記憶のリディア 痛みのソフィア 見守るミリア
今日3話目です
もう無理
~承前
エンデバーの展望デッキはブリッジの付け根辺りに存在している。
巨大な葉巻型とも言える船体は、緩やかな膨らみを持っていた。
その最大径となる所から突き出ているブリッジは、船体の半面全てを見渡せる。
広大な展望デッキはその基部にあって、広範囲な視界を実現していた。
『他に見たいところは?』
ただ一人、そのデッキに来ていたテッドは、艦内無線で会話していた。
会話の相手は機関室脇の小部屋で過ごしているソフィアだ。
『ニューホライズンの夜の側』
『分かった』
一旦周回軌道に入ったエンデバーは、ニューホライズンを周回している。
夜のエリアへと進んでいくと、眼下には疎らに街明かりが見えた。
『地球とは随分違うな』
『本当だね』
完全遮断の小部屋を一歩出れば、また精神的におかしくなってしまう。
ソフィアもそれは望んでいなかったし、テッドだって同じだ。
ある意味で囲われたペットのようでもあるが、自分を護る為なのだ。
『もうすぐ夜明のエリアだ』
とんでも無い速度で周回軌道を巡っているエンデバーは、既に2周していた。
予定では5周ほどしてからコロニー軌道へと遷移するはずなのだが……
――うーん……
内心で唸るテッドは、ニューホライズン周回軌道の異変に気が付いた。
あれだけ密度の高かったデブリが無いのだ。
スターダスト作戦で廃棄コロニーをバラバラにし、デブリの膜を作った筈だ。
ケスラーシンドロームに陥ったニューホライズンでは、宇宙に出るのも一苦労。
そんな状態で、文字通り封じ込めをしたはずなのだが……
『なんだか妙に宇宙が綺麗』
ソフィアはパイロットの記憶を残している。
故に、ケスラーシンドロームの怖さを知っているのだった。
『あの速度で飛ぶんだ。デブリは歓迎しないよな』
『うん……』
僅かに口籠もったソフィアは、それっきり言葉を発しなくなった。
何か嫌な記憶でも思い出したのかとテッドは思うのだが、追求もしたくは無い。
それに、不用意に追求して症状を悪化されても困るのだ。
『さて、シリウス見物は終わりだ』
普段なら、部屋を出て5分としないうちに彼女は不安げな声で問いかける。
『もう戻る? もうすぐ来る?』とテッドに聞いてくる。
だが、この日に限ってはソフィアが静かだ。
――何かを思い出したのかな……
テッド自身もそれを不安に思い始めている。
ただ、ここで手をし損じたくない。
これ以上の悪化は防ぎたいし、出来るならリディアと話がしたい。
ソフィアは開くまでソフィアであって、リディアでは無かった。
姿形はリディアでも、全く違う人物なのだ。
――さて……
『チャウデッキへ寄るけど、何か要るかい?』
明るい声で問いかけたテッド。
ソフィアからは回答が無かった。
――へそを曲げた?
やや怪訝な感触に怯えつつ、テッドはチャウデッキで飲み物を用意した。
なにか嫌な記憶が蘇ったのか、それとも、人格同士が激しく闘っているのか。
嫌な予感しかしないのだが、戻るしかないし、放っておくわけにも行かない。
――なんだろう……
そんな心境で小部屋へと戻ったテッド。
二重ハッチを潜って室内に入った時、ソフィアはベッドの上で膝を抱えていた。
両眼一杯に涙を浮かべて、カタカタと震えていた。
「どうした?」
そう、優しく問いかけたテッド。
ベッドの上に居たソフィアは、いつもと違う顔になっていた。
「わたし…… とんでもない事しちゃった」
「え?」
「ジョニーを殺しちゃった!」
一瞬だけ全ての思考が真っ白に切り替わったテッド。
ベッドの上に居た『だれか』は、ベッドから飛び降りてテッドへ抱きついた。
「わたし! ジョニーを! ジョニーを!」
「落ち着けって。ジョニーってのは?」
「小熊のジョニー」
――ん?
「その小熊のジョニーってのは? なに?」
「ずっと昔から持っていた人形なんだけど」
「ぬいぐるみみたいなの?」
「そう……」
リディアの記憶がミックスされている。
感情を司るソフィアと記憶を管理するリディアが融合し始めている。
解離性同一性障害は、記憶と感情の完全分離が根本だ。
精神科医はテッドにそう伝えていた。
そして、その人格を形作る記憶全てが奪われた結果だ……とも。
全ての記憶が封じられ、心の奥底の欲望が剥き出しになった状態。
抑圧されていた感情の全てが爆発し、より衝動的・本能的になった状態。
それがあたかも別の人格のように見えるだけ。
ならば、なぜソフィア=リディアは小熊のテッドを知らないのだろう……
テッドはそれが腑に落ちなかった。
論理的な思考をしている自分に気が付く事無く……だが。
「そのぬいぐるみはどうしたの?」
テッドに抱きついたソフィアはカタカタと震えながら、辿々しく答えた。
「頭の中で誰かが叫んでて…… 殺せ!殺せ!って叫んでて、それで……」
ソフィアは急にうずくまって両手で頭を抱え、『いやっ!』と叫び始めた。
震える声で『いやっ! やめて! 来ないで! やめて!』と。
なんども、なんども、拒絶するように叫び始めた。
「大丈夫だ! 大丈夫! 俺がいる! 大丈夫だ! 俺が護ってやる!」
ソフィアの肩をギュッと抱き締め、テッドはその背中をポンポンと叩いた。
あの、ニューホライズンの地上で行った憲兵代理任務の時のウェイドの様に。
レイプ被害に遭ったあの少女は、強気のまま経口避妊薬を拒否した。
だが、力尽くで犯される恐怖と苦痛は、言葉では説明出来ないだろう。
ソフィアはまさにその恐怖がフラッシュバックしていた。
「助けて! 助けてテッド! 助けて…… 助けて…… たすけ…… た……」
突如としてソフィアの身体からガクッと力が抜け、彼女は気絶した。
慌ててその身体を抱え上げたテッドは、そのままベッドに横たえた。
いま、間違い無くソフィアは『テッド』と呼んだ。
小熊のジョニーとテッドの名前を理解して使い分けていた。
――リディアの頃の記憶が抜け落ちている?
その理由が全く思い浮かばないテッド。
だが、ソフィアはベッドの上でも泣いていた。
意識が途絶えた状態だと言うのに『やめて……』と懇願していた。
そして……
「忘れなきゃ…… 忘れなきゃ…… 思い出しちゃダメ…… 忘れなきゃ……」
寝言のように呟き続けるソフィアは、同じフレーズを繰り返した。
何度も何度も、同じ単語を繰り返していた。
――まさか!
テッドは愕然としていた。
ソフィアでは無くリディアがコミッサールに連行された時の事かも知れない。
自白剤や戦闘薬で酩酊状態の時にコレをやった可能性がある。
連邦軍士官の事を洗いざらい喋らせようとしたコミッサールの尋問だ。
テッドに迷惑を掛けたくないリディアは、そうやって強引に忘れようとした。
その結果、リディア時代の記憶がすっぽり抜け落ち、人格乖離が始まった。
本来であれば表に出てこない、リディアの深い欲望や荒々しい部分。
そう言った物が強引に引き出されている可能性があった。
で、それらを曲がりなりにも戦闘状態へ持ってく為に、クロスが処置をした。
――チキショウ……
テッドはそう段階を踏んで思考をまとめた。
精神医療のいろはを学んだわけでは無いが、なんとなくそう思うのだ。
いつも近くで見ていたからこそ、僅かな違いに気が付くとも言える。
「テッド…… 来て…… テッド…… 近くに来て……」
寝言のようにそう繰り返し言うソフィア。
いや、それはリディアだとテッドは確信した。
「ここに居るぞ。俺はここに居る。すぐそばに居る」
ベッドの上に横たわるリディアを抱き締め、テッドは耳元でそう呟く。
そのテッドを抱き締めかえし、再び何事かを呟き始める。
最初は言葉になっていなかったのだが、段々と認識できるようになってきた。
ただ……
「良かったねリディア。良かったねソフィア。良かったね。よかったね」
リディアを抱き締めていたテッドの目がこぼれ落ちそうな程に見開かれた。
その言葉は、いや、しゃべり方は、テッドの母ミリアだ。
気が強くて、心も強くて、不平不満を言う前にアクションを起こす人間だった。
苦しい生活の中でも夫に不平不満をぶつけず、一緒になって乗り越えようと。
誰かのせいにして逃げるような事が一切無い傑物だった。
そして、いつもジョニーとキャサリンと、そしてリディアを見守っていた。
人の心に安心と安定をもたらすような、そう言う大きな人間だった。
――もう少しかも知れない……
テッドはなんの根拠も無く、そう確信した。
そんなテッドの腕の中で、リディアは何度も呟いていた。
「ジョニー…… 会いたい…… ジョニー…… 会いたい…… ジョニー」
ギリギリと音がするほど奥歯を噛みしめて、テッドは震えた。
全く同じ事を思っていたんだと再認識していた。
悔しくて悲しくて、そして嬉しくて。
「俺もだ…… 会いたい…… リディア…… 俺も会いたい……」
そう繰り返し続けた。
ソフィアの中に居る、ミリアに見守られている、リディアに届けと。
そう願いながら……




