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香水

グレースの執務室はひっそりと静まり返っていた。クリスは物音を立てないようにしてその中へと入る。ここはよくわからないものばかりの部屋だ。初めて来た時は不思議な気分にさせる空間だと思っていたが、今は何も感じなかった。飾られた様々な魔法の道具も全て陳腐に見えた。クリスは緩慢な動きでグレースがいつも座っていた椅子に腰かける。本人にバレたら小言の一つや二つ言われるのだろうが、今は気にしていなかった。


椅子に腰かけると、かすかにグレースの香りがした。どこか懐かしい香りで胸を満たし、クリスは柔らかい革張りの背もたれに体重を預けた。心は空虚なのに、体重はまだしっかりと残っていた。コチコチと時計の針の音だけが響く。これだけ椅子に座っていても怒られやしなかった。やはりグレースはいないのだ。だが死んだという実感はまだ沸かない。


彼女との別れは突然だった。気持ちの整理どころか、彼女に抱いていた感情の正体すら分からない。出会ってからたった数週間程度だが、その程度こそ分からないものの、自分が彼女に好意的であったのは事実だった。故にこうして彼女の思い出に浸っている。綺麗な人であったが、その内面を推しはかれるほどの時間は無かった。今はただそれだけが悔やまれた。


クリスはおもむろに机の引き出しを開ける。机の中には紙束と筆記用具ばかりで、目ぼしいものは何もなかった。クリスは適当な紙束を出しては机に広げていく。意味のない行為を続けていくと、机は紙だらけになった。そのまま彼女の直筆の書類を眺めながら、机の中にあった綺麗な万年筆を弄りつつ椅子の上でくつろいでいると、そこに足音が近づいてきた。


驚いて椅子から跳ね上がると、グレースの執務室の扉が開く。その拍子に万年筆はクリスのポケットに転がりこんだ。隠れる隙も無くドアを開けた人物が中に入ってくる。


「うわっ……、クリス……大丈夫?」


開口一番で引いてきたのは、緑の髪をポニーテールにした女性だった。女性はジトっとした目でクリスを見つめる。その後ろには赤毛の男が居た。二人はしっかりと制服を着こみ、一端の軍人らしく背筋を伸ばしていた。


「フゥラ、セオドール。いや!これは違うんだ!」


「へぇ、そういうこと。変態。最低」


「……認めるから誰にも言わないでくれ。」


「……キモっ」


ゴミを見るような目つきでフゥラはクリスを見ていた。クリスはゆっくりと椅子から立ち上がり、両手をヒラヒラ振りながらフゥラに近づいた。フゥラはクリスが近づきすぎないように一歩下がる。


「まあまあ……」


「セオドールは分かってくれるよな?」


「でも何をしていたんだ?流石にグレース大佐の遺品で自分を慰めていたとかだったとかじゃないよな?」


「いやその……」


「流石に俺も引くぜ……?」


フゥラがそれ以上下がって行かないように肩を掴んで制止してくれてはいるものの、セオドールの顔は複雑そうであった。汗でベタベタになってしまった手を服で拭うと、クリスは困ったようにため息を吐いた。


「……それで?二人はなんでここに」


「俺達は大佐の遺品を整理しに来たんだ。暇ならクリスも手伝ってくれよ」


「ああ、構わないが……」


セオドールからの助け舟を有り難く受け取りつつ、クリスはフゥラの顔色を伺う。相変わらずの彼女であったが、作業を手伝わせることについて異論はないらしく、黙ってセオドールに掴まれていたのだった。


それからしばらくは黙ってグレースの遺品を整理することになった。その途中、クリスはふとあの少女のことを思い出す。遺品の中に本人かどうか確かめるものがあるかもしれない。そう思うとこの作業も無意味なものとは思えなかった。彼は入念に物品をチェックしながら作業を進めていく。至って真面目な顔でだ。しかしそれがフゥラの鼻に付いたらしい。彼女の機嫌は終始良くなかった。


「しかしこの遺品、誰かに送るのか?」


「いいや、グレース大佐は身寄りが無いらしいから、全部処分するんだと」


「えぇ?そりゃ勿体ないな。いくつか貰っていきたいもんだ」


「いいんじゃねえの?捨てられるよりはその方が大佐も喜ぶだろ」


「変なことに使わないでしょうね……」


懐疑的な視線が背中に突き刺さる。それすなわち自慰行為のことを表していた。クリスもそこまで常識がないわけではない。しかしここでクリスは体の良い言い訳を思いついた。


「実はグレース大佐と名乗る女の子がいるんだ。それが本当に大佐か確かめられるようなものがないか探していたんだ」


「ほぉー」


「何?その良い事を思いついたみたいな顔して。言い訳まで並べてくるなんてホント信じらんない」


何て勘の良い女だろう。正解だ。クリスは路地裏に捨てられた子犬のような情けない顔をしながら片づけを続ける他なかった。フゥラは次の日になるまで一切口をきいてくれなかった。




明朝、まだ薄暮の頃。クリスは乾いたばかりの女性物の服一式を畳み籠に入れる。囚人というものが滅多に現れないため、アドリアの囚人服は非常に状態の良いものが用意されていた。肌触りの良い生地の表面を撫でつけて形を整えると、あの少女の元へとクリスは向かう。


薄暗いコンクリート製の廊下を進んでいくと牢が見える。少女は牢の冷たい床で寝ていた。ちゃんとベッドは用意されているのだが、どうやら転げ落ちてしまったらしく、布団は乱れに乱れていた。囚人服ということもあって、衣服がはだけているという事態にはなっていなかったが、それはグレースを彷彿とさせる寝相であった。


彼女を起こさないようにクリスはそっと着替えを牢の中へ置く。そのわずかな布ずれの音で少女は飛び起きる。


「……クリス君か」


「悪い、起こすつもりはなかったんだ」


「いいえ、私も過敏になっているだけだから」


少女はズレた服を直しながら立ち上がり、牢の中に入れられた着替えを受け取る。そして一度大きく伸びをした後、クリスの視線など気にせず彼女は着替え始めた。慌ててクリスは背を向ける。


「せめて何か言ってくれよ」


「あら、クリス君はこんな小さな女の子の身体に発情するような人じゃないと思ったけど?違ったかしら」


「ガン見してやろうか。早くしてくれ」


クリスが悪態をつく後ろで少女は愉快そうに笑う。パサリと布が落ちる音が何度か続く。クリスは断じてロリコンではない。しかし何故だかこの少女は少女と見ることが出来ないでいるのは事実だ。どことなく大人の女性らしい雰囲気を纏っているのだ。だから着替えの音もつい意識してしまうのだった。


「終わったわよ。悪いけどこれお願いね」


彼女は先ほどまで自分の着ていた衣服一式を無造作に籠へ入れて返す。まだ少女のぬくもりのある衣服をクリスは畳み直す。少女はそれをしゃがんでじっと見つめる。


「クリス君、あれから訓練は受けた?上級魔法、使えるようになったかしら」


「ああ、上級魔法はちょっと使えるようになったよ。でも訓練はまだだ。お前のお世話係になっちまったから」


「あら、それは悪い事をしたわね」


少女はさも当然のようにグレースとして振る舞う。それは至って自然で違和感のないものだ。だからクリスもついグレースに相対しているように振る舞ってしまう。


「……ずっと風呂とか入ってないよな」


「もしかして……臭う!?」


少女は珍しく顔色を変える。そして自分の身体の臭いをチェックし始めた。そんなつもりで言ったわけではなかったのだが、やはり女性にとって体臭の悪化は死活問題だ。クリスはポケットから掌サイズの瓶を取り出した。中には透き通った紫色の液体が満たされている。


「あっ……それ」


「グレース大佐の部屋にあったのと同じのを買ってきたんだ。何も悪いことしてないのにこの仕打ちはちょっと可哀想だからさ……。よかったら使ってくれ」


クリスはそれだけ言うと瓶を牢の床にコトンと置く。牢の壁にある小さな窓から陽が差し込み、香水はキラリと光った。少女は遠慮気味に香水に手を伸ばし、そしてサッと一度自分に振りかけた。


「……ありがとう。クリス君のこと、子供に見過ぎていたかしら」


「あん?今はどう見ても俺の方が年上だろ」


少女は鉄格子越しに近づいてお礼を言う。その時、グレースの香りがした。今は懐かしく感じてしまうあの香りだ。そんな彼女に見つめられるとどうしても緊張してしまうのだった。


「じゃ、俺もう行くから」


「またね」


籠を掴むとクリスは足早に牢を後にした。彼女は心の底から嬉しそうにしていた。そんな彼女を見て、クリスは内心小躍りしてしまうのだった。


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