係長が俳句を始めた話
8月後半の太陽はまだまだ強く、外に出るとつらかったが、会社の事務所では快適なエアコンが利いていた。田中係長のいる営業2課では各々が昼食を終え、昼休みをくつろいでいた。
「なあ、佐藤」
30代後半の田中係長は額の汗をハンカチで拭きながら、すぐ前の机に座っている佐藤に声をかけた。佐藤は田中係長の部下で20代後半の若者だ。浅黒く日に焼けた佐藤は、はい、と返事をしてスマホから顔を上げた。
「俳句を始めてみたんだ。5月で定年退職した次長もやっていたし、いい趣味だよな。本で勉強しながら一日一句作るようにしている」
細身の佐藤は田中係長の方に体を向けると、そうっすね、と愛想よく相槌を打ち、「松尾芭蕉とか有名ですよね」と言った。ワイシャツ姿の田中係長は、中年太りしてきつそうな裾を整えながら
「松尾芭蕉みたいに全国を旅して俳句を作るなんていい趣味だよなあ」としみじみ言った。
佐藤は何も考えず笑顔で「そういえば松尾芭蕉って女にもてたんですかね」と言うと、田中係長は飽きれて「知らねーよ!馬鹿なこと言うな」と少し怒った口調で言った。「新入社員もいるんだからもっと模範的な言動をしろよ」と重ねて小言を言った。
俳句か…佐藤は声に出さずつぶやいた。佐藤は高校時代を思い出した。俳句を作る授業があったのだ。佐藤は一つの俳句に季語を二つ使ってしまい、年配の先生に下手くそと言われたことがあった。その白髪の先生は「下手くそ」が口癖で、しょっちゅう下手くそと言っていた。俳句では一句に季語は一つという慣例があり、先生はそれを説明したらしいが佐藤は聞き落としていた。佐藤は、一生懸命作ったのに下手くそは言い過ぎだよなと思った。さらに佐藤は、その先生が、俳句には“○○○○や ○○○○○○○ ○○○かな(けり)”と言うように「や」と「かな」「けり」を同時に使うのは下手くそである、と言ったことを思い出した。
佐藤はその皺の寄った先生の顔を思い浮かべて、「下手くそ」を言う時の口調を思い出した。この下手くそ…これは下手くそ…だから下手くそ…あの先生どうしたかなぁ…
事務所のエアコンはまんべんなく冷気を放ち、熱いお茶を飲んでも汗をかかないほどだった。数人いる女子従業員はまだ昼食からまだ戻ってこず、事務所は男だけだ。
「なあ佐藤、鈴木」
田中係長は2人の部下に声をかけた。鈴木は4月に入社してきたばかりの新入社員だ。小太りの体型をした鈴木は休みの日は一日中パソコンを見ているようなオタク人間で、佐藤に輪をかけて無神経な人間だった。佐藤と鈴木は顔を上げた。
田中係長が背もたれに大きく寄りかかって
「昨日、子供と一緒に花火大会に行ってきたんだ。人が多くて大変だったけどきれいだったよ」と思い出に浸るように言った。佐藤と鈴木はうなずいた。
田中係長はせり出た腹の前で腕を組み
「子供はもうスマホ持っているから花火の写真をずっと撮っていた。動画も撮っていたみたい」と言い、一呼吸おいて話を続けた。
「でも、写真や動画もいいけど、結局それは景色を記録しているだけなんだよね。もちろん後からその写真を見て、あの時の花火良かったなあと思い出すこともあるだろう。しかし、時間とともにその時に感じた感動と言うのはどこか変質してくると思うんだ」
田中係長は、教え諭すような口調で続けた。
「だからこそ、その時感じた感動を、ありのまま、17文字に託すことが必要なんだ。そこで俺は一句読んだ!」
田中係長は力強く語っていたが、新入社員の鈴木はちらちらとパソコンの画面を見ておりあまり関心なさそうだった。佐藤は先輩社員らしく気を利かせて、ぜひ聞いてみたいです、と言った。
田中係長は神妙な面持ちで大きく息を吸うと
「夏空や 暑き夏の 花火かな」と厳かに一句読んだ。
これはひどい。佐藤は衝撃を受けた。「夏」が二回も出てくることに加え、「暑き」も「花火」も夏の季語だ。本来一句に一つと言われている季語を四つも使い、しかも初句に「や」と結句に「かな」という禁じ手の形だ。稀に見る駄作である。あの高校の先生だったらなんと言ったことか…
佐藤が言葉を失っていると新入社員の鈴木が白けた顔して
「なんかネットに落ちてそうですけど、パクリじゃないっすよね」ととんでもなく無神経な発言をした。田中係長は渾身の作を貶められ、むっとした。
佐藤は田中係長の表情を見て、我に返った。今こそ、先輩社員として模範的態度を見せる時だ。この馬鹿な新入社員の侮辱から上司を守らなくては。佐藤は鈴木を睨み付け、強い語気で
「おい鈴木!係長に失礼だろ」と言った。
田中係長は佐藤の態度を意外に思ったが、すぐ佐藤の献身ぶりを誇りに持った。田中係長は、ゆっくりと威厳ある態度で湯呑みの茶をすすり、そうだ、俺はここまで部下に慕われる人物になったんだ、と思い胸を張った。しかし、その感慨も次の瞬間には粉々に砕け散った。
「盗作だったらこんな下手くそなわけないだろ!」
田中係長が俳句を披露することは二度となかったという。