1 雛鳥の兄妹
幼い頃のヴァレルとヘルガは、本当に良く似た兄妹だった。
母親のメリッサは身体が弱く、双子を産んで間もなく他界した。父親ガーランドも、軍の任務のために家に戻ることは少なく、二人は乳母の乳と、互いを頼りにして育つ。
一日の大半の時間を、二人で一緒に過ごした。王立学院への通学も、授業中も。三度の食事も、いつも同じテーブルを囲む。父親の勧めで始めた剣の稽古も、同じ胴着を着て、二人一緒に受けた。
二人の小さなベッドが、別々の部屋に運ばれたのは七歳のときだった。しかし、どちらからともなく相手の部屋を訪れて、枕を並べて寝る毎日だった。
「ヴァレルは、ホントに甘えん坊だから……。でも、いいわ。いつでも、わたしが一緒にいてあげる」
半日早く生まれた兄を、ヘルガは弟のように思っていた。
両親が傍にいないことが、ヘルガを自然と早熟な子供に育てた。
五歳で初めて目玉焼きを焼くと、七歳になる頃には、簡単な料理一通りを覚えていた。父親が雇ったメイドが、二人の日常の世話をしてくれたが、ヘルガは進んで兄の世話を焼いた。自分の作った料理を、ヴァレルが嬉しそうに頬ばる顔を見るのが、何よりも好きだった。
二人が十三歳の誕生日を迎えて間もなく、クリスが家庭教師としてやってきた。
メイドの地味な制服を見慣れたヘルガにとって、色とりどりの派手な服を着こなすクリスの第一印象は、それほど悪いものでなかった。しかし、彼が二人ではなく、ヴァレルだけの家庭教師だと知ると、評価は一変した。
それでも、クリスがヴァレルを独占するのは、一日のうち数時間だけであったから、ヘルガは彼を完全に無視することで、今まで通りに、大切な二人の時間を過ごすことができた。
「ねえ、ヘルガ。何でクリスのことを無視するんだよ? 僕だって、初めは、すごく嫌な奴だって思ったけど。話してみると、そんなに悪い奴じゃないよ」
ヴァレルとの他愛のない会話に、クリスが登場する回数は次第に増えた。
「良いのよ、あんな人のことは。それよりも、この前エルザったらね……」
まるでヴァレルに対抗するかのように、ヘルガの方は友達の話を沢山するようになる。
「へえ……」
女の子の話をすると気のない返事をするヴァレルに、ヘルガはたびたび腹を立てたものだ。
※ ※ ※ ※
クリスの家庭教師が始まってから一年程経つと、ヴァレルはクリスと二人で、マグナス家の屋敷から泊り掛けで外出するようになった。
「心配しないでよ。すぐに戻るからさ」
笑顔を作って見送りながら、出掛けのヴァレルが見せる期待に満ちた顔を見ると、嫌な予感を覚える。その予感は、すぐに現実のものになった。ヴァレルの遠征は、どんどん頻度が増えて、期間が延びていく。
「王都クリオネスティってさ、意外と狭いんだよな。城壁の外から見てみると、実感するよ。あ、そうだ、ヘルガ。陸走船って、見たことある?」
遠征から帰る度に、ヴァレルが捲くし立てるように言う話を、ヘルガは、ほとんど聞いていなかった。ヴァレルの世界だけが、どんどん大きくなっていくのが、たまらなく嫌だった。
「ねえ、ヘルガ。オレの話、聞いてる?」
五回目の土産話を聞き流しながら、ヘルガは決意した。
ヴァレルの個人授業が終わるのを見計らって、ヘルガはクリスを中庭に呼び出した。
クリスは呼び出した理由を聞きもせずに、彼女の言葉を待った。
「ねえ、クリス。私にも、剣を教えて頂戴」
精一杯頑張った台詞。しかし、クリスは冷徹に応えた。
「ヘルガお嬢様。それは、承服できません」
「どうして? どうして、ヴァレルだけなの?」
ヘルガは感情を爆発させた。顔を真っ赤にしながら、捲くし立てる。
「貴方は知らないでしょうけど、剣の腕は、私の方がヴァレルより上だわ。試合でも負けないし。喧嘩をしても、勝つのはいつも私よ」
背の高さだけは、ヴァレルの方が少しずつ高くなっている。それには気づいていたが、ヘルガは無視した。そんな理由で、何でヴァレルと私は、別々でなくちゃいけないの。
散々言葉を叩きつけても、クリスは何も言わずに、受け止めていた。いつもの軽薄そうな態度が、いつの間にか掻き消えて、困ったような顔をする。
「……お父様ね。お父様が、わたしに剣を教えるのを、許さないんでしょ!」
「そうでは、ありません」
クリスは初めて口を開くと、じっとヘルガを見た。巻き毛の下で、綺麗な碧色の目が、
輝いて見える。
「貴方に剣を教えるのをお断りしたのは、私の方です」
淡々とした口調が、ヘルガの感情を逆撫でする。
「理由を教えなさい! クリス、貴方はマグナス家に雇われているだけでしょう? ……ヴァレルとわたしを、何であんたなんかが、引き離すのよ……」
頭の中が高速でぐるぐると回って、自分でも嫌な気持ちが、一気に大きくなる。支離滅裂になった思考を抑えきれずに、熱い液体が、両目から溢れ出す。
「……わたしが、女だから……だから、ヴァレルと一緒には……」
崩れ落ちるヘルガに、クリスは静かに答えた。
「その答えは間違いではありませんが。正確さに欠けていますよ」
顔を上げると、クリスは膝をついて目線を合わせる。
「どういうこと……」
「私は、少し残酷なことを言わなければなりませんが。お聞きになりますか?」
ヘルガは躊躇せずに、こくりと頷いた。
「性別という要素は、私の判断基準としては、それほど大きなものではありません。それは、腕力や体力といった一部の条件に過ぎず、他の方法で補うことができるものですからね」
クリスは言葉を選びながら続ける。その気遣いが、相手のプライドに触れないように、細心の注意を込めながら。
「はっきり言いましょう。お嬢様の剣技は、私の流儀と合わない。以前に、道場で拝見させて頂きましたが、貴方の技は試合用であって、私が教える実戦―――殺し合いには、向いていないんですよ」
「そ、そんなこと……これから、貴方が教えてくれれば……」
「それが無理なことは、お嬢様自身が、一番判っているはずです」
容赦のない言葉を、ヘルガは必死に受け止める。本当は気づいていたのだ。自分には、人を殺す技を使うことなど、できないことを―――。
黙りこんだヘルガから、クリスは視線を外して立ち上がる。下手な慰めの言葉など、今の彼女には不要だろう。相手が少女といえども、女性相手に対応を間違えるクリスではなかった。
「もう少しだけ、話をしても良いですか?」
「な、何よ……」
強がって声を出す少女を、健気で可愛らしく思ったが、クリスは表情を崩さなかった。
「貴方に剣を教えることはできませんが、提案することはできます。将来がどうとか、そんなことは申しません。今の貴方が、本当にヴァレルの隣にいたいと思っているなら、一つ方法があります」
ヘルガは顔を上げて、じっとクリスを見た。まだ涙に濡れている二つの青い目が、真っ直ぐにクリスを見据える。
「マナ・アートには、四系統の力があります。私がヴァレルに主に教えているのは、直接相手を仕留める技、武装技術ですが。貴方には、他の選択肢だってあるんですよ」
「……言錬技術」
音の一つ一つを確かめるように、ヘルガは、ゆっくりと呟いた。
クリスは安心したように、微かに笑みを浮かべる。
「それだけでは、ありません。要するに、誰にも複数の選択肢があり、それを組み合わせ、使い方を選ぶことで、色々な可能性を見出すことができる訳です。私の得意分野でないことを、お嬢様に教えることはできませんが、それも大した問題ではないでしょう」
ともに歩くという本当の意味。ヘルガは、自分が何に苛立ち、何を恐れていたのか、気づいたのだろう。
痛い気な少女の悩みを解決するなど、自分には似合わないことをしたと思いながら、クリスは頭を掻いた。
自分のしたことが、恩人であるガーランド・マグナスの意向に添ったものであるのか。確信は持てなかったが、後悔はしていなかった。自分をマグナス家に招いたのは、ガーランドの選択肢だ。本人ではない自分が、親と言う未知の経験を積んだ彼の意図を、全て知ることなどできない。
「クリス、待って……」
立ち去ろうとしたクリスを、ヘルガの声が呼び止める。
少女は涙をごしごしと擦ってから、立ち上がった。
「ありがとう、クリス。でも……わたしは貴方のこと、大嫌いよ」
涙で赤い目に、今できる精一杯の笑顔を浮かべて。
※ ※ ※ ※
王立学院をヴァレルよりも一年早く卒業すると、ヘルガは、聖ヴィレネッタ大学の門戸を叩いた。
ジェノベーゼ王国、というよりも、ラグナード大陸西部では屈指の名門校であり、ヴァリアス、シャンパルーナといった歴史と伝統的のある国々から、マナ・アートに精通した教授を招いている。
ヴァレルが士官学校に進むのは知っていたが、それを待つことなく、ヘルガは自分で進路を決めた。
「学校の成績だって、いつも私の方が上なんだから。ヴァレル、貴方の成績だと少し心配だけど。自分の進む道は、自分で決めなさいよ」
「あのなあ。オレの方が兄貴なんだけど」
「だったら、兄貴らしくしてよね。相談なら、いつでも聞いてあげるわよ」
国外への留学も考えたが、留学がプラスになるレベルまで、今の自分の実力は達していない。それを冷静に受け止めるくらいには、ヘルガは大人になっていた。
それに―――。
兄妹としての今の距離感を、もう少しの間だけ、今のまま感じていたい。ヴァレルには、絶対に知られたくはなかったが、これも本心だった。たった二人きりの兄妹なのだから、そのくらい思っても当然だ。こちらの気持ちも、ヘルガは素直に受け止めていた。
※ ※ ※ ※
ヴァレルが士官学校に入ると、二人が一緒に過ごす時間は、一気に短くなった。
全寮制の士官学校に入ったのだから、あたり前のことだ。しかし、あまり会えないことを気にする素振りも見せないヴァレルには、決して少なくない憤りを覚えた。
「私だって、暇じゃないのよ。何であんたに、付き合わなくちゃならないの」
士官学校の最初の休暇に、家に戻ってきたヴァレルを、ヘルガは素っ気無く迎えた。
「おまえさあ……。そんなにイライラしてると、彼氏もできないぞ」
「うるさいわね! 彼氏なんて、今はいらないのよ。私が何人の男を振ったか、知らないくせに」
ヴァレルの休暇を待たずに、クリスは、マグナス家を去っていた。
二人は、久しぶりに一緒に買い物をして、食事のテーブルを囲んだ。さすがに寝室はもう別々だったが、数日の間、ほとんどの時間を一緒に過ごしたが、ヴァレルは一度も、クリスが出て行った日のことを聞かなかった。
初めは、自分ではなくヘルガが彼を見送ったことを、拗ねているのかと思った。しかし、その考えを、すぐに打ち消す。ヴァレルは、細かいことを、いちいち気にする性格ではない。そんなことは、ヘルガが一番判っているのだ。
だから――
「ねえ、ヴァレル……」
休日の最後の夕食を終えた後、ヘルガは自分から切り出した。
「ヘルガ。どうしたんだよ、急に改まって」
「クリスがいなくなった日のことを、聞かないの? あんなに仲が良かったのに、どうして?」
「何だ、そんなことか」
ヴァレルは、可笑しくてたまらないと、大きな声で笑った。馬鹿にされたような気がして、ヘルガは頬を膨らませる。
「何だって、何よ。人が折角、気を使って聞いてあげたのに」
「ああ、悪い、悪い。でも、良いんだよ。あいつとは、別に、たいして仲が良かった訳でもないし。別れは、最後の授業のときに済ませたから」
本当に拗ねているのかと、ヘルガは疑いの目でヴァレルを見る。
「オレが嘘をついてるって、思ってる顔だな……ヘルガ。そういう訳じゃ、ないんだ。オレとクリスは、そんな関係じゃない」
ヴァレルは、まるで子供の頃と同じように、素直な笑みを浮かべた。こういう顔をしたときのヴァレルは、本当に弟のように思える。
「笑うなよ、ヘルガ」
「絶対に、笑わないわよ」
「聖ヴィレネッタに誓って、絶対に、だぞ」
ヘルガの大学の創設者である聖人の名前を出して、ヴァレルは念を押してから、ようやく言葉を続けた。
「オレは、クリスのことを……同志だって思っているんだぜ。同じ志で、同じ場所を目指している。きっとクリスだって、同じ気持ちだよ。年は違うけど、師匠と弟子でも、先輩後輩とも違う。やっぱり、同志って言葉が、一番しっくりと……」
ヘルガが唖然としているのに気づいて、言葉を詰まらせる。
「おい、ヘルガ……」
「……ど、同志? ……同志ですって……」
ヘルガは、堰き止めていた水が一気に流れ出すように、爆笑した。
「おまえ、絶対笑わないって……」
「あんた……そんな恥ずかしい台詞を……よく、ぬけぬけと言えるわね。逆に尊敬しちゃうわよ。ねえ、もう一度言ってごらん?」
「ふざけるなよ。ヘルガ、黙れ。約束しただろう!」
「あら。確かに、聖ヴィレネッタに誓ったけれど。残念ながら、私は、ヴィレネッタの信者ではないのよ。彼の学説には、沢山の矛盾があるわ。それを完全に否定するために、私は、あの大学を選んだのよ」
「そんな理由で、大学を選んだのか?」
「半分はね。もう半分は、いい先生が大勢いるから。剣で何でも解決できるって思っているあんたには、判らない話でしょうけど」
「オレだって。何でも解決できるなんて、考えてないぜ」
「でも、大抵は解決できるって、思ってるでしょ?」
ヴァレルは、それ以上は言い返さなかった。
ヘルガも、ヴァレルが、そこまで単純な人間だとは思っていない。最後に剣で解決するために、策略を巡らせるのが、ヴァレルのやり方だ。
けれども、それ自体が、自分にとっては単純すぎる考え方だと、ヘルガは思っていた。いかにして剣を使わなくてもいい状況を作るか、そっちの方が賢いやり方だ。
「ごめんね、ヴァレル。そんなに怒るとは思わなかったの……」
下を向いて、嘘泣きをする。
「い、いや……そんなに、気にするなよ。オレだって、大声を出して悪かった」
困った顔をするヴァレルの顔を盗み見て、ヘルガは舌を出した。
―――ホントに、判りやすいのね。そんなんじゃ、心配になるわよ。
ヘルガは目を擦って赤くしてから、顔を上げた。
「クリスから、伝言があるんだけど、聞く?」
「……うん」
戸惑うヴァレルを、ヘルガは可愛いと思った。