プラトニック?
二人の逃避行は順調な滑り出しの割に、その目的は曖昧だった。月明りが照らす深い森の中に二人は着陸した。クリスはグレースと繋いでいた両手を離し、恥ずかしそうに顔を背ける。
「な、なんかノリで手繋いじゃってすまない。……ここはどこだか分かるか?」
「うん。元々トルコって呼ばれていた辺りだよ」
「トルコ?」
「うん。イスタンブールっていう大きな都市があった場所なの」
「なんだそりゃ。初耳だぞ」
「まあ……昔の戦争のせいで無くなっちゃったからね」
「ああ……」
ここはどうやら反物質爆弾の影響で崩壊した都市跡地らしい。都市があった形跡はもうどこにもなく、不自然な形にえぐり取られたクレーター湖だけがいくつも残されていた。辺りは木々が生い茂り、人の生活の形跡もない。
「なんでここがイスタンブールだって知っているんだ?」
「教えてくれた人がいたの」
空に輝く月は満月で、それを見上げる少女の顔を照らした。吹き抜ける風にワンピースを揺らす彼女は、どこか遠くを見ているようで、それがクリスには郷愁を感じているように見えた。
「私には一人だけ家族がいるの」
「ローゼンスタインはいないって言っていたけど」
「秘密にしていたからね。リリンっていうの。私のお姉ちゃんなんだ」
「姉か。親はいないんだな」
「親の話は聞いても教えてくれなかったから。昔からお姉ちゃんが私のお世話をしてくれてたの」
クリスには兄弟も家族も居なかったから、彼女が姉を懐かしむ気持ちはあまり分からなかった。孤児院も懐かしくはあるが、家族とはまた違う感覚なのだ。故に満月を見上げても何も感じはしなかった。
「今はその人はどうしているんだ?」
「ペルシャの秘境で静かに暮らしていると思う。……会いに行ってみる?」
振り向きざまに彼女の髪がふわりと広がる。その美しい髪が数本宙に舞って、月光を浴びてキラキラと光った。まだ見ぬペルシャの地に何が待っているのかは分からない。だが宙ぶらりんのまま彷徨うよりは幾分かマシなはずだ。クリスはそう考え、彼女に向かって頷く。
「決まりね。お姉ちゃんに会うの、何年振りかしら」
故郷を思うグレースの横顔は、単に望郷の思いを馳せているだけではなさそうに見えた。グレースはさも当たり前のように左手を差し出す。少し迷いながらもクリスはその手を握った。二人の後ろ姿はさながら親子のようであった。
陽炎が揺らめき、乾いた砂が舞う。太陽は燦燦と輝き、白い砂は熱を帯びていた。二人の男女は砂避けのフードを目深に被り、輝く太陽の下、ペルシャ地方のある場所を目指していた。見渡す限り砂ばかりのそこは、茹だるような暑さであった。ペルシャ地方は乾燥した砂漠の広がる土地で、年中を通して暑い気候となっている。温暖なアドリアで育ったクリスには少々辛い環境であった。グレースも玉のような汗をかいてはいるものの、クリスよりは慣れているように見受けられた。
行く宛ての無い二人はグレースの知人の元へ向かっていた。それはリリンという名の女性で、彼女の育ての親らしい。連絡を取るのも困難な山の中に住んでいるらしく、直接会いに行く以外にリリンとコンタクトを取る方法はないのだそうだ。
「少し休憩しましょ」
熱い砂の上にグレースは腰を下ろす。クリスも隣に寝そべった。ザラザラの砂が身体中にへばりつく。
「体調は大丈夫?」
「ああ、大丈夫だ。グレースは」
「私も」
日差しがジリジリと肌を焦がす。アドリアから逃げ出して3日が過ぎた。途中までは高速飛行を行うことでアドリアから出来るだけ距離を取っていたが、昨日から手配書が出回ったらしく、追手に遭遇することもあった。そのため目立たないように高速飛行は控えているのだ。初日こそグレースの一挙手一投足にドキドキと心躍らせていたクリスだったが、3日も過ぎれば多少は慣れてくるものであった。何も物を持たずに飛び出してきたこともあり、夜は二人寄り添って寝なければ暖を取れず、水浴びやトイレも交代で行わなければならなかった。最初その事実に気が付いた時は、クリスはどうしようかと頭を悩ませたものだが、肝心のグレースはあまり気にしていないようで、事なきを得たのだった。しかし彼女の振る舞いは年頃の少女のそれではなく、どちらかといえば、あの大人のグレースのものに近かった。そこがどうにもクリスには不可解であった。
「なあグレース。お前何歳なんだ?」
以前の年齢は40代と聞いていたが、クリスにはとてもそうは思えないのであった。どちらかと言えば、それ以上の落ち着きを持っているように思えたからだ。グレースは顎をさすりながら思案する。果たして正直に答えても良いものかと悩んでいるようだった。
「うーん……」
彼女は唸りながら、品定めするような目で彼をしばらく見つめると、ふぅとため息をつく。そして重い口を開いた。
「私ね、実はあんまり覚えてないの」
「覚えてない?」
「あんまり信じられないかもしれないけど、私今までに何度か死んでいるの。でも死ぬ度に前の記憶は薄れていってしまって……。もう4回以上死ぬ前の記憶は思い出せないの」
「は?」
決して馬鹿にしているわけではないが、正気を疑うような声が思わず口から漏れてしまう。グレースは「そんな顔しないでよ」と言いたげに肩を竦める。掛ける言葉も分からず、クリスはポリポリと頭を掻くことしかできなかった。
「みんなそんな顔をするわ。でも本当なの。私もう何百年以上も生きているのよ。だから魔法もたくさん知っているの」
「そこは辻褄が合う。だけどいきなり信じることはできない。なんかこう……もっと信じられるものないの?」
「うーん……、お姉ちゃんに会えばちょっとは信じてもらえるかも。何て言うか、特殊だから」
「特殊?」
「まあ、会えば分かるよ。……あんまり驚かないでね。傷つくらしいから」
「見た目がすごかったりするのか?」
「ちょっとだけね」
彼女の目が泳いだ。どうやらその言葉にあまり自信はないらしい。
「どうなっているんだ?」
「えーっとその……。細い触手が生えてるの。もみあげあたりから」
「なるほどそれは奇妙だ。なんでまたそんなものが生えているんだ」
「……か、神様だから」
歯切れ悪そうに使われたその言葉は、ミステリアスなイメージのグレースからも中々出てこない言葉だった。神様とは嘘をつくにも大きく出たなとクリスは感じる。普段なら、彼女がグレース本人かどうか怪しくなってくるところだが、不思議とその心配はしていなかった。
「神様ねぇ……」
「信じてくれる……?いや、見た方が早いんだけどさ」
「まあ……見てから考えるよ」
クリスは自信なさげに答えた。言い換えてしまえば、これから神様の居る場所へ行こうとグレースは言っているのだ。それは自信も無くなるというものだ。神様など空想上の存在に過ぎないと思っていたものだから、急に実在すると言われても反応に困るのだった。
それから一晩が経ち、二人はペルシャ地方のエルジンジャンという街にたどり着いた。街の両端を山に挟まれた谷あいの街には人が集まり、活気にあふれていた。ペルシャ地方の中でも大きな街のようで、手頃なホテルもちらほら見受けられた。街に辿り着いたのは夕暮れ時で、仕事帰りの若者たちが歓楽街で華を買いあさっているのが目についた。アドリアと違って随分と自由な風土を持っているらしい。クリスはさりげなくグレースを隠すように立つ。
「クリス君。そこを歩かれると邪魔だわ」
「……」
物の数秒でグレースからの苦情が出る。見た目こそ儚げな少女だが、中身は大魔法使いなのだ。くだらないプライドは汲んでもらえず、クリスはすごすごと元の位置に戻るのだった。
「それにしても騒がしい街ね。アドリアとは大違い」
街の至るところにスピーカーが並び、それぞれが思い思いの音を垂れ流す。あるものは商品の宣伝を、またあるものは音楽を。とにかく騒がしいというのがこの街の印象であった。グレースも耳障りだと言いたげに苦い顔をするのだった。
「昔はこうじゃなかったのか?」
「ええ。昔はこんな俗っぽい街ではなかったの。きっと今の権力者の趣味ね」
「よく受け入れられたなあ。こんな趣味」
「人間誰しも、騒げる口実があるなら騒ぐものよ。私だってそういうところあるわ」
「それは知っている」
「随分な言い方ね」
「アドリア出ていく時のアレは言い訳出来ないだろ」
アドリアを発つ時、グレースは色とりどりの火花を散らしていた。あの無意味な魔法はまさに騒げる口実があれば、というやつだ。クリスもあの時は気持ちが高ぶっていたから何も言わなかったが、後で冷静になって考えると一体何の意味があったのか疑問に思わざるを得ない。つまるところ、彼女も気持ちが高ぶっていたということなのだ。彼女の心を揺さぶったのは間違いなく自分だと思うと、クリスはそれがちょっと嬉しいのだった。
「ち、違うし。ちょっと嬉しかったのは認めるけど……」
夕焼けの中でも分かるほど、グレースは頬を赤く染めた。少し早足で先を急ぐ彼女に遅れないよう、クリスもまた早足になるのだった。
その日の晩は久しぶりにしっかりとしたベッドで睡眠が取れそうだった。所持金は心もとないが、快適な生活にとっては変えられなかった。
宿は騒がしいメインストリートから一本裏路地に入ったところを選んだ。詳細については分からなかったので、完全に外観で選んだが、中も豪華な装飾こそないものの、清潔に保たれた良い空間であった。タイル張りの部屋を二人は靴を脱ぎ、素足で歩く。
「は~!久しぶりに野宿じゃない!最高ね!」
「俺は別部屋でゆっくりしたかったんだが……?」
ここは二人部屋だ。今まで二人くっついて寝ていたのだから、今更何だと言われればそうなのだが、クリスもちょっとは女性のグレースに配慮したいのだ。女性と付き合ったことがない彼には女性の扱い方も分かりはしない。小心者のクリスには胃が痛くなるような展開なのであった。
「追手が来たらバラバラに逃げることになるじゃない。そうしたらクリス君置いてきぼりよ?」
「いやそれはそうなんだが」
「宿代も一部屋分で済むし一石二鳥でしょう?」
「……」
クリスは大き目のベッドに腰掛ける。ベッドはギシリと軋んで彼の体重を受け止めた。その隣に、待ってましたと言わんばかりにグレースが飛び乗る。ベッドは再び軋むものの、むしろその反発の勢いでグレースはポンポンと何度か押し上げられていた。数日間野宿だった彼女からは汗ばんだ匂いがした。
「前にも聞いたけどさ、お前俺のこと男扱いしてないよな」
「そんなことないけど?どうしてそう思うの?」
「いや寝込みを襲われるとか……考えて無さそうだし」
その言葉を聞くと、グレースはふふんと鼻を鳴らす。
「正直なのは好きよ。でもねクリス君、それは男に与えられた特権ではないのよ」
「いやそんな権利がないのは分かって――」
「違うわ」
その瞬間だった。少女の手がドンとクリスを突きとばす。常人離れした力で押されたクリスはドスンとベッドに倒れ込んだ。そして無防備なクリスの腹の上にグレースの小さな身体が跨る。彼女はどこか艶麗な笑みを浮かべていた。
「強者の特権よ。それは。男の特権ではないわ。クリス君も私に襲われないか少しは心配したら?いざ襲われて私に勝てるの?無理よね」
「いやそれはそれで俺歓迎なんで」
「……」
いつだったか、フゥラに向けられたようなジトっとした視線をグレースに向けられた。一呼吸の間、グレースは複雑な顔をしながら何か思案しているようだった。クリスは率直な考えを述べたのであって、別段何も考えていない。だからこそこの情けない体勢でも堂々としていた。
「……まあ、私はクリス君がそんなことする人じゃないって信じてるってことだから。一応クリス君の願望は胸の内に留めておいてあげるけど」
「俺の願望」
「私に襲われたいっていうマゾヒスト願望」
「……」
「ねぇ、そこは否定してくれないかしら?」
「いやほら、フゥラとか俺の周りみんな強い女だったし……」
頭痛がする、とでも言いたげに彼女は顔を顰める。クリスも本当は否定しようと思ったのだが、いざ考えてみると否定できないところがあった。フゥラやミケーラ、どうしても自分の周りには強い女が多すぎる気がする。お陰で尻に敷かれるのが性になってしまっているところがあると、今更ながら自覚したのだった。それを残念そうに見つめられる。
「私の事を好きでいてくれるのは嬉しいし、私もクリス君のことは好きよ?けど、マゾ男は趣味じゃないの。もっと私を守れるような男らしい人になってくれたら、そういう関係になることも考えてあげるわ」
少女は余裕たっぷりの顔でとんでもないことを言い放つ。呆れと余裕の入り混じったため息を吐き、彼女はぴょんとクリスの腹の上から飛び退く。
「ぐえっ!……本当か!?いや!別に好きとかそういうのじゃなく!違うし!」
「はいはい。嘘ついてもバレてるんだから無理しないの」
「ん……?というかアレか?俺ずっと弄ばれてたのか?」
ふとクリスは気づく。気軽に手を握ってくれたり、寄り添って暖を取ってくれたり、彼女のガードはやたら緩かった。好意を知りながらやっていたのだとしたら、中々に残酷なことではないだろうか。そんなクリスの考えに気が付いたグレースは慌てた様子でそれを否定する。
「ち、違うの!私も好意を寄せてくれるのが嬉しくてつい……。恋愛とかあんまり私経験なくて……。本当よ?だからもっと私好みの人になって欲しいの!今のままは嫌!」
「あ……、ああ。なんていうか……、お互いのことがよく分かったな」
「えぇ……そうね」
両想い……とは違う、隔靴掻痒な感じだ。今一つ決め手に欠けるのが二人の関係だと言うことだろう。親友以上、恋人未満。そんな言葉で表すのが適当かすら分からない面倒な関係になるということだけはクリスにも理解出来た。この悶々とした気持ちをグレースにぶつけられれば重畳なのだが、残念ながら今の少女の姿の彼女にそんなことをする気は毛頭ない。せめて大人の姿のグレースであれば、一歩踏み出すことも考えたのだが……。
「私、先にお風呂入って来るわね」
「ああ……」
赤く俯いたまま、彼女は入浴しに行ってしまった。この後どんな顔して同衾すれば良いんだとクリスは頭を悩ませた。




