ROAD-THREE:キャサリンの試練02
~承前
地球太陽系の外縁惑星軌道付近。
ここは、広大な領域がワイプイン向けの指定空域として存在している。
地球とシリウスを結ぶ超光速船がワープ航法を行う為のエリアだ。
一辺が数百十キロ単位となる正方形の空間は、横倒しになって存在している。
その菱形のエリアは、地球とシリウスとを結ぶ直線上が最延長となるのだ。
そんなエリアの中へ、連邦軍の宇宙船『イソカゼ』がワイプインしてきた。
従来のワープ航法を大きく凌ぐ、超々光速飛行アーキテクチャーの実験艦。
イソカゼはこの3ヶ月ほどで、既に地球とシリウスを5往復していた。
従来型技術では片道63日ほどで技術的な頭打ちを迎えていた。
だが、イソカゼはそれを片道5日程にまで縮めてしまったのだ。
その為、従来では為し得なかった様々な案件が一挙に片付く可能性があった。
地球とシリウスの両政府は、高度な政治闘争を繰り広げ始めていた。
夥しい交渉担当が地球に送り込まれ、様々な案件に付いて折衝を行なっている。
キャサリンは、そんなシリウスサイドのスタッフに紛れ込んだのだった。
「……シリウスがあんなに遠くに見える」
キャサリンはイソカゼの展望デッキで宇宙を見ていた。
巨星シリウスといえど、ここから見れば渺々たる宇宙の小さな点でしかない。
そして、母なる星ニューホライズンをこれ程遠く離れるのは、初めての経験だ。
「全くだな……」
小さな声でキャサリンに応えたのはサミールだ。
キャサリンの引率と言う事でサポートに付いた彼女も、シリウスを見ていた。
シリウス最強なヘカトンケイルの親衛隊。ワルキューレの副長だからだ。
「……で、今はどうなんだい?」
シリウスを遠く離れたキャサリンは、フィット・ノアの影響から外れている。
それを観察するサミールは、本来が生体工学に携わる医師であった。
つまり、彼女はキャサリン回復の為にバーニーの命で派遣されていたのだ。
「なんか…… 変な感じ」
「変?」
「うん」
サミールが問いかけている本質をキャサリンも良く理解していた。
彼女の問いはつかみ所が無く余りに抽象的だが、その理由は良くわかる。
キャサリンの身体は、まだまだ研究途上なのだった。
「うーん。なんて言うのかな……」
常時、自らの意識が起動している状態なのは久しぶりだ。
そして、自分の意志として眠りに就き、目覚めると言う事も。
シリウスに居た頃は、フィットが眠るとキャサリンの人格は起動していた。
フィットの身体から抽出されたマイクロマシンを注入された彼女だ。
マスターであるノアの精神波や脳波に影響を受け続けていた。
それを一言でいえば、身体を乗っ取られていたとでも言うのかも知れない。
身体をコントロールする優先権を彼女は失っていたのだった。
「この身体の制御系が一切沈黙してるようなモノだから――」
ゲル状の身体をコントロールする部分は、まるでAI的な振る舞いだった。
そしてそれは、全く異なる自分が存在している多重人格状態だった。
ただ、キャサリン自身はそれについて余り違和感を感じていない。
そもそもに解離性人格障害を患っている彼女は、常に副人格を感じていた。
俗にファントムフレンドとかイマジナリーフレンドと呼ばれるものだ。
想像上の『誰か』が常にそばにいる状態。自分の裏側にいる状態。
それが余りにも長かったので、キャサリンはそれに違和感を感じないのだった。
「――もう一人の、メインの私が死んじゃったとでも言うのかな……」
キャサリンの言葉にサミールが表情を強張らせる。
複数人格という部分の捉え方は様々だが、時として致命的結末をもたらす。
つまり、いま居る自分は副人格で、本人人格は死んでいると思い込むのだ。
そして、ウォーキングデッド症候群とも呼ばれる精神の病に繋がる。
自分自身が既に死んでいると思い込み、衝動的な振る舞いを行ったりする。
或いは、死を怖れぬような軽はずみな事をしてしまうのだ。
「馬鹿な事言ってんじゃ無いよ!」
サミールはつい声を荒げてしまった。決して叱り飛ばしたかった訳では無い。
だが、ここでキャサリンに正気を取り戻させないと、大変な事に成る。
精神医学の分野はあまり詳しくは無いが、そう確信したのだ。
「自分は自分だろ?」
「でも、私の意志は居候みたいなものよ」
キャサリンは屈託無くそう言い切り、ヘラヘラと笑っていた。
例え現状をどう誤魔化そうと、本人の意志が優先される時間は少ないのだ。
「ここまで来たら、ノア様の影響も無いだろ?」
「それはそうだけどさぁ…… なんか凄く変な感じなのよ」
「なにがどう変なんだい?」
甲高い声でサミールは聞き返した。
その声にキャサリンは答えた。
「うん。なんだか……ね」
困った様に笑うキャサリンは、天井を見上げて思案した。
自分自身がどう思って何を考えているのか。
それを端的に説明する事が出来ないのだ。
「……要するにね、人格分裂が起きるとね、カレンダーが飛び飛びになるのよ」
キャサリンは順を追って説明する事にした。
この感覚は経験してない人には絶対伝わらない事だからだ。
「おやすみって言って眠りについて、目を覚ました時には何日も経ってるの」
寝て起きた時に別人格が起動すると、本人人格は眠ったままの状態になる。
そのまま数日が経過し、何度目かの朝で目を覚ます事になる。
散々とそれを経験したキャサリンは、ソレと同じ状態を経験していた。
「でも今は日付が飛んでないの。だから、それが凄く変で変で仕方が無くて……」
それを語るキャサリンは、多重人格状態が標準になっている。
サミールはそれに気が付き、良い様の知れぬ不安を覚え、将来を危惧した。
ただ、当の本人は、キャサリンはそれ自体を余り問題にしていない風だ。
もう一人の自分と表現するフィット・ノアのスレーブを尊重している。
いや、むしろそれを誇りにしている風ですら有る。
――フィット様の言ってた件はこれか……
サミールはフィット・ノアから直接聞いていた。
キャサリンは生きる意欲その物が希薄になっているのだ……と。
何とかせねばと考えたサミールは『ところでさ……』強引に話題を変えた。
キャサリンは、いまだ心の中に一線を引いたままだ。
ワルキューレと言う組織の中にあって、よく言えば誰とも馴れ合わない存在。
実情を言えば、自分の全てを曝け出せない弱さと同居していた。
「ところでさ…… あんた、縮んでない?」
「え? ほんとに?」
よく見ればパイプとゲルの間に隙間が生まれていた。
みっちりと充填されていた筈なのだが……
「ほんとだ!」
新鮮に驚くキャサリンは、自分自身の腕や足を慎重に確かめた。
宇宙空間における低重力の影響か、彼女の身体は含水率が低下し始めていた。
重力から解放され、ゲルを形作る分子間の隙間が広くなったのだろう。
パイプ上の身体から水が抜かれ、身体自体が小さくなり始めていた。
「コレは参った」
「含水率の関係だね」
「水飲めば良いのかな?」
何とも抜けた事を言って笑いを誘ったキャサリン。
だが、2人を遠巻きに囲むシリウス側スタッフたちの笑いは引きつっていた。
「変って言うのは、その身体も関係してるんじゃないのかい?」
「……そうなのかなぁ」
「各ブーツをチェックした方が良いんじゃ無いか?」
「……うん」
腕や足は単純な構造の透明なパイプそのものだ。
力の掛かる部分は太くなっているが、それは人体の構造学とは別の話。
各関節部は入念にシールされて漏れないよう配慮されている。
だが、可動部分の疲労はどうしたって早くなるもの。
サミールはキャサリンの各可動部にあるシールやブーツをチェックする。
ブーツが疲労してないか。破けかけてないか。クラックは無いか。
シール部分も同様にチェックし、内容物が滲んでないかを確かめる。
「大丈夫なようね」
「ちょっと安心したわ」
そもそも、今のキャサリンを形作るゲル状のモノ自体が曲者だった。
巨大な粘菌のコロニーで、意思を持ったアメーバのようなモノ。
また、それ自体がひとつの生物に近く、自分自身が消化分解酵素だ。
経口捕食をする必要は全く無い。自分自身を捕食し消化し再分裂を行う。
完全スタンドアローンな永久機関とも言える、閉鎖型のシステム。
だが、ゲルは自分自身以外の全てを、ただのカロリー源と見なす。
パイプやシールや、そう言った有機的な人工物の全てを分解しかねない。
そして、最悪の場合にはもっと恐ろしい事が起きる。
「ほら。カロリーとっときなよ」
「ありがとう」
サミールから受け取ったペースト状のカロリーパックをキャサリンは飲み込む。
ミートペーストに各種の化合物を加えたキャサリンスペシャルだ。
彼女の身体に入り込んでいる膨大な量のマイクロマシンを維持する為のモノ。
それが無ければマイクロマシンは制御を失い、彼女の脳は食い尽くされる。
キャサリンは常にその恐怖と戦っていた。
いつ死んでもおかしくない、極限環境と言うべき状況だ。
「地球へ行って何をするんだろうね?」
ペーストを飲み込むキャサリンを見ながらサミールは呟く。
不安に押しつぶされそうな……とは言うが、今の彼女は不安が定常だった。
常に死の影が寄り添い、彼女はその存在と共存してきた。
「ノア様は――」
サミールは少しでも不安を解消しようとしている。
それが痛いほど伝わるのだから、キャサリンも気を使わざるを得ない。
「――先ずは地球へ行き、生身へ乗り換えろって」
「それ以外は?」
「うーん……」
実は、キャサリンはフィットからの手紙で、とんでも無い事を提案されていた。
だがそれは、正直歓迎出来ない案件と言えるものだ。
そして実は、キャサリン自身が胸の内にしまったまま黙っていた。
なんとなくだが、それを口にするのが憚られたのだ。
「色々とあるんだけど、先ずは地球へ行けって……」
「行ってみれば解るのかい?」
サミールはキャサリンの腰をポンと叩いて言う。
成る様にしか成らないし、それを受け入れるしかない事も分かっている。
本人の意思や努力を飛び越え、厳然と存在する残酷な現実もあるのだ。
「まぁ、なんだ……」
サミールは敢えて抜けたような声を漏らし、気の抜けた声を出した。
それこそがキャサリンへの気遣いそのものだった。
「あたしは地球生まれで、久しぶりの帰還ってことだ」
「え?」
新鮮に驚くキャサリンに、サミールは口を尖らせて言った。
なんともコミカルな表情だが、それは彼女なりの照れ隠しだった。
「あたしは棄民の娘だよ。居場所がなくてシリウスへ送り込まれたのさ」
あっけらかんと言い切ったサミールは、アラビアコーヒーを飲みつつ言う。
その姿にはなんら悲壮感がなく、また、悪びれる風もない。
自らの出自や人生に確たる信念と誇りを持っている存在。
ワルキューレの中で、一番安定していると言われるだけの事がある姿だった。
「あたしは宗教イカレのバカ男がやらかしたレイプの果てに生まれたのさ」
サミールの言葉にはあっけらかんとした明るさがあった。
それこそ、キャサリンが驚く程に……
「昔から言うだろ? 狂気の本質ってのはさ、妄想を現実だと信じてしまう事だっ
て。んで、宗教ってのは赤の他人の与太やら妄想やらを、真に受けて真実だって信
じちまう事、結果、女がいつも割を喰ってた」
サミールの吐く言葉に、己の出自そのものを恨むかのような色が混じり始めた。
そしてそれは、キャサリンの心の奥深くにある同じ感情とリンクした。
自分自身で、自らの存在価値や意義を否定してしまう辛さだった。
「あたしはいつも、誰にも必要とされてなかった。そんな人生だよ」
サミールの言葉にキャサリンは衝撃を受けていた。
自分が。自分だけが。親から納得のいく説明も無く親元から離された。
幼い自分にとってすれば、それは捨てられたのと同じ事だった。
学問の為にと親戚へ預けられたキャサリン。
だが、彼女は幼いなりに咀嚼しきれぬ辛さと悲しみを抱えていた。
それこそが、人格分裂を起こしかけた一番の理由だった。
「わたしは6歳の時に親に捨てられた。手元を離れ『勉強してきなさい』って、片田舎の牧場からサザンクロスの親戚の所へ送り込まれたの――」
キャサリンは僅かに俯き、口中で言葉を練った。
勢いに任せて言葉を吐けば、それは無意味な単語の羅列に過ぎなくなる。
思いの丈を相手に伝えたいなら、言葉は慎重に選ばなければならない。
キャサリンの言葉にサミールは何とも不愉快そうな笑みを浮かべた。
その笑みの理由を考えつつも、キャサリンはまず続ける事にした。
「親戚の家は何一つ不自由なく暮らしていた。食べるモノも着るモノもあった。伯
父さん伯母さんは実の娘のように可愛がってくれたけど、私はダッドやマミと暮らしたかった。貧しくても良かった。私は捨てられたと思ったの。きっとこの方が私の為になると思ったんだろうけど、でも――」
辛そうに表情を歪ませたキャサリンは、不機嫌そうなサミールを見た。
精一杯の強がりにも似た、醜く歪む表情のまま。
だが、その続きを言おうとしたキャサリンをサミールが抱き締めた。
硬質パイプで作られた身体だが、レプリカントの強い膂力に歪みがでた。
全身にほのかな暖かみを感じたキャサリンは、それが嬉しかった。
愛情に飢えた人生だ。そのスキンシップが心を溶かしていく特効薬だった。
「愛されてるじゃ無いか。羨ましいくらい」
サミールの漏らした率直な言葉は、キャサリンの胸を突き抜けていった。
容赦無く絶妙の角度で撃ち抜いたその言葉は、キャサリンの弱い所を打った。
「これも愛されてる範囲なんだね……」
ボソリと呟いたキャサリン。
だが、それこそが彼女の変化の始まりだった。




