リリン
それからの二人の旅路は順調であった。エルジンジャンを発ち、次に立ち寄ったのはタブリーズという大都市であった。二人はここに一月ほど滞在し、わずかではあったが日銭を稼いだ。クリスはもっぱら力仕事を、グレースはその魔法の才を活かして町医者をしていた。犯罪の発生率が非常に低いこの時代、良くも悪くもうまい話は転がってなどいなかった。二人は堅実に仕事をこなし、分相応の額の旅費を集めるのだった。そしてそれから二人はギーラーンと呼ばれる湖畔地帯にやってくる。
ギ―ラーンはカスピ海と呼ばれる巨大な湖に面する港湾都市である。グレースによれば元は都市の名前ではなかったらしいが、都市の統廃合が進む中でこの名前に落ち着いたらしい。街の主要産業は漁業で、湖で取れた魚介類が市場に並ぶ。一方で都市の南西方向には山岳があり、こちらでは林業が行われている。この資源豊富な都市はタブリーズに次ぐ大きさの規模であり、エルジンジャンよりも遥かにうるさい街であった。二人は山の中腹からこの街を見下ろしていた。
「うわ~、随分と大きな街になったなぁ」
木々の切れ間から都市の全景が見えた時に、彼女が開口一番に発した言葉がそれであった。
「昔は違ったのか?」
「私が居た頃はもっと小さな港町だったの。あんなに大きな船もなかったわ」
「ほほー、それならグレースの知らない場所もたくさんありそうだな。それでリリンさんの住んでいるのはどこなんだ?」
「この山の尾根沿いに進んだ……あそこだよ。たぶん」
自信なさげに彼女が指差した先からは一条の白煙が伸びている。誰かが生活しているようではあった。
「あそこか。誰かいるみたいだな」
「お姉ちゃん、いるかなぁ……」
不安な彼女を余所に、煙の場所までは問題もなく辿り着くことが出来た。道なき道を進み、ついにボロボロの木造家屋が見えてくる。その外壁は蔦で覆われ、もはや自然と一体化していると言っても過言ではなかった。グレースは小走りで駆けていき、その小屋のドアを叩く。
「開いていますよ」
中からはグレースによく似た落ち着いた女性の声が聴こえた。グレースは満面の笑みを浮かべてドアを開く。
「お姉ちゃん!」
「よく帰ってきましたね、グレース」
中に居たのはグレースよりも淡いパステルブルーの髪と瞳を持った女性であった。長身の彼女はクリス並みに背があり、大人の女性らしい体つきをしていた。そして何よりも目を惹くのが、こめかみから伸びる人差し指ほどの太さの真っ黒な触手であった。彼女はその触手の頭を持ち上げ、クリスの方を見て左右に振った。手を振っているつもりらしい。グレースは普段とは打って変わり、純朴そうな女の子らしく女性に抱き着く。女性はそれを抱き留め、背中を撫でながらクリスにも手招きした。
「クリス、貴方のことも待っていました。さあ遠慮せず上がってください」
「なんで俺の名前を……!?」
「説明は必要ないはずです」
「マジで神様だってのか……マジか」
クリスは超常の存在が住まう家に恐る恐る足を踏み入れる。ギシリと床板が軋んだ。
「初めまして。私はリリン。生命を司る神と呼ばれています」
「あ、どうも……。生命?」
「はい。主に下界……この世界の生命を維持、管理するのが役目です」
「とんでもない神様だな。もしかしてすごく偉いのか?」
「いえいえ、私は神の中でも中くらいです。人間を始めとした生命の管理は中間管理職の仕事なんですよ」
リリンは苦笑いする。その人間らしい仕草に、クリスはどこか親近感を覚えるのだった。彼女はこめかみから伸びる触手で椅子を2脚掴み、グレースとクリスのためにそれを持ってくる。二人は促されるままにそれに腰掛ける。神様の家だと言うのに、椅子はかなりボロボロであった。クリスはそれに全体重を掛けるか迷った。
「さて、二人がここに来た理由は分かっています。ですから、しばらくここに滞在するとよろしい。しかし……」
リリンは腕を組んで部屋を見回す。見回すほども物がないボロ小屋を見て、彼女は何を思案したのか。少しの間うんうんと唸り、そして指をパチンと鳴らす。
「だいぶ古くなりましたね、この家も」
「普段住まいじゃないのか」
「普段は天界に居ます。誰かに呼び出された時だけここに来るのです。……さて、まずは家のリフォームから始めていきましょうか」
ここからまさかの人力でのリフォームが始まった。クリスは唯一の男手として馬車馬のごとく走らされるのであった。
背の高い木が一本、また一本と切り倒される。枝に止まっていた鳥が羽ばたき、森をざわつかせる。深い深い森の中で、クリスは木こりの真似事をしていた。グレースは麓の街まで衣料品を買いに向かっており、彼の側では切株に腰を掛けて鼻歌を歌うリリンの姿だけがあった。家のリフォームをリリンは一切手伝ってくれなかった。だが彼女が口遊む鼻歌を耳にしていると、自然と心が穏やかになり、彼女に対してネガティブな感情を抱くことはなかった。どこかで聞いたことのあるような鼻歌なのだが、どうしてもそれが思い出せない。
「リリン、それなんて歌なんだ?」
「これは胎音ですよ。人は皆、私のこの歌を聴きながら生まれるまでの時を過ごすのです」
「えっと……」
「母親のお腹の中にいる時に聴いていた音楽です」
所謂胎内音というものだろうか。クリスは手を止めて彼女の言葉の意味を考える。
「言葉通りの意味ですよ。難しく考える必要はありません」
頭の中を見透かしたようにリリンは言う。そうしてまた鼻歌を歌い始めた。綺麗で優しい人だ。だが女性を見るのと彼女を見るのとでは、認識が根本から異なるようでもあった。一言で表すなら神聖なのだ、彼女は。
そんな彼女に目を奪われながらも、クリスは止まっていた手を再び動かし始める。必要な数の材木はそれから数時間で揃えることが出来た。魔法様様である。その頃にはグレースも戻ってきて、彼女の買ってきた食材で昼食を取ることにした。今日の昼食はスパイスをふんだんに使ったラム肉の串焼きであった。アドリアでは屋台でたまに見かける程度の料理であったが、この辺りではメジャーな料理らしく、食材も廉価で簡単に手に入ったのだという。
「ケバブ。そんな感じだったよね。この料理の名前」
「そんな名前だったかも?運動した後だと美味いわ!」
「さ、お姉ちゃんも食べて食べて」
グレースは遠慮するリリンにケバブを押し付ける。困惑の表情をしながらも彼女はケバブに被りつく。ケバブから肉汁が溢れ、彼女の口元を伝う。
「どう?美味しく焼けてるでしょ?」
「ええ、美味しいですよ」
「ホント!?よかったー!」
小さなグレースはニコニコと笑う。そんな嬉しそうな彼女を余所に、クリスはあることを考えていた。
「(神様も飯食うんだな……。入るってことは出るってことだよな。ウンコすんのこの神マジ……!?)」
「しません!」
グレースの髪を撫でつけながら、リリンは明確に否定した。やっと彼女の神秘のベールが剥がれてきた気がした。
「じゃあそれどこに行くんですか」
「全て生命エネルギーへと変換され、私の一部となります。あまり不敬なことを考えてばかりだと怒りますよ」
ぴしゃりとそう言い捨てると、彼女はべちべちと触手でクリスを小突く。触手は細い割にみっちりと肉が詰まっているらしく、叩かれるとそれなりの衝撃を感じた。
「普通にいてえ!やめろ!なんも言ってないだろ!」
「二人ともどうしたの?」
「ふふふ」
リリンは肉汁を拭うと、面白おかしく笑う。彼女に一人話しの見えないグレースは不思議そうに首を傾げていた。
家のリフォームはそれから更に数時間で終わった。作業は順調で、日が暮れる前には住める程度の家が完成していた。リリンはまだ何も家具のない部屋の中でゴロゴロと転がる。
「すっかり綺麗になりましたね」
「神様ってみんなこんななのか」
「お姉ちゃんもみんなの前ではしっかりしてるよ?今は私とクリス君しかいないからじゃないかな」
自由気ままにくつろぐリリンを見ていると、彼女はまるで猫のようだと思えてきた。神聖な猫、そんなイメージだ。神聖な猫はしばらくゴロゴロと転がった後、ふと何か足らないと言いたげに腰をあげる。
「どうしたのお姉ちゃん?」
「足りないわ」
「何が」
「貴方達がイチャイチャするためのベッド!」
「「余計なお世話!!」」
神様とは難儀なものだ。余計な茶々を入れる彼女を家から蹴り出すわけにもいかず、無粋な発言は聞き流すことに徹するしかなかった。それから日は落ち、夜がやってくる。家には暖かなオレンジ色の光が灯り、森から吹く静かな風が家の中を通り抜けた。
夕食もケバブであった。連続ともなると感動も薄れ、特筆する感想もないのである。クリス達は床に毛布を敷き寝る準備をする。入浴は近くの川で。リリンは不要らしく、彼女はそのまま家で留守番。クリスとグレースは交代で入浴を済ませた。
そしてクリスが入浴から戻って来ると、家の中は神妙な空気に包まれていた。グレースはリリンの前で座り込んで、何やら真剣な面持ちであった。
「どうした、二人とも」
「私の目的を話そうと思うのです。クリス、貴方も聞きなさい」
「ん……、ああ」
自然と体は動く。クリスはグレースの隣に座りこむと、その視線をリリンへと向けた。二人が聞く姿勢を作ると、おもむろにリリンは口を開く。
「貴方達が魔獣と呼ぶもの、その正体について考えたことがありますか?」
「いや……考えようにも情報が足らなかった」
「端的に言ってしまうとあれは我々と敵対する神の作り出した生命体です。被造物という点では貴方達人間と同じ立ち位置の存在ですね」
「じゃあなんでそんな存在同士争っているんだ?」
「ミズガルズ……この世界の覇権を求めて、私達に挑戦をしてきている悪しき神の一派があるのです」
突拍子もないことを彼女は淡々と述べる。取り繕おうとしないところが、逆にそれが言葉に真実味を帯びさせる。
「つまるところ、人間は神様の争いに巻き込まれてるっていうことか?」
「そういうことになります。そこで貴方達人間にお願いがあるのです」
「……どんな?」
「神の相手は神がします。しかし私達も手一杯で、魔獣の相手をしている余裕がありません。ですから、人間にはその魔獣の相手をお願いしたいのです。グレース、クリス、二人にその旗振り役を担って欲しいのです」
「それは難しいような……」
クリスはグレースと顔を見合わせる。今、二人はお尋ね者なのだ。とても人々の陣頭に立てるような立場ではないのだ。それ故にリリンから与えられる大役を果たせる気がちっともしなかった。だがリリンは余裕そうな笑みを浮かべる。
「大丈夫ですよ。そのために私がいるのです」
人の心を包み込むような柔らかな笑みに絆されて、根拠も無く、何とかなりそうだとクリスは考えてしまうのだった。




