第三話
夜の町に雨が降っていた。どこか遠くから聞こえてきていた、酒でも飲んで騒いでいるであろう人々の声が、その雨音によってかき消されていく。
サンスが宿を出てから、既にかなりの時間が経過していた。深夜から更に時は進み、もう夜明けも近づいてきている。
アグスティナとルフィナの二人は、部屋でじっと、彼が戻ってくるのを待っていた。
彼の無事を祈りながらも、ただ待つことしかできない二人は、ぽつぽつと取り留めのない会話をする。
「その、聞いてもいいですか?」
ルフィナが言った。
「どうぞ」
「ティナさんとサンスさんは、その……やっぱり、二人はそういう関係なんですか?」
「え?」
「だからその、夫婦だとか、恋人だとか、そういう……」
見れば、ルフィナの表情はどこか恥ずかしげな様子であった。
年頃の少女として、そういう事はやはり気になるのだろうか――と、自身もまた年頃の少女でありながら、アグスティナは他人事のように思う。
「別に、そういうのじゃないわ」
彼女は勿体ぶることも無く、淡々と告げた。
「言ったでしょう? 私はこう見えて、それなりに由緒ある貴族の娘なんだって。サンスは私の護衛よ。小さい頃から、ずっと」
言いながら、彼女は彼のことを考える。
彼女にとって、同年代の親しい知り合いは彼だけであった。まだ落ち着きのなかった子供の頃は、彼と一緒によく屋敷を抜け出し、森を探検したこともあった。主従という関係を意識したことはほとんど無い。彼は護衛である以上に、大切な友人であった。
恋愛という概念について、彼女は書籍でしか知らない。いずれ自分は、両親の決めた然るべき相手と結婚するだろうと想像していた彼女は、自分がその恋愛をするなどということは、そもそも考えたことさえ無かった。
「でも、そういう男女のそれとは違うけれど、サンスのことはとても大切よ。それに、すごく信頼してる」
物心ついた頃から側に居た彼の存在は、彼女にとって、なかば己の半身のようなものだという感覚がある。そしてそれは恐らく自分だけのものではなく、彼の方もまた同じように感じているのではないかと、彼女は思う。
「……なるほど。なんだか羨ましいですね。そういう関係は」
「そうかしら?」
などと惚けた返しをしながらも、彼女は内心で頷いていた。彼のように、自分と同じくらい――あるいはそれ以上に信頼できる相手が側にいることにより、自分は今までどれだけ助けられてきたのだろうか。
「でも、大切なら尚の事心配ですよね。今、サンスさんが危険な目に遭ってないか……」
「いえ、心配は余りしてないわ」
「え?」
「サンスの強さは、よく知ってるもの。偵察に行って、何か想定外の事が起きたとしても、きっと何の問題もなく帰ってくるわ」
それに、と彼女は声に出さず心の中で続けた。
(仮に――仮にサンスが何者かに負け、殺されるなんてことがあったとしたら――その時点で、私達の負けは確定する。サンスを倒すことのできるような相手に、私達二人がその後何をしようと、もう勝ち目は無い)
己にとって最大の強みは、サンスという護衛が側に居てくれることだと、アグスティナは思っていた。彼女は強力な上位魔術を持ってはいるが、それは一人で戦い抜けるようなものではない。彼という戦力が無くては、彼女にはまともに戦うことができないのだ。
そして彼女は、彼が死んだからと言って戦いを辞められるような性格ではない。彼女は復讐のために戦い続け、そして、当たり前のように死ぬだろう。
つまるところ、彼女にとって、彼の死は己の死とほとんど直結している。だからこそ、彼の敗北を心配する必要もない。心配した所で無意味なのである。
「本当に、サンスさんのことを信頼しているんですね。……でも、夫婦でも恋人でも無いとしたら、えっと、その……」
「何?」
「い、一緒の部屋で寝起きしても、大丈夫なんですか?」
ルフィナの頬は妙に赤くなっている。一体何を想像しているのだろうか。
「だから、さっきから言ってるように、そういうのじゃ無いのよ。それに私達は、昔からよく一緒の部屋で寝ることも多かったから。今更ね」
「――え?」
アグスティナの発言に、ルフィナは信じられないといった様子で目を見開いた。その表情の真剣さに、アグスティナは思わず怯む。
「昔から、よく一緒の部屋で?」
「そ、そうだけど、何か問題が?」
その妙な剣幕に気圧されながら彼女は尋ねる。すると――。
「――ありますよ! 問題!」
「こ、声が大きいわ。こんな近くで叫ばないで」
「だって、一緒の部屋で寝てたら……赤ちゃんが!」
「……は?」
「赤ちゃんが、できちゃうじゃないですか!」
至って真面目な様子で、ルフィナが言った。ぽかんとするアグスティナに対し、彼女は更にまくし立てる。
「私だってもう子供じゃないんです。知ってますよ! 男女が一緒の部屋で寝起きしていたら、妊娠しちゃうってことくらい」
「……」
アグスティナは絶句する。しかし冗談を言っている様子ではない。
また、寝起きするという言葉に、それ以上の何か別の意味を含ませているような気配も無い。
(この子、本気で言ってるんだ……)
そもそもルフィナは、失踪した親友のために、単身で人間の国に乗り込んでくるような少女である。その行動の是非はさて置き、あまり賢く冷静な判断とは言い難い。その立ち振舞や話し方こそ落ち着いてはいるものの、その性格はひどく直情的なものである。
だからこそ、恐らくは小さい頃に誰かから聞かされたであろうその言葉を、ずっと疑わずに信じ続けてきてしまったのだろう。
「……別に、その、男女が同じ部屋で寝ただけで妊娠するっていう事実は、無いわ」
「え?」
「だって、そもそも考えてもみなさい。病気や怪我で倒れて運ばれた時だとか、うっかりうたた寝してしまった時だとか……それで妊娠してたら、とんでもない事になるわよ」
「…………まぁ、言われてみれば、そうかもしれませんが」
未だ腑に落ちないといった様子で、彼女は呟く。
アグスティナは小さくため息をついて言った。
「ルフィナ。あなたって結構、印象と違って……その……個性的なのね」
「あ、今もしかして、馬鹿って言いたくて言葉を選びました? 分かりますよ、それ。よく言われますから」
「馬鹿のくせに鋭いわね」
「あっ、だからってそんなはっきり言わないでくださいよ!」
アグスティナの発言にそう憤った後、落ち着いたルフィナは、言った。
「でも、一緒の部屋で寝るだけで妊娠しないとしたら、どうすれば赤ちゃんはできるんですか?」
「――――」
アグスティナは頭を抱えたくなった。
経験こそ無いが、その行為については、一応知識としては知っている。しかし、それをどう伝えれば良いというのか。
小さな子供が相手であれば、適当に誤魔化すこともできる。恐らくはルフィナも小さい頃に誰かに尋ね、そうして誤魔化されてしまったのだろう。しかし、それをまた繰り返すわけにもいかない。
(何で私が、こんなことで悩まないといけないのよ……)
やがて、アグスティナは深く息を吐いた。適当な事を言って煙に巻くわけにもいかないとすれば、自分の知っていることを全て、そのまま話すしかない。
彼女は、妊娠するために必要なその行為について説明する覚悟を決め、口を開き――そこで、人の足音が聞こえた。
ぴんと神経を張り詰めさせる。外からの雨音に紛れながら、誰かの移動する音が聞こえてくる。
その足音はこの部屋へと近づき、やがて、その扉がノックされた。
「……俺だ。戻ったぞ」
それはサンスの声だった。しかしその声は掠れ、疲れ切った様子が扉越しに伝わってくる。
アグスティナは扉へと向かい、鍵を開けた。
「っ」
彼女は息を飲んだ。
そこに立っていたサンスは、満身創痍と言えるような状態であった。身体中が血の赤に染まっており、その足元は少しふらついている。むわっと、濃厚な血の匂いが彼女の鼻孔を刺激した。
◇
「――ルフィナっ」
「はい。治療をします。ベッドの方へ!」
傷ついた身体を引きずり、ようやくのことで部屋に辿り着いたサンスの元に、すぐにアグスティナが駆け寄ってきた。
彼女は彼に寄り添い、身体を支えながらベッドへと誘導する。
(温かい……)
間近にアグスティナの気配を感じた。多量の血液を失い、身体が冷え始めている彼にとって、その体温はむしろ熱いくらいであった。
彼がベッドに横になると、服に染み込んでいた血液がシーツを赤く汚していった。
すぐ側にやって来たルフィナが、彼の身体に向かって、そっと両手をかざす。
「楽にして下さいね……」
そして彼女は目を閉じ、静かに回復魔術の行使を始めた。彼の全身が、すうっと白い光に包まれる。
ふわりと、身体が浮いたかのような錯覚を彼は抱いた。全身が柔らかい羽毛に包まれているような心地よさを感じる。
身体中の痛みが、ゆっくりと引いていく。彼女の細やかな魔力が、彼の身体の無数の傷口から中へと入り、内側から修復をしていくのが分かる。
「すごいな……」
彼は思わず感嘆の息を漏らした。
回復魔術が得意であるとは聞いていたが、いざ実際に受けてみれば、その精度の高さに驚かずにはいられない。
「……すごいのは、サンスさんのほうですよ」
治療を続けながら、ルフィナは言った。
「こんなに滑らかに、抵抗なく、私の魔力が浸透していくなんて……普通じゃありえないですよ。本当に、とんでもないです」
彼女の声には、ただの驚きだけではなく、微かに怯えの色も含まれていた。
しかし直ぐに気を取り直すと、彼女は続けた。
「この調子なら……そうですね、完治するのに一時間もかからないと思います」
「ああ……。ありがとう」
彼は彼女にそう礼を言う。
先程から少し離れてルフィナの処置を見守っていたアグスティナが、すっと彼の側へと近づいた。二人の目が合う。
彼女は静かに、上半身を前に傾けた。身体を屈める彼女の顔と、彼の顔が近づく。彼女の艷やかな髪が、さらさらと流れた。その温かい吐息が彼の頬を撫でる。
そのまま彼女は、彼の頬に己の頬でぴたりと触れた。
彼女の熱い体温と共に、どくんどくんという脈動が伝わってくる。彼女の生の気配を、強く感じる。
触れている頬から、彼女の彼に対する親愛の感情が流れ込んでくる。森で敵と戦闘になってから、ずっと張り詰めていた彼の精神が、ゆるりと解けていく。
少しの間、そうして頬と頬を触れ合わせた後、彼女の顔はゆっくりと離れていった。
「何があったかは分からないけど、とにかく、無事に戻ってきてくれてありがとう」
「……どういたしまして」
少しおどけたような様子で、サンスは返した。彼女は柔らかく微笑む。
「細かい話は後で聞くわ。とりあえず、しっかり休んで。お疲れ様」
気が緩んだことにより、身体中に蓄積していた疲労が、一気にどっと溢れてくる。
彼は目を閉じた。
ルフィナの回復魔術の心地よさもあり、彼の意識はそのまま、深い眠りへと沈んでいった。
◇
夜明けと共に、雨は止んだ。分厚い雲の隙間から、朝日が差し込んできている。
雨に濡れたその広い森には、朝の静謐な気配が漂っていた。
一人の男が、窓ごしにその森を眺めていた。
普段は穏やかで殆ど変化を感じないその景色だが、今はあちこちで小さく煙が立っている。つい先程鎮火されたばかりの、火事の名残であった。
その男の髪には、うっすらと白髪が混じり始めている。彫りの深い顔には、険しい表情が浮かんでいる。頬には戦場で受けた鋭い傷が刻まれており、それは彼の威圧感を否応なく高めていた。
大木のように固く、重たい印象の男である。彼の年齢は三十代後半であったが、その印象の厳しさから、年上に見られることが多かった。
彼の名前はバジャルド・ベンタイン。かつての魔族との戦争を経験し、その戦いが終結した今でも、魔族をこの国から根絶するために活動をしている男である。
(フリーダが、死んだ――)
立ち上る幾つかの煙を見つめながら、バジャルドは部下からの報告を頭の中で反芻する。
夜中に森で鳴った銃声は、彼の耳にまで届いていた。しかしその段階では、彼は特に気にも止めなかった。たまに、道に迷った商人や山賊が森に足を踏み入れてくるのだ。夜間に見張りをしているフリーダが、それを銃を使って追い払う、というのは珍しいことでは無かった。
が、その銃声は、鳴り止むことなく長く続いた。戦闘が長引きすぎていることに対し不審に思ったバジャルドの元に、森で火事が発生しているという報告が入った。彼は直ぐに、詳細の確認と消火活動を部下に命じた。
そして次に部下から届いた報告は、フリーダの死体を発見した、というものだった。その損傷は激しく、自爆したのだろうと推測されている。
(何者だ……?)
フリーダは何者かと戦闘を始め、それに敗北し、死んだ。彼女のあの銃撃を突破し、逆に追い詰め、そして自爆による攻撃を受けながらも、敵はその場から立ち去っている。並大抵の相手ではないことは間違いなかった。
その敵の正体について、彼の頭を最初によぎったのは、一昨日にモイセスから報告があった例の少年少女についてである。賞金のかかったその二人を発見し、片方には上位魔術を行使した――その報告以降、彼は姿を現していない。
そもそもが得体の知れない奇妙な男から持ちかけられた話である。その賞金はかなり高額であるため、一見すると何の変哲もないただの少年少女であったとしても、その見た目通りということはありえない。そのことについてはモイセスも理解していたはずであり、決して油断せずに最善を尽くしただろうと、バジャルドは思う。しかし――。
(既に、殺されている可能性が、高いな)
何の報告も無いというのは、流石に不自然である。仮に殺されていなかったとしても、何らかの形で無力化されているのだろう。
そして恐らく、その二人組は彼に攻撃されたことにより、自分達が何らかの組織に命を狙われていることに気がついた。そして、報復のためか、あるいは何か別の理由があるのか、その二人はこちらの正体を探り、森にまでやって来た。
そう考えれば、辻褄が合う。少なくとも、モイセスやフリーダのような上位魔術行使者を撃破することのできる人間が、それぞれ別に同時に現れたと考えるよりも、よほど現実的である。
バジャルド率いるこの組織が主に行っている活動は、魔術の研究である。
魔族はとにかく魔術的素養が高く、強力な魔術を使う。だからこそ圧倒的な数の差がありながらも、人間は魔族との戦争に最後まで苦しめられてきた。
だとすれば、こちらも同程度の魔術を使えるようになれば、戦いに勝つこともできるのではないか――そんな発想は、魔族との戦時中から既に軍の中には存在していた。
もちろんそれは現実的な考えではないため、実際の戦いでは基本的に、敵の魔術をできるだけ妨害するという方向の作戦が採用されていた。
しかし、その発想に基づく魔術の研究は、確かに行われていたのだ。
バジャルドは魔族を捕らえ、魔術研究の材料として扱っているが、これは当時の軍でも行われていたことである。しかし戦争が終結し、魔族と共存するという世論が大きくなり始め、それが公になることを恐れた国は、それらの研究成果の多くを破棄、あるいは厳重に隠して保管することにしたのだ。
バジャルドは、当時の研究の記録を無理をして手に入れ、それを元にして己の魔術研究を始めた。そしてその研究は、実際にかなりの成果を上げていると言える。
しかし、研究が進んだ今でも、上位魔術を使える者は殆ど居ない。下位魔術とは違い、上位魔術は元々の個人の素質のようなものに大きく左右される。魔術的素養の高い魔族の中でも、使える者と使えない者がいるくらいなのだから、それも当然である。
そんな上位魔術を使うことのできるモイセスとフリーダの二人は、バジャルド一派にとって、かなり重要な戦力であった。
(……厄介な相手に、手を出してしまったな)
資金欲しさに迂闊なことをしてしまったと、彼は後悔する。
(このまま、フリーダとの戦闘に懲りて去ってくれればいい。……ただ、もしまた、この拠点にやって来たとしたら……)
敵の目的は分からない。もし、こちらと真っ向から戦おうという意思を持っているのだとすれば、大変なことになる。
(とにかく、見張りを強化するしかない。……この敵を相手に、どれほどの意味があるかは分からないが)
そう考えるバジャルドの背中の一部が、ふと唐突に、ずきりと痛んだ。
彼は後ろに手をやり、服の上からその箇所をそっと押さえる。鈍く脈動を繰り返している。燃えるような熱さが、服越しに手の平にまで伝わってくるようであった。
「……困っている俺を、嘲笑っているのか?」
乾いた声で、彼は呟く。彼の声には、強い怒りと恨みが籠もっている。
彼は軍に所属していた頃から今日に至るまで、毎日のトレーニングを欠かしたことが無い。訓練により激しく身体を動かせば、当然、全身から汗をかく。しかしどれだけ汗で濡れたとしても、彼は誰かの前で服を脱ぐことはしなかった。
彼は背中のある一点に、決して、人に見せたくないものがあった。
烙印である。
時折こうして、熱く鈍く痛み出す。傷自体はとうに治ってしまっているというのに、そこを焼かれた時の感覚は、今でも刻まれているのだ。
その烙印の紋様は、魔族が古くから使っている文字であった。その意味は、奴隷、である。
◇
森での戦闘により疲労の溜まっていたサンスは、そのまま昼近くになるまでベッドの上で眠り続けた。
彼が戦いで受けた傷は、ルフィナの治療により、その全てが完全に回復していた。目を覚ました彼は傷のあった場所を確認したが、そこには跡さえ全く残ってはいなかった。彼女の回復魔術の凄まじさを、彼は強く実感する。
それからサンスは、アグスティナとルフィナの二人に、森で何があったのかを説明した。
やがて彼が話し終えると、アグスティナが口を開いた。
「……上位魔術を使う狙撃手の死と、大きな火事……。間違いなく、バジャルド一派はこれで警戒するわね」
「悪い。俺が見つかったばかりに……」
「何を言ってるの。敵を撃破できたのはあなただからよ。私だったらきっと初弾で死んでいるわ」
冗談交じりに彼女は言う。
「でも、敵が警戒を強めるとなると……難しくなりますね」
ルフィナが呟いた。
彼女の言う通りであった。敵がこちらの存在に気づいていない状態であれば、拠点にこっそり忍び込むことや、あるいは敵をどこか別の場所に誘い出す、というような作戦を立てることもできたかもしれない。しかし敵がこちらを警戒し始めてしまった以上、そうした策を練る余地は一気に狭くなる。
「あなたの見立てが正しければ、敵の規模は大体四十人から五十人……。仮にこの全員が、特に何の魔術的な力も無い普通の人間であったならば、問題は無いわよね」
「その場合なら、俺一人でも大丈夫だ」
「だとすれば、ここで重要になるのは、敵の魔術の研究がどの程度進んでいるのか、ということ……」
そもそも魔術を使わない敵であれば、彼の身体能力によって力づくで斬り伏せることができる。そして少々下位魔術が使える程度の敵であったとしても、彼はその魔術耐性により、簡単に無力化することができるだろう。
問題は、上位魔術を使うことのできる敵がどれだけいるのか、ということである。昨晩の森での戦闘を思い返すまでもなく、上位魔術行使者と戦闘になった場合、状況によって非常に苦しい戦いを強いられることになる。
暫し考えた末、アグスティナは言った。
「楽観的な予想ではあるけれど、上位魔術を使える人間は、バジャルド一派の中でも本当に一握りしか居ないと思うわ」
「ああ。俺もそう思う」
「えっと、それは何故ですか?」
二人の会話に、ルフィナが口を挟んで質問する。
アグスティナが説明を始めた。
「そもそも前提として、人間にはとにかく魔術的な素養が無いのよ。基本的に下位魔術であったとしても、それを行使するには魔術具が必要不可欠。そして何とか魔術に成功したとしても、半分くらいの人はせいぜい、タバコに火をつける程度しかできない」
ちなみに魔族の場合、その大部分が魔術具など無くとも下位魔術を行使することができる。魔術具はそれをさらに強化するためにあるのであって、行使に必要不可欠な道具というわけではない。根本的に、二つの種族の魔術的素養の差はそれほど大きいのである。
「上位魔術となれば、そもそも使うことのできる人間なんてほんの僅かしかいない。そしてその運の良い僅かな人間は、殆どが生まれつき使うことができるのよ。……今まで素質の無かった人間が、研究や何かで急に使えるようになるなんていうのは、基本的にはありえないわ」
ちなみにアグスティナが上位魔術を使うことができるのは、バーウィック家の血を受け継いでいるのが理由である。もちろん全てではないが、古くから続いている名家の中には、その血脈に魔術的な何かが宿っていることもある。
ごく稀に、何か特殊な加護や呪いを受け、後天的に魔術的な素質がぐっと上がるケースもある。が、やはりそれは非常に珍しい事例である。
「例えば彼らが、研究の中で見つけた何らかの法則に従い、強引に上位魔術を会得する方法を編み出したとする。……それでも十中八九、誰でも会得できるなんてことはありえないわ。生まれ持っての素質や適正というものが、絶対的に必要になる」
「……なるほど。分かりました。中断してごめんなさい」
ルフィナが言った。
魔族である彼女にしてみれば、上位魔術を使える者はそこまで珍しくも無いのかもしれない。ただそうであったとしても、生まれ持っての素養が必要になる、という点においては人間と変わらない。
「上位魔術を使える敵は、せいぜい後一人か二人。多くて三人くらいだと思うけれど……どうかしら?」
「俺もそれくらいだと思う」
「だとすれば、変に作戦を立てる必要も無いと思うわ。正面から直接、拠点に乗り込みましょう」
アグスティナは言った。
「三人で乗り込んで、敵を撃破しつつバジャルドを探し、見つけ出して捕獲する。上位魔術を使う強敵に遭遇した場合は、状況に応じて適宜対処する……。細かいところは考えないといけないけれど、基本的にはこれで良いと思うわ」
「……ああ。俺もそれで構わない」
「私も異論はありません」
「じゃあ、決まりね。問題は何時にするかだけど……サンス、身体の調子はどう?」
「ルフィナのおかげで万全だ。何時でも動ける」
「だったら早いほうが良いわね。今晩、行きましょう」
今晩、と聞いたルフィナの喉が、ごくりと鳴った。
「細かい動きについては、今から考えておきましょう。……とはいえ殆どが、サンスに頼った力技になるでしょうけど」
実際の動きの詳細や、敵に遭遇した時の行動などについて、三人は話し合った。その後、彼らはそれぞれ仮眠を取った。
日没から少し経って、三人は起床した。軽い食事を摂った後、各々戦いに備えて準備を始める。
サンスは部屋の中で、柔軟運動をしていた。
「……本当に、すごいな……」
身体を伸ばしながら、彼は小さくぼやく。
「身体の調子のこと?」
「ああ。ただ治るどころか、前よりも調子が良くなっている」
気づいていなかっただけで、身体のあちこちに小さなダメージが蓄積していたのだろう。それらがまとめて解消されたことにより、彼の身体は驚く程軽くなっていた。
全身の柔軟を終えた彼は、そっと己の剣を手に取った。部屋の中で振り回すことはできないが、軽く動かし、様子を見ていく。
彼が今まで使っていた剣は、昨日の森での戦闘で破損してしまった。そのため、昼に一度大市場に向かい、代わりとなるものを探して来たのである。
(ちょっと、前よりも重いかな……。でも、その分丈夫そうだ)
人よりも力の強い彼にとって、武器に最も求めているのはその頑丈さである。彼は剣の状態を確認し、満足気に頷いた。
彼がそうして身体や剣を動かしている間、アグスティナはじっと窓から外を眺めていた。空は昨晩とは違い、晴れている。月と無数の星々の光が、夜の闇の中に散らばっていた。
彼女は夜の町を何気なく見つめながら、腕を組んだ状態で、指で軽くトントンと自らの二の腕を叩いている。それは彼女が何か思索に耽っている時の癖であった。恐らくはその頭の中で、敵の拠点に突入する前後の状況について、色々と想像を巡らせているのだろう、とサンスは思う。
やがて、出発を予定していた時間になった。
二人の居る部屋の扉が、廊下側からノックされた。サンスが扉を開けると、そこにはルフィナがいた。
「準備はできた?」
「はい。大丈夫です」
アグスティナの問いに、彼女は頷いた。彼女のしなやかな左手には、五本の指一つ一つに指輪が装着されていた。それぞれ複雑な魔術刻印が施されている。その全てが魔術具なのだろう。
彼女の顔には、幾らかの怯えと緊張が浮かんでいる。しかしその表情の中に、僅かばかりの喜びめいた感情が潜んでいるのを、サンスは見て取る。それは間違いなく、これから戦いに向かう覚悟を決めた者の顔であった。
「それじゃあ、行きましょう」
アグスティナが静かな声で、言った。
夜の町を三人が歩いていく。昨晩と同じように、酒を飲み、騒ぐ人々の声がどこか遠くから聞こえてくる。それとは対象的に、部屋を出てからの三人は各々口を閉ざし、言葉を交わすことは殆どなかった。
彼らは町を東口から出ると、敵に発見されることを警戒し、少し道を外れた位置を歩いていく。
暫く進み、例の森に近づいてきたところで、先頭を歩いていたサンスが立ち止まった。後ろの二人も同じように足を止める。
サンスがそっと腰を下げて身体を沈めると、二人もそれに倣った。
(誰か、いるな……)
昨晩通った時には人の気配が無かったはずの場所に、不自然に人が立っていた。
(それも三人……。全員、武器を持ってる)
昨日の今日である。考えるまでもなく、バジャルド一派の人間だろう。こちらの再来に備え、見張りを立てているのだ。
(もし気づかれて、仲間を呼ばれでもしたら厄介だ。できるだけ静かに、そっと、仕留めよう)
サンスは二人に手で合図をすると、一人、草木に身を隠しながら移動を始める。
気配を殺したまま、彼はゆっくりとその三人へと近づいていく。
見張りである以上、遠くの仲間に危機を知らせる手段を何か持っている可能性が高い。それは例えば笛であったり、あるいは爆竹のようなものであるかもしれない。三人のうちの一人でもそれを使ってしまえば、こちらの存在に気づかれてしまう。そうした隙を与える間もなく、一気に終わらせなくてはならない
やがて、彼はその三人組のすぐ側にまで接近した。彼は心を落ち着けるため、音も無く深く一呼吸すると――。
「――っ」
そのまま一気に木陰から飛び出した。と同時に、最も近くに居た敵を一人、既に抜いていた剣により即座に斬り伏せる。
「なっ……」
こちらの攻撃に驚き、動こうとしたもう一人の首元を、彼の返す刃が素早く駆け抜ける。薄暗闇の中、彼の鮮血がばっと飛び散った。
その二人の絶命を見ていた最後の一人が、己の腰元へと手を伸ばし、何かの道具を取ろうとしていた。
サンスは勢い良く、その男の手に向けて剣を滑らせる。呻き声と共に、彼の手首から先が跳んだ。
思わずその手の切断面をかばおうとする男の首に、彼はそのまま剣を振り下ろす。
月と星の光のみが届く薄暗い森の入り口に、あっという間に三つの骸が転がった。
彼は更に他の敵が居ないかと辺りを探るが、一先ずは誰の気配も無いようである。
彼は一度引き返し、待機していた二人を連れて戻る。
「……やっぱり、バジャルドは警戒しているみたいですね」
彼らの遺体を見つめながら、ルフィナが呟く。
「でも、見た限りだと、何か特殊な魔術を使おうとした様子も無いわね」
「そうだな。やっぱり上位魔術を行使できるのは本当にごく少数だけ、ということなんだろう。……この程度の敵ならば、いくら相手にしても問題は無い」
剣に付着した敵の血液を払いながら、彼が言う。
「警備がこの三人だけ、ということは無いはずだ。恐らくは森の中にもいる。……次に遭遇しても、また同じように俺が動く。行こう」
サンスの言葉に、アグスティナとルフィナの二人が頷く。
そして彼らは、森の中へと足を踏み入れていった。
夜の森の中を、三人はできるだけ気配を殺して進んでいく。
先頭を行くのがサンスであり、アグスティナ、ルフィナと続く。一番後ろを歩いているルフィナは、三人を護るように簡単な魔術壁を展開していた。
昨晩の戦闘でも問題になったが、サンスの鋭敏な感覚を持ってしても、遠距離からの狙撃を事前に察知することは難しい。もし彼一人だけであれば、撃たれた所でそう簡単にやられることも無いだろうが、残りの二人はそういうわけにもいかない。
これに対し、アグスティナの提案により、ルフィナが薄い魔術壁を展開して三人を護るということになった。移動しながら長時間使用するというその都合上、壁はそこまで頑丈なものではない。が、敵からの攻撃の最初の一発を防ぐことはできる。少なくとも、奇襲を受けて気づいた時にはもう絶命している――という状況だけは避けることができるのだ。
今の所、そういった遠距離からの攻撃は無い。もしかすると、優秀な狙撃手が撃破されたことにより、遠くからの狙撃は避けるべきだと敵は考えているのかもしれない。
しかし、狙撃による攻撃こそないものの、三人は森に入ってから既に敵と三回遭遇していた。
その度にサンスは、いち早くその気配に気が付き、一人で忍び寄り、素早く無力化していた。今の所、彼はその全てを仲間を呼ばれる前に終わらせることに成功していた。
そうして敵を撃破しながら進んでいくと、やがて、遠くに敵の拠点が見えてくる。そこに灯されている明かりの数は、昨晩サンスが来た時よりも明らかに多くなっている。それだけ警戒しているということなのだろう。
それを確認すると同時に、彼はまたしても敵の気配を察知した。今まで遭遇してきた他の警備と同様、三人一組で行動している。そっと剣を抜く彼の肩を、アグスティナが後ろから静かに叩いた。
「一人、何とか確保できないかしら」
「……分かった。やってみる」
小声でそうやり取りを済ませると、彼は例の如く、足音を殺して敵へと忍び寄っていく。
「――」
接近し、一人目を斬る。それに気づいた二人目が抜剣しようとするが、サンスの剣速には敵わない。
そして残る三人目に、彼は一気に距離を詰めた。武器か何かを取ろうと伸ばしたその手に向かって、彼は素早く刃を走らせる。
「うぁっ……!」
斬られた痛みに呻いた敵へと手を伸ばし、サンスはそのまま一気に地面に引きずり下ろした。
うつ伏せにして上からのしかかり、身動きができないように押さえつける。そのまま彼は敵の口を手で塞いだ。
「んぐっ――んんっ!」
「声を出すな」
もがいて暴れる彼であったが、サンスがその首筋に刃を当てると、その動きは止まった。
戦闘が終わったことを確認したアグスティナとルフィナが、敵を確保したサンスの元へとやって来る。
彼に押さえつけられている男の側に、アグスティナがしゃがみ込んだ。
「これから私のする質問に答えなさい。助けを呼ぼうとしたり、関係のないことを口にした場合、すぐに首を斬るわ。分かったら頷いて」
男は首を縦に振る。
彼はそっと男の口から手を離した。
「はぁ……はぁ……」
「一つ目の質問よ。まず、あなたはバジャルド・ベンタインの配下の人間ということで間違いないかしら?」
アグスティナが尋ねると、彼は首を横に振った。
「違う。そんな名前、俺は聞いたことも無――」
「ダウト」
否定する彼の言葉を遮るように、彼女はそう宣告した。
わざわざ考えるまでもなく、明らかに嘘であった。
彼女に嘘を指摘された男の身体から、すうっと抵抗する力が抜けた。彼女の上位魔術が成功したことを確認すると、サンスは男から身体を離す。
「私の質問に、全て正直に答えなさい」
「はい」
彼女の命令に、男は従順に頷く。サンスからの拘束は解かれているにも関わらず、逃げようとする素振りは一切無い。
「まず、バジャルドは今、あの拠点の中にいるの?」
「はい」
「建物のどの辺りに居るのか、具体的に行き方を教えて頂戴」
「分かりました。まず、正面入口から入って、真っ直ぐに――」
そうして彼は、バジャルドの部屋が建物のどこにあるのか、細かな説明を始めた。三人はそれに耳を傾け、記憶に刻んでいく。
やがて、バジャルドの居場所を話し終えた彼に、アグスティナはある物を取り出し、渡した。それは予め用意しておいた、爆薬であった。
「あなたはこれを使って、拠点の反対側で爆発を起こしなさい。その後、警備の人間をできるだけ引きつけつつ陽動し……そして、私の魔術の効果が切れる前に、自害しなさい」
彼女は淡々とした口調でそう告げる。自らの所属している組織を、真っ向から裏切るような命令である。しかし、もちろん――。
「――分かりました」
彼は一切の抵抗なく、それを了承した。
アグスティナの上位魔術は、人間の意志や尊厳を尽く踏みにじる。
彼は彼女から受け取った爆薬を抱え、拠点の方へと向かっていく。
サンスはちらりとアグスティナの横顔を伺った。彼女は去っていく男の背をじっと見つめている。ひどく残酷な命令をした彼女が、その胸中で何を思っているのか、彼に読み取ることはできなかった。
深夜の森の静寂を、爆発音が引き裂いた。
木々の枝に止まっていた無数の鳥が、一斉に羽ばたき逃げていく。
それから直ぐに、拠点の中から武装した敵が出て来た。彼らは爆発音の正体を確認するため、建物の反対側へと向かっていく。三人はその様子を木陰から眺めていた。
暫くその状況を伺った後、タイミングを見計らったサンスが動き出した。アグスティナとルフィナの二人も、それに続く。
拠点の入り口には、三人の見張りが立っていた。
しかし既に言うまでもなく、彼らはサンスにとって障害にはならない。今まで森の中で遭遇した者達と同じように、瞬く間に彼らを無力化していく。
そして、三人は入口から建物の中へと足を踏み入れた。
慌ただしい足音と、喧騒が聞こえてくる。そんな中、サンス達は先程男から聞き出した道順を思い返しながら、迷うこと無く進んでいく。
「なっ――」
通路を曲がると、そこで一人の男と遭遇した。サンスは焦ること無く、それを一太刀の元に斬り捨てる。
が。
「侵入者! 侵入者だ! 中に入られているぞ!」
誰かが大きく叫ぶ声が聞こえた。しかし、ここまで侵入してしまえばもはや関係ない。彼らはひたすらに駆けていく。
遭遇する敵を、サンスはその剣で次々と骸に変えていく。
「このぉっ!」
一人の男が、サンスではなく後ろの二人へと襲いかかった。しかし、大きく振るわれたその剣は、ルフィナの魔術壁によって阻まれる。攻撃を止められ焦る男に向かって、ルフィナは左手をかざした。
「燃えて!」
五本の指に装着されている指輪のうちの一つが、白く緩やかに発光する。そして。
「うっ、うわぁああっ!!」
その男の身体は激しく燃え上がった。火を消そうとばたばたともがくが、彼女の魔力により作られたその炎は簡単には消えない。恐らく消える頃にはもう、男は絶命しているだろう。
敵を蹴散らしながら、三人は進んでいく。
やがて彼らは、目的とするバジャルドの部屋の前に到着した。彼らはそのまま、勢い良く扉を開けて中へと踏み込む。
サンスは素早く視線を走らせる。
部屋の奥に、一人の男が立っていた。
目が合う。男のその視線から、サンスは強烈な渇きと焦燥を感じた。彼の背筋がぞくりと震える。
(こいつは、危険だ――)
その男の気配は、ここに来るまでに斬ってきた他の者達とは明らかに違う。間違いなく、この男こそがバジャルド・ベンタインなのだと、彼は確信する。
サンスは床を蹴った。駆けながら剣を振り上げ、そのまま斬りかかる。
彼の刃が光を反射し、白銀に煌めく。一切手加減の無い、彼自身の身体能力を最大限に活かした、速攻の一撃。
その刃は真っ直ぐに男へと向かう。が、それは男の抜いた剣により、真っ向から受け止められていた。
大きな金属音が弾ける。サンスの目が驚愕に見開かれた。本気の速度で振るった剣が、こうもあっさり防がれたのは、彼にとって初めての経験であった。
しかし驚いたのは彼の方だけではない。その速く重たいサンスの攻撃に対し、男もまたその目をぐっと鋭くさせる。
「――っ」
サンスはそのまま、畳み掛けるように攻撃を仕掛けた。二回、三回、四回と、二人の間で剣と剣が激しくぶつかり合う。彼の剣撃を、男は的確に捌いていく。
その連続攻撃を終えると、サンスは一度引いて、男から距離を取った。
彼の頬を、緊張の汗が伝う。
(こいつ……俺の動きに、完全について来ている……っ)
彼の身体能力は、今更言うまでもなく常人離れしたものである。通常であれば、彼がいきなり攻撃を仕掛けた場合、相手は剣を抜くことさえできないはずである。しかしこの男は、彼の動きを見てから抜剣し、そして見事にその剣撃を受け止めてみせたのだ。
「――なるほど。モイセスやフリーダが、どうしてやられたのかと思っていたが、こういうことか」
男は呟く。
「まさか、俺と同じ程度にまで身体能力を強化している人間が、他にもいるとはな」
「……」
それはこっちのセリフだと、サンスは内心で返す。
サンスと同程度の強化となれば、普通の人間がやろうと思って簡単にできるようなことではない。仮に強引に身体に魔術回路を埋め込んだところで、それを正常に動作させるのは至難の業であり、それどころか、運が悪ければ体組織が破壊されて瞬く間に絶命するだろう。
つまりはそれを成し遂げる事ができるほど、彼らの魔術研究は進んでいるということである。
「サンス・ルドヴィアと、アグスティナ・バーウィックだったな。……金が欲しいからと、安易に手を出すべき相手ではなかったか」
「そう言うあなたは、バジャルド・ベンタインで間違いないかしら?」
「ああ」
「私達はただ、あなたにちょっと聞きたいことがあるだけなの。できることなら、剣を収めて穏便に話し合えたら有り難いのだけど」
「つまらない嘘はやめろ。お前達が俺を殺すつもりなのは分かっている」
そこでバジャルドは、先程からじっと彼を睨んでいるルフィナの方へと目をやった。
「殺したくて仕方がない、という顔だ。……だが、それはこちらも同じ。その忌まわしい角を持った奴らを見る度に、どうしても、それを殺さずにはいられない」
彼の声は、マグマのように熱い。
「俺は、魔族に復讐する。そのために今、生きている。そこの魔族の娘の命はもちろん……お前達の命も、その復讐の糧にさせてもらう」
バジャルドは、深く腰を落として剣を構えた。
そして彼は一気にサンスへと距離を詰めた。
(速い!!)
バジャルドの剣が振り下ろされる。サンスはそれを防ぐが、その鋭い攻撃の衝撃は彼の身体を軋ませる。
まるで岩が落ちてきたかのような、重たい剣撃。それも一度では終わらず、バジャルドは次々と斬り込んで来る。連続した激しい金属音に、部屋の空気がびりびりと震える。
(くそっ! 重過ぎる!)
押されるサンスは後ろに下がり、バジャルドから距離を取ろうとする。が、逃すまいと彼は更に踏み込んで来る。彼の猛攻撃に、サンスは翻弄されていく。
バジャルドの身体強化の度合いは、サンスと同じ程度である。となると、この戦いで重要になってくるのは、その剣術の熟練度だ。
彼は小さい頃からアグスティナの護衛として育てられ、剣術を学んできている。仮にその肉体が魔術により強化されていなかったとしても、並大抵の剣士であれば、一対一の戦いで負けることはないだろうという自信があった。
しかし、バジャルドの剣技は、決して並などと言えるような程度のものではない。
彼の剣は、型というものを感じさせない。その自由な動きは、恐らくは彼自身が戦場で試行錯誤しながら磨いてきたものだろう、とサンスは推測する。
(つまり、決定的に、実戦経験が違う――)
バジャルドの剣技はサンスのそれとは違い、今までに斬ってきた命の重みがある。その剣には血が深く染み込んでいるのだ。
「ぐっ……!」
バジャルドの剣先が、サンスの左肩を深く抉った。傷から溢れる血液が、彼の服を赤く滲ませていく。
ダメージを負ったサンスの視界に、ルフィナの姿が入った。目が合うと、彼女は小さく頷く。
「――っ!」
サンスは勢い良く剣を叩きつけ、バジャルドとの距離を強引に空けた。
するとルフィナは、サンスから離れたバジャルドに向かって、左手の平を向ける。
「燃えてっ!」
彼女の鋭い声が跳んだ。そして火炎魔術が行使される。
二人が斬り合いを始めてから、ずっと魔力を練り準備をしていたのだろう。彼女の放ったその火炎は巨大なものであった。
その火炎魔術は真っ直ぐにバジャルドへと向かう。その火力は、バジャルドを骨まで消し炭にしようとしているかのように、強力なものである。それは彼女の強い憎しみの現れなのだろうが、まだバジャルドから情報を聞き出す必要のあるサンスは焦ってしまう。彼の目的はバジャルドを生きた状態で無力化することなのだ。
が、彼のそれは完全な杞憂に終わった。
「――え」
ルフィナの口から間の抜けた声が漏れた。
彼女の放った火炎魔術は、バジャルドの身体に触れるとすぐに、何かに打ち払われたかのように霧散したのである。
その服こそ幾らか焦げてはいるものの、バジャルド本人の身体に損傷らしい損傷は見当たらない。せいぜい小さな火傷があるかないかという程度であろう。先程の火炎魔術の火力からすれば、それは到底ありえないことである。
しかし、身体に触れて直ぐに魔術が効果を失うというその現象に、サンスは見覚えがあった。
(俺と、同じか!)
サンスの身体には、魔術耐性という特性がある。それも、下位魔術であればどのようなものであっても無効化してしまうという、非常に強力なものだ。
彼自身がその力を持っているからこそ、彼はすぐに、バジャルドのそれが己と同じものであるということに気がついた。
(――これは、まずい)
その部下に上位魔術を使う者がいる以上、それを従えるバジャルド自身もまた、何らかの高度に魔術的な力を持っているではないか、とは予想していた。
しかし彼が、まさか自分と全く同じ力を持っているというのは、彼にとって完全に予想外のことであった。
(同じレベルの身体能力強化と、同じレベルの魔術耐性。だとすれば、もう俺が優位な点は何もない。逆に、実践経験の豊富なバジャルドの方が……!)
強い焦りを感じる。どうやって戦えば良いのか頭を巡らせるも、サンスには良い案が思いつかない。
と、そこでバジャルドが再び踏み込んで来る。
「くっ!」
サンスは彼の攻撃を受け止める。相変わらず鋭く、重い剣撃。またしてもバジャルドは、畳み掛けるように連続攻撃を仕掛けてくる。
激しく力がぶつかり合い、互いの剣が軋みを上げる。サンスは何とかして反撃しようと、バジャルドの隙を伺う。が――。
「――は――」
短く、困惑の声が漏れた。サンスの両目が驚愕に見開く。
彼の目の前で、今の今まで怒涛の勢いで攻撃をしていたバジャルドの姿が、突然、消えたのである。
慌てて左右に素早く視線を走らせるが、その姿は見つからない。もちろん上に跳んだ訳でも無い。
何が起きたのかが分からず、彼の思考が空白に染まる。消えたと見紛う程速い……のではなく、本当に影も形も残さず姿を消してしまったのである。
(どこに――)
「後ろです!!」
ルフィナの鋭い声が跳んだ。切羽詰まったその声に、振り返る余裕さえ無かった。
彼にできたのは辛うじて、身体を捻り、その攻撃が直撃するのを僅かに避けることだけであった。
「ぐぅっ!!」
背中を深く抉られ、強烈な痛みが脳天にまで駆け抜ける。彼の鮮血が、ばっと床の上に飛び散った。
「はぁっ……はぁっ……!」
激しく呼吸を乱しながら、サンスは剣を構え、バジャルドを睨みつける。彼の背中に刻まれた深く鋭い傷からは、多量の血液がどんどん溢れ出している。
(消えて、後ろから? どうやって!? どのタイミングで!?)
彼の思考が混乱していく。心臓は早鐘のように鳴り、それに合わせ、背中の傷もずきずきと脈動する。
バジャルドには、サンスと同じ力が備わっている。身体能力強化と、魔術耐性。
(――だけど、それだけじゃない! こいつ、他にも何かっ!)
傷を負った彼の背中が、すうっと白い光に包まれた。彼のすぐ背後に、ルフィナが近づいて来ていた。
「完治はできませんが、少しでも傷を塞いでみます」
「助かる……」
彼女は得意の回復魔術を行使する。しかしもちろん、バジャルドがただそれを黙って見ている訳もない。
彼は素早く二人の方へと踏み込んで来た。そして今度はサンスの方ではなく、ルフィナの方へと攻撃を仕掛ける。
サンスはそれに反応し、二人の間に入ってその剣撃を受け止める。
が、そこでまたしても、バジャルドの姿がかき消えた。
素早く左右と背後を確認するが、やはりどこにも見当たらない。気配さえも完全に消えてしまっている。
数瞬の間の後、突然、何もない空間からバジャルドの姿が現れた。その位置は、ルフィナの直ぐ側である。
彼はそのまま剣を振り下ろす。その速度にルフィナが反応できるはずもなく、また、サンスの位置からもそれを防ぐことはできない。
その刃は彼女へと襲いかかる。
しかし、その剣は突然、見えない何かに弾かれて跳ね上がった。と同時に、バリンとガラスが割れたような音が大きく響き渡る。
砕かれた魔力の残滓が漂う。ルフィナの魔術壁が、彼の攻撃を防いだのである。
恐らく彼女は最初から彼の攻撃を想定し、己の回りに魔術壁を展開していたのだろう。
砕け散ったその魔力の様子から、今の壁にはかなり多量の魔力が使われていたのが伺える。本来ならば、剣撃の十や二十は軽く耐えきれるはずの強力なものだろう。しかしそれも、バジャルドの魔術耐性を前にすれば、僅かその一撃で脆く崩れてしまう。
攻撃を弾かれ一瞬怯んだバジャルドに対し、サンスは踏み込み、剣を振るった。しかし彼は即座に身体を引くことでそれを回避する。
再び二人の距離は空き、両者は剣を構えて対峙する。既に大きな怪我を負っているサンスとは対照的に、バジャルドの方は未だ呼吸さえ殆ど乱れていない。
サンスは敵の攻撃について思考を巡らせる。
(消えて、場所を変えて、また現れた。一回だけでなく二回も。……間違いない。バジャルドは、上位魔術を使っている!)
見間違いであったり何か仕掛けがあったりというわけではない。明らかに、何も無い空間から姿を現したところを、サンスは目撃している。
(強い……っ)
彼はぐっと奥歯を噛み締め、焦りと怯えを押さえつける。
かなりの劣勢であった。もともと単純な力では互角、しかしその技術は相手の方が上手、という状況であった。魔術耐性により、ルフィナからの支援も殆ど効果がない。しかし、それだけに留まらず更に、姿を消して移動をするという上位魔術をバジャルドは持っていたのだ。
サンスは素早く、部屋の中に視線を走らせた。いつの間にか、アグスティナの姿が見えなくなっている。
恐らくはバジャルドの実力が想定していた以上であることを知ったと同時に、彼女はその姿をどこかに隠したか、逃げたのだろう。彼女は強力な上位魔術を使うことができるが、直接的な戦闘能力はほとんど無い。このまま戦いの場に居ても足手まといにしかならない、という判断である。
身を隠した彼女が現在無事なのかどうか心配であるが、今の彼には、彼女が敵に見つかっていないことを祈ることしかできない。
(ティナの判断は正しい。俺とルフィナも、ここは一度引くべきか? このまま闇雲に戦い続けたところで、勝つ見込みはあるか?)
彼の頬を嫌な汗が伝い落ちる。
と、そこで突然、サンスの背後に居たルフィナが動いた。その左手の平をバジャルドの方に向け、魔術を行使する。
「爆ぜて!」
すると、バジャルドの直ぐ側の空間が爆発した。彼は魔術を無効化することはできるが、その衝撃の余波までをかき消すことはできない。
突然の爆発に怯んだ彼に向かって、サンスは一気に距離を詰める。
サンスの剣が迫り、バジャルドの目が見開かれる。完全に、サンスの攻撃が届くタイミングであった。
(斬れるっ!)
彼はそのまま、勢い良く剣を振り抜く。その刃はバジャルドの服を斬り、肉へと食い込む。が、そこで突然手応えが消え、その剣は空を斬った。
(――また、消えたっ!)
サンスからの攻撃が入った直後に、バジャルドは例の上位魔術を使って姿を消したのだ。彼の刀身には敵の血液が付着している。ダメージを与えることこそできたものの、途中で逃げられたためにその傷は浅い。
姿を消したバジャルドは、僅かな間の後、現れる。
最大限の警戒をしていたサンスは、突然真横から襲いかかったその攻撃を何とか受け切る。しかしまたしても、そのまま例の如く強烈な連続攻撃が繰り出される。
「くっ……!」
全てを防ぎ切ることはできず、サンスは右肩の辺りを深く斬られてしまう。
再び、バジャルドとの間に距離が空く。サンスの背後にいるルフィナが、彼に対して回復魔術を行使する。しかし彼女であったとしても、ほんの僅かしか時間が無ければ、本当にただ出血を抑える程度のことしかできない。サンスの身体に刻まれたダメージは、着々と増えていっている。
対してこちらがバジャルドに追わせた傷は、中途半端に入っただけの、今の一撃のみ。
彼と目が合う。サンスの背筋がぞくりと震えた。
敵への怯えを振り払おうにも、既に明白過ぎるその実力差に、彼の精神は気圧され始めてしまっている。
やがて、バジャルドは再び動いた。
サンス達がこの部屋に入ってから、既に五分程度が経過していた。
戦いは未だ続いている。
サンスはその全身のあちこちを、己の血で真っ赤に染めていた。
彼はバジャルドからの攻撃を防ぎ切ることができず、既に何度もその剣撃を受けていた。それでも倒れず、曲がりなりにも戦闘を続行できているのは、ひとえにルフィナの回復魔術のおかげである。
彼女はサンスの後ろにぴたりと着くような位置取りをしている。そして彼に対し回復魔術を行使しながら、時折背後に回り込もうとするバジャルドに対して、魔術壁を展開することでその攻撃を防いでいる。
強敵と遭遇した場合は、サンスが攻撃をしてルフィナがその支援をする、というのは既に昼の話し合いで決めておいたことであった。アグスティナを交えた三人で、細かい動きなどについても予め考えておいたからこそ、未だこうして何とか立ち回ることができているのである。もし無策で挑んでいたならば、とっくに二人とも戦闘不能になっていただろう。
「はぁ……はぁ……!」
サンスの耳に、ルフィナの乱れた呼吸音が届く。
彼女は彼に合わせて動き回りながら、彼の怪我の治療をしつつ、敵の攻撃に備えて魔術壁の展開もしなくてはならない。それも、魔術耐性のあるバジャルドの攻撃に対抗するためには、一つの魔術壁に対して多量の魔力を練り込まなくてはならない。そうして作り上げたとしても、僅か一太刀を防ぐだけで精一杯である。
そんなことをしていれば、魔力はどんどん消耗し疲労は蓄積していく。彼女の魔族としての魔術的素養を考慮したとしても、その負担は余りにも大きいものであった。
(このままでは、ダメだ……!)
こうして一方的に敵に押されている状態が続けば、二人の敗北はもう時間の問題である。
バジャルドの上位魔術について、そのつけ入る隙は未だ見つかっていない。そもそも、その魔術の実態が何なのか、はっきりとは掴めていない。
姿を消し、また別の場所から現れる。一見すると昨晩戦った狙撃手と同じような魔術に感じるが、明らかに違う点が二つある。
一つは、一回一回の魔術行使の間に、インターバルを必要としないということである。昨晩戦った相手は、見える範囲ならばどこにでも移動できるという上位魔術であったが、連続使用ができないという弱点につけ込み、彼は敵に攻撃を加えることに成功した。しかし、見ている限り、バジャルドの魔術にそうした制限は無い。
もう一つは、姿を消してから、再び現れるまでに少し時間がかかるということである。昨晩の女であれば、魔術を行使した次の瞬間には、目的地への移動を済ませていた。しかしバジャルドの場合は違う。僅かではあるが空白の時間があるのだ。
(仮に瞬間移動ができるとすれば、バジャルドは完全にこちらの不意をついて攻撃をすることができる。変に時間をずらすよりも、明らかにそっちのほうが効果的だ。……それをしていないということは、少なくともそういう魔術ではない)
昨晩の戦闘の記憶がはっきりと残っているため、思わず先入観を持って見てしまうが、実際には、バジャルドの上位魔術は移動するためのものでは無いのかもしれないと、サンスは思う。
例えば、姿を消して透明になる、という魔術があったとする。その魔術であれば、こちらの目の前から忽然と姿を消し、別の位置に現れたことに説明がつく。現れるまでの時間のズレに関しても、移動には自分の足を使っているのだから、時間がかかるのは当然である。
(だけど、これは違う。もしただ透明になっているだけならば、魔術を行使した状態でもこちらの攻撃は当たるはずだ)
先程、サンスがバジャルドを攻撃した際、彼は上位魔術を使うことでその攻撃を途中で避けてみせた。ただ姿が見えなくなるだけであれば、実際にはそこにいるため、あのように回避行動に使うことはできない。
(だとすれば、姿だけではなく、肉体の実体も全て消しているということか? ……いや、決めつけるのは早い。まだ情報が足りなさ過ぎる)
つまるところ、単純な移動魔術ではないということだけは分かるものの、その正体は未だ不透明なままである。
と、そこでまた、対峙していたバジャルドの姿がかき消えた。
「――っ」
どこに現れても対応できるよう、彼は神経を集中し、全方位に対して警戒をする。
「あっ……!」
すぐ後ろから、ルフィナの声が聞こえた。見れば、疲労によってふらついてしまったのか、彼女は転んで床に尻もちをついてしまっていた。
転んで無防備になったところを狙われる訳にはいかない。サンスは直ぐに、転んだ彼女を庇うように己の位置を移動させる。
バジャルドが姿を現した。そして彼は剣を振るい、攻撃を仕掛ける。
が、その剣撃は二人には届かず、ただ何も無い空を斬った。大きな空振りである。
(――何だ?)
バジャルド程の実力者が、こうも見事に攻撃を外した事に対し、サンスは強い違和感を抱く。
そんな彼に対し、バジャルドは一気に距離を詰めた。
「くっ!」
連続して響く激しい剣撃音。鋭く重い猛攻がサンスを襲う。
攻撃の最中にも、バジャルドは姿を消し、少し位置をずらして現れては、また攻撃する。その小刻みな魔術行使はサンスの認識を乱し、動きを鈍らせていく。
上位魔術を出し惜しむことなく使い、一気に決着をつけに来ていた。
サンスは極限まで神経を張り詰めさせ、必死にその剣撃を受けていく。
全身の肌がびりびりと痺れるほどの強烈な緊張感の中、サンスは頭の片隅で、先程感じた違和感について考えていた。
バジャルドが姿を消した後、ルフィナは転び、サンスはそれを庇うために位置を変えた。その後現れた彼は、その攻撃を大きく外した。彼が攻撃したのは、つい直前までサンスの居た空間であった。
(つまり――)
サンスとルフィナは、互いの距離が離れないように動いている。しかし彼女は、彼ほど素早く動くことができない。そのため自然と、移動することを極力避け、敵の攻撃を同じ場所で迎え撃つという方法を取るようになっていた。だからこそ、今の今までバジャルドがこうした不自然な動きをすることも無かったのだ。
サンスの頭を、ある仮説がよぎる。
(――バジャルドもまた、見えていない?)
この敵の上位魔術の全容が、うっすらと掴めそうになる。落ち着いて冷静に考えれば、その対処方法も思いつくはずである。
しかし、敵からの苛烈な攻撃が、サンスに考える暇を与えない。
激しい連続攻撃の最中、バジャルドは姿を消し、現れ、撹乱しながらさらに攻撃を叩き込んでくる。もともと正面から普通に剣で撃ち合ったとしても、押されてしまうのはサンスのほうである。この猛攻を前に、彼に太刀打ちする術は無かった。
「……っ……っ!!」
息が切れる。心臓は今にも爆発しそうな程に激しく動いている。
ルフィナの回復も、魔術壁による防御も、既に敵の連続攻撃の速度に完全に振り切られ、もはや機能していない。直撃こそしていないものの、サンスの身体にはどんどん傷がついていく。
彼の足元には血溜まりができていた。その体力はみるみるうちに削られていく。
そして、その戦いの終わりは一瞬で訪れた。
バジャルドの姿が消えた。サンスは次の攻撃に備えようとするが、うまく身体が動かない。全身の筋肉が、疲労によりぎしぎしと軋んでいる。
「サンスさん!!」
ルフィナの悲鳴が聞こえた。と同時に、背中から、
「――――」
差し込まれた。
彼の背後に回り込んだバジャルドが、その剣を彼に突き立てていた。
冷たく硬い金属の塊が、身体の中に入り込んでくるのが分かる。ずぶずぶとその刀身は沈み、肉を引き裂き、奥へと向かう。
ちょうど、彼にとって左胸の位置である。バジャルドに差し込まれた剣は、そのまま――生命として、何よりも守らなくてはならないその臓器を、突き刺した。
剣は更に深く進み、やがて、その切っ先がサンスの正面から姿を覗かせる。
「……あ……」
痛みに呻く声も、まともに出ない。
バジャルドの剣は、心臓を完全に貫いている。ポンプとしての役割は果たせなくなり、全身の血流の流れが停止していく。身体中の力が、急速に失われていく。身体と意識が乖離していくような、曖昧な感覚が全てを包む。
バジャルドは勢い良く、彼を貫いている剣を引き抜いた。と同時に、彼の鮮血が勢い良く飛び散った。
気づけば、彼の眼の前には己の血の広がる床があった。崩れ落ちたことに気がつくも、立ち上がるための力などもうどこにも無い。
身体から命が抜け落ちていくのが分かる。凍えるような冷たさを感じる。
(死――)
ルフィナが何かを叫ぶ声が聞こえたような気がした。しかしもう、目も耳もまともに機能してはいない。
深く暗い穴に落ちていくような感覚。
サンスの意識はそのまま、闇の底へと消えていった。