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初めの一歩

暖かいスープを器に入れ、野菜を盛りつける。肉は控えめに一枚だけ。バランスの良い食事をトレーに載せ、クリスは独房へと向かう。血液検査などの少女の身体検査が終わった後、あの少女は独房へ入れられていた。上級士官の会議が終わるまでそこで囚われるのだそうだ。それがローゼンスタインの下した判断だ。少し可哀想ではあるが、妥当な判断だとクリスは考える。


薄暗い電灯の下、コンクリート打ちっぱなしの空間を進んでいくと、少女が鉄格子にもたれ、分厚いコンクリートの壁をぼんやりと眺めているのが見えた。彼女はクリスの足音に気が付き、ゆらりと顔を動かす。これで牢に入れられてから五日経っている。


「食事だ」


「ありがとうクリス君」


少女は目も合わせずトレーを受け取る。そしてもそもそとパンを齧り始めた。カチャカチャと食器の音がした。あれだけの力を持っている彼女が大人しく牢屋にいる理由はなんなのだろうか。クリスはそれが気になっていた。故に鉄格子の前に腰を下ろす。


「……お前本当にグレースなのか?」


声を掛けても彼女は無視をした。食事を進める手は止まらないが、目だけはクリスを見ていた。それを会話してもいいというサインだと勝手に解釈しクリスは続ける。


「俺にはあの人が死んだなんて思えないんだ。実感が未だに沸かない。その理由がお前なのかどうかは分からない。だからハッキリさせておきたい。お前はグレースなのか」


彼女は一通り食事を終えるまで答えなかった。最後のスープを一思いに飲み干すと、彼女は小さく息を吐き、話を始める。


「……そうよ」


「俺の渾名は?」


「パンツソムリエ。理由は私の派手なパンツを干しているところを見られたから。それ以来、私は地味なパンツしか履いてない。死体のパンツも地味なはずよ。確認してきてもいいわ?」


「あっ……はい……」


「空も飛んだわ。覚えている?」


「覚えている。……あの時空の上で言った言葉は!?あれは誰も知らないはずだ!」


「そうね。あの時の質問に答えてあげましょう」


グレースは髪を掻き上げ、服を正した。そしてあの優しい瞳でクリスを見つめる。クリスは次の言葉を待たずして確信に至っていた。グレースだ。間違いない。


「私が守りたいものは“全ての生命”よ。決して人間だけではないの。この星を再び命で満ち溢れる星にするのが、私の望み、願い、目標。分かるかしら」


「俺には難しい」


「はい、正直でよろしい」


グレースは鉄格子の間から手を伸ばし、クリスの頭を撫でようとした。しかし小さくなったからか頭までは届かないのだった。


「……癪ね!」


「うるせえ。俺はローゼンスタイン中佐に報告してくる。ちょっと待っていてくれ」


クリスは暗い廊下を抜け、ローゼンスタインの元に走る。彼の執務室の前まで来た時、ちょうど扉が開いた。扉の向こうには神妙な面持ちのローゼンスタインとローラが居た。二人はクリスを見るなり重苦しく言葉を紡いだ。


「クリス君、彼女の様子はどうだい?」


「あ、そのことなんですけど、どうもグレース大佐本人らしいんですよ」


「そう、でも残念なお知らせだわ。クリス君」


「なんですか?」


「会議で彼女の処刑が決定されたわ。血液検査の結果が芳しくなくてね。」


「はぁ?どういうことです?」


「魔獣特有の成分が血液中から見つかったんだ」


「……え?」


二人によれば、魔獣が血中に含んでいる成分が微量ながら検査の結果発見されたそうだ。上級士官の会議ではこの結果が重要視され、あの少女は魔獣の間者であると結論づけられたのだそうだ。クリスは納得できず、ローゼンスタインに食ってかかる。


「でも俺しか知らないことを知っていました!」


「君の心を読んだのかもしれないだろう。血は誤魔化せない」


「……」


「待ちなさいクリス君!」


魔獣の血の成分が混ざっていたとはどういうことなのか。クリスはその事実が信じられず、医務室へ向かう。医務室は混雑していた。医師のネイサンは多くの将校に囲まれ、その応対に追われていた。どうやら検査は彼が行ったらしい。クリスは人の波をかき分け、ネイサンの元へと向かう。


「ネイサン!」


「おや、どうしたんだいクリス君」


「血液検査の結果、あの少女の、マジなのか!?」


ネイサンはポリポリと頭を掻くと、短く答える。


「ああ、本当だよ」


「そんな……、何かの間違いじゃないのか?混入したとか」


「いいや、ちゃんとチェックは行われた。間違いない」


彼はきっぱりと言い切る。そして一枚のカルテを投げてよこした。中にはあの少女の検査結果が並んでいた。医学知識の無いクリスにはさっぱりだったが、どうやらこの数字の羅列に問題があったらしい。将校たちも同じカルテのコピーを手に「あーでもない」「こーでもない」と口々に言い合っていた。


クリスはカルテ片手に来た道を戻る。ローゼンスタインの執務室の前にもう二人はいなかった。クリスは思考を逡巡させる。


「あそこだ!」


二人の行方をひらめいた彼は廊下を駆けた。訓練不足な彼の呼吸は乱れ、時々人にもぶつかりそうになった。何度も転びそうになりながらも、彼はグレースの収監された牢までやってくる。ちょうど彼女は牢から出されるところだった。


「グレース!」


「クリス君……」


今まで見たこともない鋭い眼光でローラが威圧する。クリスの声にグレースは反応するものの、言葉は返さなかった。寂しそうな眼差しの彼女が兵士に手を引かれていく。行き先は処刑場だ。間違いない。クリスは彼女の背中に手を伸ばす。しかしその手はローラに阻まれた。女性にしては長身の彼女だが、クリスほどの体躯はない。はずなのに、今の彼女はその体躯の何倍も大きな壁となってクリスに立ちふさがる。


「クリス君。やめなさい」


「なんでだよ!おかしいだろ!」


「詳しい検査の結果、あの子は人間とは体組織の構成が異なることが分かったわ。その一部が魔獣と同じ組成の体組織を含んでいる。これがどういうことか、分からないとは言わせないわ」


自分よりも背の低い女性が見下ろしていた。その眼光は心の内面にまで突き刺さりそうな鋭さだった。クリスはたじろぎ、一歩後ずさりする。その間にもグレースの背中はどんどん遠ざかる。


彼女の遺体を見た時とは違い、今度は明確に何かが失われていく感覚があった。彼女が手の届かないところへ行ってしまう。そんな気がした。


そんな喪失感と同時に沸き上がってくるものがあった。それは無謀な勇気だった。目の前のローラは元帥だ。どう転んでも敵う相手ではないが、不意打ちであればグレースと逃げるだけの一瞬の隙を作るのは不可能ではないはずだ。彼はそう考え、汗ばむ掌を服で拭う。ぐっと握った手に魔力を込める。


「退いてくれ!」


そう言って圧縮空気をローラの胸に押し当て、そのまま破裂の衝撃で吹き飛ばす。大して重くもない彼女の身体は後方に吹き飛ばされ、壁に背中を打ち付ける。


「うぐっ!?」


「グレース!!」


クリスは脚部にも魔力を込める。そして大きく跳躍するとグレースの手を引っ張っていた兵士を蹴り飛ばす。そのまま彼女の手を握って走り出そうとしたところで、背後から強い衝撃が彼を襲う。


「ぐあっ!!!」


「クリス!!」


そのままクリスは二転三転し、床に突っ伏した。慌てて体制を整えた時にはもう、目の前に真空の刃を振りかぶった状態のローラが居た。彼女は何のためらいもなく、その右手に纏った刃をクリスへと叩きつける。


「(ダメだ……!殺される……!!)」


そう確信し、腕で自身を守ろうとした。が、来たるべき痛みは来ない。恐る恐る薄目を開けると、そこにはローラの一撃を素手で受け止めるグレースの姿があった。


「ローラ。クリス君に手を出すのはやめて」


「魔獣が何を言うか!!」


ローラはそのまま刃を引く。本来ならそれはグレースの指を切り刻んでしまうが、不思議なことに彼女の手には傷一つついていない。グレースは反撃の素振りも見せず、落ち着き払った様子で突っ立っていた。


「やめて」


「クリス君、離れなさい。貴方は騙されているわ」


その言葉を最後に、長い呪文の詠唱が始まる。自分の知らない何かとてつもない魔法が飛んでくる。ビリビリと肌に伝わってくる刺激が、尋常ならざるものの顕現を予感させた。それに呼応してグレースも左手を前に突き出して、掌をパッと開く。ローゼンスタインもクリスもゆっくりと隅の方に寄ることしか出来なかった。そして凝縮された魔力が解放される。


「ティターニア・セラフ・フーガ!」


「オリュンポス・エクスシアイ・ヘパイストス」


「こんなところでセラフ級の使わないで欲しいな……!」


情けないローゼンスタインの小言を無視し、ローラの手からハリケーン級の暴風が放たれる。人体が受ければ無事では済まないその一撃は、捻じくれながら、轟音を立てて廊下を突き進んでくる。グレースは一歩も引かず、相変わらず左手を突きだしたままだった。そして暴風が彼女を飲みこもうとした時、それは何かにぶち当たり、彼女に害を与えることはなかった。何か透明な壁が彼女の前に展開しているのだ。荒れ狂う暴風の中、彼女は微動だにすることなく凛と澄ました顔をしていた。やがて風は収まり、そこに無傷で立つグレースを見て、ローラは驚愕の表情を見せる。


「……」


初撃の有効性が認められなかったのを確認し、ローラは次の魔法へと切り替える。その目には全くの容赦がなかった。対するグレースはというと、特に対抗するつもりもなく、左手を彼女の方に翳したままクリスの方に振り向いた。


「クリス君、立てるかしら」


幼い瞳はそれに似つかわしくない慈愛の色で満ちていた。クリスは在りし日のグレースの面影を感じる。そこへローラの第二射がやってくる。爆音と共にそれはグレースの眼前で弾け、コンクリートで作られた周囲の壁を粉々にする。しかし依然としてグレースは健在であった。


「さ、私もそう何度も防げないわ。ここは逃げましょう」


彼女は小さな手を伸ばす。クリスは迷う。その手を取って良いものかと。


「……そう、そうね。それなら私は一人で行くわ。少しでも信じてくれてありがとう。嬉しかったわ」


グレースは差し出した手を引っ込め、クリスの脇を歩いて通り抜けた。その背を追うようにローラの魔法が迫る。だがまたしてもそれは見えない壁に阻まれる。クリスは底知れぬ不安を感じていた。このままグレースを行かせてしまったら二度と会えない気がしてならなかった。だから彼は手を伸ばす。


「待って!俺も!俺も連れて行ってくれ!」


クリスはグレースの服の袖をぐっと掴んだ。グレースは驚いた様子で足を止める。見つめ合う瞳と瞳は溶け合うように近づく。


「いいの?私、魔獣かもしれないのよ?」


「そんなわけない!俺が証明してやる!」


クリスは勢いで適当な事を口走る。目の前の彼女は少し照れつつも、呆れているようにも見えた。


「……どうやって?」


「知らねえよそんなもん!気合いで何とかする!」


「全く。滅茶苦茶じゃない」


「自分の心に嘘はつけねえ!ここでお前と離ればなれになりたくないんだ!それじゃダメか!」


ローラという死を目前にしてクリスの心は燃える。袖を掴んだ手に力が入った。クリスは立ち上がると彼女の隣に並び立つ。


「俺は……!」


「……放っておけないじゃない。行きましょう」


喉元まで出掛かった言葉を吐きだすよりも早く、グレースはクリスの腕を取る。そして軽やかな足取りで駆けだす。クリスも遅れないようにそれに続く。


「待て!」


背中に向かってローラが言葉と魔法を投げつけてくる。魔法は派手に炸裂するが、今度もグレースの魔法に防がれてしまう。クリスは後ろを確認することはなかった。何故ならグレースが何とかしてくれると信じていたからだ。二人はそのまま屋外へと出る。そして思いっきり地面を蹴って飛び上がった。二人は向かい合い、両の手を堅く握り合う。そのまま高速飛行の体勢に入り、一思いに空へと舞いあがった。残してしまった二人の友人のことは気がかりだったが、今はそれよりも目の前に広がる無限の可能性と青空に思いをはせずにはいられなかった。高度を上げれば上げるほど、世界は広がった。行くあてもないのに不安はなかった。二人ならどこまでも行けるとそう信じていた。グレースは色とりどりの火花を散らして遊ぶ。ただ自由になった喜びでそんなことをしているわけではない。彼女は逃げ出そうと思えば逃げ出せた。彼女が嬉しかったのはそんな自分を助けようとしてくれる人がいたことだ。二人はカラフルな光の中でワルツを踊るようにクルクルと回りながら飛んでいった。


二人の航路の後には、空に輝く軌跡だけが残された。



「ひゅー……なんか青春って感じがしたよ」


ローゼンスタインが空を見上げながら茶化す。その横で未だ収まらぬ殺気を振りまくローラは穏やかではなかった。


「呑気なことを!魔獣を取り逃がした!すぐに討伐隊を編成しなければ……!!」


「いや~……無理でしょ。行方が分からないよ。手配書をばら蒔いて居場所を突き止めるところからやらないと」


「ローゼンスタイン……。貴方、処刑には反対でしたね」


「ええ、魔獣との混血とはいえ、見た目はまだ少女でしたから」


「見た目を偽っているだけかもしれないのに?」


「偽っていなかった時を恐れたのですよ。推定無罪というやつです」


「……今は彼女達の出方を見ましょう。本当に魔獣なら、次こそは撃ち滅ぼすまでです」


ローラは真空の刃を霧散させる。そこまでしてようやく空間を支配していた緊張の糸は切れた。ローゼンスタインはへなへなと地面にしゃがみ込んでしまった。つくづくこの男は今の役職に向いていないと思い知らされるのであった。


それを見たある者は平和を願い、ある者は愛を誓った。後の歴史で「Bridge of Glorious」と呼ばれたそれは、アドリアからペルシャ地方にわたって見られた。


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