一時の休息
白銀の山々が窓の外で居を構えていた。初夏の涼風がレースのカーテンをゆっくりと揺らし、薄い影を部屋に落とす。インスブルックの朝は今日も静かであった。マルスはまだ痛む身体を引きずってベッドから起きる。インスブルックの病院はどこも負傷兵で一杯であった。そのほとんどがアドリア遠征軍の者で、アルプスの生き残りは自分しかいなかった。どういうわけか、彼はまだ生きていた。若干頭がハッキリしないところがあり、肩もかなり痛むが、それ以外は正常であった。
話し相手もおらず、暇で仕方がないマルスは中庭まで降りてくる。初夏の気持ちよい日差しが彼の顔を照らした。そのまま空いていたベンチに彼は腰掛ける。
中庭には自分以外にも何人かの患者が居た。その中でも特に目を惹いたのは、緩やかなウェーブの掛かった黒髪のミディアムロングの女性だ。何かを憂うように彼女はずっと空を見つめていた。それが妙に気になってしまい、マルスはジッと視線を送ってしまう。あまりにも長く見つめているものだから、女性にもいい加減気が付かれてしまう。
「私に何か用ですか?」
凛とした青い瞳がマルスへ向けられる。芯のしっかりとした声で彼女は続ける。
「ん……そのバッジは……アルプスの生き残りですか」
「そうです。アルプス防衛軍のマルス・アイマール訓練兵です」
言動からグロリアスの治安維持機構の人間と思われたが、相手の女性は白い入院着を着ていたため、階級が分からなかった。どのみちマルスの階級は一番下なので、下手に出ることが最善策ではあった。女性はマルスの名前を聞いて興味を持ったようで、立ち上がってマルスに近づいてくる。
「アイマール訓練兵……ああ、貴方ですか。目が覚めたのですね。隣、座ってもいいですか?」
「え?構いませんけど……」
その女性は喜色満面で隣に腰を下ろす。どうして彼女が好意的なのか、マルスにはさっぱり分からなかった。
「申し遅れました。私はアドリア地方軍所属のイザベラ・リサルディです。階級は……中佐です」
「中佐ァ!?これは失礼しました!」
マルスは飛び上がって敬礼する。イザベラは一瞬階級を名乗るのを躊躇したが、これはこうなることを予想してのことであった。彼女は苦笑いしながら敬礼を返す。
「アイマールさん、今はオフということで階級は抜きにしてお話しませんか?」
「いえ……ちょっとそれは……」
柔和な笑顔を浮かべるイザベラの真意を測れず、マルスはたじろいでしまう。そんな様子の彼を見て、イザベラはふぅと息を吐いた。そして表情をピッと正して、雰囲気を中佐らしいものに変えた。
「アイマール訓練兵、命令だ。今は階級を忘れろ。いいな」
「えっ!あ!了解!」
「えっ、も、あっ、も要らん!もう一度!」
「了解!!」
「……これならいいでしょうか?」
「リサルディ……さん、だいぶ雰囲気違いませんか……?」
「内緒ですよ?」
イザベラは唇に人差し指を当ててふふっと笑う。自然な女性らしい笑顔を彼女は浮かべる。だが一瞬だけ被った中佐の仮面は男顔負けの迫力あるものであった。おっかなびっくりしながら言葉を慎重に選んでマルスは話をすることになる。
「アイマールさん、身体の調子はどうですか?発見された時は昏睡状態だったと聞きましたが」
「脳に障害が残るかもとは言われましたが、今のところ問題はありませんね。……ちょっと頭は痛みますが」
「はぁー……、それなら一先ずは安心ですね」
彼女は安堵のため息を漏らす。どうして彼女がそこまで心配してくれるのかマルスには分からなかったが、嫌な気分ではなかった。思わず口の端から笑みがこぼれる。
「この度はリサルディさんたち、アドリアの方々のお陰で本当に助かりました。ありがとうございました」
「アルプスの次はアドリアでした。ただそれだけのことです。感謝される謂れはありませんよ」
「いえ、でもホントに。僕は魔獣に喰われる寸前でしたし。あの時助けてくれた人にはいつかお礼が言いたいんです。リサルディさんは知りませんか?」
「……ええ、知っていますよ」
「本当ですか!?誰なんですか!?」
「内緒です」
「ええ……」
イザベラはまたしても人差し指を立て、意地悪く笑う。御預けを食らってしまったマルスは恨めしくイザベラを見るが、何故だか彼女を責める気にはならなかった。それは階級のせいだけではない気がした。
「でも私から感謝の気持ちは伝えておいてあげましょう」
「いえ……やはり直接伝えた方が……」
「その人はすごく多忙なのです。今度一緒に出撃する機会があるので、その時に伝えてあげます」
「あ……うーん……、そういうことならお願いしてもいいですか?」
「ええ、任せて下さい」
屈託のない笑顔でイザベラは答えた。
「ところで、どうやって魔獣から逃げ切ったのですか?」
「血を飲んだんです」
「血を……誰の?」
「あ……、一緒に逃げていた女性のものです。お陰でその女性と娘を助けることが出来ました」
「ああ、ちゃんと助けたんですね。見捨てていたらここで断罪するところでした」
彼女は少しだけ不穏な笑みを浮かべていた。そこから彼女の誤解を解くにはしばらくの時間を要した。彼女はマルスの話をそれからもしばらく聞き、最後は満足そうな顔をして病室へ戻って行った。不思議な女性だったとマルスは思った。普段は厳しい人間の仮面を被っているようだし、それに合わせてあげようと彼は思うのだった。




