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前編

前編、後編で終わればいいな。


 羨ましくて仕方がなかった。

 不幸になってしまえばいいと思った。


 だけどあの人は、今も幸せそうに笑ってる。




 子供の頃はそれなりに仲のいい姉妹だったと思う。

 それが崩れたのは、多分母が病気で倒れてからだろう。

 それまで割と自由に過ごしてきた私たちだったけれど、その日から姉が家のことを仕切るようになった。姉が家のことも母の看病も、母に代わり父と共に社交界に顔を出しては時間を見つけて勉強をして。私は今までとあまり変わらぬ日々を過ごした。

 みんな姉のことを褒めていたけれど、私は姉に遊んでもらうこともなくなり、父母に構ってもらうこともなくなっていった。


 それが寂しくて、使用人たちに相手をしてもらったけれどみんな遠慮ばかりして。

 姉は大変なのに妹は気楽だと影で笑って。そのくせ、私の前ではにこにこして。


 母のもとへ行けば病気に障るからと追い出され、父のもとへ行けば仕事の邪魔になると諭され、姉のもとに行けば勉強中だと会わせてもらえない。

 家の中に私の居場所はなくなっていった。


 いつしか家に帰りたくないばかりに社交界に居場所を求めて。


 優しくて甘い言葉をかけてくれるのが嬉しくていろんな男の手を取っては踊り踊らされ、嘘だとわかっていても温もりを手放せなかった。

 それでよかった。


 けど。


 姉が、私が必死に掴み取った温もりを容易く手にしているのを知ってからはダメだった。

 ううん、そうではない。姉が手にしているのが、私とは違って本物の温もりだと知っていたからかもしれない。


 今までの小さな不満が大きくはじけてしまった。


 どうして、あの人だけが手にしているのかと不思議でならなかった。

 父も母も家のみんなも。姉は手にしているのに、どうして、と。姉の婚約者くらいは、私が獲ってもいいのではないか、と。

 彼が好きだったわけじゃない。

 姉が好きな人が欲しかったのかもしれない。

 本物の愛情が欲しかった。姉が与えられているものと同じものが欲しかった。


 けれど彼は姉の手を取り、離そうとはしなかった。

 父も母も姉の味方で、私を叱るばかりだ。


 どうしていつだって正しいのは姉の方なのだろう。


 嘘の温もりさえ姉の味方になっていて、初めて姉が心底憎く思った。

 不幸になればいいと言葉をぶつけたら姉に泣かれた。やっぱりみんな姉の味方で私の方を見てくれる人はただの一人もいなかった。


 父に見損なったと蔑んだ目で見られ、母は目も合わせてくれなくて。

 姉の婚約者は鋭利な刃物のような目つきで睨んできて、私に嘘の温もりを与えてくれた人は嘲笑を浮かべていた。


 姉の周りはたくさんの人が優しい目で姉を見ているのに、私の周りには誰ひとりとしていない。



 自宅での謹慎を言い渡されて、使用人たちは余所余所しくて結局部屋で一人。

 姉は、婚約者と腕を組んで幸せそうに微笑んでいるのに。









 姉が結婚してしばらくして、姉の懐妊が知らされた。

 私以外の家の人間は大喜びで朝から笑いが絶えなかった。その裏で父は私を警戒した。


 程なくして、私に縁談を持ってきた。

 姉夫婦と生まれてくる子供に私の存在は害になると思われたようで、遠方の土地に婚姻の準備が整った状態で私にその話をした。拒否権もなく、三日後には家を追い出されるようにして縁談先に向かった。


 みんな、長く私に向けることのなかった心からの笑顔で私を追い出した。


 婚姻相手は国境沿いの山岳地帯に住まう貴族。

 滅多に中央には来ない一家で嫁に困っていたという。中央のことに疎いので、私の悪評もそれほど知られていないという余計なことも聞かされた。馬車で半月ほどかけて向かった。護衛も侍女もなく、年老いた御者だけを連れて。もしかしたら途中で不幸があってもいいとさえ思われていたのかもしれない。


「お嬢様。到着いたしました」


 たどり着いた先は実家に比べると遥かに小汚く、無骨な場所だった。


 町は田畑ばかりで、その家の裏にも畑があるのが見える。

 ここからでも目に付く砦が、婚姻相手と国境警備隊が詰めている砦なのだとすぐにわかった。


「お前はここに」


「はい」


 馬車から降りて扉を叩く。

 庭には簡単に侵入できる作りだ。無用心なこと。


 しばらく待ってようやく扉が開く。

 反応も迅速とは言い難い。顔を出したのはまだ年若いお仕着せの娘。


「どなた様でしょうか?」


「エルダーシャ・ファンテスですわ。屋敷の主か、わかる方がいらっしゃって?」


「エルダーシャ・ファンテス、さま? 少々お待ちくださいませ」


 言って娘は屋敷内に戻る。

 父がどのようにして話をつけたのかも知らされぬままここまで来たので不安がある。ここも追い出されたらどうしようか。


 ようやく屋敷から先ほどの娘が再度顔を見せた。御者の方には別の若い男が向かう。

 困惑した様子が隠せていない表情で屋敷の中に通される。やはり、歓迎されてはいないようだった。


 通された応接室は少し古びた調度品ばかりが置かれていた。

 そこでお茶を出されしばらく待たされる。茶器も新しいものではなかったけれど、お茶自体は美味しい。


「お待たせいたしました」


 扉が開いた先には母よりも少し年上の女性が頭を下げていた。


「ダルマージの妻、エイナにございます。エルダーシャ様、ようこそお越しくださいました」


 私はさっと立ち上がり礼をする。


「エルダーシャ・ファンテスです。よろしくお願いしますわ」


 ダルマージとは婚姻相手の性だ。

 おそらく彼女は婚姻相手の母親であろう。お互い椅子に座り、再度向かい合う。


「遠いところを本当によくお越しくださいました。お疲れでしょう、すぐに部屋を用意させますのでもうしばらくお話にお付き合いくださいませね?」


「お気遣いありがとうございます。それで、大変申し訳ないのですが、私はこちらのことは何一つ知りません。無作法がございましたらご指導のほどお願い致します」


「わかりました。何かわからないことがありましたら聞いてくださいね」


 エイナ様はそう言って柔らかく微笑まれる。

 昔の母を思い出した。


「あの、ところでお付の方は?」


「……いません。御者は私を送り届けたあと故郷へ戻ると聞いております」


「そうですか……あ、主人も息子も今は出ておりまして。晩には戻ると思いますわ」


 すぐに戻ったけれど、夫人は一瞬不審そうな表情を浮かべる。

 この遠い地へ一人で嫁ぐことに思うことがあったのだろう。本来ならこの距離だと護衛くらいいるものだから。


 夫となる人の名前はウルベルトという。

 年齢は私よりも八つ上の二十六歳。まだ慌てて結婚するほどでもない年齢だ。どのような人かも聞いていないが、父は持参金をかなり用意したらしいことは聞いた。それが最後の情なのだそうだ。父には離縁されても戻ってくるなとも言われている。

 母は見送りにも来なかった。


「ごめんなさいね、今日到着するとは思わなくて」


「いえ。先触れを出さなかったのはこちらですので」


 先触れを出すことすら出来なかったのが本当のところだけれど。


「失礼いたします、奥様。お部屋の準備が整いました」


「あら。では案内をお願い。エルダーシャ様、どうぞゆっくり休まれて」


「お心遣い感謝しますわ」


 促されたので立ち上がって礼をし、使用人の後についていく。

 部屋の準備はかなり早かったのであらかじめある程度は準備し終わっていたのだろう。そのわりにはこの使用人も最初に出た子もそわそわと落ち着かない様子だったり困惑した様子だったり。もしかしたなら、夫となる人に周知の恋人でもいらっしゃるのだろうか。

 それならそれで構わない。

 同じ失敗はしない。もう、温もりを求めたりはしないから。





 その人は、夕方に戻っていらっしゃった。

 どうやら私が着いたことを手紙で知らされたらしい。急いで帰ってきたようだ。


 部屋に入ってきたその人の第一印象は、童話に出てくる「くまさん」だった。


「え、エルダーシャ・ファンテスですわ。はじめまして」


「ウルベルト・ダルマージだ。遠いところをよくお越しくださった」


 にこりともせず、軽く頭を下げる夫となる人。

 あらためて、大きな人だなと思った。

 王宮の貴族の方々にはいらっしゃらなかった大柄さだけれど、衛兵にはこのような体躯の人はいたと思い出す。


 顔を上げてしばらく。お互い沈黙。

 それから彼は「あ~、え~っと」と唸り始めては頭を掻く。その表情はやはり困惑だった。


「最初に申し上げておきますが」


 なかなか話をしようとしないのでこちらから声をかける。

 はっとしたようにこちらを見た瞳は思いのほか優しい色をしていて、少しだけ魅入ってしまった。


「実家に戻ることがなければ、実際の婚姻はなくても構いません。決めた方がいらっしゃるならおっしゃられてください。子を産むようにとも言われておりません。私が必要なければ別の住まいを用意してくださればそちらに移ります」


「……な、え、いや」


「婚姻を結んだとしても、愛人を迎え入れるのも構いません。子供が欲しいということでしたら協力は致します。必ず生むと確約は致しかねますが」


「…………」


「実家には離縁したとしても戻ってくるなと言われておりますので、こちらへの配慮は不要にございます」


「そう、か。わかった」


 了承。のわりには、非常に困惑した表情。

 八の字になった眉がぬいぐるみのような愛くるしさを演出している。


「なにかありますか?」


 物言いたげな目をしているので聞いてみたが、彼は「はぁ、その……いや」とはっきりしない。やがてため息をこぼすと、頭を掻きながら「なんでもない」と言った。

 ずいぶんとはっきりしない人だ。


「そうだ、取り合えず屋敷の中を案内しようか? これからは自分の家になる。早く慣れるに越したことはない」


「そうですね、お願いします」


「あぁ。じゃ、一階から回ろう」


 手を差し出してきたので素直に自分の手を重ねる。手もすごく大きい。それにごつごつしていて厚い。まるで大人と子供の手のような違い。

 

「中央と違ってここは煌びやかさがないが、のんびりしてて空気の美味しい、いい場所だよ。個人的には好きなんでね、君も好きになってくれればいいなとは思うけど」


「家の数も人の数も少なくて驚きましたわ」


「はは、田畑ばかりだしな」


「あなたはこちらのほうが好きですの?」


「そうだな。俺にはこっちの気風が合ってるんだと思う」


 煌びやかさの欠片もないけれど、ほわりと優しい顔で彼は笑う。

 なんだか私の心もほわりと優しくなった気がした。


「みんなのんびりしてるから、少しづつこの地に慣れていけばいいと思うよ。あぁ、そこが玄関。こちら側に行くと厨房に出るんだ」


 そうやって手を繋ぎながら丁寧に屋敷の中を案内してくれる。

 時折すれ違う使用人はみんな笑顔で頭を下げていく。家ではみんな無表情に近かったのに。変な気分。


 ある程度案内が終わって食事に呼ばれたので一緒に食事の席に行くと、エイナ様とおそらくダルマージ家当主様がすでに席についておられた。慌てて挨拶をするものの、お二人共ゆったりと笑って挨拶してくださった。

 苦手なものがあったなら無理をして食べなくてもいいとさえ気を使ってくれる。


 この家の方々は私の事情をどこまでご存知なのか、家族のことを聞いてくる人はいない。他愛のない、好きな食べ物や趣味の話。この土地のこと、風習のこと。随分と心穏やかに過ごさせてくださった。こんなにも柔らかく笑ったのは、いつぶりだっただろうか。


 今日はもう疲れているだろうからと、食事のあとは湯浴みをさせていただき早々に就寝する。

 長い馬車旅と慣れぬ状況に疲れていたのか、寝台に横になるとすぐさま睡魔に襲われた。







 翌日からのんびりと、だが着実に婚儀に向けて準備が進められることになった。

 婚儀は二十日後。花嫁衣装だけは持参してきた。最終の調整や細かいベールなどといったものはこちらで誂えてもらう。持参した衣装はシンプルな白いドレス。少しシンプルすぎるということで、この二十日の間にわずかな刺繍とレースを足すことを決めたのは義母となるエイナ様だ。


 婚儀はまだであるにも関わらず、すでに義母、義父と呼ぶように言われて多少の戸惑いはあった。

 それでも私に婚儀の否やを唱えられる権利などなく、このまま二十日後には式を挙げ正式に義理の親子となるのであるなら最初からそう呼ぶのもいいかと要望に答えることにした。屋敷の中でも使用人にはすでに若奥様と呼ばれて変な感じはあるが、それもすぐ本当になるのだろうからとそのままにしている。


 実家にいる頃は使用人は他人であったのに、ここの人はあまり他人行儀には接してこない。王宮でこれだと無礼とも取れるかもしれないが、ちょっとした世間話すらしてくることもある。仕事はきちんとしているので文句はない。




 屋敷に到着した日以外、帰宅が遅かったウルベルト様と義父が五日目にして早く戻られた。

 久々の四人での食事の席は会話も多く賑やかでさえあった。義父母の昔の話、夫となるウルベルト様の幼少の頃の話を聞かせてくださった。


「昔からこの子は図体だけ大きくて小心者なのですよ。エルダーシャさん、よろしく頼みますわね」


「母上……一応、これでも仕事場ではそれなりに」


「言い訳がましいのは男らしくありませんよ、ウル」


「う」


「体だけは頑丈ですからね。気に入らぬことがあれば少々叩くなりしても問題はありませんよね?」


 母は強しといいますか。

 お義母様は儚げな容姿のわりにウルベルト様には強気。お義父様はそれを笑って眺めておられることが多い。そしてウルベルト様といえば、母には頭が上がらぬとばかりに情けない表情をされてはたまに反撃、しようとして撃沈。

 私もいつの間にか笑ってその様子を眺めてしまっていた。




 食事が終わると今日は早い時間なのでウルベルト様とお部屋でお話をさせていただくことにした。

 婚儀はまだなので部屋はまだ一緒ではないけれど、こうやって二人で部屋にいることを咎められることもない。どうせもうすぐ結婚するんだし、という適当な空気があった。


「どうですか? 今のところは不便はありませんか?」


「はい。問題ありません」


「それはよかった。婚儀の日から三日間は仕事はお休みをいただけることになっているんです。ま、緊急事態が起こった場合は休みが飛んでしまいますが……ともかく、その分明日から婚儀の前日までは忙しくなると思います。あまりゆっくりお話する機会もないかもしれませんから、何かあればと思いまして」


 図体の割にと言えば失礼かもしれないけれど、それでもその体躯には似合わぬほど情けない表情だ。

 母親と話している時もよくこんな表情をしている。けれど不快ではない。


「お心遣い、感謝致しますわ」


「……そうだ、エルダーシャ嬢は馬には乗れますか?」


「馬、ですか? いえ、移動の際は専ら馬車でしたわ」


「このあたりは山岳地。坂道や細い道が多く、馬車では遠回りの場所も多い。だから馬に乗って移動する人が多いんですよ。婚儀のあとになりますが、もし興味がおありでしたらお教えしますよ。残念ながら名産の香草や織物は教えられませんけれど」


 馬に直接乗って移動。

 そういう乗り方があるのも、そうやって乗っているのを見たこともあるのに自分がそうすることなど考えたこともなかった。


「……少し、考えさせてくださいませ」


「ゆっくり考えるといい。案外やってみれば楽しいということもある」


「そうですわね」


 そうだ。このような辺境とも言える場所での生活など昔は考えもしなかった。けれど、まだ数日とは言え案外楽しく暮らしている。

 あぁ、そうだ。

 今の私は、ここで楽しいと思える日々を過ごしているのか。


「私、とても不器用ですの。刺繍も上手くできないし、読書もすぐに眠くなってしまうの……着飾ることくらいしか出来ませんでしたわ」


「ははは、そうでしたか。なら、いろいろ挑戦されることです。やってみなければ分からぬことの方が世の中には多いのですから。残念ながら王都のように商店は少なく品揃えもイマイチですが、その分この地の女性はいろいろ趣向を凝らしております。興味のあることはやってみることですよ」


「よろしいのですか?」


「うん? 勿論、危険なことや法を犯すようなことはダメですよ?」


 ぽんぽんっと軽く頭を撫でるように叩いて笑う夫となる人。これではまるで子供扱いではありませんか。

 少しむっとしながらも、その手を払いのける気にならなかったのは……その手がとても優しくて暖かかったから。

 ずっと願っていた、温もりだったから。


「……わかってますわ、それくらい」


「やりたいことがあれば教えてください。協力できることなら協力しますよ」


「ありがとうございます」


「まぁ、しばらくは窮屈な思いをすることになるかもしれませんが。婚儀のあとの休日、折角ですからどこかに出掛けましょうか? 日帰りのできる近場くらいしか案内できませんが、この時期とても眺めのいい場所をいくつか知ってます」


「…………みずうみ、はありますか?」


 昔、童話に出てきたのだ。妖精たちが水浴びをする場所。


「湖ですか? あるにはありますが、かなり遠いですね。見たいんですか?」


「遠いならいいです。どのようなものか気になったんですわ」


「そうですか。気になるのなら連れて行きたいところですが……日帰りで行ける距離ではないので、今回は我慢してくださいね」


 それはいつか連れて行ってくれるということでしょうか?

 いいえ、きっとこの場で誤魔化すための言葉。いつだって皆、嘘ばかりだった。

 

「そうだ、滝は見たことありますか?」


「たき……? どのようなものですか?」


「うーん……そうですね。川が山から下に向かって流れているのは知っていますか?」


「えっと」


 川がどこからどこに向かっているのかなんて考えてこともない。


「水は高いところから低いところに流れていくんです。そして、水の道が川。でもたまに、水の道が途中で途切れてしまうんですよ」


「え? 途切れたら進めなくなりますわ」


「我々は道が途切れた先が崖であったならそのまま落ちて死んでしまいます。けれど水はそのまま落ちて、また道を作って流れていきます。滝というのは、道が途切れ下に落ちていく水のことです。言葉での説明はわかりにくいですから、見たほうが早いですよ。よければ見に行きませんか?」

 

 そんな話は初めて聞いた。

 水が落ちていく先。そんなものがあるのだと、驚いた。


「えぇ、見てみたいですわ」


「楽しみにしていてください」


 それは、約束。嘘ばかりの、形だけの約束ではない、本当の約束。

 期待していても良いものですか?

 楽しみにしていても良いものですか?


 じっと彼の瞳を見上げる。

 嘲笑も侮蔑でもない色。温かみのある瞳に、心が湧き踊る。


「はい!」


 楽しみに、していていいですよね?

 



 それから婚儀の前日までは言っていた通り忙しいらしく、ウルベルト様は帰宅が遅いどころか帰ってこない日もあった。

 それは養父も同じであり、女性関係の疑惑はあったものの特段気になることもなかった。


 当日は慌ただしい。朝から訳がわからないままいろんな準備でよく覚えていない。

 出席者は多くいたけれど、姉と違って私の婚儀に私の親族が出席することはなく当然ならが友人もいない。

 そのことに何も思わなかったわけではなかったけれど、ここの人たちがそのことに触れることもなくただ純粋に祝福してくれたので嬉しかった。


 準備を終えて、夫となる人の迎えを待つ。

 花嫁の待つ場所に花婿が迎えに行き、神前にて誓いをたてる。それが、一般的な婚儀の仕方だ。


 純白のドレスに養母や使用人達の助けも借りて苦手であったけれど自分で刺繍を入れた。

 不思議な気分だった。

 きっと辛い生活が始まると思っていたのに、ここに来てからの方がずっと幸せに暮らしていると思った。

 少しでも綺麗にドレスを仕上げたい、少しでもあの人やここの人たちによく思ってもらいたいと丁寧に針を刺していく。嘘のない、あの瞳で。似合っていると言ってもらいたかったから。


 それが、もう少しで叶うかもしれない。

 今までいっぱい着飾ってきたのに、こんな風に緊張したことはない。


「エルダーシャ嬢、入りますよ?」


 ノックのあとに聞こえた声に、小さく「はい」と返事する。

 ゆっくりと開けられた扉の向こうでは、儀礼用の服に身を包んだクマさんみたいな人が佇んでいた。


「…………準備は整っていますね? じゃ、行きましょうか」


 差し伸べられる手に、自分の手を重ねる。

 何も言わないこの人に、つい尋ねてしまわずにはいられない。


「あの、私……似合ってますか?」


 彼は驚いたのか軽く目を見開き、ついでじっと私の姿を見つめる。

 それから少し恥ずかしそうに、彼は笑った。


「ええ、とてもよく似合っていますよ」


 それだけ言って私の手を引き歩き出す。ほっとした私はそのまま子供のように後をついて行く。

 大丈夫、私は嫌われていない。

 みんなの前に姿を現し、祝福されながら神前へと向かう。


 夫婦の誓いを告げて、お互いに祝福のキスをお互いの頬に贈り合う、その寸前。


 嬉しそうに恥ずかしそうに笑うウルベルト様の姿を見て、その優しい眼差しで見つめられて。

 ドキリと胸が鼓動した。

 そっと寄せられる唇の感触に体中が熱を持ち、目眩がした。


「……エルダーシャ嬢?」


 お返しのキスをしない私に異変を感じたのか、彼が私の目を覗き込む。それすら恥ずかしくて。

 慌てて突撃するようにして彼の頬にキスを返す。


 そのあとは、恥ずかしくて目を合わせられなかった。


 急にどうしたというのだろう。

 どうしてこんなにも恥ずかしいと思うのだろう。目を合わすことも、手を握られることも、そっと耳元で囁かれることも。

 早く、早く終わって欲しい。

 早く早く、戻りたい。一人になって落ち着きたい。


 その後は気もそぞろで。

 招待客に挨拶したり祝福を受けたりしたけれどよく覚えていない。ただただ、早く部屋に戻りたかった。

 この焦燥感はなんだろう。嫌だ、嫌な予感がする。これは気づいてはならないモノだ。早く捨てなければ。考えてはいけないものだ。蓋をしなければ。


 同じ失敗はしてはならない。

 温もりを求めたりはしないと決めたのだから。





 

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