第一話
その日は夕方頃から、雨が降り始めた。その雨脚は最初はぽつぽつと弱いものだったが、やがてそれはあっという間に土砂降りへと変わっていった。
この町の名前は、グルテールという。大きな街道と街道の交差する位置にあるこの町には、常に多くの商人が行き交い、毎日大きな市場が開かれている。
普段から人でごった返しているその大市場は、土砂降りの雨により軽い混乱状態であった。濡れまいと走る大勢の人々や、商品を濡らすまいと慌てる商人達。その広場は、普段の何倍も騒がしい喧騒に包まれていた。
「……はぁっ……はぁっ……!」
そんな人々のざわめきを遠くに聞きながら、町の裏道を、一人の少女が走っていた。
その息は荒い。彼女は雨に打たれ、全身がずぶ濡れになっていた。
時折足をもつれさせながらも、彼女は走る。彼女の通った後の道には、ぽつぽつと赤い染みが残るが、すぐにそれは雨に流されていく。彼女の血液であった。
「はぁ……はぁ……」
やがて、彼女は立ち止まった。後ろを振り返って確認するが、追われている気配はない。
彼女は全身のあちこちに傷を負っていた。体力的にもひどく消耗しており、彼女はそのままその場に座り込んでしまう。
(あぁ、こんな所で座ってたら……いや、でも、まずは回復しよう)
彼女は意識を己の傷に集中させる。
彼女の身体の中を、魔力が循環していく。やがて、彼女の全身が、薄っすらと白く発光し始める。回復魔術を行使しているのである。
少女の頭には、左右にそれぞれ角が生えていた。彼女は人間ではなく、魔族である。
魔族である彼女の魔術的素養は高く、またそんな彼女がもっとも得意としているのが、この回復魔術であった。
魔術を使い始めてすぐに、彼女の全身の痛みは和らいでいった。傷が素早く修復されていく。
やがて数分もしないうちに、彼女の身体中の傷は、その全てが塞がっていた。
怪我の回復を終えた彼女は、その場から去ろうと立ち上がる。が、すぐに足から力が抜け、がくんと彼女の身体は沈んだ。
「……あ……」
全身にうまく力が入らなかった。気づいた時にはもう、彼女の頬は硬い地面に触れていた。雨が叩きつける大きな音が、すぐ近くに聞こえる。
彼女は回復魔術により身体の傷を癒やすことはできたが、それにより、今度は体力が底をついてしまったのである。
地面に倒れたまま、起き上がる力も無く、身体を雨に叩かれる。
全身の感覚が曖昧になっていく。雨によって四肢の先から溶かされ、消えていくかのようだった。
(……あぁ……アデラ……)
心の中で、彼女は親友の名を呟く。
彼女の意識は、そのまま闇の中へと沈んでいった。
◇
雲ひとつ無い快晴であった。昨日の大雨による水溜りがあちこちにできており、その水面は、空の鮮やかな青色を反射していた。
サンスとアグスティナの二人がその町に到着したのは、昼過ぎ頃であった。町の名物であるグルテール大市場が、最も活気づく時間帯である。
「すごいな」
商人達が勢いよく行き来している様子を見て、サンスは呟いた。
「どれだけ人がいるんだ? こんな人混みを見たのは初めてだぞ」
「私も初めてよ。かなり活気があるって聞いたことはあるけど、これはちょっと予想以上」
「でも、これだけ人がいれば、色々情報も集まりそうだ」
「ええ。気合を入れていきましょう」
そんな会話をしながら二人が歩いていると、
「ちょっとそこのお二人さん! 良いものがありますよ!」
快活な男の声に、呼び止められる。
「二人旅ですか? お似合いの夫婦ですね!」
アクセサリー等を売っている商人のようであった。彼は柔和な笑みを浮かべながら、更に二人に話しかけてくる。
「この町に来た記念にどうです? 安くしときます。こっからここまでどれでも千ディール。兄さん、たまには奥さんにプレゼントしてあげるのも良いですよ!」
「いや、俺達は別に夫婦とかじゃ……」
勢いのあるその商人に、サンスは少し気圧されてしまう。
「確かにお手頃価格かもしれないけど、アクセサリーは別に必要ないわ」
「いやいや、そう言わないで! ちょっと手を見せて下さいよ」
「はぁ、しつこいわね……」
そっけない態度の彼女に対し、男は半ば強引にその手をとった。そしてその指を、彼は顔を近づけてじっと見つめる。
「やっぱり、綺麗な指です! ルビーの指輪などが似合うと思いますよ。ほら、これなんてどうです? 流石にこちらは、千ディールというわけにもいかないのですが――」
「結構よ」
彼女は彼に掴まれていた手をぱっと振りほどく。
「行きましょう。サンス」
「ああ」
そのまま二人は歩き出す。
「確か、鍋に穴が空いちゃってたでしょ?」
「え。ああ、そういえば」
「だったら鍋を買わないとね。アクセサリーなんて買っても仕方ないわ」
それから二人は、その人混みの中を歩きながら、鍋を始めとして必要なものをいくつか購入していった。
買い物を済ませた二人は、大市場からすぐ近くにある宿屋へと向かった。
部屋を借り、貴重品以外の荷物を置いた後、再び二人は外に出た。
何かあった時のために、町の様子を見て回りたいとサンスが言ったからである。
二人は人の多い大通りから、建物と建物の隙間にある裏道までを、歩きながらその様子を伺っていく。
「結構入り組んでるんだな」
「町の発展と共に、どんどん建物を増やしていった影響でしょうね。まだちゃんと整理もされてないみたい」
そうして二人が歩いていると、突然、彼が立ち止まった。
「……? どうしたの?」
「いや、なんだか……」
彼は周りを見渡しながら、鼻をひくつかせる。
「うっすらと……血の匂い、みたいなものが……」
彼は呟く。
彼の身体は特別性である。魔術によりその身体能力は強化されており、そのため、その嗅覚も常人よりも遥かに優れたものになっていた。
(血……でも、本当に微かだ)
昨日以前のものだろうと彼は予想する。恐らく大雨によってその大半が流れたのだろう。
「危険性は?」
「多分大丈夫だと思う」
「どこから匂ってきているかは?」
「……分かる。あっちの方だ」
彼が指した方向は、さらに奥の裏道へと続いているようだった。
「だったら、一応確認しておきましょう」
「ああ」
二人はその方向へと向かう。
そうしてしばらく歩いていると、やがて、彼らの前にあるものが現れた。
「――誰か、倒れてるわ」
道の隅に、一人の少女がうつ伏せになって倒れていた。二人の位置からは顔もよく見えず、生きているのか死んでいるのかもよく分からない。
「……様子を見てみる。ティナはここで待ってて」
「ええ」
万が一にも何かの罠である可能性を考え、サンスはアグスティナを残してその少女の元へと向かった。
近づくと、常人より敏感な彼の耳に、彼女の呼吸音が届いた。
(生きてる……)
その呼吸は落ち着いている。何か危険な状態に陥っているわけでもなく、ただ意識を失っているだけのように感じた。
「大丈夫か?」
彼はそっと彼女の肩に触れ、軽く叩いた。しかし彼女は目を覚まさない。
そのまま二度三度と彼は呼びかけたが、反応は無かった。
「この子、魔族なのね」
気づけば、アグスティナがすぐ側に来ており、少女の顔を覗き込んでいた。
彼女の頭の左右には、角のようなものが生えている。それは彼女が人間ではないことの証拠だった。
「目を覚まさないの?」
「ああ。特に何か問題があるようには見えないんだが……」
彼女の着ている服は、あちこちがボロボロに破れ、血が滲んでいた。一体どういう事情かは分からないが、何らかの争いがあったようだ。
しかし、恐らくは回復魔術か何かを使ったのだろう、既に彼女の傷は全て完全に塞がっていた。
「連れていきましょう」
アグスティナが言った。
「放って置くわけにもいかないわ。何か危険な目に遭ったみたいだし、それに魔族の子だから、他にも何かトラブルに巻き込まれる可能性もある」
「そうだな……」
かつて、このリストナム王国は魔族と戦争をしていた。
しかしそれは十数年程前に終結しており、今では互いに共存しようとする風潮も広がってきている。が、かつてのその戦争の遺恨は未だ根深く残っており、あちこちで魔族と人間が対立する事件が多発しているのだった。
「ほら、サンス。背負ってあげて」
「俺が背負うのか?」
「他に誰がいるの? 私は無理よ」
彼は戸惑いの表情で、意識を失っている少女の姿を見る。
二人と同じくらいの年齢の少女である。ちょうど成長する時期だということもあり、彼女の身体は、女性らしく柔らかな膨らみを帯びている。スタイルが良く、発育の良い肉感的な彼女の身体が、ボロボロの服越しに見て取れた。
サンスにとって、同年代の異性の知り合いなどアグスティナしかいない。そのため、女性の色気というもの対して、彼はとことん免疫が無かった。
「――こら、どこを見てるの」
「いや、別に見てなんて」
「じろじろ見るのは失礼よ。まったく。ほら、手伝ってあげるから早く背負いなさい」
彼女に促されるままに、彼は少女を背負っていく。意識を失っているせいか、彼女の身体はずしりと重い。が、それ以上に彼が意識してしまうのは、その肉体の柔らかさであった。
(何だ、これ、ふにゃふにゃと……こんなに柔らかいのか……)
彼は頭がくらくらした。
そんな彼の様子を、アグスティナがジトっとした目で見ているのだが、彼にそれを気にする余裕など無い。
二人は来た道を戻り始める。
「そんなに、良いの?」
「……え?」
「顔、真っ赤よ、あなた」
「は? いや、別に、良いとかじゃなくて」
アグスティナの目がきゅっと細められる。
「でも、背負うだけなら、あなたよく私にもやってくれてるじゃない」
「いや、それは……」
彼の背中には、少女の豊満な肉が押し付けられており、彼の意識のほとんどは、そちらに持ってかれてしまっている。
「だって、ティナはこんなに柔らかくないから」
「…………」
彼女の目はさらに細くなり、その視線は露骨に冷たくなっていくのだが――やはり彼には、それを気にするような余裕など無いのであった。
宿に戻った二人は、部屋をもう一つ借りることにした。
そしてその借りた部屋のベッドの上に、未だ意識の戻らない少女を寝かせる。
「服を着替えさせるから。サンスは後ろを向いていて」
「ああ」
背を向けた彼の耳に、布の擦れる音が届く。その音に少し心を乱しながら、彼は彼女が着替えさせ終えるのを待った。
やがて衣服を整え、ベッドで寝息を立てるその少女の表情は、とても安らかなものだった。
「何だか、本当にただ眠っているだけって感じね。よほど疲労が溜まっていたのかしら」
「とりあえず、このまま寝かせておこう」
その少女の様子から、明日になる頃には目を覚ますだろうと、二人は判断した。
やがて日が沈むと、二人は外に出て食事を摂った。
部屋に戻ると、アグスティナはシャワーを浴び始めた。彼女の立てる水音が、ベッドに一人腰掛けているサンスの耳元にまで届いてくる。
その部屋にはベッドが二つ置かれていた。二人は同室であった。サンスはアグスティナの護衛という役目があるため、寝ている間も彼女の側を離れるわけにはいかないのだ。
しかしもちろん、年頃の男女が同じ部屋で寝起きすれば、いくらかの問題は生じる。
例えば――。
「サンス。シャワー終わったわよ」
「ああ。じゃあ――って、なんで服を着てないんだ!」
彼の前に現れた彼女は、生まれたままの姿であった。
白く透き通るような美しい肌。タオルで隠そうという素振りさえ無く、全裸のまま、彼女は堂々と歩いている。彼にとって、刺激の強すぎる光景だった。
「服! 着て! すぐに!」
「何を狼狽えてるの」
「だって、それは、駄目だろう!」
「昼に、言ってたじゃない」
「え?」
「私の身体は、そこまで柔らかくないから大丈夫だって」
「あ、え、そんなこと……言ったか!?」
「言ったわ。確かにあなたの言う通り、私の身体はあそこまで発育は良くないわ。でも、それは駄目なことなの?」
「別に駄目なんて言ってないっ!」
「こっちを見て言いなさい。サンス」
顔を背ける彼に対し、妙に肝の座った声で彼女が言う。昼に魔族の少女を背負った際のやり取りにより、彼女の中で何か変なスイッチが入ってしまったようだった。
アグスティナは普段は冷静で落ち着いているが、時折突拍子もないことでムキになるという、子供っぽい一面があることをサンスは知っていた。彼はその裸体に狼狽えながらも、彼女を精一杯なだめていった。
やがて、彼女が落ち着いて服を着た後、彼もまたシャワーを浴びて身体を洗った。
その後、明日以降の行動方針について少しの間話し合ってから、二人はそれぞれのベッドで就寝した。
――それから眠り続け、翌朝、彼が彼女に起こされた時にはもう、その攻撃は始まっていたのである。
◇
「――くっ。やっぱり無理か」
サンスは苦々しく呟きながら、抜いていた剣を鞘に収めた。
アグスティナの首には、鎖の輪がかけられている。外すことのできないその鎖だが、なんとか斬ることはできないかと、彼が試してみたのである。
が、失敗。魔力により構成されているその鎖には、傷一つつけることができなかった。
「これが上位魔術によるものだとしたら、やっぱり、物理的な力では対処できないでしょうね」
「だったらこっちも魔術を使えば、解除することはできるのか?」
「……可能性としてはそれもあるかもしれないけど、少なくとも、私達では無理よ」
「じゃあ、魔術をかけた相手を探すのか?」
「今の所それが一番現実的だと思うわ」
そんなやり取りをしている間にも、僅かずつではあるが、鎖の輪は狭まってきている。
サンスの胸中に焦りが広がっていく。
「もう一度状況を整理してみましょう」
「ああ」
「この鎖は、私が昨日寝る時までには無かった。それは間違いない。だから考えられる可能性としては、夜の間に誰かが忍び込んだか――」
「それはありえない。知らない人の気配が近づけば、流石に俺が目を覚ます」
「そうね。だとすれば、昨日の昼に行動している間に、既に敵と接触していたと考えるのが妥当よ」
昼の間に、何者かが彼女に魔術をかけた。しかしすぐに発動することはなく、夜になり、彼女が寝た後で攻撃を始めたということである。
時間と共に首を絞めていくというこの鎖の性質上、発見に気づきにくい就寝時を狙えば、それだけ時間を稼ぐことができる。そう考えれば、非常に合理的であった。
「問題は、一体誰がこの魔術をかけたのか、ということだけど――」
「……怪しいのは二人、か?」
「ええ。昨日のアクセサリー商人か、あの魔族の子ね」
この鎖の発動条件について、詳しいことは二人にも分からない。しかし、それなりに強力な上位魔術を行使している以上、彼女に対し何らかのアクションを働いたであろうことは間違いなかった。
例えば、直接手で触れる、などという動作である。
彼女が昨日、サンス以外に触れたのは、その二人だけであった。
「とりあえず、昨日の子の様子を見に行きましょう」
二人は自分達の部屋を出て、魔族の少女を寝かせてある部屋へと向かった。
中に入るとすぐに、ベッドの上に彼女の姿が見えた。昨日と変わらず眠り続けている。心なし、その顔色は良くなってきているような気がした。
「……いる、ということは、多分違うわね」
「ああ。もし害意があるなら、魔術を発動させた後、すぐにこの場を離れるはずだ」
「だとすると、残りはあの商人」
「行ってみよう」
二人は部屋を出て、そのまま宿を後にした。
まだ朝だというのに、既に人の流れは多かった。町の名物であるグルテール大市場は、朝一番から開かれているのだ。
二人は記憶を頼りに、昨日アクセサリー商人に声をかけられた場所へと向かう。しかし――。
「――居ないわね」
「ああ……」
彼の姿はそこにはなかった。少し場所が変わっただけなのかもしれないと、辺りを見渡してみるが、見つからない。
「だとすると、あの男が?」
「可能性は高いわ」
魔術をかけられたことに気づいた二人が来ることを想定すれば、姿を隠すのは当然のことである。
もちろん、商売をする場所がただ変わっただけという可能性はある。姿が見えないからといって、逃げたと決めつけることはできない。
しかし、現時点において、最も疑わしいのは間違いなく彼であった。
「どうする?」
「そうね……」
少しの間思案した後、彼女は言った。
「とりあえず、この場所から離れてみましょう」
「離れる?」
「いくら何でも、対象の首に鎖をかけたらそれで終わり、なんていうのは都合が良すぎるもの。何か条件のようなものがあるはずだわ。……例えば、自分も対象の近くにいないといけない、とかね」
「……つまり、敵はこの近くにいる、ってことか?」
「それを確認するためにも、ちょっと移動してみるわよ」
二人は大市場のある広場から離れる方向へと、移動していった。
市場へと向かう人だかりに逆らいながら、二人は進む。やがて、町の出入り口近くに差し掛かったところで、アグスティナはその足を止めた。
「やっぱりそうみたいね」
彼女は己の首の鎖に目を落としながら、そう呟いた。
「ほら見て。これ、止まってるわ」
「……ああ、本当だ」
元々ほんの僅かずつしか変化していないため、少し分かりにくいが、彼女の首にかかっている鎖の輪は、その狭まろうとする動きを止めていた。
「やっぱり、私と敵との距離ね。一定の距離以内に私がいれば、この鎖は動き続け、その距離から離れてしまえば動きは止まる」
「だったら、あの宿もその範囲内だったってことか?」
「ええ。それにこの感じだと、その範囲もそんなに広いわけじゃないみたいよ」
言いながら、彼女は更に何かをじっくり考えようとする。しかし、それを遮るように彼は口を開いた。
「だったら、このまま逃げよう」
「逃げる?」
「離れれば鎖の効果が止まるのなら、このまま逃げればいい。無理に敵を追い詰める必要はない。相手が誰なのか、何を考えているのか、その目的だって分からないんだ。危険過ぎる」
「……」
彼女は暫し思案した後、言った。
「もし、敵から離れた今のこの場所で、鎖の効果が止まるだけでなく、鎖自体が完全に消えたのだったとしたら、きっと私もそう言っていたわ。ここからさっさと離れようって」
でも、と続ける。
「動きは止まりながらも、鎖自体はまだ消えていない。これはつまり、相手の魔術はまだ続いているってことよ。……それに多分これ、ただ相手の首を締めるだけの魔術じゃないわ」
「どういうことだ?」
「距離によって効果が出る出ないという魔術なんだもの、恐らく、こちらの位置を特定するくらいのこともできているはず」
「位置を?」
「対象の位置を把握するなんていうのは、下位魔術でもできるわ。敵のこの攻撃の特性からして、それができていないと考えるほうが不自然よ。……そして、もしこちらの位置が把握されているのだとしたら、放って置いて逃げるほうが危険だわ」
「……」
鎖が縮む縮まないは、こちらもその様子を見れば分かる。しかし、相手が位置をどこまで把握しているかは、こちらからは全く確認できない。
つまるところ、たとえこのまま逃げることができたとしても、得体の知れない誰かに自分たちの位置が知られているかもしれないという事実に、二人は常に怯え続けなくてはならないというわけだ。場所を把握することができれば、罠を仕掛けることも、寝込みを襲うことも簡単にできてしまうのだから。
「鎖が反応しているということは、敵が近くにいるということ。離れてしまえばそれさえも分からなくなる。むしろ、今がチャンスとさえ言えるわ。見つけ出して倒すには、今しかない」
彼女の声には、強い意志が篭っている。
「――分かった。けど、本当にその鎖がギリギリになったら、流石に逃げるからな」
「もちろんよ」
彼女は頷き、歩き出した。彼もそれに続く。
「まずはどうするんだ?」
「敵がいるであろう大体の位置を割り出すわ」
「どうやって?」
「この鎖は、敵の魔術の効果範囲から出ればその動きが止まる。だとすれば、これを指針にすれば、その効果範囲をある程度は絞り込むことができるわ」
つまり、ある地点から東にどれだけ移動すれば鎖が止まるだとか、北にどれだけ移動すれば鎖が止まるだとか、そういった情報を集めるということだ。
敵とアグスティナの距離が鎖の効果に関係しているのだとすれば、それにより、魔術の効果範囲と敵自身の位置を推測することができる。
「それじゃ、行きましょう」
「ああ」
そして二人は動き始めた。
時間はじりじりと過ぎていく。
二人は先程購入したばかりの町の地図を見ながら、移動していく。
一時間、二時間と経過していく。時間と共に、アグスティナの首にかかった鎖の輪は少しずつ狭くなってきている。サンスは服の内側で、じっとりとした嫌な汗をかいていた。
敵がこちらの位置を把握しているのだとしたら、何かしらの罠を仕掛けたり、襲撃してきたりする可能性もある。彼は彼女の護衛として、常に神経を張り詰めておく必要があった。
「大体分かったわ」
やがて、三時間程が経過した頃、彼女はようやくそう言った。
「敵がいるのは、恐らくこの辺りね」
彼女は彼に、既にあちこちに色々な書き込みの入っている地図を見せる。彼女はその地図にある、一番大きな広場を指した。
「……ここって」
「ちょうど大市場のある場所よ」
彼女の発言に、彼は息を呑んだ。
「当たり前と言えば当たり前だわ。毎日あれだけの商人が出入りして、人通りが一番多い場所なのだから。中に紛れたり隠れたりするにはうってつけよ」
言いながら、彼女は悔しそうに顔をしかめた。
現時点において、最も疑わしいのは昨日のアクセサリー商人であり、二人はその顔も容姿もはっきりと覚えている。が、覚えていたところで、広場にいる全員を確認するというのは、あまり現実的な話ではない。
そして、ただでさえ見つけにくいその状況で、さらにどこか分かり辛い場所に隠れている可能性も考えれば、探し出すことのできる確率はとんでもなく低くなる。
「……どうする?」
サンスはアグスティナにそう尋ねた。
彼女は考え込むような仕草の後、苦しげな声で言った。
「ごめんなさい。正直、良い方法は思いつかないわ」
「そうか……」
彼女の首にかけられた鎖が、嫌でも目に入る。今朝起床した時と比べれば、明らかにその輪は狭くなってしまっている。残された時間もそう長くはないだろう。
「一先ず、良い方法が思いつくまで、多少大雑把にでも探すしか無いわね」
「ああ」
「とりあえず、サンスは昨日の商人を探して。私はその間、宿の部屋で他の方法を考えてみるわ」
「え!? 宿で?」
彼は思わず大きな声を出してしまう。
「何を言ってるんだ。危険過ぎる!」
敵に位置が知られているという現状において、彼女が護衛である彼と別行動をするというのはありえない話だった。
しかし彼女は、落ち着いた様子で小さく首を振った。
「いいえ。もともと、敵を探す段階になったら私達は別行動をしないといけないの」
「どうしてっ?」
「少し焦りすぎよ。落ち着いて。……相手は私の位置を把握している可能性が高い。とすれば、私がサンスと一緒に行動して、探して、それで見つかると思う?」
「……あ」
それは考えるまでもないことであった。
位置が筒抜けということは、こちらが敵を探そうとしている動きも、相手に伝わってしまっているということだ。そうなれば当然、二人が近づけば、それに合わせて場所を変えることもできてしまう。
「いや、でも、それでも危険だ! ティナが一人で宿で待つなんて……」
「危険でもそうするしかないのよ」
彼女は言う。
「あの宿であれば、大市場からも近い。何かあれば、サンスもすぐに駆けつけることができるでしょ? それに他の宿泊客もいるから、なりふり構わず無理に攻撃を仕掛けてくる可能性も低い」
「低いってだけで絶対じゃない! それに、大市場から近いってことは、魔術の効果範囲の中ってことじゃないか。そんなところで待機していたら、その鎖だって……」
「確かに狭まるわ。でも、それは必要なことよ」
淡々とした口調で彼女は説明する。
「私が宿にいるべき理由は二つ。一つは、さっき言ったように誰かが攻撃してきた際に、大市場にいるあなたがすぐに駆けつけられる距離であるということ。そしてもう一つは、もし仮に私が敵の魔術の範囲外に長時間居れば、敵がそれに合わせて移動してしまう可能性があるということよ」
もし相手がそうして場所を変えてしまえば、時間をかけて敵の位置を探ったのも全て無駄になってしまう。
「私が範囲内にいる間は、敵も無闇に動くことは無いでしょう。だから、サンスも落ち着いて探すことができる。……鎖の輪を狭めるというリスクを犯したとしても、これは必要よ」
「っ」
彼はぐっと奥歯を噛んだ。彼女を危険に晒したくはない。が、彼女の言っていることには筋が通っていた。
「……分かった」
やがて、彼は頷いた。
「決まりね。それじゃあ私は、宿の部屋で敵を探す他の方法を考えてみるわ」
「何かあった時の合図は?」
「爆破の魔術具があるから、それを使う。でも精々時間稼ぎ程度しかできないだろうから、爆発音を聞いたらすぐに駆けつけて」
「もちろんだ」
そして、二人は行動を開始した。
◇
村から少し離れ、森に入り奥へと進んでいくと、やがて開けた場所に出る。
そこには泉があり、透明で清涼な水が静かに湧き出している。その泉の水は小さな水路によって村へと引かれており、それは住人達の生活用水として使われていた。
そんな泉のすぐ側に、二人の少女の姿があった。二人共、その頭の左右に角が生えている。どちらも魔族であった。
「ルフィナ」
少女の片方が、もう一方の名前を呼んだ。
「何ですか? そんな真面目な顔で」
「私、ちょっと人間の国に行ってみようと思うんだ」
「……」
彼女、アデラの発言に、ルフィナは黙り込んだ。
実際のところ、いつかそう言い出すだろうと、ルフィナは前々から予想していた。
アデラは昔から、人間の文化や生活に興味を持っていた。人間の書いた書物を好んで読み、人間の作った楽器などを手に入れては、よくルフィナの前で下手な演奏をしたりしていた。
だからこそルフィナは、親友である彼女が、いつかそう言い出すであろうことは知っていたのだが――。
「ダメです」
「えぇ? どうして」
「ダメなものはダメです。危険過ぎます。人間なんて」
「そんなことないよ」
「何を言ってるんですか。忘れたんですか? 人間達が、私達を襲ってきたことを」
「それは昔の話だよ。もう戦争は終わってるんだ」
二人が小さかった頃、まだ魔族と人間は戦争をしていた。二人の育ったこの村は、比較的人間の国に近い場所に位置している。そのため、前線で戦っている者達の様子を、二人はすぐ近くで見ていたのである。
人間の手によって、魔族は大勢殺された。その戦争が終わってからまだ十数年しか経っていない。記憶が風化するにはまだ時間が短過ぎた。
「向こうでは最近、魔族を受け入れようっていう風潮が大きくなってきてるんだ。この辺りの村じゃまだあまりいないけどさ、人間に混じって楽しく過ごしている者達だってもう少なくないんだよ」
「それでも、危険なのは変わりませんよ。人間の国に行った者が、全員上手くいっているわけじゃないでしょう」
「危険を感じたらすぐに帰ってくるから」
「帰れないくらい危険な状態になるかも知れないじゃないですか!」
そう強い口調で言いながらも、最終的には彼女を止めることはできないだろうと、ルフィナは既に理解していた。
彼女は生まれつき好奇心が強かった。人間との戦争が終わり、少し経った頃にはもう、アデラは人間への興味を隠さなくなっていた。それにより大人達から冷たい目で見られることなど、彼女は全く気にもしなかった。ルフィナも何度かたしなめようとしたことはあったが、結局、彼女のその好奇心を鎮めることはできなかった。
ルフィナは暫くの間、アデラと問答を続けた。
しかしルフィナの予想通り、最終的に折れたのは自分の方であった。
「……見て回った後は、またちゃんと戻ってきて下さいよ」
「分かってる」
「旅をしている間にも、手紙とか書いて下さい」
「もちろん。書くよ」
風が吹いた。泉の清涼な空気が二人の頬を撫でる。
「心配しなくてもいいよ。戦争はもう終わった。時代は変わった。そう遠くない内に、人間も魔族もごっちゃになって生活するようになると思う」
「そんなこと」
「あるよ。絶対にそうなる。間違いない」
彼女は小さく笑う。
「とりあえず一年くらいは、向こうを見て回ろうと思う。ルフィナ。面白い土産話を期待しておいてくれよ」
もし男性が見たのなら、そのまま思わず惚れてしまうであろう、美しく強い彼女の笑顔。
その誇り高い表情に向かって――ルフィナは、勢いよく怒鳴ろうとした。
絶対に行くな、と。
しかし彼女の声は出ない。喉の奥が詰まっている。そしてそれを自覚すると共に、眼の前の景色は急速に薄れていった。
(……そうか、これは、夢……)
意識が浮上していく。
絶対に行くな、と言えれば良かった。たとえ彼女が最後まで聞かなかったとしても、縛るなりして無理矢理にでも、村を出れないようにしておくべきだったのだ。
しかし実際は、ただ手を振って彼女を見送っただけであった。
全身の感覚が戻ってくる。
彼女はゆっくりと目を開いた。ぼやけた焦点を合わせていくと、やがて見知らぬ天井が目に入る。
たった今夢に見ていた親友の気配など、もうどこにもない。
(……ここは……)
困惑しながら、彼女はそっと上体を起こした。
全く見覚えのない部屋であった。
(どこ……? 宿?)
部屋の内装や調度品から、どこかの宿の部屋ではないかと彼女は予想する。
閉じられたカーテンの向こうからは、人々の喧騒が聞こえてきている。恐らくグルテール大市場がすぐ近くにあるのだろう。
(私は確か、追われて、逃げて、そして……)
路地裏のどこかで、回復魔術で己の怪我を治そうとしたところまでは覚えていた。しかし、それ以降の記憶は全く無い。
強い喉の渇きを覚えた。見れば、すぐ近くに水差しが置かれている。コップに注ぎ、喉を潤す。全身が水分を求めており、二杯、三杯と連続して飲んでいった。
やがて落ち着くと、彼女はゆっくりと立ち上がった。
(とにかく、色々と確認しないと……)
彼女は部屋の扉の方へと向かった。
◇
サンスの眼下の広場は、大勢の人々で賑わっていた。人の入れ替わりは激しく、その中から目的の一人を探し出すというのは、かなりの難題であった。
彼はアグスティナと別行動を初めてすぐに、大市場を一望することのできる、高い建物の上に登っていた。そしてその場所から人の流れを見ていく。
サンスは魔術により身体能力が強化されているため、その影響により、視力も常人のそれとは違う。こうして高い所に立って見渡してみれば、広場の一番端にいる人の顔まで視認することができる。
彼は昨日のアクセサリー商人の人相を思い出しながら、それと一致する人を探そうとする。
もちろん、いくら視力が良いとはいえ、動いている人の顔を判別するにはある程度の時間がかかる。その間にも、広場では人の出入りが続いているのだ。
(だけど、この場所から出たり入ったりしている人は、一先ず置いておこう……)
アグスティナの見立てが正しければ、敵は少なくとも、この広場から出ようとはしていないはずである。隠れることが目的である以上、この広場から離れることにメリットは無い。
しかし、そうして市場から移動していない人だけに絞って確認をしていくが、それでも見つからない。
(隠れる場所が、多過ぎるんだ……!)
立ち並んでいる露店の屋根や、天幕、雑多に積まれた品物や、それを運ぶための木箱。その広場には、彼の視界を邪魔するもので溢れていた。
一通り確認し終えると、彼はその建物の上から降り、自らの足を使って大市場の探索を始めた。上から見て分からない場所は、直接行って確認するしかない。
しかしいざ人混みの中に入ってしまえば、視界も一気に狭くなり、上からの探索とは勝手が全然違ってくる。内心で舌打ちをしながらも、彼は敵を探していった。
が、すぐに。
(こんなの、無理だっ)
彼は声に出さず弱音を吐いた。
それも当然のことであった。人が隠れられそうな場所は、この広場にはとにかく無数にある。回り込んで見ることのできる場所ならばまだ良い。しかし例えば、大市場全体に大量にある木箱、そのどれか一つの中に敵が隠れている――などいうことになれば、その時点でもう発見は不可能に近い。
広場にある木箱を一つ一つ全て確認していけば、それだけで日が暮れる。敵を見つけ出した頃にはもう、アグスティナは鎖に首を締められ、殺されているだろう。
しかし、そう無理だと思いながらも、彼は可能な範囲での探索を進めていく。
じっとりと粘りのある時間が過ぎていく。彼の胸中は焦燥感に満たされ、頬を嫌な汗が伝い落ちていく。
やがて、彼が彼女と別行動を始めてから、一時間が経過した。彼は敵を探すことを一時中断し、彼女のいる宿へと戻る。
「……良かった。無事で」
彼女の姿を見て、彼はほっと一息ついた。
彼女の表情は、一時間前と変わらず、固く険しいものであった。
つまり彼女の方もまた、現状を打開する案を思いついてはいないのである。そのことを理解すると同時に、彼は言った。
「逃げよう。これは無理だ」
「……」
「人が多すぎる。隠れる場所も多すぎる。……その鎖ももう随分と狭くなってきている。残りの時間じゃもう見つけられないぞ」
「……そうね」
苦々しく、彼女は頷く。
「何とかして敵をおびき出せないかと考えたけど……ダメね」
「諦めるしかない。もう残ってるのは一時間かそれくらいだろう? これ以上は本当に危険だ」
彼は言った。
「敵の魔術の詳細は分からない。確かにティナが言ったように、ここから逃げても、ずっと敵に位置を追跡されてしまう可能性はある。だけど、ここで死ぬよりはずっとマシだ。逃げよう」
「……」
彼女は静かに、何かを思案する。大市場での人々のざわめきが、この部屋にまで聞こえてきている。その平和な日常の気配が、今はひどく耳障りに感じた。
「……逃げるべきかもしれないとは、私も思ったわ」
やがて、彼女は言った。
「でも、やっぱり、それは駄目」
「どうしてだ! このままじゃ――」
「そもそも、私達の目的は何?」
彼の言葉を遮って、彼女は告げる。
「私達が倒すべき本当の敵は、誰? ……私達はこの町に来て、まだ一日も経っていない。にも関わらず、この鎖の誰かは私達をピンポイントに狙ってきた。この攻撃のやり方からして、無差別で、誰でも良かったなんて考えられないでしょう」
「……この敵は俺達のことを最初から知っていて、狙ったってことか」
「ええ。間違いないわ。そして私達は、自分達の命を狙っている可能性のある相手を知っている」
彼女のその発言に、彼の脳裏に過去の光景が蘇った。
死んでいく人々。悲鳴。そして、真っ赤に燃え盛る屋敷。
じわりと、口の中に苦味が広がった気がした。それは全てを置き去りにして逃げている時の、強い恐怖と怒りの味だった。
「あいつが、今回のこれにも関係しているって?」
「分からない。でも、可能性はかなり高いと思う」
もし彼女の言うように、今回の相手があの敵と何らかの関係があった場合、これはむしろ情報を得るためのチャンスである。二人は自分達が復讐を誓ったその敵について、未だにその名前さえ知らないのだから。
「それに」
と、彼女は付け加える。
「またあいつと戦うことになったとしたら、それはこんな温い攻撃では終わらないわ。もっと苛烈で、死と隣り合わせの戦いになる。この程度の相手くらい簡単に倒さなければ、そもそも私達に勝ち目なんて無いわ」
「……っ」
アグスティナの言葉に、サンスは両掌をぐっと握った。彼女の言う通りであった。
「だから、この敵はここで倒すわ」
「……でも、どうやって……?」
彼の問いに、部屋には再び沈黙が訪れた。
この戦いは、勝たなくてはならない。しかしその方法は未だ思いついていない。
彼には、彼女が自分を責めているのが分かった。倒さなくてはならないという理想を語りながらも、未だ実力の追いついていない、弱い自分を。
二人の間を、焦りや迷いといった感情が漂う。
じりじりと時間が過ぎていく。
それでもやはり今は諦めて逃げるしかないと、彼が再び言おうとしたところで、突然、部屋の扉がノックされた。
「――――」
サンスは剣の柄に手を当て、警戒体勢に入る。その様子をちらりと見てから、アグスティナは扉に向かって言った。
「どうぞ。開いてるわ」
「――あの、失礼します」
そんな聞き慣れない少女の声と共に、がちゃりと扉が開かれる。
そうして入ってきたのは、昨日、路地裏で倒れていたところを二人が助けた、あの魔族の少女であった。
二人に対し、少女はルフィナと名乗った。
「宿の女将さんから聞きました。お二人が、私をここまで運んできてくださったと」
「ええ、確かにそうよ」
「本当に、ありがとうございました! 服まで着替えさせて頂いたみたいで、何とお礼を言ったらいいのか」
深々と頭を下げながら、彼女は言った。その様子に、嘘をついている気配は感じられない。
正体不明の敵に魔術をかけられ、追い詰められているこのタイミング。何か敵と関係があるのではないかと警戒したが、どうやら杞憂のようだった。本当にただ、二人に礼を言うためにここに来たのだろう。
「分かったわ。どういたしまして」
アグスティナの口調はぞんざいなものであった。礼を言われること自体は問題ないのだが、今はあまりにも間が悪い。
「ごめんなさい。用が済んだら出てってもらえる? 今はちょっと立て込んでるの」
「え、あ、はい。こちらこそごめんなさい! えっと、失礼しました……」
そうして、ひどく申し訳なさそうな様子で部屋を後にしようとする彼女だったが、
「……?」
出る直前、何かに気づいたように、彼女はアグスティナをじっと見つめた。
「あの、それ……」
ルフィナの視線は、アグスティナの首にかかった鎖の輪に向けられていた。
「魔術、ですよね」
「ええ。そうよ。だからちょっと大変なの」
アグスティナがそう返すと、ルフィナは何かを思案するような素振りの後、再び口を開いた。
「その、もしよろしければ、状況を教えていただけませんか?」
「……?」
「私は魔族です。人間よりも、魔術には精通しているつもりです。ですから何か、力になれることもあるかもしれません」
彼女はそう提案した。
アグスティナはそれを聞き、そっと目を細めて彼女を見つめた。その真意を探ろうとしているのだろう。
そもそも彼女の首にかけられた鎖は、明らかに上位魔術である。普通の人間が簡単に使えるようなものではない。その点だけを考えるならば、人間とは比べ物にならないほどの魔力を持つ魔族である彼女のほうが、あのアクセサリー商人よりもずっと疑わしいのである。
とある事情により、アグスティナは人の嘘を見抜くことに関しては多少の自信がある。そんな彼女が、ルフィナの表情をじっと見つめる。
アグスティナの睨むような目つきに晒され、ルフィナの表情は次第に怯えたものへと変わっていく。
そんな彼女に対し、やがて、アグスティナは小さく息を吐くと、言った。
「――ありがとう。助かるわ」
やはりルフィナに他意は無いと、アグスティナは判断したようだった。
「正直、私達ももう手詰まりだったの。力を貸してくれる?」
「はい。もちろんです!」
ルフィナは大きく頷いた。
そしてアグスティナとサンスの二人は、彼女に今までの経緯の説明を始めた。
日は高く昇っていた。朝に二人が目覚め、鎖の魔術に気づいてから、既にかなりの時間が経過している。もう残された時間はほとんど無かった。
サンスは二人と離れ、一人大市場へと向かうと、広場全体を見渡せる建物の上へと登った。そこから眼下の人だかりを眺めながら、ちらりと時計塔の時刻を見る。
(あと二分……)
残り時間を確認しながら、彼は先程の三人でのやり取りを思い返していた。
「――なるほど。状況は分かりました」
二人から経緯を説明されたルフィナは頷いた。
「敵の位置を大雑把に把握しながらも、それだけではまだ特定できていない、というわけですね」
「ええ。何か良い方法はないかしら」
ルフィナは俯き、じっと思案する。
やがて顔を上げた彼女は、口を開いた。
「一つ、考えがあります」
彼女はそう言い、自らの荷物を探り始める。やがて取り出したのは、一つの指輪であった。装飾は最低限でありながら、その代りに魔術的な刻印が施されている。いわゆる魔術具であった。
「これで、壁を作ってみましょう」
「壁?」
「魔術による壁です。素養の無い者が使っても、せいぜい剣を弾く盾くらいにしかなりませんが、私が使えば、魔力の流れそのものを遮断することができます」
彼女は説明を続ける。
「二人が想像した通り、この魔術を行使した相手は十中八九、アグスティナさんの位置を把握しています。そしてそれはつまり、この鎖から、位置を伝える情報が魔力の形で発せられているということになります」
「それが、どうなるんだ?」
「魔力を使った情報伝達であれば、私がそれを壁で妨害することができるということです。例えば、この壁で隙間なくアグスティナさんを囲い、隔離してしまえば、魔力の流れはそこで完全に断ち切られ、相手はこちらの位置を見失うでしょう」
「……なるほど」
アグスティナがゆっくりと頷く。
「そうなった場合、敵からしたら、こちらの位置が突然消えたということになるわけね」
「はい」
「範囲の外に出たわけでもない。ずっと、範囲内にある宿でじっとしていた対象が、突然、何の脈絡もなく姿を消す……そんなことになれば……」
「動揺し、こちらを探すために動き出す可能性が高いです」
敵が姿を隠し続けていられるのは、その状態でも目的を十分に果たすことができるからだ。その目的とは言うまでもなく、アグスティナの首の鎖を狭め続けることと、その位置を監視し続けることである。
その二つができなくなった場合、隠れてじっとしている、という悠長なやり方はできなくなる。即ち、アグスティナの所在を確認するため、隠れている場所から外に出る必要が出てくるのだ。
「……ただ、その、今回使う魔術の壁なんですが、ちょっと問題もありまして」
「問題?」
申し訳なさそうに言うルフィナに、アグスティナが聞き返す。
「魔力まで完全に遮る壁を作ろうとすれば、こちらもかなり魔力を消費するんです。それも、人を一人、それで取り囲むとなれば……連続して使う場合、長くてもせいぜい、十分か十五分くらいしか保ちません」
「……」
彼女の言葉に、アグスティナはじっと考え込み、やがて、再び顔を上げた。
「短いなら短いで構わないわ。ただし、時間を正確に決めておきましょう」
「時間を?」
「ええ、つまり――」
カチリ、と、時計の針が動いた。
(時間だ……!)
予め話し合い、決めておいた時刻である。たった今、ルフィナは魔術の壁を展開し、アグスティナを隔離し始めただろう。
彼は眼下の大市場を見据える。
この広場のどこかにいる敵は、今、アグスティナの所在を見失い、動揺しているはずだった。
(動け。早く……姿を見せろ……っ!)
彼の両目に、ぐっと力が籠もる。
◇
グルテール大市場は、常に物で溢れている。毎日数え切れないほどの商品が運び込まれ、売買されていく。その全てを把握することなど、誰にもできない。
そんな広場に、数多く積まれている木箱。その中の一つに、彼、モイセス・フォルゴイは一人静かに身を隠していた。それは奇しくも、サンスが危惧していた通りの隠れ場所であった。
木箱の中というのは、決して居心地の良い空間では無い。太陽が高くなれば箱の中の温度も上がる。彼は全身に汗をかいていた。
しかしそうした不快な環境であったとしても、それも任務のためだと思えば、彼にとって苦では無かった。
(相変わらず、動いていないな……)
頭の中で、仕掛けた鎖の位置を確認する。宿のある位置で動きを止めてから、既にかなりの時間が経っていた。
――モイセスが発動しているこの上位魔術は、相手の身体に触れることをその発動条件としている。
二人が予想していた通り、彼はあの時二人に話しかけたアクセサリー商人であった。
二人のことを、彼は最初から知っていた。そしてその姿を見つけた彼は、ちょっと強引な商人のふりをしながら、少女の方の手に触れた。この段階で既に、彼は自らの勝利を確信していた。
条件を満たした後、彼は任意のタイミングでその魔術を行使することができる。時間により狭まっていくというその特性上、それに気づきにくい深夜の時間帯を狙って攻撃を始めるというのは、至極当然の事であった。
モイセスが魔術を発動させると同時に、対象の首に鎖の輪が絡みつく。これはいかなる手段を用いても外すことはできない。そしてそれは、術者である彼と対象が一定の距離以内にいる限り、時間と共に狭まっていくのである。
しかしその上位魔術において彼が重要視しているのは、その攻撃の仕方ではなく、相手の位置をかなり詳細に把握することができるという点であった。鎖を狭めるために必要な距離はさほど長くは無いが、ただその位置を知るだけであれば、その数十倍近く離れていても全く問題なく機能するのである。
(――今、動いていないのは、恐らくは罠だろう)
彼は朝からずっと、対象の移動する様子を追っていた。対象は鎖の効果範囲の中を歩きながら、そこから出ては戻ってを繰り返していた。こちらの位置を探っているのだろうと、モイセスは予想していた。
(きっと今、あの二人は別行動をしている。俺を探し出すために……。そうでなければ、わざわざ効果範囲に留まることの説明がつかない)
彼は相手のその動きを警戒すると同時に、そんな行動をとる二人に感嘆していた。
(鎖が狭まるのを分かっていて近くに居続けるなんて、中々できることじゃない。大した度胸だ。見た限りただ若い男女のようだったが、違うらしいな……)
一体あの二人は何者なんだろうと、頭の隅で幾らか考えを巡らせながら、彼はその鎖の位置の監視を続ける。
しかし、そこで突然――。
(――なっ!?)
何の脈絡も無く、鎖の位置の反応が消失した。
彼は慌てて目を閉じ、集中して探し出そうとするが、それでもどこにも見つからない。反応は完全に消えてしまっている。
(何だ、これはっ? 逃げたのか? だとしても、どこに? どうやって? 俺の魔術の範囲から、一瞬にして消えるなんて!)
彼が焦るのも無理は無かった。ただ位置を把握するだけならば、鎖の効果範囲の数十倍程度の距離で可能なのである。それすらも振り切って一瞬の間に消えてしまうなど、彼にとって全く予想外の事態であった。
強い焦燥感により、彼の心臓の鼓動は加速していく。
そもそも彼の上位魔術の最大の強みが、相手の位置を一方的に把握できるという点である。仮にあの二人が町から逃げ出してしまっても、その位置が分かっている以上、いくらでも追跡して殺すチャンスはある。その圧倒的な優位性があるからこそ、彼はここでじっと隠れていることができたのである。
(だが、位置が分からなくなってしまったとしたら……本当に逃げられてしまうっ)
彼はぐっと奥歯を噛みしめる。
(最初から、そのつもりだったのか? 範囲内で動かずじっとしている間に、逃げる準備を整えていた? ……何か上位魔術のようなものを使って、俺の索敵の範囲外まで瞬間移動をする……というのも、考えられないわけじゃない)
彼は乱れた呼吸を整え、熱くなった頭を落ち着けていく。ここで焦って対応を間違える訳にはいかない。
(そもそも、この場所から本当に居なくなっている……とは限らない。まだ宿の中にいながらも、何らかの魔術で鎖の反応だけを打ち消している可能性もある。……もしそうだとすれば、これは罠だ。俺を動揺させ、おびき出すための)
彼は思考を巡らせていく。が、それにも限界があった。今の段階の情報では、相手の意図などさっぱり読み取ることができない。
もしこれが罠であれば、ここから出ていくことはできない。しかしもし本当に逃げ出しているのだとすれば、ここでじっとしているという判断はありえない。
迷いと焦りが彼の胸中を埋めていく。
しかしそこで、そんな彼の耳に、大きな鐘の音が届いた。
グルテール大市場の近くにある時計塔の鐘が鳴ったのである。それは、時刻が丁度正午になったという合図だった。
(――そうだっ。今だ! 動くとしたら、今しかない!)
その鐘の合図はこの広場において、ただ時刻を知らせるだけではなく、それ以上に重要な意味を持っていた。
そして彼は、隠れていた木箱から外に踏み出した。
◇
時計塔の鐘が鳴ると同時に、広場全体がひどく騒がしくなった。
人通りが明らかに増えていた。ただでさえ普通に歩いていても人とぶつかるようなその大市場は、今となっては人と人の隙間もなく、上からでも地面が見えない程になっていた。
(何で、こんな、タイミングで……!)
サンスは舌打ちをする。
先程の正午を知らせる鐘の音は、同時に、大市場に立ち並んだ店の品を一斉に入れ替える合図でもあったのだ。午前と午後では客層も違い、それに合わせ、売る品も、並ぶ店も変わってくる。厳密な取り決めがあったわけではないが、この市場においては、鐘の音と同時にその入れ替えを始めるというのが慣習となっていた。
ルフィナがアグスティナの鎖の魔力を遮断してから、既に数分が経過していた。彼は眼下の人混みに目を凝らしていくが、人の流れが急に変わったこともあり、全てを追い切ることができない。
(落ち着けっ。恐らくもう敵は隠れていた場所から出てきているはずだ。あとは、ただそれを見つけるだけ……!)
彼は目を凝らして集中し、あの時のアクセサリー商人の姿を探す。
しかし、見つけ出すことができないまま、ただ時間だけが過ぎていく。兎にも角にも、人が多すぎるのである。
(なんとしても、ここで、見つけなければ……!)
これが最後のチャンスだった。ここで敵を見つけることができなければ、もはやこちらに勝ち目は無い。
粘りのあるどろりとした時間が過ぎていく。ちらりと時計に目をやる。ルフィナがアグスティナを壁で隔離してから、そろそろ十分が経とうとしていた。
(次だ……)
彼の喉が鳴る。
(もうすぐだ。もうすぐ、反応があるはずだ……! 絶対に見逃すな!)
彼は全神経を集中し、眼下の群衆を見つめる。些細な変化さえも見落とさないように、瞬きを禁ずる。
カチリ、と、時計の針が動いた。ルフィナが魔術を発動してから、ちょうどぴったり十分後である。
大勢の人が歩いている中、彼が目を凝らす視界の隅で、一人、ふと不自然にぴたりと一瞬だけ立ち止まり――また歩き始めたのが見えた。
と同時に、彼は一気に駆け出した。建物の上にいた彼は、そのまま壁を滑るように落ち、強化された両足で、己の体重の衝撃を吸収しながら着地する。そのまま、目の前の人混みに向けて一目散に飛び込んでいった。
(間違いない! 間違いない!!)
人と人をかき分けながら、彼は進んでいく。
(さっきの男、今、時間通りに足を止めた!!)
「――ただし、時間を正確に決めておきましょう」
「時間を?」
「ええ、つまり――鎖からの魔力を遮断し始める時刻と、それを終了する時刻を決めておけば、それによる敵の反応を見ることができるわ」
アグスティナは説明を続ける。
「私の位置が完全に途絶えたことにより、敵が隠れていた場所から出てきたとする。その段階でサンスが見つけることができれば、それで良いの。……でももし、それが上手くいかなかった場合、今度はこちらが敵の位置を完全に見失ってしまうわ。だから少しでも、見つけられる可能性を上げておきたい」
「そのために、時間を決める?」
「消えた私のことを確かめるために、敵は大市場に出てきたとする。だけど、そこで少ししてルフィナの魔術が途絶え、また私の位置が同じ場所に現れる――なんてことになれば、相手は間違いなく動揺するわ。少なくとも、今の変化が罠だということには気づくでしょう。そうなれば、その反応は必ず動きにも現れるはず。サンス、それをあなたが見つけるの」
「……」
罠だったと確信した敵は、すぐに自分が今危険な状態にあると気づくだろう。その後、また隠れていた場所に引き返そうとするか、あるいは大市場をそのまま通り過ぎ、仕切り直そうとするかまでは分からない。が、その過程で幾らかの動きの変化、切れ目が生じるはずだと彼女は言っているのだ。
それは立ち止まることかもしれないし、辺りを見回すことかもしれない。あるいは俯き、早足になるだけかもしれない。それが何かは分からないが、敵が見せるであろうその変化は、彼にとって発見するチャンスになり得るというわけだ。
「サンス。あなたの目なら捉えられるでしょう」
「――ああ。もちろんだ」
彼は頷いた。
そして、ルフィナが魔術を行使するタイミングを正確に決めた後、サンスは一人、大市場へと向かったのである。
人混みの中を突き進んでいく。できうる限り、人と人の間の隙間を通ろうとしてはいるが、それでも中々前に進めない。そもそも、このような大勢の人が集まっている中を移動するのは、サンスにとって初めての経験であった。
見失ってしまうのではないかという恐怖の中、彼は懸命に進み続け、やがて――。
(――見つけた!!)
その男の後ろ姿を視界に捉えた。先程、ルフィナが魔術を解除するタイミングと同時に、不自然に足を止めた男である。背を向けてはいるが、昨日のアクセサリー商人と、その体格は完全に一致していた。
(間違いない!)
サンスはさらに距離を詰めていく。人にぶつかりながら進んでいるため、後ろからそれを非難する声が飛んでくる。それが耳に入ったのか、男は一瞬だけ振り返り、そして二人の目があった。
「……っ!!」
と同時に、サンスから逃げるために男もまた駆け出した。しかしぎゅうぎゅうの人混みの中のため、彼もまたうまく動くことができていない。
が、単純な身体能力で比較すれば、魔術により強化されているサンスのほうが明らかに上である。二人の距離は、少しずつ縮まっていく。
やがて、サンスは男に対して勢いよく手を伸ばした。そして彼の服を、後ろからぐいと掴む。
「くっ……!」
と、それを予期していたように男は勢いよく振り返った。彼の手には短剣が握られており、それがサンスに向けて突き出される。その動きは素人のものではなく、それなりの訓練を積んだ様子が伺えた。
「ふっ!」
「あっ、くぅっ!」
しかしサンスはそれを、相手の手首を掴むことで難なく無力化する。そのままぐいと捻ると、彼は痛みに呻き短剣を落とした。
サンスは男の背後をとり、それ以上の抵抗を封じる。
「……な、何をするんだ?」
「黙れ。とぼけるな。その顔ははっきりと覚えているぞ」
二人の周りがざわつき始める。人混みの中で妙な争いをした二人に、群衆の注目が集まっていく。
「ゆっくり歩け。抵抗はするな」
本格的な騒ぎになる前にその場から立ち去るため、サンスは男にそう告げた。
相手と自分の力の差を思い知ったのか、男は一度も彼に抵抗することは無かった。
サンスはそのまま彼を、宿の自分達の部屋へと連れて行った。
そして両手両足を縄で拘束した状態で、椅子に座らせる。
サンスと男の他に、アグスティナとルフィナも同じ部屋にいた。ルフィナは先程の魔術行使がそれなりに堪えているのか、その表情にはいくらか疲れの色が表れている。
アグスティナの首には、未だ鎖の輪がかかっている。既に、首と鎖との間には隙間と呼べる隙間はない。彼女の白い首に、無骨な鎖が食い込み始めている。残されている時間はもうほとんど無かった。
サンスは項垂れている男に対して一歩近づいた。すると彼は顔をあげる。
「鎖の魔術を解除しろ」
言いながら、サンスは腰の剣を抜き、それを突きつけた。
しかし男はそれを意に介することなく、沈黙を続ける。
サンスは剣をひゅっと走らせた。彼の頬に一筋の切れ目が入り、血が溢れ出す。そのまま彼は、男の首元に刀身を当てた。
「解除しなければこのまま殺す」
彼は男の首にぐっと刃を食い込ませる。すると男は静かに口を開いた。
「何を言ってるんだ。逆だろう」
「……」
「俺がその鎖を外したら、お前に俺を生かしておく理由が無くなる。解除したら殺す、が正しいはずだ」
「……だとしても、外さなければ今殺すだけだ」
「それはやめておけ」
男は淡々とした口調で続ける。
「俺がかけたその鎖の魔術が、俺が死んだ時にどうなるのかは、俺にさえ分からない。試したことがないからな。……運が良ければ、俺の絶命と同時に魔術は解除されるだろう。だが、そのまま鎖が残り続けるという可能性も十分にある」
もしそうなった場合、それはアグスティナにかけられた魔術を解除する最後のチャンスを失ったということを意味する。
ただ鎖が首に残るだけならば別に構わない。しかし、その狭まっていく効果がどうなるのか、予想できないというのが問題であった。何をしても止めることができなくなるという、最悪のケースさえ考えられるのである。
(くそ……っ!)
彼は声に出さず悪態をつく。こうして会話を続けること自体が、男にとって有利に働いてしまう。つまらない問答をしている間にも、アグスティナの鎖の輪は着実に彼女の首を絞めていくのだ。
「――そこまで言うのなら、俺が切り刻んで、自分から解除したくなるようにしてやろうか」
サンスはそう言いながら、首元に当てていた剣を引き、今度は胴体へとその切っ先を当てる。ぐっと力を入れると、その先端は肉を裂き、男の身体へと食い込む。じわりと血が滲んだ。
「……! これこそ、お前に不利だぞっ」
痛みに顔をしかめながら、男は言う。
「鎖が締まり、その子が死ぬまで、せいぜい残り十分から十五分だ。お前には拷問の心得でもあるのか? それだけの短い間に、俺の意志を折る自信があるのか?」
「……っ」
男の言葉に、サンスの胸中がかき乱される。焦りと共に、彼は更に剣に力を込めようとするが――。
「待って」
その彼の腕を、アグスティナが止めた。
「私がやるわ」
「ティナ……」
「人と話すのは得意なの。知ってるでしょ?」
彼女の声は落ち着いている。しかし、その喉元には鎖が食い込み始めており、既にかなりの息苦しさを感じているはずであった。
「……分かった」
サンスは剣を収め、一歩下がった。
縛られた状態で椅子に座る男と、アグスティナの目が合う。
「名前は?」
「言う必要はない」
「何の目的があって私を狙ったの?」
「さぁ」
更に二つ三つ彼女は質問を投げかけるが、彼は決して答えようとしない。
「……あの、大丈夫なんですか?」
その様子を見て不安になったのか、ルフィナがサンスに小さな声で話しかける。
「恐らく、大丈夫だ。……でも……」
「……?」
サンスはルフィナをちらりと見る。
アグスティナがこれからやろうとしていることは、あまり人に見せるべきものではなかった。しかし、ここで彼女に退室してくれと言えば、それによりこの男も警戒し、その結果として失敗してしまう可能性があった。
(……それに、一時とはいえ力を貸してくれたんだ。ルフィナのことは、信じよう)
二人が見守る前で、アグスティナは男への質問を続けていく。
「誰かの命令で動いたの?」
「……」
「目的なのは私の命? それとも他の何か?」
「……」
しかし、彼は問いに答えようともせず、ただ沈黙した。
そうしている間にも、時間は過ぎていく。鎖によって彼女の声が出なくなってしまったら、この尋問を続けることもできなくなる。
(まずいな……)
アグスティナの問いに対し、男は無言を貫き始めている。それは良くない流れであった。
じりじりと時間だけが過ぎて行く。
アグスティナの首の鎖は、見ているだけでも息苦しさを感じる程に、さらに深く食い込み始めている。
そんな中――。
「左肩に魔獣を飼う男について、何か知っている?」
「……」
彼女の質問に対して、彼は微かに表情を変えた。
しかしすぐにまた元に戻すと、今度は無言ではなく、言った。
「知らないな」
それは直前の様子からして、明らかに嘘の言葉であった。
男はアグスティナの狙いを知らない。彼女がどうして、一見無意味に思える質問を続けているのか、彼は分かっていない。
そして、その狙いを知らない相手にとって、彼女の攻撃を回避することはほとんど不可能に近い。
静かな声で、彼女は宣告した。
「ダウト」




