地図
どんよりとした雲、黒く生い茂る木々、真っ白な絨毯のような雪原、ところどころ顔を出す岩。そこは広大な自然の中だった。セオドール達はガイドのハンスと共にその大自然の中を歩いていた。視界にちらつく雪は白い花びらのようだった。今頃戦場はどうなっているのだろうか。既に戦端が開かれたのかもしれない、と彼は思う。
周囲にはただ風の音と木々が揺れる音しかせず、砲弾の飛び交う音や魔獣の咆哮は一切聴こえなかった。
「静かだな。不気味なくらいに」
セオドールはポツリと呟く。するとハンスが笑って答える。
「兵隊さん、雪山に来るのは始めてですかい?雪ってのは音を吸収するんですわ。だからこうやって雪が降っていると、とっても静かになるんです」
「へぇ~、知らなかった。島では山以外じゃあんまり雪降らないもんね」
フゥラが言うように、アペニン島では滅多に雪が降らない。ここのように雪が積もるということは非常に稀だ。
「大体なんでこの時期に雪なんか降ってるんだろうな。アルプスっていつもこんな感じなのか?」
セオドールが不思議そうな顔で尋ねる。アルプスは年がら年中雪に埋もれているわけではない。夏には雪が解け、欧州の河川の水源となるからだ。もちろん一年中雪に埋もれる地域もある。だがそれはごく一部で、大抵の地域は夏は半袖で過ごすことが可能だ。
「いんやぁ~この時期にこんなに積もるのは初めてだね!去年の今頃は半袖になりながらアイスを食べてたよ!」
「だよな~……」
ハンスは軽く笑いながら言う。セオドールはいつもと異なる空模様にうんざりする。アドリアも雨の多い土地柄なのだが、雨と雪ではわけが違う。
「それでハンスさん、今はどこに向かっているんだ?そこそこの高さまで登ってきたけれど」
彼らの眼下には先ほどまでいたインスブルックの街並みが見えた。遠くで光を放つ、グレース達が使う人工太陽が弱弱しく街を照らしていた。既にこの周辺は人工太陽の恩恵から外れ、徐々に寒さに覆われてきている。
「少尉さんがこの周辺の地理が教えて欲しいって言うからさ、ここいらを一望出来るところへ案内するのさ」
「お?これはきっとハンスさんの口説きスポットだな?万年彼女ナシのクリスにも、今度教えてあげなきゃね」
「どんな女でもそっと背中を押してやればコロっと落ちる場所さ」
フゥラが茶化すとハンスはジョークで返す。よく見るとハンスの左手の薬指には指輪がはめてあった。その絶景ポイントで今の奥さんに告白した可能性は無きにしもあらず、といったところか。
「それで?プロポーズはどっちがしたの?」
「おいおい、馴れ初めを話すように少尉さんからはお願いされてないですけど?」
参ったな、とハンスは鼻の頭を掻く。フゥラは目をキラキラさせながら答えを待ち詫びているようにも見えた。セオドールはため息をついて口を開く。
「いやー悪いね。こいつあんまり自由に女の子と恋バナとかしたことないんだわ。折角だからちょっと付き合ってくれないか」
「だからっていい年したおっさんの恋バナ聞くかい……」
「はいはい!聞きたい聞きたーい!」
頬を赤らめながらも、少し呆れた様子のハンスをよそに、フゥラは子どものようにはしゃぐ。もっとも、彼女は成人していないのだから子どもではあるのだが。彼女は今年で十八ということになっている。正確な年齢が分からないのは、彼女が魔獣に両親を奪われた孤児だったからだ。彼女が幼すぎたことから、誕生日も分からなかったため、誕生日と年齢はセオドールの父の孤児院へ来た時から数えて、ということになっている。そのため、本来なら一つか二つくらいは年齢が高いのかもしれない。
「そんな期待の目で見ないでくれよ。まぁ、少しくらいはいいよ」
そう言って彼は大きな岩を飛び越えた。
しばらくハンスの馴れ初めを聞きながら歩き続けると、開けた場所に出た。視界を遮るような岩はなく、インスブルック周辺が見渡すことが出来た。強い風が吹いており、バランスを崩したらそのまま身体を持って行かれてしまうかもしれない、とセオドールは感じた。
「着きましたぜ。ここならその辺りが良く見渡せるでしょう」
彼の言う通り、見たいところはどこでも見ることが出来る。フゥラが持ってきていた望遠鏡を差し出す。
「サンキュー。さてさて、グレース大佐はどこかな」
彼はそんなことを呟きながら望遠鏡を構える。グレースはすぐに見つかった。元々人工太陽が彼女がどの辺りにいるのか示しているのだから当然である。彼女は輸送車両の上で軍刀を立てて仁王立ちしていた。正面から吹く風が彼女の髪を靡かせ、まるで龍が翼を広げるような雄大さを醸し出していた。その姿に思わず彼の胸が高鳴る。
「いた?」
「ああ、バッチリ見えたぜ。滅茶苦茶格好良いことになってる」
セオドールはフゥラに望遠鏡を渡す。彼女も同じ方角を見る。
「あ~すごくカッコいい。私もああいうカッコいいポーズ取ってみたいなぁ」
彼女は羨ましそうにグレースを眺めていた。彼女が憧れる気持ちも分かる。グレースも、ある種パフォーマンスでやっているところもあるのかもしれない。だがその背中に将兵は着いていくのだ。彼女は将兵の希望でなくてはならない。
「やってみたいのなら、ちょっと真似してみたらどうだ。案外イケるかもしれないぞ」
「またそうやって無茶振りする!なんかセオドールに馬鹿にされそうだからやめとく」
ぷいっと彼女はそっぽを向く。二人の様子を見て、後ろでハンスが苦笑いしていた。そして彼は口を開く。
「そこの光がある辺りに小さな洞窟があるんですわ。物を隠しておくにはうってつけじゃないですかね」
「ほほーう、フゥラメモしておいてくれ。あとで見に行こう。他には何かないのか?」
「あとはあれですね。あそこの断崖絶壁、実は人ひとりが歩けるくらいの幅の足場があります。その奥には真下を覗ける場所もあるんでね、籠るにはいいかもしれないね」
ハンスは次々と場所を指定し、地元民ならではの穴場を教えてくれた。どうやらこの辺りの山道は獣道が多く、少数であれば通れる程度の物も多いらしい。フゥラはそれらを簡易的に地図に書き込む。
「さて、これを少尉に報告するか。そうだ、滑空して帰ろうぜ」
「滑空?」
セオドールの提案にハンスが首を傾げる。何だそれはと言いたげだ。
「ハンスさんもしかして空飛んだことない?」
「ああ、私はブラックアーツではないのでね。飛べないんだよ。一度飛んでみたいとは思うんだけどね」
ハンスは羨ましそうに大空を見上げた。快晴とは言えないが、白くどこまでも続く空は、その果てに何があるのか、好奇心を掻き立てる。ブラックアーツとは違い、魔法を使う事の出来ない人間はそれを確かめる術を持っていないのだ。飛べるものなら飛んでみたいはずだ。そう思った彼は提案する。
「それじゃ良い機会なんじゃないか?ほら、手。二人で運べば行けるだろ」
セオドールはハンスに手を伸べる。それを見たフゥラも、そうだねと笑い、ハンスに手を差し出す。彼は半信半疑で手を伸ばす。手を取るべきかそうではないのか。彼の手は宙で右往左往する。二人は迷う彼の手を握ると、崖へ走り出す。ハンスが引っ張られるように後に続く。そして三人は崖から飛び出した。
次の瞬間自由落下が始まる。内臓を吸い取られるような気持ち悪い感覚が三人を襲う。ハンスはジタバタすることも出来ず、全身の筋肉を硬直させる。きっと彼の顔は酷く引きつっていたことだろう。
それも束の間、セオドールとフゥラが服を利用した翼を展開すると気持ち悪い感覚も収まる。グロリアスの制服には魔法で展開可能な余分な布地が背中に収納されている。滑空時はこれを広げて飛ぶことが可能になっているのだ。彼らはゆっくりと高度を下げながら、街へと飛ぶのだった。ふとハンスが足元を見ると、いつもは見上げていた木々がその頂点を並べていた。木々は何メートルもある。もしここから落下することがあったら――そう思うと手に力が入る。気が付けば先ほどまでいた場所は遥か後方だった。これが魔法の力なのか、と彼は驚嘆する。
「どう?初めての空は?」
彼の頭上でフゥラの声が聴こえた。正直なところ、彼には喋るような余裕はなかった。初めての体験に頭がついていかないのだ。
「ああ!なんかすごいなこれは!すごい!」
聞かれているのだから何か答えなくては、と思考を拒否した頭から絞り出した解答がこれだ。なんと語彙に乏しい感想なのだろうか。ハンスは自嘲する。
ブラックアーツは世代を経ることでその数を増やしてきた。今でこそ総人口の八割がブラックアーツだが、ハンスが小さい頃はようやく五割に到達するかしないか、というレベルだったのだ。しかもブラックアーツは元々遺伝子操作で生み出された人類であるため、居住地は生産地である北アメリカから、運河で繋がっている南アメリカの都市部に集中していた。インスブルックでその姿を見るようになったのはハンスが成人してからで、今ではどの地方に行ってもその姿を見ることが出来る。
故に魔法の行使を目にすることは少なかった。空を飛ばせてもらうなど論外だ。気の利いた感想など出るはずもない。
雪や風が顔に当たるため、皮膚は痺れはじめる。欲を言えば快晴の時に飛ばせてもらいたかった、と彼は思うのだった。
快適、とは言えない空の旅は一瞬で終わってしまった。三人はあっという間に街の入口へ到着していた。腰が抜けてしまったのか、ハンスの足はしばらくぶりの大地を踏みしめることに失敗する。
「ありゃりゃ、大丈夫?」
「大丈夫、大丈夫。ちょっと足が滑っちまいまして」
フゥラは尻もちをついたハンスに手を差し伸べる。彼はその手を取って立ち上がる。今度はしっかりと地に足を付けることが出来た。ハンスの仕事はここまでだ。彼は手を振って二人に別れを告げる。
「今日はお話し聞かせてくれてありがとうね!空が飛びたかったらまた言ってよ!」
フゥラが元気な声で手を振る。彼らがそのまま軍のキャンプ地へ向かっていくのをハンスは見送った。




