searching bracelet
夜中の11時前に、右手にぶかぶかのブレスレットをつけた女の子が全速力で公園へ走って行ったのは、桜が散り始める4月上旬のことだった。
クリーム色の生地にピンクの水玉模様のパーカーに、水玉模様のパジャマを着て、足元は白いスニーカーを履いている。黒々とした髪の毛と、クレーンゲームで兄に取ってもらったドラえもんのぬいぐるみが走ると同時に揺れている。
春とはいえ、雨上がりで気温は13度程度しかなく、道路は雨水が溜まり濡れている。走ると雨水が裸足のスニーカーを濡らす。冷たいのも構わずに、高橋陽菜は公園まで走り続けた。陽菜の足は同級生と比べても速い方ではない。傷ついた気持ちをごまかすために、できる限り速く走りたいと思ってはいたが、気持ちに足はついていかなかった。
走っている途中、塾帰りの高校生やサラリーマンが奇異な目で陽菜を見た。繁華街にほど近いマンションから飛び出し、公園まで約5分止まらずに走り続けた。
東黒島公園にたどり着いた時には、靴下とスニーカーは泥だらけで、スポーツ慣れしていないため、陽菜の息はすっかり上がっていた。
黒島町は去年新しくJRの駅が開設された新興住宅地で、市街地から徒歩15分の場所にある、交通の便のよい場所である。再婚のため居を構える必要がある陽菜の母親夫婦も、半年前に引っ越してきたばかりである。
新しい公園には幼稚園児用に作られた立ち漕ぎのできないブランコと、タコのような姿をした滑り台と、鉄製のベンチが2つほど備え付けてあった。人気はなく、カンテラのような誘蛾灯だけが公園を照らしていた。
上がった息と、気持ちを落ち着かせるため、陽菜はベンチに腰掛けた。鉄のひんやりとした冷たさが、お尻に伝わってくる。頭の中では義理の父親と、母親が言い合いをする声が聞こえる。いくら走っても、気持ちまではマンションに置いて来ることはできない。兄の欅が大好きでよく聴いている歌に、どこに行っても私は私なんだから、完全に悲しい気持ちから逃げることなんてできないという歌詞がある。逃げたわけではないが、高校生の欅もまだ塾から戻っていない。あのままマンションにいることなんてできなかった。陽菜にとって走らずにはいられなかった。
しばらくすると上がっていた息は落ち着いてきたが、陽菜の保護者の言い合いが頭から離れなかった。漫画の主人公のように、ふるふると頭を振る。真っ黒な髪の毛が、頭を揺らした。
高橋陽菜は10歳の小学5年生。5年生にしては背が高く、大人びた利発そうな深い目が特徴的だ。黒髪は癖がきつく、きちんと手入れをしないとまとまらないが、真っ黒な髪の毛と、意志の強そうな眼差しは芯の強さを十分感じさせた。
ベンチに深く座ってしまうと、いくら背が高いとはいえ子供の足では地面につかない。足をぶらつかせて、時計に目をやった。
公園の時計は10時56分を指している。塾帰りの欅が帰りにこの公園を通るのはだいたい30分くらい後だ。塾自体は10時に締まるのだが、まっすぐ帰るのが好きではないらしく、いつも寄り道をしてから帰宅するらしい。警官に注意されるのが面倒だからといって、塾の帰りに着替えを用意して、世間には大学生のように見せかけて少しばかりの息抜きをする。どこか大人を食ったような頭の回転の速い少年だが、マンションを飛び出してきた陽菜を見つけたら怒るに違いない。小学生の女の子と男は違う、とか兄さんぶって。
興奮状態が落ち着いてしまうと、公園に一人で座っているのはたまらなく不気味だった。コンビニに行く方が怖くないのかもしれない。ただ、子供がパジャマとリュックサックでコンビニに行けば、警察に連絡され、兄が来るのを待つどころではなくなってしまうだろう。陽菜は名探偵コナンで見た知識を思い出してそう判断した。
気持ちを紛らわせるために、リュックサックを開けてみた。母親の家に泊まるために、いろいろなものを持ってきてはいたが、暇をつぶせるゲーム機は兄の専売特許なので、暇つぶしの道具は陽菜にはなかった。あるといえば、新学期なのでクラスで配られた、教科書ぐらいである。陽菜は大好きな国語の教科書を開いた。いつもなら目が悪くなると怒られそうな暗さだが、ベンチの横にある誘蛾灯のおかげで、文字は見えた。
パソコンや携帯ゲームが好き、という子供は多い。4年生の時陽菜の周りでも、放課後や休みの日にゲームの通信対戦をするのが流行っていた。ただ、陽菜はゲームにあまり興味がなかった。クラスメートが好きなものはほかにもいろいろあったが、陽菜が好きなのは物語だった。薬剤師として働いている理系畑の母親が、病院で使わなくなった絵本を貰ってきたのがすべての始まりだった。陽菜が3歳のときである。
桃太郎や浦島太郎、親指姫に人魚姫。有名な作品は一通り夢中になって読んだ。中でも陽菜が好きなのは、シンデレラや赤ずきんちゃん、ヘンゼルとグレーテルなどの魔法使いが出てくる絵本であった。
魔法使いは主人公にとって、必ずプラスな影響を与えてくれる存在ではない。赤ずきんちゃんの魔法使いは主人公を殺そうとするし、ヘンゼルとグレーテルでは子供たちを食べようとする。どこか恐ろしい存在ではあったが、ほうきで空を飛んだり、杖で魔法の力を生み出したりする魔法使い達は陽菜の心を大きく揺さぶった。どんな人でも、日常生活は同じことの繰り返しになりがちだが、陽菜にとって魔法があれば一種の反復作業となりがちな生活に彩りを加えてくれそうな気がするのだった。
両親の膝の上で絵本を読んでもらう時期を卒業したら、別のものに楽しみを見出してしまい、本を読まなくなるものは多い。ただ、父親が本嫌いで、フルタイムで働く母親を持った陽菜にとって、本は読んでもらうものではなく、呼吸するのと同じように自ら求めるものであった。今も絵本大好きっ子には変わりがないが、ハリーポッターや魔女の宅急便が大好きなどちらかと言えば空想の世界を愛でる傾向のある少女に成長していた。
ただ、空想の世界にばかり遊んでもいられない。魔法を使う以外でもハリーポッターやキキと同じように、陽菜にもやらなくてはいけないことがあった。学校や塾の宿題は、楽しいものではなかったが、父親と祖母と暮らすことを選んだ陽菜が、母親にやってもらっている金銭的な援助だった。
ベンチに腰掛けた陽菜が取り出したのは、学校でもらったばかりの教科書だった。陽菜はまず、折り目の付いていない教科書をパラパラとめくり、全体を見渡した。毎年配られる教科書の物語は書かれた物語の一部でしかない。だけど、仮に一部だとしても様々な作者の描く物語や詩に触れることは陽菜にとって遊びのようなものだった。
教科書は散文詩からはじまり、いくつかの物語から構成されていたが、陽菜の目に付いた物語があった。
ひなぎく、と平仮名だけの題名に、白い花が書かれている。どのような物語なのか想像もつかないが、副題として<ファンタジー>と記載されていた。ファンタジーは陽菜の大好きな読み物であった。兄が寄り道から戻って来るまで退屈することはない。陽菜は確信を持ってそう思った。白い花の描かれたページをそっとめくり、物語を読み始めた。