろうと彼女は予想していた。
実際の所、アグスティナは最後の最後まで、イルザがどういうイカサマをしているかは分からなかった。また更に言えば、本当にイカサマをしているかどうかすら、定かではなかった。
彼女は最初から、相手の勝利が九回連続で続いた時点で、何か確証があろうとなかろうと関係なく、イカサマを指摘しようと決めていた。何のイカサマもなく運だけで敗北する可能性は、最初から完全に斬り捨てていたのだ。
(だけど、その賭けには、勝った……!)
アグスティナのダウト宣告を受け、イルザのその顔から表情がすっと抜け落ちた。上位魔術が成功し、催眠状態に陥ったのである。その様子を見て、彼女はほっと一息吐いた。
極力落ち着きのある態度を保とうとはしていたが、その心臓は激しく打っていた。全身が緊張により発汗し、その服の内側は嫌な具合にじっとりと湿っている。
アグスティナはイルザに命令した。
「イカサマを認めなさい」
「――はい。私はイカサマをしていました」
彼女はそう告げる。イカサマが発覚した場合は、即座に敗北というのがルールである。
ここで、勝負の決着が着いた。
イルザの上位魔術により作られていた周りの空間が、ぐにゃりと歪んだ。強烈な目眩を覚え、アグスティナは目を閉じる。
やがて落ち着き、彼女が目を開くと、そこは例の地下の部屋の中であった。
彼女は辺りを見回す。
壁際に設置されている大きな棚には、所狭しと雑多に物が並べられていた。魔導書や魔術具、魔物の剥製。その中に混じり、ホルマリン漬けにされた魔族の頭部らしきものも、幾つか置かれている。アグスティナの両目が、ぐっと鋭く細くなる。
部屋の中央には、大きな台が鎮座していた。その台の四隅には、恐らくは対象を拘束するために使われる、枷のようなものが取り付けられている。
台の表面は、赤黒く変色していた。ここで実験されたであろう魔族の血液が、洗っても落ちない程深く染み込んでいるのだ。引っ掻いたような後があちこちに残っているのは、最後の抵抗の傷跡だろう。
実験中の様子が容易に想像できるその光景に、彼女は気分が悪くなった。
アグスティナの位置から、台を挟んだ反対側に、イルザが立っていた。
「バジャルドのあの強さの秘密、あなたなら知っているわよね?」
アグスティナが問いかける。
「はい。知っています」
「その仕掛けがある場所に案内しなさい」
「分かりました」
イルザは頷き、アグスティナに背を向けて歩き出した。
彼女は部屋の奥へと向かう。そして、雑多に物の積まれている棚に触れると、それを両手でぐっと押した。するともともとレールか何かの上に置かれていたのか、それは滑らかな動きでスライドしていった。そして、一つの扉が姿を現す。
イルザはその扉を開けて中へと進んだ。アグスティナもそれに続く。
地下の通路を、そのままさらに十メートル程歩いていく。
やがて到着した先の扉を、イルザが開いた。と同時に、視界が一気に明るくなった。その眩しさに、アグスティナは目を細める。
先程の実験室と、殆ど同じくらいの広さの部屋だった。しかし、その内装は全く異なる。
(すごい……これ、全部、魔術刻印……?)
床も壁も天井も、びっしりと隙間なく何かの印が刻まれている。そしてその魔術は今も発動しているらしく、刻印は白く発光している。一つ一つの明かりは大したことがなくとも、こうも膨大にあれば、それだけでかなりの光量になる。
その部屋の中央には、長方形の大きな箱のようなものが、三つ並んで置かれていた。その表面にももちろん何らかの刻印が施されている。その箱のサイズは、ちょうど人が入るくらいの大きさであった。
(中を、見る気にはならないわね……)
捕らえた魔族の肉体が使われているであろうことは、確認するまでもない。
バジャルドの人間として明らかに不自然なその強さも、魔族の魔力を使った支援を受けているのだと考えれば、辻褄も合う。
「……この仕掛けを止める方法は、分かるかしら?」
「はい」
「それはどれくらいかかる?」
「ほんの数十秒あれば」
「だったら今直ぐお願い」
「分かりました」
イルザはそう返事をすると、部屋の奥へと向かっていった。その隅の辺りに何かがあるらしく、彼女はごそごそと弄っている。
アグスティナがそれを見守っていると、やがて突然、その部屋の中は真っ暗になった。魔術回路に流れていた魔力が遮断され、部屋中の刻印が一斉にその光を失ったのである。
「終わりました」
イルザの報告が聞こえた。アグスティナは深く安堵の息を吐く。
(一先ず、これで、私ができることはやったわよ……)
バジャルドの身体能力強化、そして魔術耐性は、これによりその効果をかなり抑えることができるだろう。上位魔術の方がどうなるのかは分からないが、ここまでやれば、後はサンスとルフィナの二人が終わらせてくれるだろうと、彼女は信じていた。
今も戦っているであろう二人に向けて、彼女は一人、その勝利を祈った。
◇
バジャルドは勢い良く剣を振り下ろした。不意を突かれながらも、サンスはギリギリのところでそれを受け止める。
サンスは即座に反撃へと移るが、その剣が届く前に、バジャルドは上位魔術を行使する。
途端、世界は静寂に包まれる。
(やはり、力を出し惜しみして勝てる相手でもないな――)
一人きりになった世界で、彼は声に出さず呟いた。
彼、バジャルド・ベンタインの上位魔術は、端的に言えば、世界を複製し、自らの身体をそこに入り込ませることである。
彼が上位魔術を発動させた瞬間に、自分の周りにある全てのものを、ある特殊な別の空間に完全に複製する。と同時に、その複製された世界へと、彼自身も移動するのである。
彼の魔術によって作られたその世界は、天井、壁、床、家具、そして存在している人物の身体までもが、完全に元の世界を再現している。
また、彼はその世界の中を移動した後、その上位魔術を解除することで、その場所に対応する元の世界の位置へと現れることができる。その様子を傍から見れば、ただ姿を消して移動し、また現れただけのように感じるだろう。
バジャルドのこの魔術には、既にサンス達が気がついている通り、かなり重大な欠点がある。
それは、彼の魔術によって複製された世界は、あくまで発動したその瞬間を切り取ったものに過ぎない、という点である。
その世界の中には、敵である二人の身体も再現されている。が、その動きは、彼が魔術を発動した瞬間のまま、完全に停止しているのだ。
つまり、その瞬間の敵の体勢や位置は分かるものの、その後で動いた分に関しては、バジャルドが魔術を解除するまで分からないということになる。
サンスはその弱点を突き、彼に攻撃を当ててみせた。その傷は深く、こちらの世界にて一応は軽く止血したものの、そのダメージは明らかに動きにも現れてしまっている。
そうして、こちらの動きを読み始めた敵に対抗するための方法は、一つ。
一瞬だけこの上位魔術を解除し、元の世界へと戻り、そしてすぐにまた魔術を発動する。ただこれだけで、二人の位置の情報を更新することができる。
しかし、そうして確認した後にもまた、敵は移動する可能性がある。相手もこちらの動きを読もうとしている以上、その辺りの判断はひどく難しい。
(まさか、こんなに癖のある魔術だったとはな……)
実の所、この上位魔術を実戦で使用した経験は、彼には殆ど無い。それも特に、サンスのような強敵と戦うのは本当に初めてのことである。
バジャルド自身、この上位魔術の使い方について試行錯誤をしているような状態であった。
(やはり、使うか……)
彼はこの上位魔術の他に、身体能力強化と魔術耐性という力を持っている。しかしその二つは、彼にとって負荷がかなり大きい。予め仕掛けを用意し、支援魔術を使用しているにも関わらず、そのダメージは彼の身体に蓄積されていく。
そして昨晩のその疲労も残っているため、できることならばあまり使いたくない、と彼は思っていた。無理をし過ぎてしまえば、その肉体や体内の魔力機構などに、何か後遺症が残る可能性もあるのだ。
しかし、今の状況から考えて、そうして体力を温存しながら勝つのはひどく難しい。
(全力で、一気に畳み掛けて、終わらせる……!)
彼はそう決断する。
そして彼は、上位魔術を小刻みに使い、二人の位置を確認していく。
やがて敵の隙を見つけると、バジャルドは勝負に出た。
彼はサンスの直ぐ側で上位魔術を解除して現れると同時に、その身体能力を一気に強化する。そして勢い良く、彼は剣を振り下ろした。
「――くぅっ!!」
サンスはその剣撃を防ぎ切る。が、バジャルドのその力により、彼の身体は微かにバランスを崩す。
そこに、バジャルドは連続攻撃を仕掛けた。
激しい金属音が立て続けに鳴り響く。己の身体に、強烈な負荷がかかっていくのが分かる。全身の筋肉や関節が軋みを上げる。長くは保たない。
一撃打ち込む度に、サンスの身体が揺らぐ。その剣圧に、彼が顔を歪めるのが見える。
そのまま攻め立てて一気に終わらせようと、バジャルドは更に剣を加速させていく。
が。
「――――」
ぶつり、と。
突然、それは途切れた。
◇
(何だ――?)
苛烈な攻撃を仕掛けてきていたバジャルドの身体から、突然力が抜けたのがサンスには分かった。
そのまま押し潰そうとしていたかのような強烈な剣撃が、嘘のように軽くなる。
見れば、バジャルドの顔には驚愕と困惑の表情が広がっていた。
(よく分からないが、チャンスだっ!)
突然調子を崩したその敵に対し、サンスは反撃をした。しかしその攻撃の当たる直前に、バジャルドは姿を消す。例の上位魔術を使われたのである。
「はぁ……はぁ……っ!」
先程の猛攻により乱れた呼吸を整えながら、サンスは考える。
攻撃の最中に、突然バジャルドの身体から力が抜けた。その様子からして、彼としても予想外の事だったようである。
(……真っ先に思い当たるのは、ルフィナが言っていた、バジャルドを支援する仕掛けのことだ。それに、何か異常が起きたのか?)
しかし、どうしてこのタイミングで――と、考えて、直感的に思い当たった。
「……ティナだ」
「え?」
彼の呟きに、後ろでルフィナが反応する。
「多分ティナがやってくれたんだ。何かを。だから、バジャルドは弱体化した」
「えっ、弱体化ですか?」
「ああ。最後の最後で、奴の力が一気に弱まったんだ。状況から考えて、ティナが一人で行動し、その何かの仕掛けを停止させてくれた可能性がある……!」
もちろんその根拠はどこにも無い。しかしそれでも、彼は直感的にそれで間違いないと確信していた。
仕掛けによるバジャルドへの支援が止められたとすれば、彼の身体能力強化も、魔術耐性も、その効果はかなり低下しているだろう。場合によっては、上位魔術の行使にも影響が出ているかもしれない。
ただ防戦一方であった二人の前に、突如として勝機が見えてくる。
「ここから、巻き返すぞっ」
「はい!」
支援魔術が停止したことにより、バジャルドも動揺しているのだろう。姿を消したまま、彼は一向に現れない。
そのまま、じわりと、時間が過ぎる。
もしかすると、危機を悟って逃げたのかも知れない――サンスがそう思い始めた頃、バジャルドは突然姿を現した。
彼が出現したのはサンスの死角である。彼はサンスの不意を突く形で、鋭い攻撃を仕掛けた。
しかしサンスは、その攻撃を何とか防ぐ。
そのパワーもスピードも、明らかに格段に落ちていた。が、それでも油断することはできない。
元々の剣術の腕が違うせいか、バジャルドは相変わらずこちらの虚を突くのが上手い。更に、戦いの中で繰り返しその上位魔術を行使してきた中で、特性を理解し、その動きはどんどん洗練されていっている。
現れたバジャルドに向かって、ルフィナはその左手を掲げた。
彼女が火炎魔術を行使する。迸る炎が彼へと飛ぶ。が、バジャルドはすぐに姿を消し、それを回避した。
「……消えて逃げた、ということは、やっぱり魔術耐性も失われているということか?」
「はい。恐らくは」
「だとすれば、ルフィナ」
「分かっています。任せて下さい」
彼女は頷いた。
◇
先程までの戦闘よりもさらに慎重に、バジャルドは攻撃を仕掛けていく。
少しずつ少しずつ、敵の虚を突きながら、体力を削るような戦い方。力により圧倒する戦いができなくなった時点で、彼にはもうその戦い方しかない。
何らかの理由で支援魔術が止まってしまった今もまだ、身体能力強化も魔術耐性も、完全に失ってしまったわけではない。そうでなければ、いくら相手の虚を突くような戦い方をしたところで、サンスに攻撃を当てることは困難だろう。
支援魔術が無くなったことにより、バジャルドの戦闘能力は明らかに低下している。しかし、それは彼が劣勢になっているという意味ではない。
上位魔術を駆使した攻撃により、彼はサンス達を一方的に攻撃することができている。対して相手は、未だこちらの正確な位置を捉えることもできておらず、その攻撃への対策を取ることができていない。
(まだ、十分に勝ち目はある――)
姿を消し、現れ、攻撃をしては、また消える。彼はただそれを繰り返していく。
その剣撃の半分近くは防がれるが、残りの半分は、浅くとも着実に敵の身体に傷を刻んでいく。
細かい無数の傷により、サンスの身体は血に染まってきている。足元に彼の血液が零れ落ちているのが見える。
その様子を見て、自分の攻撃が間違いなく効いていることを確信すると同時に、彼は、ある違和感を抱いた。
(何だ……?)
上位魔術により複製された世界の中で、彼は停止しているその敵を見据える。
サンス・ルドヴィアの後方には、魔族の娘がいる。つい先程までは、こちらがサンスに攻撃をしても、すぐに彼女がその治療をしていた。もっとも、僅かな時間では完全に回復することなどできず、幾らか血を抑える程度ではあったが。
(だが、今は、その止血をしている様子さえ、ない)
嫌な予感がした。
と、そこで、その場から移動しようとした彼の肩が、何かにぶつかった。
(……?)
そこには何も見当たらない。しかし触れてれば、確かに透明な壁のようなものがある。
(魔術壁、か?)
サンスの後ろにいる魔族の娘が、こちらの攻撃を防ぐ際に、度々使用している魔術であった。
バジャルドの上位魔術は元の世界を完全に複製する。それは彼女の作ったその魔術壁も同様である。
(どうして、こんな場所に)
彼は不審に思い、その壁に触れていく。
そして、気づいた。
魔術壁は、その場所だけではなく、さらに長く横へと続いていた。手を伸ばしてみれば、上の方にも伸びている。
「……っ!」
途端、バジャルドはその壁の意図を理解した。全身の神経が緊張に張り詰める。
彼の上位魔術により作られたこの世界では、彼は何か物を壊すということができない。それは破壊することだけに限らず、そもそも何かを動かしたりといったことができないのだ。この世界の物質に対しては、彼はただ触れることしかできない。
仮にそれが薄い紙一枚であったとしても、こちらはそれを退かすことができず、移動するには遠回りをするしかない。
今、バジャルドの前には魔術壁がある。これをどうしても壊そうとするならば、一度上位魔術を解除し、元の世界に戻ってから壊さなくてはならない。
しかし。
(今の俺には、魔術耐性の力が殆ど無い……!)
少し前までの自分であれば、どんな強度の魔術壁であろうとも、一撃で破壊することができた。しかし支援魔術が無くなった今では、そのような事できるはずもない。
バジャルドはその魔術壁の状態を確かめる。本物の壁のように、かなり長く続いている。
サンスが戦闘を行っている間、後ろの魔族の娘は魔術壁をずっと展開していた。だからこそ、彼の回復をすることができなかった。
彼女の展開した壁は、彼の前方を遮るだけではなく、その後方にも設置されていた。気づかぬ内に、見えない壁と壁の間に挟まれてしまっている。
サンスの回復を後回しにしてまで、彼女がこうして壁を作った理由は、もはや考えるまでもない。
(俺の行動範囲を狭め、出現する位置を、特定しようとしている……!)
更に壁を確認していく。その魔術壁は、まるで彼を取り囲むように展開している。壁の向こう側に行きたいのだが、その隙間が見つからない。
(くっ、そろそろ……!)
バジャルドは息苦しさを感じる。上位魔術により複製されたこちらの世界に長時間いると、それだけで身体に負荷がかかってしまうのだ。
息継ぎをするように、彼は一度元の世界へと戻らなくてはならない。
(仕方ない。少しだけ――)
そして、彼は上位魔術を解除する。すると――。
「――――」
現れたバジャルドの直ぐ目の前に、サンスの姿があった。彼は剣を構え、今にも攻撃を仕掛けようとしている。
――彼は、壁に気づくのが遅すぎた。
彼を取り囲むように展開された魔術壁は、既にその移動範囲をかなり絞り込んでしまっていた。
(全て、読まれて、誘われたのかっ!)
狙い通りの位置に現れたバジャルドに向かって、サンスが剣を振るう。
複製された世界に長くいた彼は、その負荷により、すぐにまた上位魔術を発動することが出来ない。壁により逃げられない彼に、サンスの剣が迫る。
バジャルドは己の剣で防ごうとする。が、支援魔術が無くなり弱体化した彼は、そのスピードでサンスに勝つことなどできるはずもない。
「……っ!!」
サンスの剣はそのままバジャルドの身体を深く斬り、大きな血飛沫が飛んだ。
溢れ出る己の血液の熱さを感じる。傷は深く、重い。
その身体をぐらつかせながら、バジャルドはふと思う。
(何故)
それは、自分が未だ、彼らとの戦闘を続行していることに対しての疑問であった。
(何故俺は、逃げなかったんだ――)
支援魔術が停止し、身体能力強化と魔術耐性の二つが奪われてしまった瞬間、一気にその勝負の行方は見えなくなった。戦いに負ける可能性が出てきたのである。
敗北して死亡するリスクを承知して戦い続ける程、この二人を殺すメリットが大きいという訳ではない。せいぜいが、その賞金を活動資金の足しにできる、という程度である。
本来ならば、支援魔術が途絶えた時点で、すぐに逃げようとするのが正しい判断であった。
突然支援が途絶えたことに驚きつつも、その程度のことを考えられる冷静さは、その瞬間のバジャルドにもあった。にも関わらず、彼はこの戦いを続行することを選択した。
直感的に、ここは逃げずに戦わなくてはならないと彼は思ったのだ。
それが何故なのか、今になって、理解した。
彼と敵対しているその二人の目が、余りにも見覚えのあるものだったからである。
何か、絶望的な出来事が起きた時の、それに対しての反応は、人によって違う。
現実に打ちのめされ、そのまま命を終えていく者もいれば、それは過去のことだと割り切り、今を生きて行く者もいる。その考え方や行動は本当に様々である。
そんな中、その何かに復讐しようという選択は、恐らく何よりも愚かなものだろうと、彼は自覚していた。
その戦いに意味はない。復讐を果たした所で、抱える苦痛は何一つ消えることもなく、何を成し遂げたことにもならない。
しかし彼はそう理解しながらも、魔族に復讐するという選択をした。そして同じ願いを持つ仲間を募り、戦いの準備をしてきた。それはどこまでも愚かな行為であったが、しかし、彼はそうせずにはいられなかったのだ。
そして、バジャルドの前に立ちはだかった彼らの目も、復讐を決めた者のそれと全く同じであった。
まるで鏡でも見ているかのように、彼にとって馴染み深いものだった。
だからこそ、である。
彼はこの敵に対し、逃げる訳にはいかないと直感的に思った。彼らの存在を、過去の自分と重ねてしまっていたのかもしれない。ここで逃げれば、自分の今までを全て投げ出すことと同じなのではないか、という感覚があった。
戦って、勝たなくてはならない。
サンスがバジャルドに負わせた傷は深い。血は止めどなく溢れて来る。
体勢を崩したバジャルドに対して、サンスは更に次の攻撃のために剣を動かす。サンスのその二つの虹彩の奥に、燃え盛る炎を幻視する。
バジャルドは覚悟を決めた。己の命を賭けて、この二人を倒す、という。
彼は上位魔術の発動に使っていた魔力を絶ち、身体能力強化の方へとその魔力を移動させる。しかしもちろん、例の支援魔術が無ければ、それでもまだ明らかに足りない。
その魔力の不足分を、彼は己の生命力を注ぎ込むことで補おうとする。
全身が軋む。筋肉、関節、そして内臓器官の全てが、一斉に悲鳴を上げる。大声で今直ぐにやめろと叫ぶその本能を押さえつけ、彼は無理矢理に身体能力強化を行う。
下手をすればそのまま死ぬかもしれない、と彼は思う。しかしそれでも、既に魔術壁によって囲まれ、恐らくは退路も完全に絶たれているであろうこの状況では、それしか取れる手段は無い。
最大限に強化をした状態で、バジャルドは勢い良く剣を振るった。
既に彼が力を失っていると考えていたサンスは、突然のそのスピードに対応することができない。
そして、バジャルドの剣先が彼の身体を深く抉る。
「――っ!」
サンスの両目が驚愕に見開く。
バジャルドは全身を駆け巡る苦痛を堪え、歯を食いしばり、更に攻撃を仕掛ける。
その剣撃を、ギリギリのところで体勢を立て直したサンスが受け止めた。
そんな彼に対し、バジャルドは連続攻撃を仕掛ける。自らの命を賭けた、今にもバラバラになりそうな身体を使った、猛攻。
途切れぬ金属音と、煌めく二つの刃。
身体能力をギリギリにまで強化しているバジャルドと、サンスが本気でぶつかり合う。
バジャルドの心臓は、今にも爆発しそうなくらいである。
やがて、全ての生命力をつぎ込み、身体を壊しながらの強烈な一撃が、サンスの体勢を崩した。
(ここだ――っ!)
バジャルドはその隙を突き、一気に敵の首を狙う。が、そこに――。
「燃えてっ!!」
そんな声が飛んだ。
魔族の娘の火炎魔術である。その炎は大きく、かなり近い。この状態から避けることはできない。
彼は身体能力強化につぎ込んでいた力を、無理矢理に魔術耐性の方へと移動させる。その強引な動きにより、彼の中の魔力の流れはぐちゃぐちゃに乱れ、その負荷に彼の口内に血の味が広がった。
必死の思いで魔術耐性を最大にまで発動し、その火炎魔術を無効化する。
しかし、そのような隙をサンスが見逃すはずも無かった。
彼の剣の切っ先が迫る。再び魔力を移動させるような時間も体力ももう残されていない。
(――ここまでか)
そして、サンスの剣がバジャルドの腹部へと突き刺さった。その刀身は、そのまま彼の深くへと差し込まれて行き、やがて、その身体を完全に貫いた。
◇
一度始まってしまった人間と魔族の戦争は、どんどん深みへと嵌っていった。
決着が着かず、長引く戦いの中で、数えきれない程の人間と魔族が死んだ。互いへの怒り、憎しみは際限なく高まっていった。
その負の感情は、捕虜への扱い方に如実に現れた。
非道だと言うことでタブー視されていた、魔族の捕虜を使った魔術研究が行われるようになった。しかしそれは、全体で見ればまだ良い方であった。前線ではより凄惨な、戦争が始まったばかりの頃では考えられないような、非人道的な行為が当たり前のように行われるようになっていた。そしてそれは、人間側だけでは無かった。
かつてバジャルドは、戦いの中、敵の魔族の捕虜となったことがある。彼の背中に『奴隷』という烙印が押されたのは、この時だ。
彼が魔族に拘束されていたのは、僅か三日間。その間に、彼と一緒に捕まっていた戦友達は尽く嬲り殺しにされた。痛みと恐怖に呻き、命乞いをしながら死んでいく仲間達を、ひたすら彼はその目に焼き付けていた。
三日目に、バジャルドは味方によって救出された。一日でも遅れていれば、彼もまた仲間達と同じ様な目にあっていただろう。
そんな敵の捕虜となった経験を経て、彼は、己の中で何かが明確に切り替わったような感覚があった。
どこがどう、と具体的なことは分からない。ただ、脳の奥の方にある、何か根本的な部分の仕組みが、何か別の異質な物に変えられてしまっているのを感じた。そして彼はそれから数年の間、ひたすら最前線にて魔族を殺し続けることになる。
彼が、己の胸中で燃えるその炎の存在を強く自覚したのは、戦争が終わってからであった。
復讐という、強い衝動。彼は、魔族と戦っていない自分が、許せなかった。
一度彼の中に点ってしまったその炎は、戦争が終わろうと関係なく、ただひたすらに燃え続けている。耳を澄ませば、頭の奥ではかつての仲間の悲鳴がずっと響き続けている。
それを止め、炎を消すためには、魔族と戦い続けるしかないと、彼は直感的に理解していた。
途絶えていた意識が、ゆっくりと戻ってくる。いったい何時から気を失っていたのか、バジャルドにはよく分からなかった。
彼は目を覚ましたが、その視界は真っ暗であった。何かで目を塞がれているらしい。それだけではなく、ロープのようなもので手足が完全に拘束されており、彼は身動きが取れないような状態になっていた。
しかし、拘束があろうとなかろうと同じことである。
彼の身体は、全く力が入らなくなっていた。先程無理をしたそのダメージにより、指一本動かすことすら難しい。もう逃げることも戦うこともできない。
(……失敗したのか、俺は)
魔族をこの国から根絶する、という、もともと規模の大きすぎる復讐であった。彼らの妨害があろうとなかろうと、その達成は非常に困難だっただろう。
しかしいざその失敗の瞬間を迎えてみれば、長い戦いの終わりは、余りにも呆気ないものであった。
◇
激しい戦闘により倒れた、部屋にあった大きな棚のようなものに、サンスは腰を降ろしていた。傷だらけになっている彼の身体を、ルフィナが回復魔術で治療していく。
バジャルドに負わされた傷は無数にあり、その幾つかはかなり深い。出血も多いため、ただ立っているだけでもふらつくような状態だった。
(とにかく、最低限動ける程度にまでは回復しよう。その後は、ティナを――)
アグスティナを探しに行かなくてはならない。
何らかの方法でバジャルドの支援魔術を妨害した彼女だが、その前後で何かの危険に巻き込まれている可能性が非常に高い。動けるようになり次第、まずは彼女の安全を確保しに行かなくてはならない。
と、ちょうどそんな事をサンスが考えていたところだった。戦闘により乱れたこの部屋の入り口に、ちらりと動く影があった。
彼がそちらに目をやると、そこには、中の様子を伺うアグスティナの姿があった。
「ティナ!」
思わず大きく名前を呼んだ。目が合う。彼女はほっと安堵の息を吐き、部屋の中へと入ってきた。
「良かった……」
サンスはふらつきながらも立ち上がると、そのままやって来た彼女を抱きしめた。
彼女の体温を感じる。
やがて離れると、アグスティナは言った。
「倒せたのね」
「ティナのお陰だ。何か仕掛けを止めてくれたんだろ?」
「ええ。あなた達程じゃないだろうけど、こっちはこっちでちょっと大変だったわ」
そんなやり取りをする二人に対し、側にいたルフィナが口を開いた。
「ティナさん」
名前を呼ぶその声は強張っていた。緊張と焦り、そして強い渇望のようなものが、彼女の声には篭っていた。
「バジャルドへの尋問を、済ませてくれませんか?」
ルフィナの目的は、バジャルドに復讐することである。彼が拘束されているのを前にしながらも、彼女が何もせず、むしろ本来なら致命傷になる傷を回復魔術により止血したのは、サンス達の目的が彼への尋問であることを理解しているからである。
ルフィナに対し、アグスティナは頷いた。
彼女は拘束されているバジャルドへと近づく。
こちらの声や足音は聞こえているはずなのだが、彼はピクリとも動かない。
ルフィナが軽く治療したものの、彼のその身体は既に瀕死の状態である。このまま放っておけば、一、二時間程度で絶命するだろう。
そんな彼に、アグスティナは言った。
「バジャルド・ベンタイン。あなたに聞きたいことがあるの。答えてくれる?」
「……ああ」
意外にも、真っ直ぐな反応が返ってきた。その声色は、戦いの決着が着く前とは明らかに違っている。
空虚に乾いた、弱々しい声。しかし何故だかそこには、何かからやっとのことで解放されたような、ある種の安堵に似た感情が含まれているように、サンスは感じた。
「まず確認をするけど、あなたはバジャルド・ベンタインで間違いないわよね」
「ああ」
「私とサンスを殺すように部下たちに話したのは、本当?」
「そうだ」
「殺したら賞金が支払われるから?」
「ああ」
尋問でありながら、アグスティナは上位魔術を使わない。というより、使う余地が見つからないのだろう。
力の抜けた声で淡々と返すその様子からは、嘘を吐いているような気配は無い。
彼女は更に続けた。
「私達に賞金をかけた男について、知っていることを教えて」
言うと、一拍の間の後、彼は深く息を吐いた。
「……そうか。お前達の目的は、そっちだったのか」
苦々しく彼は呟き、やがて、答えた。
「俺も、あの男について詳しいことは知らない」
「左肩に魔獣は居た?」
「……ああ。話をしている時、一度、奴の左肩から獣の唸り声が聞こえたことがあった」
「唸り声……」
「聞けば、そこで魔獣を飼っている、と返してきた」
「その男の名前は?」
「明らかに偽名か何かだろうが、一応本人は、ヴァイス、と名乗っていた」
「ヴァイス……」
たとえ偽名であったとしても、何の手がかりも持っていない二人にとっては、重要な情報である。
「今、そいつはどこにいるのか、あるいはどこに向かっているのか、分からない?」
アグスティナは更に質問を続行する。
「……」
暫しの沈黙の後、彼は口を開いた。
「居るかどうかは分からないが、お前達を殺したら、ここに連絡しろという場所なら知っている」
「どこ?」
「グラスポートという港町だ。その町の――」
バジャルドはそこで、細かい住所を告げた。貴重な手がかりとして、サンスとアグスティナの二人はそれを記憶に刻んでいく。
「……これ以上のことは何も知らない。何を目的としているのかもな」
彼はそう言った。
そんな彼に、アグスティナは確認するように尋ねた。
「今喋ってくれたことは、全て本当のこと?」
「ああ」
「ダウト」
彼女はそう宣告する。が、その上位魔術が発動した様子は無かった。
彼がそのヴァイスという男について語ったことは、全てが真実だったということである。
アグスティナは彼の尋問を終えると、見守っていた二人の元へと戻る。
「聞きたいことは、もう全部聞いたわ。だから、ルフィナ――」
彼女に対し、ルフィナは小さく頷いた。
ルフィナは静かな足取りで、拘束されているバジャルドへと近づいていった。
彼の前で立ち止まると、その男をそっと見下ろす。
彼女の顔には、無数の感情が浮かんでいた。怒りや憎しみ、それだけでなく、怯えや恐怖、悲しみ。それらの感情は混ざり合い、彼女の中でどろどろに溶け合っているように見えた。
ルフィナが口を開く。
「今までに、どれだけの魔族を殺しましたか?」
その声は微かに震えていた。
「分からない。数え切れない程だ」
対してバジャルドは、変わらぬ淡々とした口調で告げる。
「あなたが殺した中に、アデラという女の子はいませんでしたか?」
「それも、分からない。一人として名前は覚えていない」
彼女はぎゅっと、両手を強く握りしめる。
「どうして……」
燃えるような熱の篭った声を彼女は吐き出す。
「どうして、こんなことを」
「理由は、お前もよく知っているはずだ」
バジャルドが呟く。数瞬の沈黙の後、ルフィナはぽつりと呟いた。
「復讐」
「……そうだ」
再び、場に沈黙が漂った。黙っている彼女が、その頭の中で何を考えているのかは分からなかった。
驚くほど静かだった。人の気配が全く無い。そういえば、とサンスは、バジャルドの部下達がすっかり姿を消していることに気づく。
恐らくバジャルドは、サンス達と戦う前に、部下達に逃げるように指示していたのだろう。自分が倒されることがあれば、もう他の者が戦いを続行した所で、無駄に死ぬだけだと判断したのだ。
静寂が満ちている。ルフィナは、長く沈黙を続けた。
やがて、彼女は無言で懐から短剣を取り出すと、それを抜いた。そしてその剣先を、バジャルドの胸元へと当てる。彼に抵抗することはできない。
「――」
彼女はそっと口を開いた。何かを言おうとしたのだろう。しかし上手く言葉にすることができなかったのか、彼女は結局、何も言わずまた口を閉じた。
そして、彼女はその手に力を込めた。
短剣が彼へと差し込まれていく。
その刀身は、バジャルドの左胸の、肋骨に護られた隙間を通り、そして、彼の心臓を貫いたようだった。
「…………終わりは……」
ふと、バジャルドは小さな声で呟いた。
「……こんなにも……静かなのか……」
彼の声が、静寂の中を漂った。
ルフィナが彼の胸から短剣を抜くと、どっと一気に血液が溢れた。それは彼の服を赤く染め、やがて床へと広がっていく。彼の命が流れ出していく。
そして、バジャルドは絶命した。
少し前までサンス達と死闘を繰り広げていたその男は、物言わぬ骸となった。彼から溢れ出た血液による血溜まりの中に、ルフィナは一人、佇む。
荘厳なまでの静けさが満ちている。
じっとバジャルドの死体を見つめている彼女の胸中もまた、ひどく静まり返っているのだろうと、サンスは思う。
彼女の中で燃えていた使命感、親友への想い、憤り――既に彼女の一部になりかけていたそれらの強い感情が、どんどん消えていっているのを、彼女の様子からサンスは感じ取った。
部屋の窓から、ふと、一筋の光が差し込んできた。
朝日であった。
夜明けにより姿を見せた太陽が、昨晩の戦いで傷だらけになったこの場所を、その光で照らしていく。
この、何もかもが死に絶えたような、透明で、残酷な深い沈黙。恐らくはこれこそが、復讐を願う自分達が求めているものなのだろうと、サンスは理解した。