第41話「ワタルのキモチ」(後編)
こうしてボクは凛の通う若松中学へ、石川 渉として転校してきた。
さて、こうしてボクは戦争によって死んだ後2度目の生まれ変わりをしたわけだ。
しかし前回、鮎川 渡として生まれた時には、ボクにはちゃんと父も母もいて、そして家庭があった。
今回は生まれ変わったといっても、ただ実体を与えられただけ。
ボクには両親もなく、そして帰る家もない。
生まれ変わりの森で出会ったおっちゃんはボクにその代わりになる場所を与えてくれた。
それがあの『赤いブランコのある小さな公園』だった。
ここは戦争中ボクらが死んだ防空壕のあった場所、戦後そこは小さな公園となって、そして鮎川 渡として生きていたときボクは凛や久美ちゃんとここで友達となり遊んでいた。
ちょうど赤いブランコのある場所の真下に防空壕があった。
学校が終わり凛たちと別れると、ボクはこの公園に戻ってきてこの赤いブランコに座る。
そして、キー、キーと何回か漕いでいるうちにスーっと辺りの景色が代わり、ボクはあの生まれ変わりの森の中にある自分に与えられた住処に戻れるわけだ。
その住処の中には、六畳間ほどの広さの部屋が3つほどあって、そのほかにはトイレと洗面所と台所があった。
現世にある普通の家と何も変わるところはなかった。
そして、多分その森の案内人なのだろう、ボクを初めてここに連れてきてくれたあのおっちゃんはときどき前触れもなくこの家を訪れることがあった。
ボクは最初この家に来たときわけがわからなかったが、鮎川 渡としての人生を終えて再びこの家に来て、この家はひとつの世界というか次元であって、生まれ変わりを待つ者ひとりひとりにこうした家が与えられるものだと理解していた。
次元が違うから他の生まれ変わりを待つ人と触れ合うことは一切ない。
何度か家の周りを歩いてもみたけど、他の家を見つけることは出来なかった。
歩いても歩いても薄暗い夕暮れのような中にうっそうとした茂みと大木の木々が続く。
(寂しいなぁ…)
そう思ったことも一度や二度じゃない。
ただボクがここにいるのもそう長くはない。
ボクは2年間という与えられた時間が終われば、今度こそ今までの記憶を消されて新しい生まれ変わりをしなければならない。
そう考えると、今は凛の運命をどう変えるかで頭がいっぱいだった。
そして現世の時間では中3になった6月ごろ。
ボクは学校が終わって、あの小さな公園のブランコに座り精神を集中して何回か漕いで森の住処に戻ってくる。
いつも食事をする部屋でカバンを放り出し大の字になって寝っ転がっていると、いつものように何の前触れもなく森の案内人のおっちゃんがやってきた。
「やあ、どうだい? 妹さんとは出会うことができたかい?」
おっちゃんは穏やかな声でボクにそう尋ねた。
「ええ、石川 渉ゆう名前でびっくりしてましたわ」
「ハハハ、キミが彼(石川 渉)に目をつけた時はちょっとびっくりしたけど、そうか、うまく入り込めたか・・・」
「アイツ、なんかあったんでっか?」
「いや、彼と妹さんのつながりの方じゃなくってね。久美子ちゃん…だっけ? その娘の方なんだけどね」
「久美ちゃんの?なんでっか?」
「いや、まだキミは知らないほうがいいだろう。 それよりも…」
「はい?」
「実は今日はキミに紹介したい人がいてここに来んだ。連れてきている」
「エッ! この世界に他に人がいるんでっか?」
「キミの想像しているように、本当は他の人と触れ合わず、ひとりにひとつずつ家を割り当てられるんだけどね。これはキミとその人の次の人生のためになることだと思ったんでね。 さあ、入ってきてくれ」
おっちゃんは玄関の方に向かって声をかけると、入ってきたのは年の頃が30代はじめくらい、身長が180センチ以上はありそうな背の高いガッチリした感じの白人の男だった。
「紹介しよう。彼はジェームス・ブラウンといってイギリス人だ」
イギリス人じゃ日本語は通じないか。
ボクは英語の成績はいいつもりだけど、本物の英会話となるとそうはうまくいくまい。
(どうせ言葉が通じ合わないのになんでわざわざ外国人を…)
ボクは心の中でそう思っていると、その男はボクに向かってこう話しかけてきた。
「キミは日本人か?」
「エエッ、日本語わかるんでっか?」
ボクが驚いたようにこう言うと、横にいた森の管理人のおっちゃんは小さく笑ってこう答えた。
「いや、彼に日本語はわからないよ。 しかしここは日本でもイギリスでもない現世とは違う世界だからね。言葉の違いなどというものはない。お互いが話したいと思えばキミにとっては日本語として通じることになる。逆にジェームズにとってはキミの話したことは英語として理解できるのだよ」
「ヘェー、そうなんでっかー。こら便利やわ。 現世でもこんなふうだったらお互いちゃんと理解し合えるのになぁ」
「そうだな。まさにキミの言ったとおりだ。お互いがちゃんと理解し合えれば戦争なんて悲しい手段に訴えることもなくなるだろうに…」
ボクは森の管理人のおっちゃんが言ったその言葉にズキンと心を突かれてしまった。
「なあ、キミは日本人なのか?」
ジェームズさんはボクに向かってもう一度聞き直した。
「ハ、ハイ。日本人で今は石川 渉いいます。よろしゅう」
お互い戦争中は敵になっていた相手だ。
最初からあまり良い感情を持っているとは思えない。
「オレはジェームズ・ブラウン。イギリス海軍の大尉だった」
「じゃあ、軍人…でっか?」
「そうだ、悪いか?」
「いや、悪いことはないけど…」
するとジェームズさんは突然目の前にあるお膳を
ドンッ!!!
と叩きうつ伏すようにしてこう叫んだ。
「ちくしょうっ! オレには妻も子供もいたんだ。あともうちょっとで戦争が終わるってのに、あのとき日本軍の『カミカゼ』にやられなければっっ!!!」
いつの間には森の管理人のおっちゃんは姿を消し、そしてその部屋にはボクとジェームズさんの2人になっていた。
「ハッ、こんなことを子供のキミに言ったってしょうがねーよな。 むしろキミ達子供こそがオレたち大人が始めた戦争の犠牲者だもんな。」
「イ、イエ、あのそんな…。それにもう戦争は終わったんやし。 それより良かったらジェームズさんのこと教えてくれますか?」
すると
ジェームズさんは顔を上げ、そしてボクの方をまっすぐ見て話し始めた。
「オレは海軍の爆撃機のパイロットで空母乗りさ。 故郷はイギリスのケンブリッジ郊外にあるグランチェスターっていう小さな町なんだ。 まあ大して遊ぶところもねえ、なんにもねえ小さな町だったけど、みんな陽気で気さくな住人ばっかりでな。 でも若い頃のオレはそんな環境に面白くなくってな、たまたま学校の成績は良かったもんでロンドンの大学に奨学金で行けて、そして卒業後もロンドンに住んだ。」
「ホエー、そうなんでっか。 じゃあ、大学卒業してパイロットに?」
「いや、違う。 じつは大学を卒業した後はハイスクールの教師になってね」
「先生、でっか!?」
「そうさ、数学を教えていた。 ワルガキもいたけど生徒たちが本当に可愛かったー」
「それが何でパイロットに?」
「戦時徴兵さ。 キミの国もそうだったろ? 25歳のときに結婚して、その翌年に初めての子供ナンシーが生まれたんだ。そしてその2年後28歳のときに中尉で徴兵されたってわけさ。ドイツとの戦争でもなんとか生き残った。今度は日本が相手ってことになって。日本の降伏まであと3ヶ月ほどってときにな。ああ、オレの可愛いナンシーを残して…ちっくしょー!」
「さっきカミカゼって言ってはりましたけど…」
「ああ、そうだ。オレはカミカゼにやられたんだよ。オレたちイギリス海軍のパイロットはアメリカの空母に同乗させてもらって沖縄沖に停泊していた。 それが夕方頃いきなりアラートが鳴って、「カミカゼだー!」ってな。 オレたちパイロットは急いで自分の機を発進させようとしたけど、そこに一機のカミカゼが突っ込んできてな。 パーーーンッ!!!って周りがすごい光で包まれて、そして気がついたらこの薄暗い森の中だったってわけさ」
ボクはジェームズさんに聞かれてボクの事情も話をした。
「そうか…。キミもずいぶんと辛いを思いをしたんだな。イギリスの子供も日本の子供もねえ、オレたち大人が身勝手に始めちまった戦争でどの国の子供もみんな傷つけちまった。本当に…すまねえ。」
その日からボクとジェームズさんの不思議な共同生活が始まった。
学校が終わり家に帰るとジェームズさんは寝転がって本を読んていたり、そして時々は『あの鏡』見て娘のナンシーさんのその後の人生を覗いたりもしていた。
「おお、ワタル。おかえり」
「鏡見てはいまったんでっか?」
「ああ、ちょっとだけな。 妻のスザンナはその後30歳のときに再婚をしたようだ。 相手はなんとメソジストの牧師さんときたもんだ! まあ今度はオレみたいな軍人だけは選ばねーわな!(笑)」
「娘さんは?」
「それがな、おかしいんだ! その牧師はその後日本の教会に赴任になってな。 スザンナとナンシーも一緒に日本に住んでるんだよ」
「ホエー、日本にでっか。 そりゃあ奇遇というかなんというか…」
「だよなー!(笑) それで、その後がもっとおかしいんだ。 その後ナンシーは日本人と結婚してな。 けっこう幸せな人生を送ったみたいだった」
「そうでっか。よかったですなー」
「ああ、本当によかった。 運命の鏡はナンシーの生きている間までしか見れなかったけど、どうも最後のほうでナンシーの孫っていうのが出てきたんだ。ナンシーの娘も日本人と結婚したみたいで、だからその子はクオーターってことになるな」
「じゃあ、ジェームズさんにとってはひ孫やないですか」
「そういうことになるなー。 それがスッゲー可愛い子なんだぜ。 本当に人形みたいな顔をしてさあ。たしかナンシーは『みゆき』って呼んでたな」
「ホウホウ、みゆきちゃんでっかー。可愛らしい名前ですなー」
「そうなのか?オレは日本語はわからんからなんとも言えんが、それなら良かったよ」
「ハハハ」
「おお、そうだ。ワタル、今日はオレが夕飯を作ったんだ」
「エーッ、ジェームズさんが作ってくれたんでっか? 大丈夫かいな?ちゃんと食えるものなんですやろな?(笑)」
「ワハハー、安心しろ!こう見えてもイギリスの男は料理上手なんだぞ。 よく妻のスザンナが作ってくれたアイリッシュシチューなんだ」
そう言ってジェームズさんは日本式の台所に立ち、そしてすでに煮込み上がったシチューを皿に取り分けてお膳の上に置いた。
「おおおーーっ!美味そうやあーーー!」
「ウチのシチューはうめーぞー。さあ、腹一杯食え」
「じゃあ、いただきまーす。 おっ、美味い、ホンマ美味いですわー」
「だろー、ハハハハ」
こうして、家族を持たないボクにとってジェームズさんはまるで自分の父親のような存在にも感じられるようになっていった。
それからしばらくの時が流れ
中3の終わり頃
凛はボクに対して淡い恋心を抱くようになっていった。
中3の12月の終り、クリスマスの日にクラスの何人かが集まってパーティをすることになった。
その最後に凛と踊ったチークダンス、彼女の身体はもう完全に女性のそれになっていて、ボクの胸に手を回しお互いの身体を寄せ合うと彼女の胸のふくらみははっきりとわかり、その彼女の身体からは甘い女の子の香りが漂ってきた。
そしてあの小さな公園の赤いブランコでボクが凛のおでこにした小さなキス
「もう、キミはステキな女の子や…」
「ぇ…」
もしかしたら、あのときボクは妹としての凛の存在を超えてしまったのかもしれない。
「本気で…ワタルは凛ちゃんのことを好きになってしまったのかな?」
あるとき、辛そうな顔をするボクにジェームズさんはそう聞いてきた。
「そんな…彼女は…妹やし」
「前の人生ではな。 でも、兄妹なんてものは遺伝的なつながりがあるから禁断なんであって、そういうものを別にすれば本当に好きになっても不思議じゃない」
「それでも、今のボクは本当に現世に存在する人間やないから。いつかは別れなあかんときがくるんですわ。」
「そうか、辛いな…ワタル」
ジェームズさんはボクの肩に大きな手を優しく乗せてそう言った。
そうは言っても女性である凛にどんどん惹かれていく気持ちはボク自身でもわかっていた。
凛が潤んだ目でボクを見つめるとき、ついフラフラとそれに身を任せてしまいそうになったことはなんどもあった。
彼女の小さな肩を引き寄せて、そして強く抱きしめたい気持ちにもなった。
ジェームズさんは「ワタルだって男だからな。女を前にしてそういう感情が起きなきゃ嘘さ。」と笑いながら言う。
いよいよ高校受験期を迎え、ボクも勉強に必死だった。
じつは勉強については、元々旧制中学を目指していたくらいなのでそう悪いほうではないと思っていた。しかし現世の勉強は思ったよりもずっと進んでいて、それにボクが記憶を吸い取った石川 渉という人物の頭の中は勉強のべの字も入っていない。
それがなんで転校早々こんなに成績が良かったかというと、じつはこのジェームズさんのマンツーマンの家庭教師によるところが大きかった。
世界有数の名門ロンドン大学出身で元々ハイスクールの数学教師だったジェームズ先生の教え方はびっくりするほど理解しやすく、そして面白かった。
彼はボクの受験勉強を毎日つきっきりで見てくれた。
専門の数学はもちろん、英語、社会、理科まで。
さすがに国語は日本語なのでそういうわけにはいかない。
しかし文章読解という点においては国語も英語も同じで、彼の指導はじつに的確だった。
学校のテストは家に帰るとちゃんとジェームズさんに見せる。
模擬試験の成績を見せた時は
「ホー!たいしたもんじゃないか! オレにはこの偏差値っていうのはよくわかんねーけど、オマエの成績が学校でトップクラスなのはよくわかる。」
と大喜びで褒めてくれた。
「で、ワタルはどこの学校を受けるんだ?」
「はあ、凛と同じ青葉学院という学校にしようと思ってます。ただ、ここで過ごせる時間はあと6ヶ月なんですわ。 ボクはちょうど夏休みが終わった時点で姿を消すことになる…」
「そうか、辛いな…。凛ちゃんに最後の仕上げってことになるわけか」
「まあ、そうですな。 彼女のボクへの愛情を誰に引き継いでもらうか。 凛を任せられる男がいればいいんですがね」
「それにしてもオマエ良く頑張ったよな! で、その青葉学院っていうのはどういう学校なんだい?」
「それが奇遇なんですけど、メソジストのミッションスクールなんですんや。130年くらい前にアメリカの宣教師が作った小さな学校だったらしいんですがな。 それが今では幼稚園から大学院まである大きな学校になって。 戦前でもわりと有名なとこでしたが、戦後は欧米の文化が一気に開放されましたから」
「へぇ、メソジストのミッションスクールか。 そりゃ、もしかしたらオレのひ孫の『みゆき』も受けてたりしてな(笑) 現世の年齢でみゆきは凛ちゃんと同じ歳みたいだし」
「ワハハ、もしそないやったらおもろいでんなー! やったら、入学してもしみゆきちゃんがいたらジェームズさんに報告しますわ」
「おおっ、楽しみにしてるぜー」
そしてボクはなんとかこの関門をくぐり抜けることができた。
合格発表の日
凛の家まで送っていく道、僕と凛はあの小さな公園のところで本当のキスをする。
ボクが家に帰ると、驚いたことにジェームズさんは台所でケーキとごちそうを作ってくれていた。
「ワタル、その顔じゃ『合格』だな?」
「はい、なんとか受かりました。ジェームズさん、ホンマに今までありがとうございます」
「ハハハ、いいさ。もうオマエはオレにとって息子みたいなもんだからな。もし『あのとき』死ななかったら、ナンシーの次にはオマエみたいな息子ができていたかもな」
「ワハハハ、 ジェームズさんがボクのおとーちゃんやったら楽しいでんなー」
「さあ、今日はワタルの合格祝いだ。 食おうぜー!」
「ハイッ!!!」
ジェームズさんの手作りケーキは最高だった。
ちょっと甘すぎの生クリームもボクの心を優しく溶かしていくようだった。
「おい、ところでどうだった?」
ごちそうを一通り食べ終わると、ミルクティーを飲みながらジェームズさんは悪戯っぽくボクに尋ねてきた。
「どうだったって?」
「とぼけるんじゃねーよ(笑) オマエ、凛ちゃんと何かあったろ?」
「エ、いや、別に…」
「いや、あったな。 オマエは顔見ればすぐわかる。 オレはオマエの父親だぞ。 ちゃんと白状しろ」
「ジェームズさんには隠せませんなー(笑)」
「やっぱりな(ニヤニヤ) で、何があった?」
「キス…してもーた」
「キスって前に言ってたおでこじゃなくって今度は本物のか? 彼女の唇にってことか?」
「ウ、ウン…」
「で、どうだった?」
「どうだったって…。なんか、あったかくて、柔らかくって、甘いっていうか、…」
「ホー、そうかあー! やったじゃねーか」
「でも自分の妹やのに…」
「関係ねーよ。 遺伝の問題がなければ妹だって女さ。 オマエは女を好きになった。 その事実は後悔するようなことじゃねーぜ」
「そうなんかなあ…」
「そうさ。まあ、とにかくハイスクール1年の8月までがオマエの現世でのタイムリミットだし、凛ちゃんだけじゃなくオマエ自身もいい思い出をひとつでも作っておくこった。ただ切ないのは、オマエはその娘を一生自分の手で守ってやれないことだな。『そのとき』の覚悟はしておかなくちゃならないな」
「そうですなあ…」
青葉学院高等部に入学するとボクは凛とは別のクラスになった。
本当は、同じクラスになろうと思えばそうすることもできた。
でもあえてボクは凛との距離を少し置くために違うクラスになるように、先生の心理を少し弄らせてもらった。そしてその代わりミコちゃんには凛と同じクラスになってもらった。
なぜボクが凛と少し距離おこうと思ったかというと、ボクがいなくなった後に凛の心にボクの存在が残りすぎてしまい、他の男を受け入れることができなくなってしまうことを考えて。
それともうひとつの理由は、この現世で存在できる最後の6ヶ月を使ってボクは自分なりに戦争と人間の心というものを考えてみたかったからだ。
あるときジェームズさんはボクにこう言った。
「オレは大学で少しばかりだけど国際社会の勉強もした。日本のことも本で読んだことがあるんだぜ。それでわかったんだけどな、戦争ってやつは第一次大戦前のものとそれ以降のものじゃかなり違うもんになってるんだよ」
「お互いを殺し合うっていうのが戦争とちゃいますのんか?」
「まあ、その意味では一緒なんだけどな、昔の戦争っていうのはいうなれば相手の戦力をより上回ればそれで勝ち、負けた方はいさぎよく引き上げていくわけだ。だからまともに戦わずに勝敗が決まったなんてことも少なくなかった。勝つ方負ける方だってどっちも正面からぶつかり合えば大勢の死者が出るだろ?そうなれば今度は自分がより強い相手に攻められたとき戦えなくなっちまうからな。だから、戦争は戦闘するよりはむしろ駆け引きみたいな部分が強かったらしいんだ」
「ふんふん。興味深いでんな」
「それが第一次大戦のときに兵器の飛躍的進歩があってな、機関銃や飛行機もこの時代からまともな兵器として使われるようになって、それで戦いによって大量に死者が出るようになったのさ。それが第二次大戦になるとさらに進む。飛行機の進歩で数千キロも離れた相手の国にまで攻めて行くことができるようになって、それまで戦場でしか戦いがなかったのに戦場と市民生活との区別がなくなってしまった。ワタルが亡くなった空襲ってやつがそれだよな。オレの国じゃドイツからロケットが飛んできやがったんだぜ。飛行機なら避難することもできるかもしれんが、何の前触れもなくヒューーーって音がして街の中でドッカーン!さ。そして人間はとうとう核兵器というパンドラの箱を開いてしまった」
「広島や長崎では1発の核爆弾で数万人の人が亡くなったらしいですな」
「そうだ。しかもそれは軍人でもなんでもねー。亡くなった人のほとんどは一般市民だ。中には女や子供も大勢いたらしい。たしかに戦争状態であればお互いの国民が敵同士、一般市民にも戦争に対する責任がまったくなかったとはいわない。それでも、勝つための戦争から相手を滅ぼすための戦争に変わってしまった。これはもう戦争なんていえるもんじゃねー。ただの殺し合いだ。オマエにはこのことをよくわかってほしい。それでな、オマエに残されたあと6ヶ月なんだが…」
「ハイ、なんでっしゃろ?」
「実際に戦争に参加した、また兵士でなくても戦争というものを体験したいろいろな人たちの話を直に聞いてみちゃどうだろう? 日本人の年寄りに聞くのもいいだろうけど、外国人、オレみたいなイギリス人やアメリカ人とか、あの戦争で日本と反対の立場にいた人たちの話を聞くのもありだって思うんだ。現世では今の日本はとても民主的で豊かな国だ。そのため沢山の外国人も住んでいる。オマエの学校の周りにはそういう材料がいっぱいあるだろ」
そうだ。ボクはジェームズさんのこの言葉にハッとした。
ボクと凛を殺した戦争という悪魔。
それは一体なんなのかわからないまま最後のその時を迎えるのはあまりに心残りだ。
「ジェームズさん、ありがとうございます。 じつは、ボクも最後の時間を使って何かを残したいって思ってたんですわ。ジェームズさんがボクにくれた宿題、ボク挑戦してみますわ」
「そうか、頑張れよ」
「あ、それはそうと…」
「なんだ?なにかあったか?」
「ボクも今日はジェームズさんをびっくりさせる報告があったんですわ」
「ホー、なんだろうな? もしかしてまたパチンコとかいうやつで大勝しましたっていうんじゃねーだろうな?(笑) ガキのうちから賭博の癖つけるのはあんまりよくねーぞ。 まあ、あの時はタバコいっぱい取ってきてくれてオレも大喜びしたけどな(笑)」
「いやいや、そんなことちゃいまんがな(笑) じつはですなー、ジェームズさんの言ってたひ孫のみゆきちゃん、本当に青葉に入ってたみたいなんですわ」
「な、なんだってーーっっ! そりゃ本当かい!?」
「ハイ、多分間違いないって思います」
「もっと詳しく話を聞かせてくれねーかい!」
「じつは―――」
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ボクが青葉学院に入学してちょうど1月が経った頃、ある日廊下で凛を見かけた。
「あ、ワタル君ー」
目が合うとそう言って向こうからボクに声をかけて寄ってきた。
彼女はチアリーディング部に入ったと言ってたのだが、そのときちょうどチアのユニフォームでこれから部活へ行こうとしていたときらしかった。
そして凛の隣には、同じようにチアのユニフォームを身につけた女の子がひとり。
「あ、彼女ね、アタシと同じクラスの友達なの。彼女に誘われてチア部に入ったんだヨ」
凛がそう言うとその彼女も
「こんにちわ。佐倉っていいます。」とボクに挨拶をしてくれた。
(ヘェ、随分と綺麗な、お人形みたいな顔した娘やな)
「あ、じゃあ部活始まっちゃうから」
「そうやな。急いだほうがええで」
「ウン、先輩、時間に厳しいんだー(笑) また電話するね」
そう言って凛はペロッと小さく舌を出して、その友達の娘と早足で去っていった。
彼女たちが廊下を歩いている途中、しばらく2人の会話が聞こえた。
「ネ、もしかして凛の彼氏?」
「ウン!」
「エー、格好いい人じゃん」
「エヘヘー、そうかなぁ」
「きゃあきゃあ」と女の子同士の会話が弾んでいるようだった。
そしてそれから少しして今日の学校の帰り道
渋谷駅に向かう途中のことだった。
「あれ、この前の凛ちゃんの友達の?」
「あー、こんにちわー。 あ、凛はまだ学校にいるんですよ。委員会の用事らしくって」
「そうなんやー、佐倉さんはもう帰り?」
「ウン」
そうしてボクと佐倉さんは渋谷駅までの10分ほどの道のりを一緒に歩き始めた。
「改めて自己紹介しときますわ。石川 渉いいますねん。凛ちゃんやミコちゃんとは同じ若松中のクラスメイトやったん」
「そうなんですかー。じゃあ、アタシも改めて自己紹介しちゃいます。 佐倉美由紀っていいます」
「…みゆき…ちゃん?」
「ハイ」
「あの、佐倉さんってどっか日本人っぽくない感じやけど…」
「あー、祖母が外国人なんですヨ」
「ヘ…エ…。どこの国の人やったん聞いてええ?」
「イギリス人です。それでお母さんはハーフ、だからアタシはクオーターってこと」
「変な質問やけど、佐倉さんのお婆ちゃんのお父さんは?」
「同じイギリス人だったらしいですよ。なんか教会の牧師さんで日本の教会に勤めてたとか。 ただお婆ちゃんの本当のお父さんは戦争中パイロットで死んじゃって、その人とは再婚だったらしいですけど」
(こ、この娘やあーーーー!!!)
「あ、変なこと聞いちゃってすまんな。 これからも凛と仲良くしてやってな」
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「そうか…。そりゃあ運命かもしんねーなあ。 で、みゆきは幸せそうだったかい?」
「へえ、お父さんもお母さんもしっかりしていい家庭らしく、彼女自身とっても明るくて性格もいい感じでしたわ」
「そうかー、そりゃあよかった。 ナンシーもいい孫を持って幸せになりやがってよかった。 これでもう思い残すことはなにもねー。安心して生まれ変わりの時を迎えられるってわけだ」
そう言ったときのジェームズさんの表情はとても優しく、そして穏やかだった。
「石川君、彼女が呼んでるヨ。」
授業が終わった後、教科書をバッグにしまっていたボクにクラスの女の子がそう声をかけた。
目を向けると、凛が少し照れたように小さく微笑み手を振っている。
一通りしまい終わってバッグをカチャッと締めると、ボクは凛の待っている教室の入口の方に歩いた。
「やあ、凛ちゃん。どないしたん?」
すると
「エヘヘ、たまには一緒に帰りたいなって思って」
そう言うと彼女は上目遣いにボクの顔をチラッと見上げた。
「ウン、そうやな。じゃあ、ちょっとだけ用事を済ませるさかい、大学のチャペルのとこで待っとってくれるか?」
「用事って?」
「ウン、まあな。大したことやないけど、ちょっとな」
曖昧なボクの答えに凛は少し不思議そうな顔をするが
「ウン、わかった。じゃあ、待ってるネ」
凛はそう言って廊下を歩いて行った。
ボクは図書室に向い予約しておいた1冊の本を借り出した。
『太平洋戦争の真実~あのとき日本はなぜ引き返せなかったのか』
そして少し厚みのあるその本を手にとってボクは凛の待つ大学チャペルへと向かった。
少し遠くから凛がボクに気づいて小さく手を振っている。
青葉学院の制服に包まれた彼女の雰囲気にはもう男として生活をしていた時の面影は欠片も感じられない。肩より下まで伸びている少しくせのあるつややかな亜麻色の髪の毛、細く柔らかい曲線の肩、スカートから伸びた細く白い足、形の良い丸いおでこ、くりっとした大きな瞳、そしてボクが中3のおわりに初めて口づけした…あの小さな唇。
(あのとき、死なんかったらきっとこんな素敵な女の子に成長したんやろなあ)
凛はボクにニコっと微笑みかける。
「やあ、待たせてゴメンな」
ボクがそう言うと
「ウウン。気にしなくっていいヨ。どっか行ってたの?」
と尋ねてきた。
「ああ、チョット図書室に借りたい本があってな。それ取ってきたん」
「へぇ、どんな本?」
「ウーン、きっと凛ちゃんには興味はないと思うで?」
「ワタル君が興味がある本だからどんなのか知りたいなって」
「そうか?じゃあ…」
ボクはバッグの中からさっき借りてきたその本を取り出して凛に渡した。
「太平洋戦争の…真実? 戦争のこと書いてある本?」
「まあ、そうやな。戦争のことといっても戦争だけを書いてあるんやないよ。戦争には必ず理由と原因があるやん? なんであの戦争が起こったのか、それを止めようとする考えはなかったのか、そういうことを戦争前にまで遡って考えて行くっていう内容みたいなんや」
「なんか難しそうだネェ・・・」
「まあ難しいかもしれん。 でもこういうことって時間が経っても忘れたらあかんって思うんや」
ボクがそう言うと凛は、少し不思議そうな顔でボクをじっと見た。
「ん?どないしたん? ボクの顔、なんか付いとるか?」
「あ、ウウン。だって、今までいっつも飄々としてお気楽そうなキミが突然そんなこと言うんだもん。ちょっと意外だった」
「うわー、言うやんかあ! ボクかてマジメなときもあるやぞー!(笑)」
そう言ってボクは凛の頭をポンと軽く叩く。
「アハハ、ゴメーン(笑) でも、ワタル君が難しそうな顔してるとこ想像するとやっぱりチョット意外かも(笑)」
「ボクっていっつもどれだけアホそうやねん!?(笑)」
そのとき一緒に肩を並べて歩いていた凛が身体をクルッと振り返ってこう言った。
「ね? ワタル君がいろいろ考えていること、勉強してきたこと、アタシにも教えて?」
「ああ、ええヨ」
ボクと凛は大学キャンパスの木陰にあるベンチに腰を下ろし、近くにある自販機でジュースを買ってきてそのうち1本を彼女に渡した。
「あ、ありがとぉ」
「エット、まず頭の整理をつけてっと(笑) 少し時間かかるけどええか?」
「ウン、今日は何も用はないから」
「そうやなあー、まず太平洋戦争というものを考えたとき、これは太平洋戦争に限ったことやないんやけどな、すべての戦争は急にそういう状態になるということはないということや。 日本とアメリカとの戦争についてもずっと遡っていけば江戸時代の終わり頃まで考えなくちゃならん」
「江戸時代? でも、江戸時代と太平洋戦争の頃はかなり間が離れているよ」
「そうやな。でも、原因というのは直接原因よりもむしろ遡って起こった遠因の方が重要だったりするもんや。あのヒットラーを生んだ原因は第一大戦のドイツの敗北であまりに過酷な賠償を負ったこと、その第一次大戦だって遡れば仏普戦争まで感情的要因があるんや。直接的原因はむしろその引き金に過ぎなかったりする」
「ウン、ウン」
「江戸時代の終わり頃、ペリーの黒船が日本に来て、日本人は初めて異国というものを意識するようになった。これは教科書でもよく載ってることや。 ただそれ以前にも、いや、もっとずっと昔の織田・豊臣の時代だって外国人は日本に来ていて日本人はそういう人たちと接触も持っていた。貿易もあったしな。しかし、そういうのはいうなれば国家の支配層だけに限定されたようなもんで、一般の民衆にとっては外国人はまだ宇宙人みたいなもんやったんや。それが黒船という存在で一般の人たちもそういう宇宙人の存在を認めるようになった。そしてこれをきっかけにして日本は明治維新が起こった。 さて、ここで凛ちゃんに質問や。 なんで明治維新というものが起こったか? 別に徳川幕府のままでもいいやないか。武士の世の中っちゅうたかて一般の人もそれなりに幸せやったし、それでも良かったんと違う?」
「ウーン、言われてみると確かにそうだよネ。 なんでだろう…。外国の進んだ文明に刺激されてみんな平等な社会を作りたいって思ったから?」
「そうやな、それもあったかもしれん。ただ国を支配する人たちっていうのは本当に平等な社会なんか作るつもりはないんヨ。それは日本に限らずどこの国でもな」
「じゃあ、明治維新で四民平等になったのは?」
「それは戦争に関係のない一般民衆を兵隊にするためや。そして明治維新は西欧文明の導入によって人々の生活を豊かにするという理由よりも、それを導入して軍備を強化し日本が列強の諸外国の植民地にされないための手段だったんや。
それまで藩という地方分権になっていた社会を統一された国家にして、そして兵隊という資源を日本中から効率的にまんべんなく集められるようにする。そのためには士農工商という身分制度は邪魔だったんや。
それができなかった国はことごとく欧米諸国の植民地にされてしまった。日本は明治維新で国家の統一をすることによって奇跡的に植民地にされることを免れたんやな。 そして、ここまでは良かった。 日本が自分の身を守るためのこの時の理念を持ち続けていれば、日本ももしかしたら違った歴史を歩んでいたかもしれんな」
「違った歴史って、どんな歴史?」
「ほら、凛ちゃんもお父さんやお母さんによく言われるやろ? 自分がされて嫌なことは人にもするなって」
「あ、ウン。そうだネ」
「日本はその後第一次大戦、日清日露戦争などでいずれも勝者の側に立った。このことで日本はおごりを持ってしまったんやと思う。 そして支配される恐怖を受ける側から支配する恐怖を与える側に変わってしまった。大東亜共栄圏っていう耳障りのいい言葉だけど、その本質は支配する側(日本)と支配される側(その他のアジア)って構図やった。 そして、とうとうそうした利権のぶつかり合いが日本とアメリカの間で起こった。 もちろん日本だけやなく、アメリカも利権が目的やったはずや。 どっちもどっちや。 そしてそういう国の支配層のエゴや見栄のために実際に死んでいくのはどっちの国でも一般民衆なんやな。
凛ちゃん、ここは渋谷って地名やけど、谷なんてわかるか?」
「まあ、宮益坂とかあるからそういう感じかなあって思うけど、でも周りってビルだらけだしあんまりよくわからないよネ」
「そうやな、今は見上げるようなビルが立ち並んでよくわからへん。でも、あの戦争のとき渋谷の街も空襲に遭ったんや。そして、終戦後すぐに青葉学院の正門から渋谷の街を見下ろすと、そこにはビルも家もほとんどのうなって、まさに渋谷は谷だったってはっきりわかったらしいで」
「空襲?」
「そうや、空襲や!」
ボクはつい力を込めてその言葉を発してしまう。
「空襲…」
凛はぼそっとつぶやくようにその言葉を繰り返した。
そしてボクは次に凛が小さく発した言葉に一瞬ドキっとした。
「空襲…、おかあ…ちゃん。」
小さく呟くように発したその凛の言葉
エッ!!!まさか思い出したんじゃ!!!)
しかしその後すぐに凛はハッとしたようにボクの方を向いて
「エ、アタシ今なんか言った?」
と尋ねた。
「あ、い、いや。何も言うてへんよ」
「そう? ゴメン、なんか少しボンヤリしちゃった」
「いや、エエヨ」
「それで、その話の続きは?」
まずいな。
あんまり深く考えさせるといらんことまで記憶の深層から湧き上がってくるのかもしれん。
「まあ、とりあえず今はここまでや」
ボクはその本をパタンと閉じてそう言った。
「エー、なんで? 最後まで聞かせてほしいなあ」
「あ、アハハ。すまんな。 ボクもここまでしかまだ勉強しておらんねん」
「じゃあ、もっと勉強したら最後まで教えてくれる?」
「ああ、もちろん。そのときまで気長に待っててや」
あと1ヶ月ちょっと
ボクに残された時間
ボクはまた凛とこうやって真剣に語り合える時間を持てるのだろうか。
その日、ボクと凛は原宿まで歩いてゆっくりとした時間を過ごした。
彼女はミコちゃんやみーちゃんとよく行くと言っていたクレープの店にボクを連れて行き、そして2人で生クリームのたっぷり乗ったクレープをほおばる。
「ここのお店、アタシとミコとみーちゃんの3人で原宿歩いていたとき偶然見つけたの。 それでね、お店の人がみーちゃんに「生クリームは普通と大盛りのどっちにしますか?」って聞いたとき、みーちゃんったら「てんこ盛りにしてチョーダイっ!」って(笑)お店のひと、キョトンってしちゃって(笑)」
「アハハ、あの娘らしいなあー」
凛はそう言って友達との毎日の生活を楽しそうに話す。
ボクはそんな凛にあの時代「戦争が終わったらお料理を習うんだあー。」と寝床の布団の中で楽しそうにボクに話した時の面影を見たような気がした。
その日ボクたちは夕闇に包まれるまで同じ時間を分け合い、電車に乗って家の最寄りの駅まで行き、そしてあの小さな公園の前で別れる。
「ああ、今日はすごく楽しかったあー。」
「そうか、ならよかったで。 ボクも高校入って凛ちゃんとこんなにゆっくり過ごせたのって久しぶりやった」
「ネェ…」
「ウン?なんや?」
「少しの間でいいから、ギュッてして…」
凛はそう言ってボクの胸に顔を埋めた。
ボクは黙って凛の身体を強く寄せる。
柔らかくて、そしてふわっといい匂いのする彼女の身体を抱きしめていると、ボクはなぜかわからないけど涙がこぼれてきた。
ボクはその涙を彼女に悟られないように制服の右手で拭う。
「さあ、あんまり遅くなるとご両親が心配するさかい」
そう言ってボクはゆっくり凛の身体を離す。
もうすぐ夏休みが始まる。
そしてボクは『そのとき』を迎える準備をはじめよう。
「ただいまー」
生まれ変わりの森の家に帰ると、ボクは玄関をはいってすぐの和室にいつも寝ころべって本を読んだり、カードをしているジェームズさんにふすまごしに声をかけた。
いつもなら
「おお、おかえりー。」
と応えるジェームズさんの声は聞こえてこない。
(どっか行ってるのかいな…。)
そしてボクがそのふすまを開けて見ると、その奥の方の台所にジェームズさんの姿はあった。
「おお、気がつかなかったぜ。ワタル、おかえり。」
「あ、ただいま。 ジェームズさん、どないしたんでっか?」
食事はいつも当番でボクとジェームズさんの交代でやっている。
今日はボクの当番のはずだった。
「いやな、今ごちそうを作ってるんだ。もうちょっとだから楽しみにまってろよ!」
「あれ、今日はボクの番やなかったですか?」
「ハハハ、そんなこまけーこと気にすんな(笑) まあ座ってろって」
しばらくするとフワッと野菜を煮込むいい匂いがしてきた。
「ジェームズさん、なにを作ってるんでっか?」
「ビーフストロガノフさ。それとシーザーズサラダ、シーフードマリネ、とどめはデザートにアップルパイときたもんだ!」
「ホエー、ごちそうやないですか。 なんかいい事でもあったんでっか?」
「いや…、いいこと…ってわけじゃないけどな」
そう言ってジェームズさんは言葉を止め、考えるのをやめるように料理に没頭していた。
しばらくして
「さあ、できたぜー! 食おう!」
「ヤッホー! 美味しそうやあー」
そしてボク達2人だけのパーティのようなものが始まった。
ジェームズさんはいつもよりずっとおしゃべりで、そしてボクを笑わせてばかりいた。
その話はボクとジェームズさんが初めて会ってからの思い出話がほとんどだった。
「ほら、あのときワタルが俺の当番とき作ったピクルスを顔を歪めながら食っててさあ!」
「アハハ、それやったらジェームズさんかて、ボクの作った漬物を鼻をつまんで食っとったやないですかあ!」
「ワハハ!!! あの匂いにゃ未だに慣れねーヨ! ワタルがポリポリ美味そうに食ってるの見て不思議でしょうがなかった」
こうして話題の尽きないボクとジェームズさんの話がある瞬間ふっと途絶えた。
そしてボクは彼にこう尋ねる。
「『そのとき』が…きたんでっか?」
ジェームズさんはアップルパイをほおばる手をぱたっと止め
そして静かに
「ああ…」とだけ応えた。
ジェームズさんは、ボクがパチンコでとってきてジェームズさんにあげたマイルドセブンのタバコを箱から一本抜き、そして火をつけてホゥっと吸った。
「さっき、案内人がこの家に来てな。 明日の朝…、旅立ちだそうだ」
「そうでっか。 ボク、今までジェームズさんには本当にいろんなこと教えてもろて‥・ありがとうございました」
ボクはそう言って涙をこらえながら小さく頭を下げる。
「なあ、ワタル。オレな、オマエにひとつ黙ってたことがあるんだ。でもずっと黙ってようと思ったんだ。オレはずるい男さ」
「なん…でっか? ボクは何を聞いてもジェームズさんがずるい人なんて絶対思わへんです」
「そっか、ありがとうな。 オレとオマエは国は違うけど、本当に息子みてーな気持ちだった。 いいか、よく聞いてくれよ。 耳を背けないでな。 オレは、オマエ達が死んだあの東京大空襲に参加したパイロットの一人なんだ」
「ええっ!! そ、そうなんでっか!?」
「ああ、そうだ。 あの時の空襲の計画がアメリカ軍で立てられたとき、アメリカでもパイロットの数がどうしても不足していたそうだ。オマエはよくわからんだろうが、飛行機なんてものはいくらでも大量生産できる。しかしパイロットっていうものは一人前に育てるまでかなりの時間が必要だ。まともなパイロットにするまで最低でも5年くらいはかかるな。 それで、アメリカ軍からイギリス軍にパイロットを参加させて欲しいという打診があったんだ。 オレはそれまでドイツとの戦争ばかりで戦ってきたからな、別に日本になんの恨みがあったわけじゃねえ。第一日本人ってものを見たのはワタルに会ったときがはじめてっつーくらいだ。それでも軍の命令だからな。 なんの恨みもねーのにオレはほとんど無感情でオマエらに爆弾を落としていたんだよ。 いや、感情がなかったわけじゃねー。でもそれを無理やり否定して押し込めていた。オレが一発の爆弾を落とすたびにその下にいる人間たちがどれくらい死んでいくかわかっていながら…。す、すまねえーーー!!!本当にすまねえーーー!!!」
ジェームズさんはボロボロと涙を流しながら、何かに向かって叫ぶようにそう話していた。
「ジェームズさん、もうええんですよ。 ジェームズさんがボクたちを殺したんやない。戦争が、戦争がボクらを殺したんだって思います。ボクはアナタを本当の親父みたいに思ってます。あの時代のボクの親父は日本人やったけど、ジェームズさんとどっか似てるっていうか。
ジェームズさん、ホンマに今までありがとうございました」
「ワ、ワタル」
ボクとジェームズさんはその夜、布団を並べて寝た。
ときどきどちらともなく語りかけては応え。
そして次の朝
ボクが目を覚ましたときに、ジェームズさんの姿はもうここにはなかった。
きちんとたたまれた布団の上には一通の手紙が置いてあった。
そこにはこう一言だけ
「ワタル。またいつの時代か、時の流れの中でオマエと逢えるのを楽しみにしてるぜ」
ジェームズさんがいなくなった家の中はとても広く感じられた。
ボクは学校が終わると、その寂しさを紛らわすように直接家には帰らずに必ず寄り道をするようになった。
そんなある日、ボクは帰りの電車の中で偶然ミコちゃんと一緒になったんだ。
彼女も同じように学校からの帰り道
ボクと彼女は同じ学校だったが今まで一緒に帰る機会がなかった。
しかしその日は何も部活をしていないボクは、その日たまたま部活が休みだった彼女と同じ電車の中で出くわした。
それは、もうすぐ夏休みになろうとしていた7月の初旬
暑さが増して来たある日
ボクはその日の学校の帰り道、借りていた戦争についての資料を返すために図書館に寄るつもりだった。
電車の中はクーラーがよく効いていて、汗でしっとりと濡れたボクの身体は周りの冷たい空気に触れて一気に汗がひっこむような感じがした。
午後3時
電車の中はまだ帰宅ラッシュ前で割と空いている。
ボクはひとつ空いていた座席に腰を下ろし
そして
「ふぅーーーーーー」
と一回小さな息を吐いた。
すると
「あれ、ワタル君!?」
ボクの目の前に立つ女の子が突然驚いたように声をかけた。
そしてボクがフッと顔を上げるとそこにミコちゃんが立っていたんだ。
「おお、ミコちゃんやないかーーーー! 偶然やな。今日は水泳部はあらへんの?」
「ウン、今日はプールの清掃でお休みになったんだぁ。凛とみーはいつもの通り部活だけどネ」
「そうなんやぁーーー。 あ、ココ座らへん?」
そう言ってボクは座っていた席を立とうとした。
すると彼女は
「あ、いい、いい。アタシに気を使わないで座ってなよぉ」
笑顔でそう言う。
「エ、でもーーー」
すると、そのとき次の駅で停車したホームからひとりの二十代くらいの感じの女性が乗ってきた。
フッと気づくと、その女性は少し重い足つきで歩き、柔らかい生地で上からかぶるような感じのワンピースのスカートはお腹のあたりは膨らんでいる。
「あの、よかったらどうぞ」
ボクはそう言ってその女性に声をかけた。
「あ、どうもすみません。それじゃ遠慮なく…」
その女性はニコっと笑顔でボクにそう言ってその席に腰を下ろした。
「フフフ、ワタル君、優しいんだぁーーーー。きっとキミのそういうとこを凛は好きになったのかなぁ?」
「からかうなやぁーーー(笑) これくらい当たり前のことやないか」
ボクとミコちゃんは並んでつり革のところに立つ。
「まあ当たり前のことって思えるのがキミのステキなとこだヨ、ウン、ウン」
ミコちゃんはボクのことを少しからかうようにそう言って勝手にうなづいている。
「そういえばワタル君も帰り道?」
「あ、ボクはちょっと借りた本を返しに図書館に寄って行こうか思ってな」
「そうなんだ? あ、そういえば凛から聞いたヨ」
「エ、なにをや? また2人でボクのことからかってたやろ?(笑)」
「アハハハ、ちがうヨーーー。 あのネ、こないだ凛が、『ワタル君ってすっごく難しい本読んでるんだヨーーー。それで、色んなこと知っててビックリしちゃった!』って」
「ああ、この前のことかいな(笑) そんなんやないって。 ただチョット興味があるっていうかな…」
「そっかぁ。 でも凛はちょっと意外そうな感じだったみたいだけど、アタシはけっこー不思議な気はしなかった」
「そうなんか?」
「ウン」
ミコちゃんは人一倍感受性が強い娘だ。
それは中学時代、凛たちのいる学校に転校し彼女に初めて会ったときから感じていることだった。
ボクは少し茶化すようにこう言った。
「ウン、ウン! キミはボクのことようわかってくれてるなぁーーー。そうなんや、ボクってホンマはマジメやし勉強家やしーーー」
「アハハハ! でも少し褒めちゃうとすーーぐ調子に乗っちゃう! これも凛が言ってたことだったな(笑)」
ミコちゃんはそう言って15センチくらい身長差があるボクの脇を笑って軽く小突いた。
「ワハハーーー。やっぱりよう見られとるわーーーー」
「ウーン、なんていうのかな…。 表現するの難しいんだけど、キミって中学の時からちょっと何かに焦ってたっていうか…。試験前でもテスト勉強ほっておいてもそういうことに没頭しちゃってたり。まあ、それでも青葉にちゃんと受かっちゃったんだからやっぱり頭がいい人なんだろうなぁーって思ってた」
「頭がいいのはミコちゃんのほうやろ(笑) ボクっていい加減やし」
「アタシは努力できただけだヨ(笑) でもキミは…」
そう言って彼女は言葉を躊躇った。
「ボクは?」
「こんな言い方しちゃってゴメンネ。 キミって前からチョット不思議な感じのする人だなぁ…って思ってたの」
「そっかぁ…」
二人のあいだに少し静かな空気が流れた。
「なあ、ミコちゃん。 この後なんか用事とかあるん?」
突然話の流れを変えるようなボクの言葉に彼女は少し驚いたように
「エ? あ、ウウン。何もないけど」
「じゃあ少し付き合わへん? 図書館に一緒に行かへん?」
彼女は少し考えるような顔をした。
それはきっと親友の彼氏であるボクと2人の時間を持つことへの躊躇いだったと思う。
「凛ちゃんにはあとでボクからちゃんと話しとくで?」
ボクがそう言うと
「あ、ウン。じゃあ、いいヨ」
彼女はニコッと笑顔でそう言った。
ボクとミコちゃんの2人は、家の最寄駅の一つ前にある小さな駅で電車を降りて図書館に向かった。
駅から歩いて10分ほど。
図書館に着くとまず借りていた本を返して、そしてその後別の階の『あるコーナー』に行く。
「アレ、戦争関係の本のあるコーナーじゃないの?」
ミコちゃんは意外そうな顔をしてボクを見る。
「凛と…、あ、いや、凛ちゃんと同じ話をしてもおもろないやろ? ミコちゃんに案内したいんはこっちや。あ、あった、これやな」
そう言ってボクはそのコーナーの本棚に整然と並べられた中から一冊の本を選んで彼女に渡した。
『人を育てるということ』
その本の表紙にはそう書かれている。
「教育…関係の本?」
ミコちゃんはその本のタイトルに不思議そうな顔をしてボクに尋ねた。
「まあ、そうやな。 ただこの本の中にはいろいろな時代の教育のことが書かれているんや。古くは江戸時代の寺小屋から今の学校制度まで、日本の教育の歴史やその時代背景とか。たしかミコちゃんは大学で教育関係の学部に行きたいんやったよな?」
「ウン、できたら。 アタシの小学校からの夢だったの」
「これよかったら読んでみてくれへん? 1週間したらボクがちゃんと返すさかいに」
「あ、ウン。アタシも興味あるから読んでみたいし」
「じゃあ、借りてくるわ。 図書館の中であんまり会話できひんしな。とりあえず借りて、別の場所でゆっくり話ししよか?」
「ウン、いいヨ」
ボクはその本を持って受付のところに行き貸出の手続きを済ませて、そして2人で図書館を出た。
時間は4時を少し過ぎていたが、夏場の陽はまだ高い。
「ああ、まだ暑いなぁーーー。 あ、そこの喫茶店入らへん? ボク、奢るさかい」
ボクらは図書館の近くにある一軒の小さな喫茶店に入った。
カランーーーーー
ボクがその喫茶店の木製のドアを開けると入口のところについていたベルが一回音をたてて鳴った。
そして僕の後からミコちゃんが入ってくる。
中には小さな丸いテーブルの席が7つほど。
それとカウンターに10人ほど座れるスペースがある小さな喫茶店。
「あ、ここでええか」
そう言ってボクらは窓際の隅にある丸テーブルの席に腰を下ろす。
お水を持ってきれくれたウエイトレスさんにそれぞれ注文をして、まずはひと心地。
ミコちゃんは氷の入っている冷たい水を一口ふくんで
「あー、おいしいー!」
と少しオーバーなアクションをつけて、そしてこう言葉を続けた。
「ネエ、聞いていいかな?」
「ウン、なんやろ?」
「ワタル君は中3のはじめにウチの学校に転校してきて、女の子の凛と初めて会ったんだったよネ?」
「まあ、そうやな。そのとき凛ちゃんは久美ちゃんと一緒に商店街を歩いとってな」
「久美子も? じゃあ最初わからなかったでしょ?」
「そらそうやぁーー。久美ちゃんは何となく面影があったからな、もしかして…と思ってすれ違ったとき彼女に声をかけたんや」
「じゃあ凛のことは誰だかわからなかった?」
「そうやなーーー。そんで途中で久美ちゃんが突然『この娘が哲ちゃんだよ』って教えてくれてな」
「エエエエッッーーーー!!!って感じ?」
「ワハハハハーーーー。まあ、そんな感じやったな。」
「じゃあ、久美子に言われてもとても信じられなかった?」
「ウーーーン…。そうでもなかったなぁ」
「あ、やっぱり…。」
そう言ってミコちゃんは小さく笑った。
「やっぱりって?」
ボクがそう尋ねると
「エットね、その言葉の通り。 アタシは中2の夏休みが終わって少しして凛が女の子として登校してきたとき『エ、ウソ!?』っていう気持ちより、何でかわからないけど『やっぱり』って気持ちが強かったの。」
「ミコちゃんはびっくりせーへんかったん?」
「まあ、その前にじつは久美子に小谷くんのこと、あ、男の子のときの凛のことね、聞いていたから。あ、これは凛には内緒にしててネ?」
「あ、ウン。もちろん。 それで?」
「最初に久美子にそのことを聞いたときは『エエエッ!!』って気持ちもあったけど、『やっぱり』って気持ちが不思議とあった」
「ヘェ、意外やなあ。 凛ちゃんって哲だったときから女の子っぽかったんか?ボクにはそういう記憶なかったけど」
「ウウン、ぜーーーんぜん。 言動はフツーの男の子。まあ、顔とか体型とか、外見は女の子みたいにキレイな人だなぁ、って感じあったけどネ。でも、そういうのとは別に同性の雰囲気っていうのかな、そういうので『やっぱり』ってね、思った。女の子の制服姿になった凛ってすごく自然だった」
「そうなんやぁ? きっとそういうのって女同士で感じてしまうもんなんやろなぁ」
「多分ネ。 だから、アタシはきっと久美子にお願いされなくても、きっと凛と気持ちが重なって友達になってたんじゃなかって思ってるの」
「ウン。 なあ、ミコちゃん、これからもずっと凛ちゃんの友達でいてやってくれな?」
「もちろんっ! でもさ、キミもだヨ? ずっと凛の彼氏でいたいんでしょ?」
「そう…やな」
夏休みもあと一週間ほどで終わろうとするある日
ボクが『森の家』で学校の宿題に必死になっていたとき、突然森の番人のおっちゃんがやってきた。
「やあ、ワタル君。ひさしぶりだね」
「ああ、久しぶりです。今日はどないかしましたんか?」
「いや…、どうしてるかなって思ってね。ジェームズ氏もいなくなったし。」
そう言っておっちゃんは和室のテーブルに広げられているボクの英語の宿題にチラッと目を配らせた。
「おや、学校の宿題をやってたのかい?」
「あ、はい。もう夏休みも終わりですさかいにな。終わらせとかんとまた学校で先生に絞られますからな(笑)」
「ハハハ、学校は楽しいかい?」
「まあ、そうですな。 ええ友達もぎょーさんできましたし」
「そうか、それは良かった。 そうか、友達がたくさんできたか…」
(ハッ!!!)
そのとき、ボクは持っていたシャーペンをテーブルの上にコトンと置いて、そして高鳴る胸の鼓動を必死に抑えて、今思い当たるたったひとつのことをおっちゃんに尋ねた。
「『そのとき』が…来たんでっか?」
「まあ…そういうことだ」
おっちゃんはボクから目を逸らすようにして一言そう答えた。
「ハ、ハハ、ハハハ…。なーんや、せっかくあとちょっとで宿題終わるとこやったんに、無駄になってもーたわ。ハハ、ハハハ。ボク、バカみたいやな…」
「ワタル君…」
そしてボクはおっちゃんの方をまっすぐ見ながら尋ねた。
「いつですか?」
「…3日後だ。」
「じゃあ、あと2日で宿題をぜんぶ終わらせられますな。それで最後の1日で凛にお別れをできます」
「宿題って、し、しかし…。それならば最後の3日間を凛ちゃんとゆっくり過ごせば…」
「わかってます、終わらせたって意味がないことは。でも、ボクは終わらせたいんです、最後までちゃんと。そやないと、ボクが存在していたこと自体が嘘になってしまう気がして…。凛には最後の日に会います」
「…スマン。 そうだな、キミの言うとおりだな。その宿題、最後までしっかり終わらせなさい。今日から3日間、私はこの家に身を置く。わからないところは聞きなさい。私が教えてあげよう」
「エ、でも高校生の宿題でっせ? おっちゃん、だいじょうぶでっか?」
ボクはちょっとおどけるようにそう言うと
「ハハハ、心配するな。これでも私は現世で生きていたときには大学の教師だったんだ」
「エエエエッッ!おっちゃん、現世で生きてたときあったんでっか?」
ボクはその事実に正直かなり驚いた。
「ああ、あったさ。キミと同じように、私も人としての人生を歩んできた。」
「あの、それじゃ、おっちゃんはなんで生まれ変わらないでっか?」
「私はね…生まれ変わることをやめたのさ」
「やめたって、どうしてでっか?」
「私はね、人として一代で贖えない罪を犯してしまったからさ。だから、私には生まれ変わる資格がないんだ」
「す、すみません。ボク、聞いちゃ悪いこと聞いちゃったみたいで…」
「いや、いいさ」
おっちゃんは小さく笑い
「ふぅ…。」
と天井を見上げてため息を漏らすとテーブルの前に腰を下ろした。
「これから生まれ変わるキミが、新しい人生の中できっとこんな愚かな過ちを犯さないよう、馬鹿なひとりの男の話を聞いてみるかね?」
「ボクなんかが聞いちゃってもええんでっか?」
「ああ、こんな話をするのは先にもあとにもキミがはじめてだ。 じつは私は自分の教え子を犯してしまった、そしてそれによって彼女を自殺に追い込んでしまったのだよ」
それからおっちゃんはゆっくりと自分の人生を語り始めた。
おっちゃんは、前の人生である私立大学の教師をやっていたそうだ。
比較的早い年齢で准教授になり、大学の中では教授への道に最も近かった。
優しい奥さんがいて、そして子供を2人授かり幸せな人生を歩んでいた。
あるとき、ゼミのコンパがあってそのゼミの指導教員だったおっちゃんもそれに参加してかなりお酒が入っていたそうだ。
そしてその帰り道、たまたま帰宅方向が一緒だったゼミの女子学生一人とタクシーに乗り合わせて一緒にいたとき、その娘が相当お酒を飲んだらしく酩酊してしまっていた。
そのときおっちゃんの心の中に起こってはいけない気持ちが湧き上がってしまった。
おっちゃんはタクシーの運転手に指示してほとんど意識のない彼女を連れて一軒のホテルに入ってしまう。
そしてその部屋の中で彼女を無理矢理犯してしまったのだそうだった。
彼女はその事実を訴えたが、おっちゃんは「彼女に誘惑された」と言ってしまった。
大学は将来を期待されたおっちゃんの言葉を優先して、逆にその女子学生が非難されることになってしまった。そして彼女は自分の身の潔白を訴え自らで自らの命を絶ってしまった。
私はこのとき初めて自分の罪に気づいたのだよ。
しかし私は自らで自分の過ちを正す勇気がどうしても持てなかったんだ。
そしてそんな私にも寿命が終わる時がきて、私は72歳のとき胃癌で人生を終えたんだ。
結局私は彼女に対し人生の中で詫びられる勇気を持てなかった。
そんな私に新しい人生を歩む資格なんかないのさ。
でもね、ワタル君
私はそれで彼女への罪滅ぼしが出来ているとは思っていない。
ただ私はこうして新しく生まれ変わる者たちの世話をすることで、いつか私にできる罪滅ぼしが見つかるんじゃなかって、そう思ってるんだ。
だから、それが見つかるまで…。
そしてそれから2日間
ボクは残りの宿題を一生懸命終わらせた。
おっちゃんはさすがに大学教授だけあって、相当難しい質問にもじつに的確なヒントをくれた。
しかしおっちゃんはボクに解答をそのまま教えるようなことはしなかった。
「いいかい? 日本語と同じように英語の文章にも作者の意図というものが必ず込められている。文章は生きているんだ。だから文章は理屈で読むよりも心で読む。それができないで答えを導き出しても全く意味がないんだよ」
生まれ変われば今までのすべての記憶が失われるはずなのに、宿題を終わらせることに意味があるのではない、一つ一つを考えて解けとおっちゃんは言う。
考えれば笑ってしまうことかもしれないけど、ボクはこういうおっちゃんは、ボクに「残りの時間を使って戦争というものをじっくり調べてみたら」と課題を与えてくれたジェームズさんとどこか似ている気がした。
「はぁ、おわっ…た」
最後の問題を終わり、ボクはその答案をおっちゃんに差し出した。
おっちゃんはそれを丁寧に確認していき
そしてその最後のページに赤いボールペンで
「石川渉君の宿題、確かに受領しました。 青葉学院大学文学部英米文学科 准教授 長谷川 聖」
と大きくサインした。
「お、おっちゃん! おっちゃんって青葉大の先生やったん!?」
「そうさ。キミが通っていた青葉学院高等部の系列のね」
「そうやったんでっかぁー。 びっくりしたわぁ、もうっ!」
「ハハハ、私はキミの本当の担任ではないが、キミの夏休みの宿題は確かに青葉学院の教師のひとりである私が受け取った。2日間よく頑張ったな!合格だ」
「は、はい。ありがとうございます。」
「さあ、最後の一日だ。 明日は凛ちゃんとゆっくり過ごしてきなさい。」
「はい!」
今週でいよいよ夏休みが終わるという最後の土曜日
朝10時
ボクは最寄の駅のロータリー前で凛と待ち合わせをした。
彼女は薄いブルーのワンピースに白いサマーカーディガン。
肩まで伸びた艷やかな亜麻色の髪のサイドは綺麗に編んであり後ろでまとめられている。
そしてその頭には横に青のリボンの付いた麦わらのカンカン帽。
唇には薄いピンクのリップまで引いていた。
その姿に見蕩れポケーーーとしているボクに、少し恥じらうように照れた笑顔を浮かべるキミ…。
ああ、当たり前のことだけど
中2の夏休みまでは男の子として生活していたキミは、今こんなにも愛らしい女の子としてボクの目の前に立っている。
きっと、あの戦争でボク達が死ななかったとしたら、きっとキミはこんな素敵な女性として成長していたんだろうな。
もう、思い残すことはない。
凛
ボクの可愛い妹、凛。
そう
キミは本当は生まれた時からちゃんと女の子だったんだよ。
ときの流れの中で、いつか本当に愛する人と出会い
愛する人の子供を産み
そして育てていく。
凛
キミはそれができる女性なんだ。
トオル君
そう、トオル君
キミに凛を任せるよ。
キミならきっと凛を幸せにしてくれるからね。
だからボクは、ボクの愛した凛をキミに任せたいんだ。
ボクが鮎川 渡であったとき、小2のときキミに出会ってからずっとそう思ってきたから…。
そして
ボクが凛と過ごす最後の時間は夕暮れの生暖かい風が吹いてくる頃終わりを告げる。
「ああ、楽しかったー。久しぶりに2人だけでこんなにゆっくりした時間を過ごせたね」
凛はボクの顔を見上げて無邪気な笑顔を見せた。
「ホンマ楽しかったな。 なあ、凛ちゃん?」
「ウン、なあに?」
「前に話した、ボクが戦争のことを調べているのな」
「あ、ウン」
「あのとき結論を言ってなかったな? まあ、結論っていってもボクなりの結論なんやけどな」
「ウンウン。聞かせて?」
「これは戦争だけやないことや。これから先のキミの人生の中でもし誰かに対し憎しみの感情が起こったとしたら、その憎しみの先にあるものを考えてみてな。きっと憎しみの先には何もないから。でも愛することの先にはきっと、いや必ず、凛ちゃんにとってたくさんの幸せがあるはずだから」
「ワタル君…」
凛はボクのその言葉に少し不安そうな顔をした。
「ん?どうしたんや?」
「アタシたち、夏休みが終わったらまた会えるんだよネ?」
「あ…、あったり前やんかぁーーー!(笑) そうや!凛ちゃん。ちゃんと夏休みの宿題終わったかー? ボクはぜーーんぶしっかり終わらせたで。 特に英語! 英語の小出先生はこわいからなーー!(笑)」
女の子の勘…ってやつかな。
鋭いな。
「あ、ウン。アタシもちゃんと終わったヨ」
「そっか。じゃあ、夏休みが終わったら学校で答え合わせしよか?」
「そう言って答えが抜けてるとこアタシのを写すつもりでしょーーー!?」
「ワハハハ! ばれたかぁぁーーーー!(笑)」
「アハハハ」
そしてそんなことを話しながら2人で歩く道もとうとうあの公園の前に辿り着いてしまう。
ここで終点だ。
「さあ、じゃあここでな。 夏は日が高いけど、もう7時近いからな。早う帰らんと凛ちゃんのお母さんが心配するから」
ボクは凛のおでこに小さなキスをしてそう言った。
「そっかあ・・・」
凛は少し寂しそうな表情になる。
そして
「じゃあ、月曜日学校でネ。」
少し歩き出した凛がふっと振り返ってそういう前に、ボクの姿は夏の夕暮れどきの甘い風の中にすぅっと溶けていく。
生まれ変わりの森の家に戻ったボクは
玄関をくぐり、そしていつもの和室に入りテーブルの前に腰を下ろす。
「はあ、すべてが終わったな…。」
そう
ボクがやるべきことは全て終わった。
もう何も思い残すことはない。
戦争によって断ち切られたボクと凛の命。
アメリカやイギリスを憎んだこともあった。
でもジェームズさんと出会って戦争は一方だけに不幸を強いるものではないということがわかった。
そのままパタンと畳に身体を横たえじっと天井を見つめる。
そしてボクは、石川渉として生まれ変わり中3のとき哲から凛となった彼女と再会したときからのことをゆっくりと思い出していった。
凛はそのとき女性として生活を始めて半年ほど。
それでも既に彼女の身体は女性としての柔らかさを示し始め、
少し恥じらうように笑う笑顔は男のボクの心をくすぐり
そして亜麻色の髪の毛は優しく小さな肩で揺れていた。
正直、凛とキスをしていたとき彼女を抱きたい、セックスをしたいと思ったことは一度や二度ではなかった。
兄妹であったのは前世でのこと
今は男と女として愛し合えるんじゃないか。
そう思ったら凛の心も肉体もボクのものにできるんじゃないかなんて気持ちがどうにも抑えきれなくなって。
でもボクはそのとき考えた。
ボクに与えられた命はたった1年半。
もしボクが凛の心を掴んでしまったら、ボクがいなくなったとききっと凛はその悲しみに耐えられなくなって壊れてしまうだろう。
凛にはミコちゃんやみーちゃんといういい友達ができた。
幼馴染の久美ちゃんもきっとこれからも凛のことを助けてくれるだろう。
そしてそう遠くない未来、凛はトオル君と出会う。
凛は彼女を愛してくれるたくさんの人たちに囲まれて生きていける。
そんな凛の未来をボクが壊すなんてことは絶対にしちゃいけない!
(凛…凛…)
(好きだ!愛している!)
(ボクが本当に生きている肉体だったらどうなによかっただろう…)
(ボクがオマエのことを幸せにできてたらどんなによかっただろう…)
ボクは家に帰ると、ときどき自分の部屋で少しの間だけ涙を落とす時間を作った。
きっとジェームズさんはそんなボクをときどき見ていたのだろう。
「辛いな…ワタル」
ジェームズさんがあのとき呟いた一言が今のボクの心の中ではっきり響く。
「ホンマ…辛いわ、ジェームズさん」
仰向けになって天井を見つめるボクの顔にはいくつも涙の筋ができていた。
「なあ、ワタル。 どんなに時代は変わっても男と女は愛し合うために生きるものさ。 そしてセックスをして子供をつくり育てていく。 それが人間ってもんなんだ。 男は好きな女に自分の子供を産んでもらう。 そうやって男は自分の命をつないでいくんだ」
ジェームズさんは僕にそう言ったことがあった。
人間がなんで男と女に分かれているのか。
種を残すだけなら2つに分かれていなくてもいいはずだ。
そこにどんな意味があるのか?
ボクは心のどこかでずっと考えてきた。
その答えは、今やっとわかった気がする。
「ハハハ、人間ってなんて単純な生き物なんやろ」
涙を流しながら、なぜ笑いがこみ上げてきた。
そんなことを考えながら
ふっと部屋の入り口の方に目をやると
そこには森の番人のおっちゃんが立っていた。
「ああ、おっちゃんか。」
するとおっちゃんは、畳に寝転んでいるボクの横に静かに腰を下ろした。
「なあ、ワタル君…」
「うん…」
「私は君に2つの選択をあげようと思う」
「選択? ボクに何を選ばせてくれんの?」
「ひとつは今までの記憶をすべて消去し、新しい命として生まれ変わるという選択だ」
「もうひとつは?」
「君に『実体』を与えてもいい」
ボクはおっちゃんのその言葉に寝ていた身体をバッと起こして叫んだ。
「実体って? ボクを、石川渉としてずっと生きさせてくれるってことか?」
「いや、それはできない。実際、石川渉という人物は現世において存在しているわけだしな。そんなことをすれば矛盾が生じてしまう」
「じゃあ、どうするん? 実体ってどういうことですんや?」
「まず凛ちゃんの記憶の中に新しい幼馴染の存在を作る。 そして君はその人物として実態の身体を持つ。 君はある日青葉学院に転校し、そこで彼女と再会をする」
ボクが新しい存在として凛と出会う?
ひとりの男と女として。
「しかしおっちゃん、そんなことしたってボクには家族もおらへん。帰る家だってないやんか?」
「そんなことは簡単さ。 君に両親を作ればいい。 どこかの家庭の記憶に君の存在をすり替えればいいのさ。 そうすれば君はその両親の子供としての人生を送れるわけだ」
「ボクに家族をくれるってことか?」
「まあ、簡潔に言えばそういうことだ。 凛ちゃんはきっと新しく現れた君の存在を意識するようになるだろう。 そして君を愛するようになる。 男と女としてね。」
ひとりの男としてボクが凛を愛することができる?
ボクが凛を守ってあげられる。
凛をボクのものにして…。
「そして、いつの日か2人は結婚をし、2人の子供を作ればいい。 君と凛ちゃんの子をね」
ああ、それはボクが心のどこかでずっと夢見てきたこと。
トオル君に任せなくてもボクが凛を幸せにしてあげられる。
ボクが…ボクが…。
「ありがとう、おっちゃん」
「そうか、それじゃ…」
「いや、それはやめとくわ」
「ほう、なんでだい? 君にとって悪い話じゃないと思うんだがね」
「そうやな。悪い話やない。 それをすればボクは凛を自分のもにできるかもしれへん。 でも…」
「でも?」
「もうボクはウソをつきながら生きていくのはいやなんや。 そうしてしまうとボクは凛に生涯ウソをつきながら生きることになってしまう」
「……」
「それは本当に凛を愛することにはならないって思うんや。 だからそれをしてしまったらボクはずっと後悔することになってしまう気がして…」
「そうか」
「でも、おっちゃんの気持ちは嬉しかったで。 ありがと」
「いや。君は立派だな」
「そんな立派なんかあらへんよ」
「ハハハ、まあいいさ。 じゃあ、行こうか?」
そしてボクはおっちゃんに連れられていよいよこの家を出る時が来た。
薄暗い森の中の中を2人で歩き、そしておっちゃんがボクを案内した場所は大きな泉だった。
その泉の水はキラキラと不思議な光を放っている。
「さあ、ワタル君。服を脱いで、そしてゆっくり泉の中に入りなさい」
ボクは着ていた服を脱ぎ、そして足の先を泉の中に入れた。
泉の水は不思議と冷たさはなく、かといって温かくもない。
しかしボクの身体をなめらかに包み、何とも言えない心地よさだった。
「さようなら。ワタル君。 幸せになるんだぞー!」
泉の淵のほうからおっちゃんの声が聞こえる。
しかしその声もボクの身体が泉の中に浸かっていくにしたがって次第に薄れていった。
そして全身が泉の水に浸かったとき
ボクの記憶は完全に消滅した。
おぎゃー!おぎゃー!
「生まれました!生まれましたよー!」
「ハァ、ハァ、ハァーーーーーー。」
赤ちゃんを無事体内から出した母親が荒い息を吐いている。
「さあ、あなたの赤ちゃんですヨ。立派な男の子ですヨーーー!」
まだ目が開いていない生まれたばかりのボクは誰かの温かい腕の中に抱かれている。
柔らかい腕
そして暖かい乳房がボクの頬に優しく摺り寄せられている。
「あなたの新しい人生に、おめでとう。」
ボクを抱くその女の人のとても温かく優しい声が聞こえた。
そして
しばらくすると何人かの人が部屋の中に入ってくる気配を感じた。
「美由紀ーーー、がんばったな。男の子だぞーー」
若い感じの男の人の声が聞こえる。
「ああ、悟ーーーー。2人の赤ちゃんだヨーーーーー」
その女の人は少し涙の混ざった声でそう言い
そしてボクの頬を自分の頬にすり寄せた。
そしてその若い男の人は母親に抱かれたボクを覗きこみ、とても嬉しそうにこう言ったんだ。
「よし、男の子だから予定していた名前をつけよう。いいか、お前の名前は哲、『小谷 哲』っていうんだ。わかったかーーー!」
(fin)




