縁側の話
そっと、秋の虫の鳴き声がする。夏の虫と違っておとなしい。
陽の熱は、顔を正面から温める。
縁側にいる。
庭に吹く風が軽くなった。
縁側は優しい。穏やかな風が、ふ、と抜ける。いつも凪いでいる。
ここに人が来たら、優しい呼吸をして、弛むといいと思う。一人で、そう思う。そんな場所だ、と思う。
縁側は、興奮すると霧散する。自棄の傾向によっても、ゼラチンが足りないジュレのように輪郭が緩くなり、失われる。縁側は、まっとうに優しいときにある。
優しくあれと思う。
ユーモアさんは、いつもニコニコした表情でいる。そして、満点の星空の下、硬い砂地で草を抜く。時に草刈機を抱えて勢いよく刈ることもある。
ユーモアさんが抜く草は、どうしようもない思いである。自分を苛める声が湧いた。人に対して恐怖や憎しみやコントロールしようとする欲が湧いた。砂地に草が生える。こんなに乾いて硬いのに、ぴこ、と生える。ユーモアさんはニコニコと、それを容赦なく即時に抜いて、ぴょん、と捨てる。なんてことないという風に。
荒れ狂わんばかりの日、草が丈高くわさわさと勢いのある時には、草刈機を左右にぶんぶん振る。ニコニコと草をなぎ倒す。
時には、一緒に寝転がって空を見る。星がある。ユーモアさんは隣で変わらずニコニコしている。
女の子は薄暗い部屋の中、一人で遊んでいる。横に長い形状の窓が、壁の上方に一つ、外の明るさをぼんやりと伝える。地下室かもしれない。
その表情は大抵変わらない。なんだかきょとんとしているようにも見える。怖い時にだけ、こわいという顔をする。そういうとき、ただ身を固くする。涙をこぼすこともある。
ひとりでいることが安心なのか。ワンピースを着て、ぬいぐるみを抱えて、明るいグレーの丸いカーペットの上、座っていたり、絵を描いていたりする。不安がないことそれ自体が幸せなことのように見える。遊びに没頭している女の子を見て、よかったねと思う。今、こわくないね、と。
それは、水底に、いつも変わらず存在する。深く潜って会いに行く。静謐である。本来は十全であるとのこと。安息し、後にする。
厚手の毛布を洗ってベランダに干す。何故ならば、明日から天気が崩れるという予報を見たからである。秋晴れのからっとした空気はいったん今日までとのことである。そうか、ならばと、不要になったシャツを切って作ったウエスを濡らし、絞って物干し竿を拭く。寒い夜に体を包むものが、からりと乾くといい。
人は祈るとき、何故合掌するのか。東洋でも西洋でも文化圏の差異を越えて、人は肘を上方に曲げ、両手を触れ合わせる。手と手を胸の前で合わせると、力が入っていた肩と胸がホッとする。弛んだ胸から腹の底に息が入る。呼吸が深まり、全身がじわっとする。
人は祈るとき、願いを抱えて緊張している。切実である。呼吸が浅く、体が強張っている。思わず手を合わせる、もしくは組むとき、それはからだが求めている形態なのであろう。そうせずにはいられない。からだは各々乗り込む自分という舟のすべてを知っている。思考は身体の後追いであると知る。
夜の縁側はひんやりとする。肌寒いから、厚手の羽織物が要る。虫の鳴き声がそこからとなくここからとなく重なり合い、底に響き、川のように流れている。月は明るい。縁側を照らす月は温かい。すすきが首を垂れ、時折静かな風にそよぐ。ここにある物物の心持は静かだ。生命がきちんと夜を迎えている。
秋が来ると、「秋だなあ」と思う。春が来ると「あ、春だ」と思うし、夏が来れば「夏だ」と思う。何度でも、そう気付いては感じ入る。
もうすぐ冬が来る。ストーブの匂いが幸福を運ぶだろう。積もった雪で明るい夜があるだろう。
笑うとき、人は幸福である。故に、ユーモアは強く軽やか且つしなやかな生命力を掘り起こす。知識は力だし、ユーモアは生きる上でのガソリンだ。
優しいことと、ユーモアと、「まいっか」という結論は、とてもいい。とても健全だ。穏やかに眠りに就くとき、彼らは味方だ。
信じることは、時として信じるという覚悟それ自体である。たとえ始まりが確信であっても、揺らぐ時には覚悟の在り様が浮き彫りになる。それでも信じるか、問う声に答えるだろう。
たんぱく質は体の部品である。炭水化物はガソリンである。睡眠で人は修理される。布団の中で、あるいは机に突っ伏して、時にはバスに揺られて、頻繁にピットインする。そして回復する。ありがたい。嬉しい。生物は自分で自分を修理する。すごいことだ。そのようにつくられている事実が、心強い。生きるようにと守られている。
きれいな言葉を食べる。あたたかくなる事柄を取り込む。食べ物は体をつくる。言葉は思考をつくる。思考は外界をも形づくる。優しい言葉をたくさん食べて、世界が優しいと知る。
貝殻を耳に当てると、海の音が聞こえるという。それは海の音である。そして、体の中を水分が流れる音であり、この体が呼吸する音だと思う。海のないこの場所に、循環によって海を通ってきた水分が流れている。
海を見ると、帰りたいという言葉が浮かぶ。あぶくのように浮かぶ。ぽつりと呟くように見える。目的語は、おそらく、海に、だと思う。でも、それとは別の何かを含んでいるような気もする。
金木犀は刺激が強い。金木犀は姿に先んじて匂いでその存在を現す。遭遇を予測しづらく、避けがたい。匂いを嗅いでからでは遅い。匂いを感知した瞬間にはもう、からだは今ではないレイヤーを纏う。今、さみしくないのに、いつか抱いた心許なさで胸苦しい。今なのに、いつなのか、ひどく懐かしい。金木犀は切なさの権化だ。感傷の使いだ。大きな蜂が来るし、金木犀は油断ならない。もしもし、これから金木犀が伺いますよ、の一言もあってよい。
突如として脈絡のない記憶が想起される。なぜ、今、すっかり忘れていた、とっていた行動と全く関係がない、と驚く。そういうとき、体はその時間と同じモードになっている。記憶は、体が知る鍵によって検索される。そしてヒットしたものは提示される。忘れた記憶の全ては、思い出さないと体が選んだ結果である。
縁側に雨が降る。さーさーと音がする。ぱたぱたと音がする。雨が降ると空気は沈殿する。体内の水は雨に同調する。
子どもは春だ。育つ。枝がそわそわした色になり、新芽が出て、柔らかそうな葉が光を通す。わさわさと、大きくなっていく。わくわくする。驚く。希望を見る。どうか健やかに、と願う。
窓の外の景色を見るように、絵画を見る。額縁が窓枠に、絵が壁の向こうの光景に見える距離がある。それを探る。額から離れていき、完璧な距離をとらえた瞬間、描かれた世界が動く様を覗いている。時間も国も精神世界の境界も越える。描かれた世界の空気を吸う。
螺旋階段を昇っている。そう教えてもらってから、螺旋階段を昇っている。よくなったと思っても、また戻る。それを繰り返しながら、本当によくなっていくという。でも、渦中にあると、同じところをぐるぐると、堂々巡りをしているような気になる。しかし、同じではない。戻ってはいない。上から見ると同じ円を描き続けていても、横から見ると昇っている。同じ階にはいない。そうやって少しずつよくなっていく。そう教えてもらってから今も、螺旋階段を昇っている。確かに、もう同じ階にはいない。随分と昇ってきたなと思うこともある。
ボウルに入れた米を四十回研ぐ。水を換えて、二度繰り返す。水が濁らなくなるまですすぐ。研いだ米を炊飯器の釜に移し入れ、既定の線のほんの少し下まで水を入れる。炊飯開始のスイッチを押す。約一時間で米が炊き上がる。温かいご飯の匂いが満ちる。
人間は凸凹している。凹凸を均そうとしなくていい。やっと、そう理解した。凸を育てること。凹はそれを得意とする人に頼み、感謝と敬意を伝えること。そうやって凸凹が填まる場所があると信じること。
人の雰囲気は湿度の感覚に似ている。相手の湿度を心地よく感じられる時、近付く。
山中の神社から、開けた景色を眼下に望む。住宅地や商業施設が点在する。線路が敷かれ、田の稲穂が風を映す。それらの向こうに海が見える。その上には空が、空には雲が、浮かぶ。いい風が吹いて後方へ抜けてゆく。胸が緩む。ありがたい、と思う。
ユーモアさんが高枝切りばさみを使った時には、そんなパターンもあるのかと驚いて笑った。鼻が伸びかけた時には、鼻の代わりに髪を切ってくれた。笑った。そして一緒にポルカを踊った。
誰も勝たないし、誰も負けない。そうして目的地に着く。理想は語られることで出産を終える。
暖炉のような人がいる。音楽のような人がいる。皆ユニークである。そして皆、それぞれの時計を持つ。それぞれの時計で生き、独自のエピソードを紡ぐ。暖炉のような人にも音楽のような人にも、愛と呼ぶしかないものを抱く。
恋は不足の状態だ。ときめき、焦がれ、欲しがる。愛は充足の状態だ。満ち足りて、その幸福に感謝が湧く。今、十分であることに気付いている。対象の幸いを願わずにいられない。その幸福は、まどろみにも似ている。
赤ちゃんは生まれる前から社会に生きている。生まれる前から周囲の人に幸福を与えている。人間の生来の性質は、与えることが先にあるのかもしれない。
静かだ。そして音に溢れている。木々がざわめく音。虫の鳴く声。空が動く音。草が揺れる音。心臓の音。呼吸音。内臓が動く音。骨がきしむ音。時計の針が動く音。陽に照らされた家が鳴らす音。鳥がさえずる声。水が地球を廻る音。星が空を回る気配。
私は縁側である。縁側は私である。
茄子の一夜漬けの漬け汁はきれいなすみれ色で、まるで宝石を溶かしたようだった。