ROAD-NINE:ルーシーの旅立ち 02
■―2―■
リャンの死から数日経った学校の帰り道。
送迎の車に乗っていたルーシーは、再び爆弾テロにあった。
IEDと呼ばれる簡易的な即席爆弾トラップだが、その威力は侮れない。
爆弾テロ対策で重装備だった筈の送迎車輌は30メートルも吹っ飛んだ。
装甲に護られていた筈の運転手と護衛の2人は爆発時点でほぼ即死だった。
更なる隔壁に護られた後部座席のルーシーは、全身に火傷を負う重傷だ。
すぐさまタイレル付属病院に運び込まれ、緊急治療を受けたルーシー。
だが、今回は僅か1週間での退院となった。
「ルーシー。何処か痛い所は無いか?」
タイレル付属病院の中でチャールズはルーシーに確かめていた。
再生カプセルに入ってから2日間で、失った身体は全て再生した。
大きな傷は全て癒え、何事も無かったかのように笑っていた。
「うん。大丈夫! どこも痛くない!」
花の様に微笑みながらルーシーは答えた。
ただ、その時点で自分自身が異常であることに気が付いたのだ。
死んでもおかしくない程の重傷だったのに、労も無く回復した。
身体のあちこちに鈍い痛みがあるが、それは動かせばすぐに消えた。
「さぁ、おうちへ帰るよ」
「はいっ!」
自分の身体があっという間に快復した事をルーシーは訝しがる。
だが、それ以前にそのテロの原因が自分にある事を理解していた。
通っていた小学校の中で、ルーシーは口を滑らせていたのだ。
――――やっとママの仇を討ったの!
――――パパはジェネラルだから!
何処でどう繋がったのかは解らないが、ルーシーにも解る事がある。
家の外で言ってはいけない事があり、それを言うと酷い事になる。
無関係の人を巻き込んでテロが発生し、その他多くの人にも迷惑が掛かる。
そして時には自分が痛い目に遭い、大けがをする。
ただ、この時のルーシーはまだ治療の秘密を理解していなかった。
オリジナルの肉体ではなく、予備の身体に脳移植しただけと言う事を。
この時も無脳症状態なルーシーのスペアボディが培養されている事を。
ある目的を持ってルーシーは生まれてきた。
いや、生まれる事を強制されたと言っても良い。
その辛い現実を知る事無く、ルーシーは現実に復帰した。
しかしそれは、ルーシーにとって辛い試練の始まりに過ぎなかった。
病院からの帰り道、ふたりの乗る車が停止するほどの爆弾テロにあった。
その車は要人輸送特別仕様車でザ・ビーストと呼ばれる巨大なキャデラックだ。
かつて、合衆国最初の黒人大統領となった男を護る為に作られた特別仕様車。
シークレットサービスが要求した車の仕様は、絶対的な安全だった。
その仕様は、テロの頻発する23世紀の社会においても重宝されている。
この車は、テロの対象になりかねない層から絶大な信頼を得ていた。
つまり、要人輸送用にこんな車が必要な程に社会が分断されている。
それこそが、23世紀のアメリカが抱える病巣と病態の象徴だ。
「やれやれ……困ったものだな」
そんなボヤキを漏らし、ハミルトンは自宅へと戻った。
すると今度は自爆ドローンによる攻撃を受けた。
軍の特殊部隊による射撃で撃墜されたドローンは、50キロの爆薬付きだった。
ルーシーの眠る部屋を吹っ飛ばすには申し分ないだけのTNT火薬。
その大爆発を見ながら、まだ幼いルーシーは1つ理解した。
狙われているのが自分だと言う事。
そして、軍の将軍である父チャールズは、誰かから恨まれている。
自分が命を狙われているのは、そのとばっちりであること……
この時期、ルーシーは何とも不思議な眼差しでチャールズを見ていた。
軍という組織を立体的に認識出来る歳では無い。
だが、恨み骨髄レベルで軍という組織に反発する人々が居る。
そんな人々は、軍の中でトップに居るチャールズの命を狙っているのだ。
「……怖い」
ルーシーはどう表現して良いのか解らず、ただ一言、怖いと表現した。
だが、その言葉の本質は、ハミルトンと居るのが怖いと言う意味だ。
少なくとも、ジャンとキャサリンは命懸けで護ってくれた。
両親かどうかの実態はともかく、ルーシーはそこに安心感を感じていた。
しかし、このハミルトンからはそれを感じられないのだ。
「大丈夫だよ。ダッドがついてる」
ニコリと笑って言うチャールズだが、ルーシーの目には猜疑心だけがあった。
この人は親では無いかも知れない。親子とは何かと言う話では無く……だ。
それは、まだ幼い子供だけが持つ純粋な感情なのかも知れない。
無条件に安心感を与えてくれる存在ではない事への恐怖感なのだろう。
ルーシーはただただ、ジャンとキャサリンを思った。
温かいミルクのような体臭の母親と、機械油の臭いがする父親。
その2人の存在こそがルーシーの心の支えだった。
ただ、ターニングポイントはいつも唐突にやって来る。
テロにより自宅は半壊し、チャールズとルーシーは郊外へと出た。
幾つかある格式高い高級ホテルのひとつで一夜を過ごす事になったのだ。
チャールズはどこか脅えているルーシーの手を牽いてホテルへと入った。
幼い娘が脅えているなら、安心感を与えることこそが大人の義務だ。
ギュッと握った掌の中、ルーシーの小さな手に温もりを感じた。
ただ、そこにも居たのだ。
純粋な敵意と悪意を持つテロリストが。
「フリーシリウス!!」
ホテルのロビーに響き渡る声。そしていくつかの靴音。
小さな銃を構えたテロリストは、一気に距離を詰めて銃を構えた。
――あっ……
ルーシーはそのテロリストの1人と目があった。
炯々と光るその眼差しは、純粋な敵意だけがあった。
そして、突き抜けるような哀しみに満ちた諦観。
何も変わらない。何も出来ない。
そんな諦めと静かな怒りとを内包した純粋な眼差し。
言葉に出来なくとも、それを上手く表現できなくとも。
ルーシーは確信した。
絶対に分かり合えない存在がこの世界に居ると言う事を。
その時だった。
「ルー!」
一瞬視界が暗くなった。それと同時にフワリと身体が浮いた。
何事かを理解する前に全身がギュッと締め付けられた。
一瞬の間を空け、それがチャールズによる抱擁だと気付いた。
そして、クルリと振り向き、チャールズは身を挺してルーシーを護った。
抱き締めたチャールズの腕越しに、ブツリブツリと感触が伝わった。
……撃たれた
チャールズがテロリストに撃たれた。
その時、ルーシーはかつてジャンが同じ事をしたのを思い出した。
直撃を受ければ痛いのに、父は身を挺して自分を護った。
サイボーグならば修理すれば良いだけ……
だからこそ、それが出来たのだとルーシーは思っていた。
しかし、チャールズは生身の人間だ。
「……ッ!」
言葉にならない衝撃がルーシーの身体を突き抜けた。
そして、同時にその行為の果てを覚悟した。
チャールズが死ぬと思ったのだ。
「……大丈夫かい? ルーシー」
その声を聞き、ルーシーは顔を上げた。
痛みに歪む顔のまま、チャールズは笑って問い掛けた。
「……ウン」
「そうか。良かった」
その言葉の向こうでは、再び鋭い銃声が響いた。
何処かで何かが倒れ、バタバタと靴音が響いた。
「……パパ」
ルーシーは泣きながら呟いた。
だが、帰ってきた言葉は意外なものだった。
「赤ん坊じゃないんだ。もうパパって言っちゃいけない」
学校の同級生の中では、父親をパパと呼ぶのはルーシーだけだった。
多くの友人は父親をダディと呼んだ。ダッド。アメリカ式の呼び方だった。
ただそれは、もっと深い意味を持っていた。
パパはスペイン語圏で使われる呼び方だ。
そしてそれは、シリウス文化圏でも使われる言葉だった。
「……ダディ」
「そうだ」
ニコリと笑ってもう一度ギュッとルーシーを抱き締めたチャールズ。
その腕の力がフッと弱まり、ルーシーは驚いてもう一度見上げた。
チャールズの死の瞬間を見届けるのが義務だと思ったのだ。
だが……
「状況は?」
「クリアです」
冷静な声が響き、チャールズが死んでないことにルーシーは驚く。
だが、その直後にそのカラクリを見抜いた。
「ダディ……それ……」
「あぁ、これか」
良く気が付いたとばかりにチャールズはルーシーの頭を撫でた。
こんな事もあろうかと、事前に防弾チョッキを着込んでいたのだ。
だが、それについてルーシーが怒る事は無い。
チャールズは咄嗟に前のボタンを外し、ルーシーを内側に抱え込んでいた。
身体の小さなルーシーはその装甲の影にすっぽりと包まれたのだ。
なにより、幾ら防弾チョッキを着ていても、それに護られるのは身体だけ。
後頭部を無防備に晒し、チャールズはルーシーを護ろうとした。
背中は防弾チョッキに護られても、頸椎から頭部に掛けては完全に無防備だ。
そして、その無防備な頭部からは血が流れている。
真っ赤な血がトクトクと脈を打って流れている以上、間違い無く重傷だ。
「なに、すぐに傷は塞がる。ルーが怪我をしなくて良かった」
相当痛いはずだとルーシーは思った。
だが、そんな素振りなど一切見せず、チャールズはルーシーを抱え上げ動いた。
「周辺を捜索しろ! まだ潜んでいるかも知れない! それと負傷した民間人を優先して医療手当するんだ! 重傷者はタイレル病院に緊急搬送! それから……」
テキパキと指示を出しながら、チャールズは怒鳴り続けた。
散らかったホテルのロビーを歩きながら、駆けつけた州兵を動かしている。
自分自身が怪我をして尚、一般の人々の為に働き続ける姿。
流血する程の事態だが、それでも自分の事は後回しな姿。
そして、こんな状況でもルーシーを案じ、気を使っている。
「……………………ダディ。痛くないの?」
ルーシーは泣きそうな顔でそう言った。
気が付けばルーシーの来ていた服までもが血に染まり始めた。
「痛くないさ。それより、ルーの着ている服が汚れちゃったな」
余裕溢れる姿で笑みを見せたチャールズ。
そんな『父親』の姿に、首を振って今にも泣きそうな顔になった。
「大丈夫だ。ルーの為ならダッドはスーパーマンだ」
脅える娘を安心させようと、チャールズはルーシーの背中をポンと叩いた。
その衝撃がルーシーの中を反響し、その身体の何処かにあった何かを砕いた。
――パパ……
言葉では説明の出来ない感情がわき起こり、ルーシーの心の中に風を吹かせた。
その風は、ルーシーの心に蟠っていた負の感情を、何処かへと吹き飛ばした。
――ダディ……
この日、チャールズとルーシーは、初めて『親子』になった。
「ルー 引越ししよう。新しい街へ行くんだ」
「うんっ!」
何かを決心したチャールズはルーシーを抱えたままホテルを出た。
最初に向かったのはロスから北へ向かった所の街、サンフランシスコだ。
どうやら途中で眠ってしまったらしいルーシーは、不意に目を覚ました。
酷く殺風景で事務的な空間でしか無い所に自分は寝かされていた。
まだ夜明け前らしく、窓の外は薄暗い。
ソファに寝かされていたルーシーは、不安げに辺りを見回す。
すると、ソファにほど近いところの安楽椅子でチャールズが眠っていた。
いつの間にか頭に包帯を巻いており、手当てを受けたらしかった。
「…………………………」
そっとソファを降りたルーシー。
窓から溢れる月明かりに照らされたチャールズは、何処か神秘的だった。
「ダディ……」
小さな声で呼びかけたルーシー。
チャールズはまだ眠っていた。
「ダディ?」
眠っているらしいチャールズは、全く反応を示さない。
ここが何処だかは分からないが、少なくともホテルなどでは無さそうだ。
そして、少しでも居心地の良いソファを譲り、自分は安楽椅子で寝ている。
ふと、ルーシーはロス中心部の自宅にいた頃を思い出した。
幼い日の記憶だが、ルーシーはハッキリと覚えていた。
母キャサリンの腕に抱かれ、リビングのソファで朝を待っていた。
その間、父ジャンはショットガンを抱えたまま、窓の外を見ていた。
娘の為に頑張る父親の姿は、娘にとって理想の男性像その物となる運命だ。
「……ダディ ありがと」
安楽椅子の上で寝痩けているチャールズの頬にそっとキスしたルーシー。
それがこそばゆかったのか、1つ大きく息をして、チャールズは寝ていた。
その姿を見ていたルーシーはニコリと笑った。
言いしれぬ満足感を覚え、ソファにあったブランケットをチャールズに掛けた。
自分の被っていたブランケットなのだが、ルーシーはそれで良かった。
油断すれば肌寒い頃故に、ルーシーは僅かに思案した。
そして、部屋の隅に掛かっていたチャールズの上着を外し、それを被った。
ソファの上で丸くなり、父親の上着を被って寝るルーシー。
ややあって、穏やかな寝息が溢れる頃、チャールズはパチリと目を覚ました。
いや、目を覚ましたのでは無く、寝たふりをしなくなったのだ。
――寒かろうに……
チャールズはルーシーの内面の変化を知った。
今までは何処か他人行儀でお客さんだった。
だが、そのルーシーが自分を心配した。
いや、心配してくれた。
その夜、チャールズも1つ確信した。
この日初めて、チャールズとルーシーは父と娘になった。
親子になった。なったのだと確信したチャールズはルーシーの笑顔を思った。
そして、小さな声で呟いた。
「おやすみルーシー」
チャールズは失った幸せを思い出し、それに酔った。
翌朝。
ハミルトン一家は西海岸最大の都市、ロサンゼルスの自宅を引き払った。
移転したのはサンフランシスコ郊外の高級住宅街だ。
丘の上に広がるゲーテッドコミュニティは、外部の者を入れない基地状態だ。
高いフェンスと銃火器で武装したガードマンがゲートを護る閉鎖的な街。
身辺調査が徹底的に行われ、自治会が認めない限りは入居できない。
そんな街だが、ハミルトン家の審査はすんなりと通っていた。
この街の警備はチャールズの甥が経営する警備会社に管理されていた。
「ダディ? ここは?」
「新しいおうちだ。ルーも気に入るだろう」
「ふーん……」
ザ・ビーストの窓から街並みを眺めるルーシー。
二重の高いフェンスが街を取り囲み、100メートルおきに監視塔がある。
24時間体制で外部への監視が続いていて、不用意な接近は命取りだ。
そもそもアメリカという国家は、身を護る権利が憲法で保障された国だ。
自衛の為に銃火器などで武装する事もまた、憲法に認められた権利。
猛獣の跋扈するフロンティアを開拓した者達の末裔の国故だ。
そんな国家故、私有地への不用意な侵入には強い対処を認めている。
侵入者は猛獣と同じ扱いであり、身を護る活動の対象に過ぎない。
つまり、入る方が悪いし、撃たれる理由を作る方が悪い。
李下に冠を正さぬ品行方正な生き方は、我が身を護る努力そのもの。
撃たれる方が悪いし、当たる方が悪いだけの話だった。
「この街なら侵入者はすぐに捕まえられるだろうからな」
「そうなんだ……」
ルーシーは不意にジャンの姿を思い出した。
街の中で不審者を捜し出し、容疑者を見つけて逮捕する仕事だった。
時にはその場で銃撃戦となり、容疑者を射殺することもあった。
街の中にも悪意を持った者が潜んでいる現実。
それはルーシーの心に暗い影を落とし、やがてそれは悪を憎む心へと育った。
テロリストの掲げる大義は、社会とは相容れないものだと理解したのだ。
「ダディは捕まえないの?」
それは、チャールズとジャンとを比較している子供の純粋な興味。
どう回答すればルーシーが納得するかをチャールズは考える。
そして……
「もちろん捕まえるぞ? 捕まえるだけじゃ無くて、そんな害虫みたいな連中の巣まで出向いて、まとめて吹っ飛ばすのがダディのお仕事だよ」
チャールズは胸を張ってそう答えた。
溢れる笑みは自信の裏返しであり、また、ルーシーに安心感を与えた。
「そうなの?」
何処か嬉しそうにルーシーはそう言った。
強い父親を嬉しく思わない子供など居ないのだ。
「そうさ。キッチンをウロチョロする茶色い奴だって、まとめてやっつけた方が良いだろ?」
チャールズの回答に『そうだね!』と元気よく答えたルーシー。
だが同時に、テロリストがなぜチャールズを殺そうとするのかも理解した。
自分がとばっちりに遭う理由もだ。
そして、最終的にルーシーはそれら全てを飲み込んだ。
テロリストにはテロリストの大義や目標があるのだと思ったのだ。
ただ、彼等の大義は、実際にはただの我が儘で勝手なモノでしか無い。
その我が儘な大義の為に、無辜の人々が犠牲になっている。
まだ幼い娘に社会の複雑さを説明したところで理解は出来ない。
だが、幼い頃から心に固く誓った思いを持てば、それはやがて信念となる。
話し合いでは無くテロと言う手段に訴えるゴミ共を絶対に許さない。
その主張も存在も絶対に許さないし認めない。
幾多の人々が犠牲になったテロをしかけた奴らを根絶やしにしてやる。
そんな想いがルーシーの中に固まり、ルーシーは12歳まで育った。
フェンスとゲートに囲まれた安全な街で、伸び伸びと自由に……だ。
自分の身の特殊性をすっかり忘れ、今ではハミルトン家のご令嬢も板に付いた。
彼女はその年代の多くが思うように、社会の役に立ちたいと願った。
やがてルーシーは、自然に軍を目指した。
ハミルトン家の多くがそうだったように、社会の為の暴力装置を志した。
弱き無辜の人々を護り、正義の鉄槌を行使する存在を目指したのだ。
ただ、少なくともそれは、志願で兵卒になるような話では無い。
ハミルトン家の歴代当主がそうだったように、将軍なり提督を目指す道だ。
その為には、幾つも厳しい試練を乗り越えねばならない。
最終的に待つ難関は、ウェストポイントかアナハイムか……
士官学校と呼ばれる兵学校を卒業するのが王道だった。
「ダッド。ウェストポイントに行きたい」
12歳になったばかりのルーシーは、胸を張ってそう言った。
その言葉には明確な意志があり、チャールズはただただ、言葉を失った。
歴代のハミルトン家がそうだったように……と、そんな軽い意味では無い。
アメリカの社会では、ウェストポイントへ入ることは相当なステータスだ。
本人がそうであることはもちろん、その親にとっても……だ。
たとえそれがガチのリムジンリベラルでも、ウェストポイントは特別だった。
「困難な試練を幾つも乗り越えねばならないが――」
朝食時にそう相談されたチャールズは、言葉に詰まりながらも応えた。
「――パッと見では大きく困難な壁に見えても、実際には小さな扉を一つ一つ潜り抜け、階段を登っていくのだよ。いきなりウェストポイントに行くんじゃ無い。小さな困難を1つずつ乗り越えて成長すると良い」
この時、チャールズが行ったのは、自らの持つ政治力の全てを動員した事のみ。
しかし実際には、軍属関係者による推薦が無いと入れない幼年学校への入学だ。
私立バンカーヒル陸軍幼年学校
そこは、シスコの高台にもキャンパスを持つ、軍属向けの特別な学校だった。
独特のカリキュラムを持ち、入学するだけでも大いなる挑戦と呼ばれる学校だ。
将来の士官を育てる為、ウェストポイントを目指す子供達を徹底して鍛える所。
12歳から18歳までの6年間を全寮制の学舎で過ごし、知力体力を錬成する。
そして、そこを卒業するのはもっと大変な事だった。
基本的にウェストポイントかアナハイムに合格しないと卒業できない。
しかし、学校に在籍できるのは最長で7年まで。
つまりは一回だけ失敗の許される、徹底した鍛錬プログラムだ。
そのカリキュラムは、本人に相当な覚悟を要求する。
入学以上に卒業の難しい学校は、失敗すればそれまでの苦労が全部水の泡だ。
何よりも強い意志と信念とを必要とされる学校にルーシーは入学した。
ある意味、入学して当然という周囲の空気を読んだかどうかは解らない。
ただ、ルーシーに取っても、それはただの通過点でしか無かった。
女性と言う事で最初の3年は自宅から通う事が認められている。
性差として、生理の始まる思春期が安定するのを待たねばならない。
女性特有のデリケートな問題は安定と慣れを要求されるからだ。
故に、ルーシーは残り3年を寮生活で過ごした。
その6年間を経て、ルーシーはウェストポイントに受験を申請した。
ただ、23世紀のウェストポイントは、その受験が6週間を要するのだ。
「いよいよだな」
夏休みに入り、実家へと戻ってきたルーシー。
チャールズは不安を必死で飲み込もうとしている彼女を見ていた。
超絶に厳しいウェストポイントの入学試験受講許可が出たのは5月の初頭。
それに向け、早くも宿題が出されていたのだった。
「頑張らなくちゃ」
「あぁ。お前なら出来るさ」
チャールズも経験したウェストポイント謹製の宿題。
それは、7月初頭のプリーブサマーに向けた体力錬成プログラムだ。
「……ダッドもこれをやったの?」
「あぁ、勿論だ。カデットはチート(ずる)を認めない」
胸を張ってそう言ったチャールズは、まるで監督のようにルーシーを指導した。
VR技術を使った具体的なフォーム指導付きのそれは、前時代的なものだった。
そも、指定されるウェストポイントの女性向け要求スペックはわりと高い。
腕立て伏せなら最低でも1分で20回。男性なら2分で50回だ。
その他にも、1.5マイルランを8分以内。懸垂は15回以上。
細々と本当に細かい所まで指導されるプログラムは8週間続く。
その8週間は段々と要求水準が高くなり、最後にはプロアスリート並となる。
候補生は監督官のサイン入りな完遂証明を持ってプリーブサマーに臨むのだ。
「体力的には何ら問題無いだろうな」
チャールズが言う通り、ルーシーはバンカーヒルで徹底的に鍛えられていた。
腕立て伏せは女の細腕だが2分で50回を軽くこなし、そのまま懸垂が出来た。
それぞれの課題のインターバルは45秒以内だが、ルーシーは連続でこなした。
3.2マイルを12分で走り、そのまま別の課題へと入れる程だ。
「このままプリーブサマーにいきたい」
「慌てる事は無い。体力を回復させる能力も重要だぞ?」
チャールズ直々の監督により、ルーシーはカデットへの道を歩み始めた。
ただ、そんなルーシーもプリーブサマーの厳しさには面食らう事になる。
厳しいポジションへ送り込まれる若者達への試練はこれからだった。




