6 夏の終わりの日の旅立ち
夏の終わりの日。
昼下がりの太陽は白かった―――。
陸走船白鳥号は、視界いっぱいに広がる森の上を、滑るように走っていた。
全長百メートル級の鋼と樫材で造られた船体が、船底に取り付けられた永久浮揚盤によって、森の木々の僅か一メートルほど上空に浮かぶ。四本マストに張られた光沢を帯びた精霊絹製の帆が、空気中に飛散したマナ粒子を受けて、大きく膨らんでいる。
船倉の床に響いたのは、ドシンという鈍く重い音だった。
「白鳥号の船員って言っても、結構、だらしないな」
暗青色のチュニックに漆黒のパンツ。幅広のベルトから、乗船するときに封印をされた銀色の柄の長剣を下げている。
ヴァレルは方膝立ちの姿勢で、たった今投げ倒した制服の男を見据える。男の喉仏に握り拳を添えながら、わざとドスの利かせた声を出す。
「喉が潰れたときって、血反吐を吐くんだぜ。なんなら、試してみるか?」
男の震える右手から、抜き身のナイフが転げ落ちる。
ヴァレルは鼻を鳴らして、男の顎に一発食らわせると、呆れた顔で立ち上がった。
「なあ。白鳥号がクランベルクの船って言うのは、冗談なのかよ? ナイフを抜くなら、自分も死ぬ覚悟をするのは、当然だと思うんだけどな」
距離を置いて周りを囲む残り三人の船員たちを、ヴァレルの挑発的な青い目が見回した。
「おまえが先に挑発したんだろうが! ガキが。調子に乗りやがって」
船員の言葉は事実だった。
客に隠れてカード遊びに興じていた船員たちを、ヴァレルは目ざとく見つけて声を掛けた。
「あんたらさ。こんなことがバレたら、絶対にクビだろ? どうするんだよ? オレを、このまま行かせたら、船長にチクってやる」
船の最下層にある倉庫に他の船員がいないことと、自分以外の客が船長と昼食のテーブルについていることを、ヴァレルは事前に確かめていた。計画的犯行といわれても仕方がない。
「だから何だよ? 船員が客を囲んでボコボコにしようとしたのは、事実だろう? 何だったら、今からでも船長を呼ぼうか?」
「てめえ……」
船員たちは覚悟を決めたようだ。ナイフを構えたまま、ヴァレルとの距離をジリジリと詰めてくる。
「そうだ。今さら文句を言うなって、興醒めするだろうが」
ヴァレルは、三人の船員との距離を正確に測っていた。素人に毛が生えた程度の動きだ。ナイフなど恐れることもないが、ヴァレルの目は習慣として反応する。
三人の足並みが揃っていないから、付け入る隙は幾らでもあった。しかし、たいして広くない室内では、間違ってナイフが当たる可能性もある。
「折角の機会だし、試してやるか」
視線を外さないまま、ベルトに下げた剣の柄を握った。船員たち躊躇して、それだけで足を止める。自分の方が優位な獲物を持っていないと、仕掛ける度胸もないのか――。
ヴァレルは呆れて、もう止めようかと思う。しかし、この機会を逃したら、流石に次はないだろうと、思い直した。
「安心しろよ。鞘からは抜かないからさ」
乗船するときに封印を施された剣を、太いベルトから鞘ごと抜く。
船員たちは、一瞬、安堵の息を漏らした。しかし、次の瞬間。三人の船員の顔が凍りつく。
印字のされた封印用の白い布で縛られた銀製の剣の柄を、ヴァレルは右手で握りながら、意識を集中した。ヴァレルの身体の中心から指先へ、そして剣の柄へと力を伝えるようにイメージする。柄の中心に埋め込まれていたのは、卵ほどの大きさがある赤い宝石―――マナの増幅器である中枢結晶体が、微かな光を放った。
「受身を取れよ!」
ヴァレルは、空気を切るように剣を一閃させる。その瞬間、剣は鞘越しに赤い光を放った。赤い光は、瞬く間に巨大な鎌のように広がっていき、三人の船員を捉えると、そのまま薙ぎ払った。
吹き飛ばされて、荷箱や壁に全身を叩きつけられた船員たちには、立ち上がる気力は残っていなかった。苦痛に呻く声と、ナイフが床に落ちる金属音が、空しく響く。
「だからさ、受身を取れって言っただろう?」
ヴァレルは何食わぬ顔で、鞘ごとの剣をベルトに戻した。このくらいの音なら、誰も気づいてはいないだろう。船員たちを残したまま、倉庫を立ち去ろうとする。
このとき。ヴァレルの前方で、倉庫の扉が開いた。
「お客様。何事が起きたのか、説明して頂けますでしょうか?」
波打つ金髪を後ろで束ねた男は、二十代半ばという年齢だった。どちらかというと小柄という範疇に入り、長身のヴァレルと比べると、十センチ近く背が低い。横幅も、さして体重があるとは思えなかったが、そちらはヴァレルよりも幾分かは肉厚だった。
船員たちよりも暗い色の制服は、胸元に銀糸の刺繍。両の肩には、白鳥号の船籍があるクランベルク公国の紋章があった。
「これは、これは、クレイ船長。貴方は、船客をもてなしていると思っていましたが。船倉なんかに、何の御用ですか?」
白鳥号の船長クレイウォルフ・ヘーベルタッシェ。初めてクレイを見たとき、ヴァレルは、どこかクリスに似ていると思った。しかし、すぐに気づいた。クレイが放っている雰囲気は、クリスとは正反対だ。クリスを動と例えるならば、クレイは静だと言える。
「何、船倉の方で物音がすると、部下が報告してきたのでね」
クレイは、ゆっくりとした歩調で近づいてくる。ヴァレルの基準で言っても、全く無駄のない動きだ。思わぬ大物が掛かったことに、ヴァレルは内心ほくそ笑みながら、じっとクレイを見据えた。
「その程度のことで、船長自らお出ましですか?」
「失礼ながら、質問をしているのは私の方だ。もう一度聞こう、ヴァレル・マグナス。貴殿は、ここで何をしていたのかね?」
太い眉の下で、灰色の眼が、静かにヴァレルを見つめ返す。目は口ほどにものを言うとは、よく言ったものだ。クレイの目は、何事も躊躇しない、確信した者の光を宿していた。