シュバルツバルト森林帯解放作戦 03
~承前
それは、一面の泥の海だった。
他に表現のしようが無く、そこへ足を踏み入れるのは勇気が必要だ。
まるでコーンスターチの様に粘性を感じさせる泥は、足を取られるだろう。
その泥の海の向こうには小さな丘があり、その斜面に大穴が空いている。
穴からは大量の水が溢れるようにこぼれていて、一面を泥の海にしていた。
そもそも地下に微生物が禄に居ないので、腐敗臭に鼻を曲げる事は無い。
しかし、それ以上に厄介なものが火星にはあった。
塩酸や硫酸と並ぶ強力な酸。過塩素酸ナトリウムだ。
火星の地殻にはプレートテクトニクスが無い。
それを教えられたテッドだが、正直その全貌を理解しているとは言いがたい。
ただ、火山がホットスポットの上で成長し続けるのは感覚的に理解した。
そして、その副産物として火星の深層から色々と面倒なモノが浮上したのもだ。
かつては火星の地表全域にまんべんなく存在すると思われていた過塩素酸塩。
しかし、実際に入植してみれば、その分布には密度のムラがある事を発見した。
場所によっては驚く程の高密度で、水溶液はロケットの酸化剤に使えるレベル。
結果、火星の地表から地球を目指すロケットの燃料には事欠かない状態だ。
酸化剤さえあれば、燃料は正直何でも良いのだ。
そして、二酸化炭素の還元でアルコールやメタンが幾らでも手に入る。
ただ、この氷水鉱山の水や氷は、最初から過塩素酸塩を含んでいる。
その関係で、迂闊に足を突っ込むのが憚られた。
迂闊に被れば過酸化水素と同じく全身を溶解させる事になる。
ただ、そんな事を熟々と考えている余裕など、この時は無かった。
「全員散開! 射角を広く取れ!」
ジャンの頭を越してテッドはそう指示を出した。
着陸したティルトローター機にもガンガンと着弾するくらいの射撃が降り注ぐ。
パンパンと響く射撃音は100人程度のモノだとテッドは感じた。
直撃を受ければもちろん即死しかねないが、撃たれる事は正直余り恐くない。
だが、それよりも恐ろしいのはキーンと響く甲高い音だ。
その音が響く都度、ビクッと身体を震わせて頭を下げた。
「頭を下げろ! 勝手に死ぬな! 跳弾に注意しろ!」
そう。
アチコチからキーンとかチュイーンと甲高い音を響かす跳弾の方が恐ろしい。
銃撃を受けるときは射点と射角を考える余裕があるので、躱せるケースが多い。
だが、何処かで跳ね返って来る跳弾は、予想外の角度で一撃を受ける事になる。
威力が減衰していれば良いのだが、跳ね返る弾は大概固いモノにはじかれる。
当然の様にそれは手痛い一撃となり、当たり所が悪ければ大怪我では済まない。
「随分な歓迎っすね! 中尉!」
何処かにいたトニーは走ってきてテッドの脇に飛び込んだ。
手にしていたH&Kの自動小銃をロックンロールにして、セーフティを抜いた。
「中尉はいい! テッドと呼べ!」
「なんでですか!」
跳弾が飛び跳ねる環境だが、テッドは口元に笑みを浮かべ大声で言った。
「トニーは同じチームだ。エディの方針だよ!」
その背中をポンと叩き、テッドは前進を選んだ。
テッドの背中目掛けトニーは駆け出す。
士官の勇気を見た兵士達は一斉に立ち上がり、射点への距離を詰めに掛かった。
自動小銃ならともかく、ショットガンやサブマシンガンは有効射程が短い。
その関係で、嫌でも距離を詰めねばならないのだ。
「ドン! キール! あの段差をトレンチ代わりに使う! 行くぞ!」
手近にいた兵士に声を掛け、テッドは一気に前進した。
その間、テッドが手にしていたMG7は猛烈に火を吹き続ける。
まるでそれは、弾丸をバラ撒くチェーンソウだとトニーは思った。
「火星の地下には大量の水があるって聞いてたけど――」
前進していったテッド達は、トレンチ上の段差に張り付いた。
鉱山から溢れた泥を堰き止める堤防状の段差が各所に用意されていた。
「――コイツは極めつけに面倒っすね!」
テッドの脇にいたトニーが叫んだ。
生身の身体を使う面々は、酸素マスクで口のまわりを隠している。
それは、過塩化酸ナトリウムを吸い込まないようにする配慮。
ヘルメットにカバーされてない部分がある理由をテッドは初めて知った。
そして、そんな者に頼る事無く戦闘出来るサイボーグを便利だと思った。
逆に言えば、それこそ馬車馬のようにこき使われるだろうと覚悟した。
「ジャン! どうする!」
やや離れた位置でトレンチに取り付いたジャンは、辺りを確かめている。
激しい銃撃を受けている状況下で、ジャンは指示を待っていた。
「ジャン!」
「ちょっと待て! いまエディ達が着上陸した」
え?と驚いて振り返ると、鉱山の積み出し施設と思しき所へ着陸する機がいた。
見事な操縦で隙間へと入り込んだティルトローター機から一団が飛び出した。
見事な統制を見せて前進しているのが、恐らくそれはブルの指揮だろう。
シリウスにいた頃から、ブルが指揮する戦闘は実に見事な統制だった。
そして、そんな中、最後に出てきたのはエディだ。
ピュンピュンと弾丸が飛び交う中、まるでハイキングのように辺りを見ている。
弾が当たる!と叫ぼうとして、テッドはハッと思いだした。
あのサザンクロスの戦闘で、激しい銃撃の中をノンビリと帰ってきたシーンだ。
――……だよな
そう、当たらないのだ。あの人に、エディに当たる弾丸は無い。
しばらくぶりなんで忘れていたよ……と、心の底で笑っていた。
『ジャン。テッド。西側に鉱山詰め所がある。そこを押さえろ』
『イエッサー! テッド! 行くぞ!』
無線の中に流れたエディの声で、ジャンはやっと動き始めた。
ただ、少なくともそれは間違い無く正解だ。
――あ、いけね……
仮にここでエディしか知らないトラップがあったなら、第1中隊は全滅する。
そうならない為に、指示された事以上はやらないのが重要だ。
サンドハーストで散々と教えられた事をテッドは思いだした。
そして同時に、自分が調子に乗っていた事を思い知らされた。
たまたま先に激戦を経験し生き残ったと言うだけで、勘違いしていたのだ。
――先輩面してる場合じゃないな……
誰だって勘違いする。誰だって間違いはある。
そんな時にパッと改められるようになること。
きっとそれを『成長』と呼ぶのだろう。
「Aチームを支援する! ドン! キール! 射点を見つけて銃撃しろ! トニーとモリーとディスは一気に距離を詰めろ! ここで支援射撃する! 野郎ども気合入れろ! 行くぞ!」
どんな理屈や戦術や技術よりも、気合と根性が優先される時がある。
そんな環境に直面した時は、指揮官の気合と度胸を隊に伝播させるのだ。
死ぬか生きるかの極限環境では、些細な差が生死を分けるのだ。
「ビビルな! 行くぞ!」
それを蛮勇と誹るのは容易い。
だが、生きるか死ぬかの境目とは、案外こんな所にあったりもする。
自分の運命ですらも打ちのめす勢いで事に掛かるなら、困難に打ち勝てるのだ。
「Aチームが止まったらこっちが躍進する! それまでかまし続けろ!」
腰を伸ばしたテッドは遠慮なくバリバリと打ち続けた。
身を晒す度胸は、やはり場数と経験だ。
全身にパリパリと着弾を感じるが、小口径高速弾は怖くない。
ただ、安心しきっていると痛い目に合う予感がする。
敵を舐めて掛かって良い事など何も無いのだ。
「テッド! こい!」
「おぅ!」
支援射撃を続けていたAチームは停止し、射撃戦列を作って撃ち始めた。
事務所まで凡そ300メートルほどの距離があるが、充分射程圏内だ。
「前進!」
テッド率いるBチームは降り注ぐ銃弾をモノともせず前進した。
こんな時は守る側の方が焦るもので、シリウス軍の銃撃は随分と乱れた。
――……こんなもんか?
僅かに首を傾げながらも、テッドは一気に200メートルを進んだ。
幾段にも積み重ねられた段差の向こうに事務所が見える。
『エディ! 事務所は爆破しますか!』
テッドは最後の100メートルを残し、そう質問した。
シリウス軍をどう御するかは問題じゃ無い。1人残らず排除すれば良い。
問題はこの鉱山のこれからだ。
まだ使うなら余り破壊しすぎるのは良くない。
作り直すにも予算と時間が掛かるのだから、出来れば無傷で手に入れたい。
いや、無傷で取り戻したいと思うモノだろう。
『テッド。事務所はなるべくそのまま手に入れろ。中身を外へおびき出せ』
――おびき出せって言っても……
相変わらずエディの無茶振りが来る。
しかし、言われた以上は努力せねばならない。
どうしたモンかと思案しているとき、後方のジャンが叫んだ。
「テッド! 前進する! 支援してくれ!」
「オーケー!」
再び立ち上がったテッドは猛然と撃ち始めた。
事務所の壁にバリバリと着弾しているが、正直やむを得ない。
なるべくそのまま……と解釈するなら、崩れない程度で良いと言う事。
ならば殴って殴って殴り続けて、びびらせて追い出すしか無い。
「Aチームが来るまで撃ち続けろ!」
こんなの統制でもなんでも無い。
ただの力任せな殴り合いだ。
テッドはそう自嘲していた。
少なくともこれは立派な戦いでは無い。
物量で押すだけの、いわば無能な戦い方だ。
ただ、正直言えば他に手を思い付かないのだった。
「テッド中尉!」
「だからテッドで良い! 面倒するな!」
トニーの声にテッドがそう叫び返す。
クレイジーサイボーグズはファミリーネームで呼び合うマフィアなのだ。
「じゃっ! じゃぁ――」
トニーは一瞬口籠もった。
絶対的に序列が優先されるシリウス軍の中では許されない行為なのだろう。
――リディアもこんな面倒を感じてるのか……
今はヘカトンケイルの親衛隊に移動したはずなリディア。
テッドは彼女が地球まで幾度も往復している事を知らない。
知ったら知ったで荒れ狂うのが目に見えているのだ。
それを知っている側は敢えて黙っているのだろう。
エディの耳にも入っていない事なのだが……
「――テッド! ジャンが到着した!」
「それで良いのさ! 面倒は考え無くて良い!」
射撃をやめてトニーの背をポンと叩いたテッド。
やや離れた場所に滑り込んだジャンを見て、そこへ行こうと一歩踏み出した。
その時だった。
――え?
一瞬、テッドは何が起きたのか分からなかった。
世界がグラリと揺れ、そのまま前に倒れた。
火星の大地が接近してきて、テッドは無意識に目を瞑った。
視界の中に体構造のホログラムが浮かび上がり、頸椎と脊椎に損傷が出ていた。
何が起きたのかを理解する前に、フッと視界が暗くなった。
――あれ?
その真っ暗な視界の中、フラッシュライトのような閃光が何回か続いた。
何が起きたんだ?と必死で考えようとしたのだが、身体が動かない事に気付く。
――撃たれた?
やがて視界の中にSAFEMODEの真っ赤な文字が浮かぶ。
それの意味するところを、テッドは必死で思いだそうとした。
ややあってハッと思いだしたのは、アグネスの中で最初に教えられた事だった。
――撃たれたんだ!
脳殻部やサブコンまわりに強い打撃などが加わると、一時的に機能不全になる。
その時、身体の方が防衛反応として自動的に再起動を掛けたのだ。
ただ、その再起動時に機能的な異常があると、自動でSAFEMODEになる。
身体が暴走しないように、コントロールを制限するのだ。
――これじゃ良い的だぜ……
こうなった場合、自動で戦闘を継続するような機能が欲しい。
周囲に迷惑を掛けず、徹底的に戦闘するような機能だ。
『テッド! 聞こえるか!』
熟々と考え事をしているとき、無線の中にエディの声が響いた。
咄嗟に『聞こえてますが戦闘不能です』と応えたテッド。
エディは穏やかな声で言った。
『至近距離でライフル弾を喰らったな。防御力の高いヘルメットに感謝しろ』
頭に当たったのか……
生身だったら即死だったな……
思わず寒気を覚えたテッドだが、エディの声は続いた。
『いまヴァルターが第4中隊を率いてそこへ行く。お前の中隊のメンツがお前をトレンチの陰に隠した。後方へ送致させるから戦闘を離脱しろ。後でしっかり反省会だからな?』
――やばい……
思わずゾクリと寒気を覚えたテッド。
だが、戦闘はどうなるんだろう?とそれが気になった。
『エディ! 戦闘は!』
『負傷兵はそれを気にするな。さすが志願ばかりの面々だ。優秀だよ』
それと同時、エディの見ている光景がやって来た。
動かなくなったテッドの身体を引きずって全員が射撃していた。
ジャンは左右にいる第1中隊を指揮し統制している。
テッドの負傷により攻撃が収まった瞬間、事務所から何かが飛び出した。
その飛び出した連中目掛け全員が総力射撃を加え、幾つもミンチが出来た。
――大丈夫だな……
何となくそんな事を思ったテッドは、不意に眠気を覚えた。
あのアグネスの中で教えられた、サブコンの対処フローを思いだした。
脳に過度なストレスを与えないよう、眠らせるのだ……と。
――後を頼むぜ……
そんな事を思ってテッドは意識を手放した。
何となく近くにリディアが居るような錯覚を感じながら。




