ミケーラ
アドリアの訓練所は何もないだだっ広い敷地だ。空には雨雲が広がり、地面にはところどころ泥濘が出来ている。クリスは訓練場へ来ていた。見る限り、自分以外の人影はない。
彼は本の内容をメモした紙を広げた。メモには本に書かれていた通りの落雷の魔法の手順が書かれている。彼はそれを上から順番に実践してみようとする。
基本的な原理は雷撃の魔法と同じで、大気中に存在する帯電した物質を利用するが、この魔法の場合はその規模が大きく異なる。
「帯電した塵……すなわち雲を利用する……ねぇ」
この文章が言いたいことは理解出来る。だが実際にやれと言われて出来るものではない。クリスは空を見上げた。遥か彼方に広がる雲は、高速飛行の時に触れたっきりだ。地上からあそこまで魔力で繋げるのは簡単ではない。
しかしやらずに諦めるのは良くないことだ。今も戦場で戦っている友人の事を思えば、これくらいのことは挑戦してみせなければならないだろう。クリスはやれるところまでやってみよう、と考える。
彼は魔力で水蒸気を操って伸ばしてみる。しかし、伸ばせども伸ばせども終わりは見えない。彼は気張って続けるが、重りを付けられていくようにどんどん身体が重くなっていった。案の定、雲に届くより先にクリスがへばってしまう。彼が魔力供給を止めたことで水蒸気は大気の中に霧散する。
クリスは息を整えながら片膝をつく。ふと周りを見ると、遠くから一人の女性がこちらを見ていた。その女性はプラチナブロンドの髪を風に靡かせ、声をかけるわけでもなく、こちらを注視していた。クリスはこの人物を知っていた。
「ミケーラ!」
クリスが名前を呼ぶとその女性は右手を振る。ミケーラは浅黒い肌をした長身の女性だ。所謂姉御タイプの人間だ。非番の時はタンクトップにホットパンツで過ごしており、その引き締まった身体が美しいプロポーションを作り出している。クリスはグレースの洗濯物を干す際に、何度も彼女に絡まれている。ただ、面倒見がいいとは思うため、粗暴な部分はあるが悪い人間ではないと認識している。今日は非番のようで、いつものような露出の高い恰好をしていた。クリスは彼女が自分に用があるとは思えないため、一体何をしにきたのだろうかと考える。
彼女はその髪を揺らしながら、ゆっくりとこちらへ近づいてきた。そして目と鼻の先で立ち止まる。彼女からは爽やかなペパーミントのような香りがした。彼女は不思議そうに尋ねてくる。
「何やってるのさ。随分難しそうなことしようとしていたみたいだけど」
「魔法の練習だよ」
「それは見りゃ分かるよ。どうしてこんな時に?お前正式入隊すらしてないだろ」
暗に何故ここを使っているのか、と聞かれたようにも思えたが、彼女の口調は咎めるようなものではなかった。それよりも単純に理由が気になっているようだ。
「ほら、お前もフゥラのこと知ってるだろ?あいつ俺と同じ孤児院の出身でさ。あいつが戦場で命張ってる時に、俺だけ呑気に床掃除しているわけにはいかないだろ?」
「おお?何だお前、ただの大佐のパンツ係じゃなかったんだな」
「だから違うって言ってるだろ。何だよパンツ係って。大佐はどんな特殊性癖してるんだよ」
アンネの誤解は解いたつもりだが、未だに多くの人の誤解は解けていない。しかし彼女は最初から変な噂を信じていない人間の一人だ。元を正せば彼女の発したジョークが噂の原因になっているからである。最初に洗濯物を干しに屋上へ入った時彼女に絡まれたのだが、正直に理由を話したところ、「そっか。仕事なら仕方ないな。頑張れよ、パンツソムリエ君」と言って解放されたのだが、その時以来、彼女は会うたびにそう呼ぶようになった。そのせいでありもしない噂が生まれたのだ。
「気軽にパンツソムリエとか呼ぶのはやめてくれよ。みんな信じ込んでるじゃないか」
「親しみやすくて良い渾名だと思うんだがな。じゃあ何て呼んでほしいんだ?」
「はあ?普通にクリスって呼んでくれよ」
クリスが呆れ気味にそう言うと、ミケーラはニヤっと笑って、
「分かったよ。クリス君♪」
と小馬鹿にしたように彼の名を呼ぶ。彼女は自分の腰に手を当て、彼を品定めするように眺めると、再び口を開いて話を戻した。
「さっきやってた魔法上手くいかなかったのか。どうやってたのさ」
「うん?こう地面から魔力で固めた帯電粒子を雲に届くようにだな……」
クリスは棒で天を突くようなジェスチャーをしながら説明する。彼は、自分は一体何をしているのだろうか、という気分に包まれる。その様子をミケーラはうんうんと頷きながら聴いていた。彼女が魔法が得意という話は聞いたことはなかったが、やはり先輩兵士としてアドバイス出来るところがあったりするのだろうか。
「というわけなんだが、なんかうまくやれるアイデアはないか?」
「え、知らね。そんなもん自分で何とかしな」
ミケーラは何も考えていなさそうな顔で、分からないと即答した。クリスは胸に淡い期待を抱いていたのだが、その期待はあっさり裏切られてしまった。彼は空しくなって地面に座り込む。泥が彼の尻をひんやりと冷やした。
「なんだよ。もしかしてミケーラは魔法使えないのか?」
彼はぶっきらぼうに言う。相変わらず空はどんよりと曇っていた。遠くでは雷鳴が鳴り始める。クリスの言葉が癪だったのか、ミケーラは横目で彼を見ていた。
「ははーん?クリス、お前私が脳筋女だと思ってやがるな?落雷の魔法だったな。いいぜ、よーく見てな」
彼女は勢いを付けて空へ飛びあがる。そしてそのままぐんぐん高度を上げていった。彼女はある程度の高さに達すると上昇をやめる。彼女の姿は小さな点のようになっていた。
そして一呼吸の間をおいた次の瞬間、空が激しい光に包まれる。そうなったかと思うと、さらに彼の近傍でバーン!と大音響が鳴る。音と共に地面が爆ぜ、土煙が舞っていた。彼は巻き上げられた土を身体中に浴びながら、空を見上げる。その時彼は見た、大量の稲光が空に走り、彼女の姿が照らし出されるのを。それらは雲の表面を走ったり、地面目掛けて放たれたりした。地面に雷が落ちる度に土埃が舞い上がり、息をする度にクリスの口の中に土の味が広がっていく。
空はそのまま荒れ模様となり、大量の雨が降り出した。ザーッという音と共に、それは地面を濡らしていく。豪雨のなかミケーラは地上へ戻ってきた。服が透けているわけではないが、ずぶ濡れになり、長い髪が顔に貼り付いた彼女の姿は妙に煽情的だった。目を合わせられないクリスは地面を見る。
「おいおい、ちゃんと上見とけよ。それともビビっちまったか!?」
「おめーの恰好が目に毒なだけだ。ほら、上着ろよ」
クリスは自分の着ていた上着を彼女に差し出す。すると彼女は破顔一笑する。
「ハッ!私を女扱いしてくれる奴はお前くらいだよ」
実際彼女が他の男性から女性らしい扱いをされていないのは知っている。というより彼女自身も男らしく振る舞っており、制服もズボンタイプを選んで着用している。食堂では男性相手によく腕相撲をやっており、男勝りと表現する方が正しいのかもしれない。それ故に女性兵士からはもちろんだが、一部の男性兵士からも姉御と呼ばれている。
「んで?どうだったよ、クリス」
ミケーラはクリスから上着を受け取り、それを着ながら尋ねる。どうだった、と聞かれれば、すごかった、という感想しか思い浮かばないのだが。
「どうだったと聞かれてもな……。とりあえず、お前が役立たずだから置いて行かれたわけじゃないことは分かったよ」
「言ってくれるねえ。本部の守りを手薄にするわけにはいかねーからな。私みたいな優秀な兵士が残らなきゃならんのよ」
彼女は自信満々に言い放つ。確かに、あれだけの魔法を使えるのなら立派な主戦力のはずだ。アドリア遠征軍にはアドリア地方の兵士のほとんどが編入されている。故に駐屯地には最低限の人員しか残されておらず、敷地内は閑散としたものだ。
彼女は遠征軍に編入されなかった数少ない兵士の一人で、クリスはてっきり無能だから置いていかれたのかと思っていた。
「ま、何て言うんだ。クリスのやり方で落雷を起こすことは出来ないけど、それ以外の方法で起こすことは出来るんだわ。やり方次第ってことよ」
「どうやってやったんだ?教えてくれないか?」
クリスが頼み込むと、ミケーラは勿体ぶるように腕を組む。
「詳しく説明してやってもいいけれど、このまま雨に濡れ続けるのは遠慮しておくよ。食堂にでも行かないかい?お前もあんな効率の悪いことしたら腹が減るだろう」
彼女は親指を立てて食堂の方向を差す。勿論かなり遠いため、その指の先に建物の影はない。彼女に言われてクリスは胃の中が空っぽなことに気が付いた。彼女の言う通り、きっと大きな魔法を使おうとしたからなのだろう。
アドリア駐屯地の食堂ではバイキングスタイルを採用している。これは魔力不足を避けるための措置で、人に合った量の食事を摂ることが出来るようになっている。
「そうだな。そろそろ夕食の時間だし、行こう」




