ROAD-ONE:ソフィアの恋人01
その命令書には、シンプルな文言が並んでいた。
――うそ……
朝食を終えミーティングに向かう途中、リディアは一通の封書を受け取った。
それを持ってきたのは、シリウス軍の参謀本部に所属する連絡将校だ。
ただ、それを読んだリディアを絶句させるには、威力十分なものだ。
「少尉。受け取りのサインを入れてくれないか?」
「……はい」
受け取りのサインを要するレベルの封書ならば、その発行元は察しが付く。
自らの名前をサインして受け取った封書には、参謀本部のマークが有る。
僅かな緊張と共にその封書を開けたリディア。
中から出てきたのは、シリウス3軍統合参謀本部の元帥名で書かれた命令書だ。
――――貴官の日常における貢献を参謀本部は高く評価している
――――だが、連邦軍との接触について確認したい件がある
――――参謀本部は敵軍によるマインドコントロールを警戒している
――――その為、貴官にマインドストレステストの実施を決定した
――――拒否した場合は利敵行為に関する疑惑として公式に逮捕する
それを読んだリディアは、一瞬だけ意識を遠くした。
失神するのをギリギリ堪える事が出来たのは、もはや奇蹟に近い。
いつの間にか軍人らしい顔付きになったリディア。
だが、その表情には僅かならぬおびえが混じった。
――嘘でしょ……
――なぜ……
そう。
リディアが思った最初の感情は『なぜ?』だ。
その文言は、リディアにとって絶対に忘れる事の出来ないもの。
ニューホライズンの地上でテッドと別れ、基地へ戻った後のことだ。
――――貴官の貢献を参謀本部は高く評価している
――――だが、貴官が連邦軍士官と接触したと言う密告があった
――――その疑惑について、自ら潔白を証明してもらいたい
――――ついては、参謀本部への出頭を命ずる
――――拒否した場合は利敵行為に関する疑惑として公式に逮捕する
高圧的で威圧的な物言いは権威主義なシリウス軍の特徴かも知れない。
この何年かの軍暮らしでリディアもそれは理解していた。
ただ、前回出頭時に受けた苛烈な尋問の結果、リディアは精神崩壊を起こした。
精神の統一性を失って完全に分裂し、そこからソフィアが生まれたのだ。
リディアの表情は、今にも泣き出しそうなものに変わっていた。
――――――――ニューホライズン リョーガー大陸西部
シリウス宇宙軍 ライジング基地
2250年 9月18日 午前8時
まだ何も知らぬ少女の頃、リディアはスラヴ系の美女だと評判だった。
だが、そんなリディアも今は軍人で、しかも士官という待遇だ。
強い心の持ち主は、男でも女でも同じような顔となる。
それは、己を滅してでも任務を果たそうとする強い心が顕在化した顔立ち。
困難に打ち克ち、苦痛に耐え、屈辱をやり過ごせる意志の強さ。
だが、そんな心の持ち主とて、時には簡単に転ぶ事がある……
――なぜ……
ゾクリとした寒気が走り、整った顔立ちを大きく歪ませリディアは嘆いた。
それと同時に身体の奥底から形容しがたい衝動がわき上がってくる。
それは、一度完全に溺れてしまった、消し去りがたい衝動。
否定しても否定しても顔を出す、人間の三大本能の一つ『性欲』だった。
――テッド……
――どうしよう……
リディアの脳裏に浮かんだのは、シリウス軍の軍医だ。
アラブ系かインド系の出自らしいその男はチカリと名乗った。
どこか胡散臭い爽やかスマイルでリディアの前に注射器と薬剤を並べた。
――――これより少々尋問を行うけど、協力してくれればすぐに終わるよ
――――なにも心配する事は無い。素直に正直に答えてくれれば良いんだ
そんな事を言いつつ、チカリは『安定剤』と呼ぶ興奮抑制剤の投与を始めた。
だが、圧入型の注射器に装填された安定剤は、通常の3倍は量が有った。
――――君を信用しないわけじゃない
――――ただ、尋問中に高圧的な物言いでカッとなってしまう人も居る
――――暴れたり、或いは、恐慌状態になってしまうケースもある
――――レプリボディの薬剤分解能力は並の人間の3倍以上だからね
その圧入型の注射器で撃たれたその安定剤の効き目は凄まじかった。
リディアの精神は完全にフラット化し、恐怖系の感情が一切無くなった。
また、それだけでなく嬉しさや楽しさと言ったものも消え去った。
心の中が空っぽになっていく錯覚を覚えたリディアだが、恐怖はなかった。
恐怖それ自体を感じなくなったのだから、至極当たり前の話しだ。
そもそも、安定剤とは最前線の兵士たちに配られる戦闘薬の解毒剤だ。
極度の興奮状態に陥ってバーサーカーになる戦闘薬の効果を和らげるもの。
だが、恐慌状態や急性パニック障害になった兵士を落ち着かせる効果もある。
つまり、どんな状態になっても戦い続けるマシーンを作り出す為の薬物だ。
興奮系戦闘薬は感情を剥き出しにし、理性や罪悪感を消し去ってしまう。
安定系戦闘薬は恐怖や後悔といったネガティブ系の感情機能を一切うしなう。
その両方を組み合わせ投与すれば、指示された事に素直に従うようになる。
そして、AIのように戦い続ける事を選択するものだ。
――――もう一度言うけどね
――――協力してくれればすぐに終わるよ
――――なにも隠す事無く、素直に、正直に言ってくれれば良い
チカリの言葉にリディアは小さく頷いた。
レプリの身体はそれを強力に分解してしまう。
だが、脳だけは人間その物なのだから、効き目は3倍だった。
――――あの後は……
リディアの記憶には、その後の尋問の様子が一切ない。
気が付けば基地のベッドの上で目を覚ました。
前夜の記憶が全く残っておらず、気が付けば朝なのだ。
――――昨日の夜のリディは変だったよ
ラックバディであるアニーは、遠回しにリディアを確かめた。
同じ部屋で一緒に生活するアニーは、軍生活に不慣れなリディアの先達だった。
その頃にはすっかり軍の水にも慣れていて、冗談を飛ばす事も出来たリディア。
だが、軍というシステムに組みこまれ生活する以上はストレスもまた激しい。
そんな中で一緒に笑い会える仲間が居るのは、心救われる事なのだ。
ただ、心配するアニーにもどう答えて良いか解らなかった。
リディアは正直に『安定剤を投与されて尋問された』と答えた。
その話はあっという間にワルキューレの中に広まってしまう。
――――リディ、大丈夫かい?
バーニーの心配は人一倍だった。
エディとテッドから預かっているリディアだ。何かあったら困るのだ。
そんなバーニーの心配に、リディアは気丈に答えていた。
――大丈夫!
誰もがそこに意地と強がりとを感じている。
だが、大人が自分で大丈夫と言った以上、それは尊重しなければならない。
そして、その強がりが徒となる事をリディア自信が知る事に成る。
その晩もリディアは呼び出され、繰り返し尋問を受けた。
連続して投与された戦闘薬の影響か、リディアは日中にも幻覚を見始めた。
夢と現実の境目が希薄になり始め、6日目の朝を迎えた日だった。
基地のベッドで朝を迎えたリディアは、自分の身体の異常に気付いた。
身体から花の香りがするのだ。ちょっと高級なボディソープの香り。
――え?
リディアの心に影が落ちた。
その香りとそして、もう一つの違和感に気が付いた。
それは、会陰部からわき上がってくる疼痛だ。
――うそ……
ただの少女から女になった眩しい朝。
腕枕を借りたジョニーの顔を見られなかった朝をリディアは思い出した。
あの幸せな朝と同じ疼痛。まだ何か挟まっている違和感がリディアにあった。
――やられた!
正体が抜けきり、全く抵抗できなくなった状態だったはずだ。
そんな自分を裸に剥いて、慰み者にしたのだ……
ベッドの中でリディアは震えた。
気が付けば涙をこぼしていた。
精神的にどれ程強くなろうと、その衝撃をやり過ごす事は出来ない。
強姦は精神の殺人と言うが、リディアの精神は散々に乱れた。
――――リディ……
――――大丈夫?
気が付けば嗚咽を漏らしていたリディア。
それに気が付いたアニーはリディアを抱き締めた。
ただ、その時、アニーもまた気が付いた。
リディアの身体から石けんの香りが漂ってる事に。
アニーの顔が驚愕に満ちたのだが、リディアは黙って頷くだけだった。
――――なんてこと……
アニーは全てを仲間達に伝えた。どこまで行っても女の集まりだ。
そう言う部分には敏感だし、また、達観してる女も多い。
参謀本部のやり方と、そのチカリという軍医に皆が腹を立てた。
この時点では、スラッシュボーンの差し金だと誰も知らなかった。
ただ、そうは言っても強い者だって居る。
事実、リディアはいきなり発破を掛けられていた。
――――リディ!
――――無様だけは晒すんじゃ無いよ!
嫌でも身体を乗り換えるレプリボディユーザーは、定期的にバージンに戻る。
そんな自分自身の身体を武器にして、様々なところへ入り込んでいく。
それ故、音符三姉妹の一人であるエリーはそんな言葉を吐いた。
そして……
――――男なんて単純な生き物よ
――――私のバージンあげるって言えばコロッとね……
エリーは啖呵を切るように、遠慮無くそんな事を言った。
ヴァイオリンのマークを背負う彼女は音符三姉妹の一人。
彼女はどこかの街の貧民窟にある私娼宿で、飯盛り女が産んだ娘だという。
父親の顔を知らず、まともな教育も受けず、気が付けば男を取っていた。
そして、その対価を受け取り、その日の糧を得ていた。
人類最初の職業は、殺し屋と売春婦だという。
ある意味で欲望の極地とでも言う様な、そんな感情のはけ口だ。
――――胸を張りなよ
――――リディのだってそんなに小さか無いんだ
――――鼻の下を伸ばした馬鹿な男は喜ぶよ
凄みのある笑いを見せてエリーはリディアを見た。
たわわに実った大きな胸を持ち上げ、ゆさゆさと揺らしながら。
――――見なよリディ
――――誰だって技術一本で喰ってるのさ
エリーが指さしたのは、シェルハンガーでシェルの整備をするエンジニア達だ。
脂にまみれ、埃まみれになって作業をする男達。
だが、彼らは人類最高の平気を扱える最高の存在でもある。
全ての整備兵の頂点にいる者達。そんな表現も決してオーバーでは無い。
――――売春婦はね、自分の技量一本で男を満足させるのさ
――――他の仕事と何にも変わりゃしないんだよ
エリーはリディアを抱き締めて言った。
――――私はあのままあの貧民窟で死ぬはずだった
――――だけど、たまたま抱かれた男が大店の大旦那だったのさ
――――あれが転機だった。妾に抱えられて夜の店に立った
――――そこでアナやヘリーと出会ったのさ
――――何時も3人一緒に居るあたし達はあそこで姉妹になった
抱き締めていた手を緩め、その顔を見たエリーは全く悪びれずに言った。
さも、それが当然だと言わんばかりに。
――――リディ……
――――あんたもそれでツキを掴みなよ
――――身体なんで消耗品だろ
――――いくらでも好きに使わしてやんな
――――ただ、心だけは惚れた男の為に取っておきなよ
リディアは涙を浮かべて頷いた。
だが、エリーは遠慮無くリディアの横っ面をひっぱたいた。
――――なに未通女を気取ってんだい!
――――舞い上がって泣き喚くな! みっともない!
――――もう一度言うよ! よくお聞き!
――――胸を張って前を向いて!
エリーの手がリディアの顎をクイとあげた。
――――バカ男の萎びたナスを咥えてやるのも切り落とすのもこっちさ!
――――あんたの上で散々頑張って腰を振ったバカ男に言ってやんな!
――――なんだ、もう終わり?ってな!
――――決め台詞はね、もうちょっと落ち着いてって言ってやれば良いのさ!
凄みの混じった笑みを浮かべたエリーはトドメにこう言った。
真っ直ぐにリディアの目を見て、口元を大きく歪ませながら。
――――男にゃ出来ない事さ
――――女にしか出来ない事さ
――――どこかの誰かが泣く代わりにあんたが泣いてやんな
――――それがあたし達の任務だよ
リディアの背中をポンと叩いてエリーは歩いて行った。
その背中を見ていたリディアに『誇りを持ってね』とエリーは付け加えていた。
「リディ! どうしたの?」
「……アニー」
ミーティングルームへの道すがら。
本槍とした表情で歩いていたリディアをアニーが見つけた。
同じ部屋で暮らすラックバディのアンナは、リディアの良き理解者だ。
「また呼び出されちゃった」
「……えっ?」
「ほら」
リディアは遠慮する事無くその命令書を見せた。
それを読んだアニーの顔色がスッと曇る。
「これって……」
「今度は上手くやるよ」
ニコリと笑ったリディアだが、その表情には悲壮さが混じった。
覚悟を決めたと言わんばかりの姿に、アニーはリディアの内心を思う。
絶対に正常な状態じゃない。泣き喚いたっておかしくない。
だが、リディアはそれをギリギリで堪えていると思った。
「みんなに言った?」
「いや、いま受け取ったばかりだから」
「……行かなくちゃダメだよね」
「そうだね。みんなにも迷惑が掛かるし」
リディアは力無く笑ってミーティングルームへと入った。
部屋の中に居た全員の目が一斉にリディアに向けられた。
「何かあったのリディ」
最初に口火を切ったのはサミーだ。
アラブ系の姿をしたサミールはバーニーの右腕だ。
相当酷い経験をしたはずだが、彼女はその人生を誰にも語らない。
そして、その強い精神はそれに比例し、人を思いやる心をも持つ。
サミーからしたらリディアは娘にも近い年齢だった。
「また呼び出されちゃった」
全く同じ回答をリディアは行った。
そして、命令書を全員に見せる。
「ひどい……」「なに考えてんだろう」「ほんとクズ揃いね」「最低だわ」
音符三姉妹とアニーが佐官に文句を並べている。
リディアは微妙な笑みでそれを聞いていた。
そして……
「リディ!」
予想通りの女から声が掛かった。
今回もまたエリーだった。
「大丈夫! 今度は上手くやるから」
「不器用なあんたが出来るのかい?」
エリーの言葉は常にはしはしが鋭く尖る。
決して酷い性格からと言う訳では無い。彼女なりの照れ隠しでもあるのだ。
そしてそもそも、真っ直ぐに人とつきあえない、ひねくれた性格のエリーだ。
どんなに心配していても、口を突いて出る言葉は突き放すように冷たい。
それを理解しているリディアだからこそ、サムアップで笑って応えた。
「今回は頑張るよ」
「……気合い入れなよ」
「うん!」
それは空元気とは言いがたいものだった。
リディア自身にも、どこか打算的な期待があった。
いや、期待が生まれたと言って良い。
今ならエリーが言った言葉も良くわかる。
敵な筈の人間を味方に引き込めというエリーの策謀だ。
自分の身体を武器にして、参謀本部の人間をたらし込め。
そして、自分の味方にして上手く使え。
男なんて単純なものなのだから、そこは女が上手く立ち回ってやるのだ。
「で、これはいつなんだい?」
最後に命令書を読んだバーニーは、低い声で言った。
その声音はまるで、魔女が鍋でもかき回しながら言う言葉だった。
「特に指示は受けてませんが……」
「いや、ここに書いてあるよリディア」
バーニーの隣でそれを読んでいたサミーが言った。
細く長いサミーの指は命令書の文字をなぞっていた。
「貴官に作戦行動当がなければ今夜にでも予備尋問を行う……ってさ」
「仕事熱心な事だねぇ この情熱を敵に向けて欲しいものだ」
バーニーは溜息混じりにそう呟いた。
嵐の夜が来るのだと、リディアは覚悟を決めていた。




