10 双子の兄ヴァレルの無謀
この秋から、ヘルガは国外の大学院に留学することを決めていた。
大陸東部の大国ヴァリアスのエルミア帝国大学。大陸随一とも言われる超名門大学のマスターコースは、単なるレベルだけの問題ではなく、ヴァリアスという歴史ある大国の研究成果の結晶に触れることができる唯一の教育機関だった。
マナ・アートの研究者を志しているヘルガにとっては、まさしく第一志望の進路ではある。しかし、エルミア帝国大学は、東の彼方。二人の家がある王都クリオネスティから、陸送船を使っても、優に一ヶ月は掛かった。
ヴァレルも海軍に入隊したら、父親と同じように、家に帰ることは稀になるだろう。生まれ育った街を離れて、兄妹がそれぞれの道に進む。ヘルガも、いつまでも子供でいる気はなかった。その覚悟はとうにできている。だからこそ―――。
最後の旅行くらい、ヴァレルと一緒に過ごしたい。それがヘルガが、クランベルクに同行した理由だった。
「ほら、私のことはいいから。そろそろ船室に戻らない?」
ヘルガは話題を反らすようにして、ヴァレルを促す。さすがにストレートに伝えるには、恥ずかしい理由だった。
このときヴァレルは、もう別のことを考えていた。
「いや、それよりもさ――」
ヴァレルは再び、夜の闇に沈む彼方を見ていた。完全に闇に落ちた世界に、やはり光は見えない。
「吸光霧のことだけど。おまえの言錬技術で、中和できないか?」
まだ、そんなことを言うのかと、ヘルガは呆れた。
「また騒ぎを起こしたいの? 船上でマナ・アートを使うのは禁止だって、クレイ船長に釘を刺されたてしょ」
「そんなの。バレなきゃ、良いだろ」
「バレバレよ! あれだけ派手にやったんだから、私たちは船員に監視されてるに決まっているわよ」
視界に船員の姿は見えなかったが、監視の方法は幾らでもある。そう考えるのが妥当だと思うが、ヴァレルは大胆不敵と言うか、ここまで来ると単なる馬鹿かも知れない。
「仮にね、私が目の前の霧を中和したとしても。すぐに別の場所から霧が押し寄せて、視界を塞がれるわよ。シャンパルーナの最高学術院ですら、広域の吸光霧を消し去る方法なんて知らないわ」
「そうだよな―――だったら、他の方法はないか?」
ヴァレルは、期待した目でヘルガを見た。おまえなら、どうにかできるだろうと。
「あんたねえ。無茶言わないでよ」
そう言いながら、ヘルガは真面目に考えていた。
「例えばね。飛翔系の使い魔なら、霧を突き抜けて、クランベルク市街まで飛ばすことができるわ。クランベルク市まで、あと十キロはないはずだから、視界のリンクも途切れないと思うわ」
「使い魔か。オレは、操作系技術なんて使えないぜ」
操作系技術とは、言錬技術を構成する八大要素の一つだ。そして、操作系技術によって発動させる、動物を使役する能力が、使い魔だ。
「あのねえ。そのくらい、憶えておきなさいよ」
「どうせ使えたところで、使い魔にする鳥がいないだろ?」
「だ・か・ら、こういうときのために、事前準備にするんでしょう」
ヘルガは、少し馬鹿らしくなったが、意地になって思考をめぐらせる。
「召喚系技術と知覚系技術の連携なんて、あんたにできるはずはないし……他に、ヴァレルでも、できることは……」
ヘルガの思考を止めたのは、ヴァレルの声だった。
「悪いな、ヘルガ。もう、必要なくなった」
何を言い出すかと、ヘルガが呆れた顔をすると、ヴァレルは身振りで、視線を促した。
いつの間にか。陸送船の周囲の風が、完全に止んでいた。
四本のマストに張られていた帆は弛み、マストの下の方に垂れ下がっている。それだけではない。湿気を帯びた生暖かい空気が、身体にまとわりついてくる。
「何が起きているか、判るか?」
「―――磁気嵐?」
それは、スクラド地方独特の、もう一つの自然現象だった。夏の終わりに、強力な磁気を帯びた質量を伴う重い風が、忽然と出現して荒れ狂う。
磁気嵐が起きる直前は、まさに今のように、風が止んで、湿気を帯びた空気が満ちてくる。この旅のために読んだ地理書の一冊に、確か、そう書かれていた。
「正解みたいだな」
船員たちの反応も、ヘルガの判断が正しいと告げている。今まで姿を見せなかった彼らは、甲板を走り周り、マストに掛けられた帆を手早く畳んでいた。戦が始まるときにも似た空気が、船上を支配する。
物見台に登った船員の一人が、警鐘を叩きながら叫んだ。
「嵐が来るぞ! 乗客は、すぐに船室に戻れ!」
「決まりだ。さてと。おまえは、どうするよ?」
繰り返される言葉を聞きながら、ヴァレルはニヤリと笑う。
「おまえはって、あんたはどうする気よ? 私たちも、早く部屋に戻らないと」
「おいおい、本気かよ? せっかく、幸運が舞い込んできたんだぜ。自分で手を伸ばさなければ、逃げちまうじゃないか」
ヴァレルが言いたいことなど、ヘルガには判っていた。
「クランベルクの光を見ることが、あんたの目的じゃないでしょ? そんなことのために、危険を冒すことないじゃない」
「転がり込んできたチャンスを見逃した奴には、次のチャンスは絶対にやってこない。さっきも言っただろう? オレは、自分の手で掴み取れるか、試してみたいんだよ」
こうなったら、もう、ヴァレルを止めることなんてできない。




