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黒い炎  作者: 陸奥守
第六章 ブローバック計画
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ソフィア

~承前






 全く身の入らないリハビリを三日行なったテッドは、ナイルのバーにいた。

 自分の吐き出す溜息を肴にきついスコッチを煽り続けている。

 それは、容量の決まったリアクターへと捨てるように流し込む単純作業だ。


「……ふぅ」


 おそらく、ビン一本飲んでも酔わないだろう。

 思い出したように頭を振って、そして悪いイメージを追い出す努力を続ける。

 辛さと悲しさと癒せない心の痛みは、どんな治療も意味を成さない。

 写真には写らない、形の無いものの発する痛みは、外科的には癒せないのだ。


「……リディア」


 ポツリと呟いて、そしてまた一気にグラスを煽る。

 表面張力分まで注がれていたスコッチが一気に消えた。


「お若いの…… ちっと加減なさい」


 隣に座っていた人生のヴェテラン(老 人)がチェイサーを差し出した。


「酒に逃げても、酔いが抜けた時には2倍3倍に辛くなるもんですよ」

「……ありがとう。だけど……」


 ボトルの首を掴んでラッパに流し込み、ちょっと手荒にビンを下ろす。


「ほっといてくれ」


 ガックリと肩を落とし、沈痛な溜息をこぼしたテッド。

 その姿を見たバーテンは、眉をしかめてヴェテランへとアイコンタクトする。


「時間は全てに平等だ。時が癒す事もありますよ」


 テッドの肩をポンと叩いてヴェテランは何処かへと歩み去った。

 その足音を聞きながら、俯いたテッドはポツリと呟く。


「平等だから困るんだ……」


 生身ならば、例え男でも泣いているのだろう。

 むしろ、男だからこそ、男泣きの号泣をするようなものだ。

 手が届かない悔しさや触れられない寂しさはもう乗り越えた……筈だった。

 ただそれは、彼女が安全で安心出来る場所にいるはずと言う前提だった。


「……殺してやる」


 ボソリと呟いて。

 そしてまたボトルごとスコッチを煽って。


「この手で…… 必ず殺してやる……」


 グビリグビリとスコッチを流し込んで。そして、カウンターに突っ伏した。

 高圧分解のかかるリアクターは少々のアルコールなど問題にしない。

 だが、リアクターに連結された成分コンバーターは、脳に補給する糖質と共にアルコールを脳殻へ送り込んでしまう。


「悪酔いしますよ」

「むしろ酔いたいんだ。酔いつぶれて死にたいくらいだ」


 バーテンの言葉につっけんどんな言葉を返したテッド。

 ウィングマーク付きのジャケットを羽織った連邦軍士官が荒れている。

 それだけでただ事では無い空気なのだが……


「どんなに酔っても死ねないんだよ…… 俺は」


 再び瓶でスコッチをあおり、三本目のマッカランを飲み尽くした。

 支給されるギャランティを思えば、こんな酒の二本や三本など問題にしない。

 だが、地球から遠く遠く離れたコロニーには、それほど数があるものでも無い。


「お客さん……」

「もう一本くれないか」

「いや、もう無いんだ」

「……そうか」


 バーテンは何も言わずに、ニューホライズンの地上にある醸造所で仕込まれたウィスキーを出した。アザミの紋章が入った独特のラベルだった。


「これをどうぞ」

「……グレン ……スローンチャ」


 半分ほど残っていたそのウィスキーをグラスに注いだバーテンは、笑顔でテッドへと差し出した。独特の香が芳醇に漂う絶品だった。


「これを仕込んだ人ね、地球にいた頃、ウィスキー職人だったそうですよ」


 何を思ったのか、手持ち無沙汰なバーテンが語り始めた。


「10代続くスコッチの醸造所だったそうですが、グローバル化の波に飲まれ、気がつけばウィスキーは売れなくなり、両親は醸造所の中で首吊り、婚約者は他に男を作って姿を消し、従業員は未払い給与を求めて訴訟を起こしたそうです」


 酔った頭で聞いていたテッドは、胡乱な眼差しで話の続きを待った。


「全て失ってニューホライズンへ入植したその人ね、結局ここでまたウィスキー作ったんだ。嗜好品が何も無い時代だったから、多少不味くても良く売れた。その人はそこで考え直したんだ。次は失敗しないようにしよう。ここで立ち直ろうって」


 グラスを持ったテッドの鼻腔にふくよかな香りが漂う。

 遠い日に父親が嗜んでいた、あの香りを思い出す。


「ウィスキーはね、時間を飲むものなんですよ」

「……時間?」

「えぇ、そうです。醸造酒は仕込み手の情熱を飲むものです。蒸留酒はね、寝かした時間を、歴史を飲むものなんです」

「でも……」

「関係ないって思うでしょ?」


 バーテンはニコリと笑ってテッドを見た。


「酒はね、自分と対話する為にあるんですよ。辛い思いも、悲しい思いも、悔しい思いも、全部内包して、時間を掛けて少しずつ少しずつなじんでいって、ゆっくりと自分の中に解けていくように……ね」


 バーテンの取り繕う言葉は、テッドにどこか不機嫌な感情を呼び起こした。

 まだまだ、そんな深い含蓄を飲み込んで消化出来るような歳ではなかった。


「良い話だが、そいつはまだこの小僧には早いな」


 聞き覚えのある声が響き、テッドは一瞬だけドキリとした。

 店の中に入ってきた痩身長躯の男は、何も言わずに黙ってテッドの隣へ座った。


「こんばんわ少佐」

「あぁ、こんばんわ。いつもの」

「へい」


 バーテンはコースターにグラスを下ろし、氷を入れずにラフロイグを注いだ。

 鼻を突くようなヨードとピートの香りが立ち上り、テッドはやや驚きの表情だ。

 ただ、その中に僅かながらもバニラ臭が混じり、その複雑でスモーキーな香りにもう一つ驚く。


「……エディ」

「災難だったな」


 小さく言葉を交わして再び黙り込む2人。

 エディはラフロイグをストレートで舐め始めた。

 テッドはその隣で、グレンスローンチャを舐める。


「酒は味わって飲め。浴びるもんじゃ無いぞ」

「……はい」


 エディに叱られ、テッドは徹底的に素直になった。

 ただ……


「リディアと最初にキスをしたのは…… 8歳のときだ」


 グラスに浮かぶ氷を見ながら、テッドはボソリと呟いた。


「まるでまだ檻の中だ。今すぐ会いに行って話をしたいのに……」


 横目でエディを見たテッドは僅かに首を振った。


「正直に言えば、未来なんか無いって分かってた。だから、あの…… 牧場を出て行く時に、俺は檻から出たつもりになってた。新しい世界で上手くやっていこうって思って必死だった。だけど……」


 グッとグラスの中身をあおり、また沈痛な溜息をこぼした。


「気がつけば堕ちる一方だ。どんなに奇麗事並べたって、俺がやっているのは人殺しだ。気がつけばおれは人間を辞めちまって…… そして今は……」


 再び俯いて肩を震わせるテッド。

 エディはその痛みの独白を黙って聞いていた。


「あの最初のキスが…… キスしただけなのに…… 彼女は…… 彼女は……」


 涙をこぼす事こそ無いが、低い声で嗚咽を漏らした。

 バーテンは黙ってもう一杯、グレンスローンチャを注ぎ、カウンターを離れた。


「大丈夫だと思ってた。ニューホライズンの地上で彼女を抱き締めて、何も問題ないと思ってた。コロニーの周辺でもニューホライズンの周回軌道でも。彼女は何も問題ないと思ってたんだ……」


 もう一杯注がれたグラスをグッとあおり、ガンと音を立ててカウンターへと下ろしたテッドは『だけど!』と強い口調で言った。


「艦へ戻って反省会して、それで眠りにつく頃、彼女は…… リディアは……」

「レポートを読ましてもらったよ」


 三日間の間に行なわれたリディアへの尋問と精神科医によるカウンセリングの中で、リディアが地上で経験した事が段々と明らかになってきた。

 それは、言葉や文字にする事すら憚られるような、おぞましい実態だった。かつての地球に存在した共産圏国家による集団人権侵害は、体系だった思考の矯正と人格改造の完璧なノウハウを作り上げていた。


「何処かへ車で運ばれ…… 薬を打たれ…… 正体が無い状態で……」


 レポートの中に浮かび上がってきた言葉は、テッドを絶望の淵へと突き落としてなお余りある威力だった。精神科医による退行催眠と心理分析の中に浮かび上がってきたソフィアと言う仮想人格の実態。

 それは、コミッサールへ連行されたリディアが受けた凄惨な拷問の全てだった。ただ、激しい痛みや耐えられない苦しみの実態が、テッドにとって、男にとって、愛する妻を持つ夫にとって、とても耐えられないモノだった。


「彼女は抵抗したんだ。激しく抵抗したんだ。だけど…… だけど……」

「身持ちの固い娘だからな」

「薬とアルコールの禁断症状が……」

「人間にとって、もっとも耐えられない苦痛は快楽の欠乏だからな」


 エディの言葉にテッドは目を吊り上げて睨み付けた。

 ベッドに縛り付けられ、興奮剤と強力な媚薬を打ち込まれたリディアは、レプリカントの強力な肝機能を大幅に超える薬効により脳内に溢れる程のエンドルフィンを放出させた状態で、延々と輪姦され続けていた。

 本人の意識が朦朧・酩酊状態の中で望まぬ絶頂を迎え続けたリディアは、やがて精神の崩壊を起こし始めた。その状態でコミッサールから『秘密をばらせばキャサリンを殺す』と脅迫され、自分の内側へ全てを飲み込んで、最初は隊へと帰されていたらしい。だが……


「どんなに強固な…… 鉄の意志の持ち主でもな……」


 エディは首を振って溜息を吐いた。

 その光景が容易に想像出来るだけに、男は辛いのだ。


 ややもすれば、それは全ての男の本能と言えるかも知れない。

 言い換えれば『許されない願望』そのものだ。

 激しく抵抗する女を力で押さえつけ、欲望のままに貪りつくす。

 泣いて喚いて抵抗する女を殴りつけて黙らせ、絶望の声を上げて泣かせる。


 どれ程奇麗事を並べても否定できない『征服欲』と『支配欲』の発露。

 自分の腕の中の愛する女が熱い悦びに泣くのを見て、満足しない男はいない。

 だが、その裏側にあるのは、そんな後ろめたい欲望そのものだ。


「おれが…… ベッドの中で眠りについた頃…… どっかの知らない男に脱がされて、まともじゃなくなったリディアがその男に触れて…… それで……」


 やがて隊の中でおかしくなり始めたリディアは、出撃に支障を来たし始めた。

 精神的な退行と、プレッシャーからの忌諱。

 なにより、薬の禁断症状に苦しんだ。


 レプリカントの強力な肝機能は、少々の薬剤など完全に無害化出来る。普通の人間であれば死を免れないウィルスですらも完璧な防衛反応を見せる免疫機能と共に、レプリの強靭さを支えているものだ。

 だが、それは肝機能や免疫と言った自律神経の守備範囲でしかない。むしろその機能が強力な事が悲劇を拡大する。並の人間であれば軽く致死量を踏み越える媚薬のオーバードーズは、深く深く酩酊状態へ沈む事を意味する。


「レポートによれば、エンドルフィン分泌量は推定で三倍だそうだな」


 エディのポツリと漏らした言葉。

 その実態は、痛覚を含めた全ての感覚神経が焼き切れるほどの情報量を伝達しようと努力する事を意味した。そして、その情報量を処理するのは生身の脳だ。

 快感と恍惚感が全ての痛みや背徳感や嫌悪感を乗り越え、踏み潰し、破壊する。その向こうにあるのは、精神を崩壊させ貪るように『次』を求める欲の洪水だ。


「耐えられるわけが無い……」

「女だからな……」


 どれ程奇麗事を並べたところで、男と女は違う。

 絶頂にある女の深い悦びは、精神の幼い頃ならば用意に溺れる程のものだ。

 ましてやそれが薬によるものであれば、精神を押し留める心の堰を用意に壊してしまう。踏み越えてしまう。


「それでもリディアは…… キャサリンの為に秘密を護ろうと……」

「責任感の強い娘だからな。それは間違いないだろう。それは……」


 エディも同じように溜息をこぼした。

 テッドの苦しみや悲しみを分かち合うように。


「彼女は…… 壊れてしまった……」


 テッドはそう呟いて、黙り込んだ。

 どんな人間にも備わっている精神の安全装置。

 苦痛人格の分離と遮断。人格改造の肝はそこだ。


「凄腕のマインドトレーナーだな」

「……殺してやる」


 感心したように呟いたエディを睨みつけ、テッドは吐き捨てた。

 己の全てを奪った男は絶対に許さない。そう覚悟した言葉だ。


「うわごとの様に繰り返したって……」


 悲しみの表情で漏らしたテッド。

 レポートにあるリディア=ソフィアは、自らの身を襲う苦痛と快楽の狭間を退行催眠の中で思い出し、助けを求めるように繰り返したのだと言う。


「クロス……だっけか」

「えぇ」


 シリウス軍機動突撃隊指令。クロス・ボーン大佐。シリウスの督戦新聞などで繰り返し出てくる高官だ。そしてそれは、あの独立闘争委員会の常任委員の息子であり、次期常任委員と呼び声高いエリートだそうだ。

 中央大学で政治学と経済学を学び、地球にも何度か行っているらしい本物のエリートで金持ち。そんな人物説明がテッドのプライドをえぐる様に傷つける。


 どう頑張っても勝てそうに無い相手の情婦に堕ちた。


 ただ寝取られたなら怒るだけで済むのだろうが、その相手はシリウスの社会において他に無い最高のエリートだ。


「これが…… 運命って奴ですか」


 残っていたグラスの中身を飲み干して、テッドは吐き捨てるように言った。

 怒りに震え、いまにもグラスを握り潰すほどの勢いだ。


「彼女を救えるのはお前だけだぞ」

「……だけど」


 ガックリと肩を落としたテッド。

 エディは黙って次の言葉を待った。


「他の男に股を開いた尻軽女ですよ……」


 ヘっ……と鼻で笑ったテッド。

 エディは全部承知でその傷へ塩を塗りこんだ。


「そうさせたのはお前だな」


 まるで後頭部を殴りつけられたかのように衝撃を受けたテッド。

 だが、エディは遠慮なくそれを続けた。


「彼女を捨てて新しい人生を歩むのも良いだろう。お前の人生だ。好きに生きれば良い。ただ、後になって後悔しないほう方を選べよ」

「エディ……」

「もう一回言うぞ。彼女を救えるのはお前だけだ。周りはアシスト出来るだろうけどな、転んだ彼女がもう一度立ち上がる手を差し伸べるのは、お前だ」


 グラスに残っていたラフロイグを飲みつくしたエディは、静かに立ち上がった。


「明朝7時の点呼には這ってでも来い。軍人の矜持を忘れるな。良いな」


 そう言葉を残し歩み去った。

 その背中を横目で見ながら、テッドはもう一つ溜息をこぼしていた。

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