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黒い炎  作者: 陸奥守
第九章 それぞれの路
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ROAD-ONE:ソフィアの恋人05

~承前






 まばゆい朝がそこにあった。

 ハッと気が付いたとき、リディアは誰かの腕の中にいた。


 あの、ストレステストを何度も受けた時のように、孤独な目覚めではない。

 男臭くて汗臭くて、しかもそこには淫靡な臭いが混じっていた。

 昨夜ここで何があったのかをリディアは理解した。


 ――あ~ぁ……

 ――またやっちゃった……


 わずかな後悔が心に沸き起こった。

 だが、身体に残る心地よい満足感と、その奥底に残る違和感に笑みをこぼす。

 そして、自らを抱き締めている太い腕に、自分の腕を絡ませた。


 ――ねぇ……

 ――ソフィア……


 心のなかに誰がの声がした。

 ソフィアはそれがリディアだと気が付いていた。


 ――なに?


 すでにリディアとソフィアが渾然一体になり始めていた。

 ただ、それでも今の段階ではソフィアが優勢だ。

 現時点で『わたし』を名乗るのはソフィアだった。


 ――この人が好き?


 それは直球ストライクな質問だった。

 それは純粋な自問自答だ。


 自分自身の心に嘘をつく事は出来ない。

 それはつまり、現状認識の在り方だった。


 ――うん……

 ――好き……


 ソフィアは少しはにかみながらそう答えた。

 そしてそれは、人の心に必ず存在する二面性の問題だ。


 リディアと言う人格がジョニーを愛しているのは紛れもない事実だ。

 恐らくそれは、リディアと言う人格の根幹そのものだ。


 だが同時に、他の人を好きになる事もあるのだ。

 あたかもそれは、飼い犬を可愛がりつつ、猫を愛でるようなもの。

 その二つの『好き』は相反しない事。並立共存することだった。


 ――なら、良かったじゃない


 リディアは率直な言葉で祝福した。

 それは浮気だとか裏切りだとかではない。


 何処にでもある、ごく普通の『線引き』に過ぎない。

 『心を許した相手』と言う線引きの外側か内側かの違いでしかないのだ。


 ――向こうはどうなのかなぁ


 リディアの声音には、不安の色が混じった。

 相手の心を知りたいと思うのは、男女関係ないことだ。


 ――きっと好きって言ってくれるよ……


 ソフィアは無意識にそう呟いていた。

 そしてそれは、紛れもなくリディアの本音だった。


 女だってハーレムをやりたい。

 自分の回りに良い男を侍らしておきたい。


 一切の綺麗事を抜きにすれば、誰だって持っている欲望そのものだ。


 ――起きそうだね


 ウフフとかわいい声でリディアが笑った。

 その声にソフィアがはにかんだ。


 ――ソフィアの恋人だね


 遠慮なくそういじったリディアに『うん……』と小さくソフィアが言った。

 そして、僅かに戸惑ったような声で言った。


『リディア夫人の…… 恋人』


 それは、支え会うべき夫婦にあって、支える相手が居ないからこその話。

 リディアが心寄せる存在は、軽く30光年の彼方にいるはずだ。


 そして。恐らくは10年を越える年月で逢うことが出来ないだろう。

 織り姫と彦星ですら、毎年一回は逢えるというのに……だ。


 ――上手いこと言うね


 リディアは朗らかに笑った。

 弾んだ声で笑うリディアにソフィアも嬉しくなった。


 ――あ……


 何かを言おうとしていたリディアがスッと消え去った。

 そして、全く違う声音が静かに流れた。


「おはよう」

「おはようございます。中佐」

「それは……できれば止めてくれると嬉しい」

「……ですが」


 チカリは太い腕を回してソフィアを抱き締めた。

 心からの愛情を込めた、優しい仕草で……だ。


「昨夜の話を覚えているかな?」

「どの話でしょう」

「バーニー少佐の話だ」

「……えぇ。もちろん」


 昨夜、ソフィアが好きだと本音をこぼし、チカリもまた好きだと答えていた。

 ただそれでも、チカリが仕事を忘れた訳では無かった。


 ソフィアは迷う事無くその場で全裸になり、チカリの前に立った。

 そして、一辺もやましい所はない。この身体を隅々まで調べてと言い切った。


 ――――私は自分の信じた人を裏切りたくない……


 胸を張ってそう言いきったソフィアは、そのしなやかな肢体を全て見せたのだ。

 そうなった時、むしろ男の方が余程狼狽える事が多い。

 そして、どこにでもある話で、土壇場に立ったチカリも、一瞬だけ逡巡した。


 ソフィアはこの場で自分を抱けと言っている……


 チカリが見る限り、ソフィアの中のリディアは一切出てこなくなっている。

 人格転換が完全に完了し、主人格の存在が眠りに就いたようなものだ。


 事実、その時ソフィアは内心で、リディアから『好きにして良い』と言われた。

 そして、『おやすみ』と一言残して消えてしまったのだ。


 だからこそ、ソフィアは己の本能のままに振る舞った。

 その時、バーニーは何かを悟ったらしい。


 ――――明朝、リディアが目を覚まさなかったらお前を粛正する


 そう一言残し、部屋を出て行った。サミーとサンディも一緒にだ。

 取調室の中でチカリと相対したソフィアは、チカリの服のボタンを外した。

 安心して身を任せても良いと、そう判断したらしい。


 そこから先はソフィア自身もよく覚えていない。

 剥き出しになった欲望と本能の赴くままに貪り合ったのだろう。

 だが、この眩い朝を迎えた時、ソフィアはどこかで醒めた様子だ。


「中佐殿」

「だから、出来ればそれは『私はリディアに居候してるだけだから』え?」


 ソフィアの声は冷たかった。

 拒絶するような、そんな強いスタンスだった。


「昨夜の事は…… この夜の事はもう忘れてください」

「……ソフィア」

「中佐が書かれる如何なる報告書にも私はサインします。ですから……」


 チカリの腕の中で振り返ったソフィアは、その目に涙を溜めていた。

 その扇情的な表情は、チカリの心に再び波を呼び覚ますものだった。


「君を忘れた事なんて無かったんだ。忘れたくない」


 チカリは食い下がる事を選んだ。

 一度は手にした果実のようなものだ。


 その前がどうだったかなど大した問題では無いし、気にするような事では無い。

 今さら処女が良いなどと童貞臭い願望を開陳するほど子供じみても無い。


 一度は惚れた女が目の前で壊れていった。

 それを見ていながら、自分にはどうする事も出来なかった。

 だが、その女は無事に快復し、今はこの腕の中に居る……


 男の本懐として、もはや手放したくないと思うのが心情だ。

 ただ、それを知ってか知らずか、ソフィアは強い言葉で言った。


「あなただってリディアに操を立てている男が居るのは知ってるでしょ?」


 チカリはそんなソフィアの言葉にすらもドキリと驚く。

 心理学や精神医学に携わる者として、ソフィアの言葉の意味が理解出来た。


 自分を奪い取ってくれと、ソフィアはそう言っている。

 自分を巡って男同士が争う様を見るのは、女の願望でありある意味で本懐だ。

 引く手あまたにチヤホヤされるのは、女なら誰でも夢見る事かも知れない。


「連邦軍士官の夫がいるのは私も知っている。だが……」

「リディアの夫と決闘でもして勝ったなら、私を好きにして良い……」


 ソフィアはとんでもない提案を行った。

 リディアとテッドの話を知っているだけに、チカリはただただ頷くだけだ。


「その上で、本気で不倫でも良いと思うなら――


 ソフィアはチカリの胸に顔をうずめ、小さな声で言った。


「――本気で口説きたいなら命令なんてやめてね」


 その声は、僅かだが甘えるような声音だとチカリは思った。

 そして、その胸がドキリと一際強く鼓動したのをソフィアは聞いた。


「なぜ?」


 チカリの言葉が僅かに震えた。

 ただ、なんの動揺も見せずにソフィアは言った。


「だって…… リディアが嫌がるから……」

「えっ?」


 ソフィアはそっと腕を回し、チカリの首へと抱きついた。

 その顔をチカリの胸にうずめたまま、甘えた声で続けた。


「真正面から口説いて。リディアが仕方ないって言うくらい、一所懸命に」


 ソフィアは恥かしとばかりにチカリの顔を見ないでいる。

 その姿がいじらしくて可愛くて、チカリの胸は嫌でも高鳴った。


 ソフィアとリディアが統合しつつあるのはチカリにも分かっている。

 それだけに、キチンと手順を踏めばソフィア/リディアが手に入るかも知れない。

 つまり、自分自身が粛清も受けず、また、嫌われもせずに済むと言うことだ。


 そして、家族と離れ暮らすチカリにとって、寂しさを紛らわせる事が出来る。

 安らぎを得られる愛人を獲得出来る……


「あぁ、そうする。君を大切にする。約束する! 嘘じゃない! 本当に――


 あれやこれやと勝手に盛り上がるチカリ。

 その声を聞きつつ『うん…… うん……』と相槌を打つソフィア。


 ただ、チカリの胸に顔をうずめるソフィアの顔は笑っていた。

 それも、嬉しさや悦びと言うモノではなく、ニヤリと悪い笑顔だった。


 ――ねぇリディア!

   ――なに?

 ――上手くいったよ!

   ――うふふ…… そうね

 ――もうこの人、ゾッコンよね?

   ――間違いないね


 胸の中でウフフと笑うリディアとソフィア。

 そのうち、どちらがそれを言ったのか分からなくなり始める。


 ――楽しませてもらおうよ

 ――そうだね

 ――きっと大事にしてくれるよ

 ――少しくらい楽しませてあげないとねぇ……


 心の中でウフフと笑っていたリディアとソフィア。

 その笑みが僅かに表にこぼれてしまった。


「……どうした? 俺、なんか変だったか?」

「違うの…… 嬉しいの」


 そして再び、顔を見せずに悪い笑いを浮かべるリディア。

 その口元だけはソフィアの様に口角が切りあがっていた……






 ――――同じ頃

     ライジング基地 メスホール






「今度はあの()も上手くやったかねぇ……」


 まるで悪いバァさん魔女が笑うように、ニタリとした表情のエリー。

 その向かいには、今にもケケケと笑い出しそうなサミーがいた。


「房中術は出来る女の第一歩ってね」


 丁寧に剥いたバナナをモグリと噛み付きながら、アニーは遠慮なくそう言った。

 そして、『たまには力一杯噛み付いてやるのもご褒美』と漏らす。


「閨房術じゃなくて?」


 同じようにヘヘヘと笑うサミーも、ライチの実をバキバキと剥きながら齧った。

 白濁した果汁が口元からこぼれ、それをペロリと舐めて笑う。


「似たようなもんよね」


 クククと悪い笑みを浮かべて視線をかわす2人の女。

 その周りにいるワルキューレ達だって似たようなものだ。


「実際、リディだってもう良い(とし)さ」

「いつまでも恋に恋する乙女じゃいられない…… ってね」


 そんな会話にサンディが口を挟んだ。

 モグモグと白パンを口に頬張りながら。


「リディはいつだって15の乙女に返れる相手がいるんだし……」


 その一言は、ある意味でフリーな女たちに微妙な影を落とす。

 決して羨ましいとは言えないし、意地を張って言いたく無い事だ。


 だからこそバカな男を手玉に取れるように成っておかねばならない。

 そもそものワルキューレは、本当にその為の組織だったのだから。

 ヘカトンケイルの為に。そして、いつの日か帰ってくるシリウスの王の為に。


 必要な人材を集め、それを持て成し、必要な時に備える為の女たち……


「ワルキューレは男を誑かして一人前よね」

「そうそう。誑かして従順な手下にしておかないとね」


 ワルキューレの女たちは、ニヤニヤと笑いながら朝食をとる。

 あの、打たれ弱く生きる事すら拒否していたリディアの、その独り立ちだ。


「今朝は新しいワルキューレの誕生した朝だよ」


 バーニーはボソリとそう呟いてコーヒーを飲みきった。

 その底に溜まった微細流の渦巻きに、バーニーはリディアの作戦成功を知った。











 そして、10日後。

 ライジング基地に程近い、とあるシリウス軍政治将校事務所。


「クシャトリア中佐。例のワルキューレの女の件だが」


 その事務所長室にチカリの姿があった。

 握りこぶしほども厚さのある報告書を書いたチカリは、所長と面談していた。


「報告書の所見報告にまとめた限りですが、なにか問題でしょうか?」


 チカリ中佐が慇懃に応対する相手は、この地域を所轄する政治将校の少将だ。

 立派な職緒を幾つも下げたその姿には、苦労を重ねてきた者特有の翳があった。

 大きくこけた頬と窪んだ眼窩。常に不機嫌そうな焦眉。


 その男はジッとチカリを見ていた。


「連邦軍のスパイでは無いと判断して良いのかね」

「はい。少なくともその様に解釈して良いかと」

「問題ないか?」

「えぇ。最近は従順で素直なものです。地球であった事も洗い浚い喋りました」


 胸を張って答えるチカリだが、そのチカリだって随分とやつれていた。

 頬はげっそりとこけ落ち、頭には明らかに白髪が増えている。


「で…… 随分とその……」

「まぁ、手玉に取ろうとしたんですが、毎晩の様に求められておりまして――」


 困ったように笑うチカリは、腰をさすりながら言う。


「――ちょっと腰に来てますね」


 そんな姿を見れば、碌に遊ぶ事も出来ない男は目に見えて不機嫌になる。


「たまにはワシにも宛がってくれるかね?」

「所長が御望みでしたらセッティングいたしますが、今は上手く行ってますので」

「……心閉ざされると困るか」

「そうです」


 所長はフンッ!と小さく鼻を鳴らし、不機嫌そうに手で追い払った。

 それは、幸せそうな男のオーラに当てられた嫉妬そのものだ。


「では、彼女の扱いに付いて、よろしくお願い致します」

「別った。考慮しておこう。あの娘もヘカトンケイルの直属だ。あとは――」


 わかるな?と目で追いこんで、所長は椅子を回し背中を見せた。

 もう行けと言う合図だが、チカリは敬礼を送ってから部屋を出た。


 シリウス軍憲章の額に映るその背中を見送り、所長は溜息をこぼした。


 ――あの半人前のドさんぴんが……

 ――すっかりタマを抜かれおって……

 ――鬼中佐で名を売ったチカリも使い物にならんか……

 ――もっとも、これ以上ヘッキーにかかわりたく無いし……


 しばらく熟考した所長は部下を呼び、報告書を参謀本部へと送らせた。

 そして、継続し監視下においてあるので心配ないと付け加えた。


 ヘカトンケイルからも参謀本部からも睨まれずに済む最良の方法。

 それは、何か起きた時に全てをチカリの責任とおっ被せてしまう事だ。


 溜息と共に14階の窓辺に立ち、所長は地上を歩くチカリを見下ろした。

 その歩く姿がまるでステップを踏んでいるようにも見える。


 ――あれでは……

 ――ダメだな……


 そう、独り言を漏らしていた。

次話公開は11/21になります

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