2 双子の妹ヘルガの思い
クリスが荷物を纏めて、鞄十数個分の服を、馬車に詰め込んでマグナス家から出て行った日。彼は相変わらず、まるで日帰り旅行に行くような感じだった。
誰もいなくなった部屋には、代々の家庭教師が残した忘れ物と一緒に、彼のお気に入りだったシルクのシャツが、一枚だけ残されていた。
「これが、クリスからのプレゼントよ」
綺麗に包装された包みを、ヘルガはヴァレルに渡した。
――贈り物?
クリスの意図が判らないまま、ヴァレルは包みを解いて、中のシャツを広げた。
シルクのシャツの胸元には、金の刺繍で有翼の馬ペガサスが描かれており、そのすぐ下に、同じ金糸で文字が書かれていた。
(親愛なる愛弟子ヴァレル・マグナスに贈る。いつの日にか、同じ場所に立てることを祈って……)
「ホント。あんたたち、仲が良いわよね」
このシャツを見つけたとき。金糸で書かれていた台詞が、如何にも気障なクリスらしいと思った。まさか、ヴァレルが、同じように恥ずかしい台詞を吐くなんて、思っていなかった。
「だから、全然良くないって。軽薄な奴は、嫌いなんだよ」
「はい、はい」
ヴァレルが寮に戻った日の朝。クリスのシャツは、マグナス家から消えていた。
※ ※ ※ ※
クレイ船長と、ひと悶着があってから二日後。
夕暮れの薄闇を進む白鳥号の甲板に、双子の姿があった。船首に程近い場所で、ようやく冷めてきた風を受けている。
ヴァレルの傷は、すっかり癒えていた。ヴァレル自身の回復力も大したものだったが、ヘルガが言錬技術で体内のマナを活性化させて、回復を後押ししたのだ。
重傷に思えたヴァレルの傷が、これほど早く癒えたことは素直に嬉しい。
それでも、ヘルガは不機嫌だった。ヴァレルの態度に、違和感を感じていたからだ。
「そう言えばさ――あんた、クリスのシャツ、今でも持ってるの?」
ヴァレルは船首から身を乗り出すようにして、真鍮製の望遠鏡を覗き込んでいた。短く切った砂色の髪が、風を受けてなびく。海の色の瞳は右側だけ開かれて、望遠鏡のガラス越しに、闇を映し出していた。
「シャツ? どうだったかな。寮で荷物を纏めてたときは、見当たらなかったけど」
応える間も、ヴァレルは望遠を離さなかった。
背後からヘルガは、つかつかと近づいて、ヴァレルのすぐ後ろに立つ。
「ねえ。さっきから、何を見てるのよ?」
「そろそろ、クランベルクの街明かりが見えるかと思ってさ。一時間くらい前に、公国の領域内に入っただろう?」
ヴァレルの頭の中には陸走船の航路と、その周辺の地図が、鮮明に浮かび上がっていた。
現在地を把握することは、戦略を練る上での基本事項だ。速度と方角から計算して、記憶の中の地図に移動線を引く。クランベルクと間に聳えて視界を閉ざしていた山岳地帯は、すでに後方に消えていた。
それでも、望遠鏡が映す薄闇の中に、都市の光は見えない。
「チッ!」
ヴァレルは顔をしかめて、諦めて望遠鏡を降ろす。
「ダメだな。吸光霧が濃すぎて、全く見えないぜ」
大陸中西部のスクラド地方には、春先から晩秋までという一年の三分の二以上の長い期間、吸光霧と呼ばれる特殊な霧が立ち込める。光を吸収する性質を持つ灰色の霧は、数メートル先が見渡せないほど濃く、この地域の平均日照時間は、他の半分以下だった。
さらに夜間になると、北に聳えるガリウス山脈から吹き降ろす風が、吸光霧をスクラド地方全域に拡散させる。風に引き伸ばされて霧は多少は薄くなるが、それでも、闇とともに視界を塞ぐには十分だった。
「そんなの、あたり前じゃない。陸走船の上でなければ、私たちだって、吸光霧に囲まれてるわ。」
陸走船の周囲に迫る吸光霧の存在を、ヘルガは感じ取っていた。船体から放たれる魔力の力場が、霧の進入を防いでいるため、目の届く範囲に灰色の霧は見えないが、そうでなければ、甲板の上すら見渡せないだろう。
「だいたいね。真冬でもなければ、月明かりの下で、城壁の外からクランベルクを見るなんて、ほとんど不可能だわ。周囲の山岳地帯と吸光霧が自然の防壁になって、クランベルクを外界から遮断する。だから、クランベルクは『霧の要塞都市』って呼ばれているんでしょ」
クランベルクの数ある字の一つだ。
創世記のクランベルクは、自然の要害に隠されて、その存在を、ほとんどの知られていなかった。だから、クランベルク建国から数年後、突然姿をあらわした陸走船という奇妙な乗り物と、それによって運ばれてきた高度なマナ・テクノロジーを見せつけられたとき、大陸の国々は戦慄すら覚えた。
「冬になったら、なったで、今度は豪雪で街道が塞がれるから、近づくこともできない。街の外から、闇夜に輝く幻想的な姿を眺めることができるのは、ほんの一握りの幸運な人間だけ―――地理書には、そう書いてあっただろ?」
そんなことはオレも知っていると、ヴァレルは皮肉を込めて笑った。
「それでも、陸走船の乗客になれば、雪は関係ない。幸運の希少価値は、随分と下がっちまったな」
ヘルガは、ふんと鼻を鳴らして横を向く。
「判っているんだったら、それこそ真冬に来れば良かったじゃない。海軍に入っても、バカンス休暇くらい取れるんでしょ?」
ヴァレルは右手で、望遠鏡をクルクルと回して弄ぶ。
「クランベルクの光を見たいだけなら、そうするさ。でも、それじゃ意味がないんだよ」
「どういうことよ?」
「あのなあ、今、言っただろう。金で買える幸運なんて、価値があるとは思わない。オレは自分で掴み取れるか、試してみたいんだよ」
海のように青い瞳が、挑発的に煌く。ヴァレルらしい台詞だと、ヘルガは思った。だからこそ―――。
ヘルガは余計に腹が立った。ヴァレルが、いつもと変わらないままでいられるような状況では、ないのだ。
クレイ船長との戦いは、言い訳できないほど一方的なヴァレルの敗北だった。あんな負け方をしたら、いつものヴァレルなら、大声で喚き散らすくらいでは済まないだろう。きっと、滅茶苦茶に物を壊して「絶対復讐してやる」と飛び出していくに違いない。
―――あんたは、そんな奴じゃない。
ヘルガが知っているヴァレルは、ヘラヘラ笑って負けを認めたりしない。決して、そんな腑抜けではないはずだ。
「あんたさ、格好つけてるつもりなの?」
苛立ちを隠す気はなかった。真正面から、ヴァレルを睨みつける。
「何だよ、急に?」
ヘルガの気持ちなど、まるで判っていない。ヘルガは無言で、ヴァレルが回している望遠鏡を叩き落した。
「誤魔化さないでよ! クレイ船長と戦ってから、ずっと、そんな調子じゃない。あんな負け方をして
―――あんた、悔しいと思ってないの?」
「そりゃあ、悔しいとは思ってるぜ」
まだ。まだ軽すぎる言葉―――どうして?
「……だったら、もっと悔しがりなさいよ! 嫌な大人みたいに、取り繕うことなんて、ないわ……そんなの、ヴァレルじゃない……」
怒りとは裏腹に、涙がボロボロと溢れ出す――
怒涛のように流れ出した感情を、ヘルガは抑えることができなかった。