第40話 スピンオフ5「ワタルのキモチ」(前編)
ボクがまだ幼い頃、日本と中国との間に戦争が起こった。
この戦争はずいぶん長い間続いている。
そしてとうとう昭和16年にはアメリカまで敵にしてしまった。
最初の頃は日本が勝っている威勢のいい話を良く聞いていたけど、そのうちどうも様子がおかしいことを感じてきた。
毎日ラジオから流れてくるニュースでは、アメリカの軍艦を何隻沈めたとかそういうことを言ってるけど、そのわりにはアメリカの飛行機が日本本土にまでやってきてたびたび空襲がある。
怖い憲兵たちがいるからみんな何も言わないけど、うちのお父ちゃんやお母ちゃんや近所の金物屋のおじちゃんたちは「もうそろそろ危ないかも…。」なんて話をしている。
ボクは小倉 渡。
渡という名前は両親が世界の国の人たちと心が渡り合える人間になって欲しいと付けたそうだ。
そしてボクには7つ年下の妹がいる。
凛という名前で、女の子にしては少しヤンチャだけど、心が優しくて可愛くて、ボクにとってはかけがえのない大切な妹だ。
日本人にしては少し茶色がかった亜麻色の髪の毛。
そしてクリッとした少し悪戯そうな大きな目。
彼女はボクが学校から帰ってくると
「ワタル兄ちゃん、遊ぼう!」
と言って待ち構えている。
「よし、じゃあ米突き100回ずつやったらカルタしようか?」
「ウン!」
この頃には日本の食糧事情はとても悪くなっていて、お店に行っても物がない時代になっていた。
日常の食料のほとんどは配給制で、最初の頃はそれなりに食べられていたけど、そのうちさつま芋ではなくその茎だったり、砂糖がサッカリンという代用品に代わったり。
たまに米の配給があっても量はほんの少しでしかも玄米のまま。
だからそれぞれの家では、この玄米をお酒の一升瓶に入れて突き精米する。
そして、こうして精米した米もそのまま炊くわけではなく、そのうちのほんの少しを鍋に入れて他の野菜でカサを増やし雑炊にして食べることになる。
ボクはともかく育ち盛りの凛にとってはとても辛いものだろうと思う。
1945年(昭和20年)が明けた頃。
巷ではある噂が流れ始めていた。
「どうも、そろそろ戦争が終わるらしい」
どこが出元かわからない根拠のない噂だったけど、それはどことなく不思議な信憑性を感じる話だった。
「もう海軍にはまともに戦える軍艦はないしなぁ…」
その姿を本当に見たことがあるわけではないけど、特攻隊と呼ばれる人たちがいて飛行機に乗ったまま爆弾を抱えて敵の軍艦に体当たりする人がいるらしい。
自分が必ず死ぬことがわかって出撃する。
なんて悲しいことだろう…。
ただ、大人たちはこんな話をするけど、子供たちは日本には大和というものすごい戦艦がまだ残っているから絶対に負けないと信じきっていた。
それにしても最近は空襲が本当に多い。
前はたびたびやってくるくらいで、それでも工場とかが狙われることがほとんどだったけど、最近では街の中にまで爆弾を落としてくる。
先月の終りには、うちから500mほど離れたところに爆弾が落ちて、20人くらいの人たちが亡くなったらしい。
そのため、ボクの家でも夜寝るときにはすぐに逃げられるように普段着を着たまま、防空頭巾とバッグを枕元に置いていた。
そして運命の3月10日はやってきた。
3月9日
いつものように、ボクと凛は同じ部屋で枕を並べて眠りについていた。
今日は珍しくサイレンの音もならない。
街の中はシーンと静まり返り久しぶりの静かな夜だった。
真っ暗な部屋の中で眠くなるまでの間ボクと凛はしばらくこそこそと話をしていた。
「ネェ、ワタル兄ちゃんは戦争が終わったら何をしたい?」
「ウーン、そうだなぁ…。 もし、できたら中学校に行けたらいいな。それで野球部に入るんだ」
「そっかぁ。ワタル兄ちゃん、野球上手だもんネ」
戦前の日本でも野球はかなりメジャーなスポーツだった。
プロの野球チームも組織されて、沢村栄治とアメリカのベーブ・ルースとの試合は少年たちの野球への憧れを掻き立てた。
ただ戦争が激しくなってくると、元々アメリカから伝わってきた野球は敵性スポーツと見なされてしまい、子供たちもおおっぴらにキャッチボールすらできなくなってくる。
「凛は何をしたい?」
「凛はねぇ、お料理を習いたいの」
「料理?」
「ウン。それでね、いっぱーい美味しいお料理を作ってワタル兄ちゃんやお父さんやお母さんにご馳走してあげるの」
「へぇー。じゃあ、兄ちゃん、凛の作ってくれる料理の材料いっぱい買ってこなくちゃな」
「ウン! エットね、まず餡子でしょ、あとカステラとか…」
「オイオイ、みんな甘いもんばっかりじゃないか?(笑)」
「エヘヘーーー」
そんなとりとめのない話をしているうちにボクも凛も次第にウツラウツラとまぶたが重くなってくる。
そして
2人がすっかり夢の中の住人になってしまっていると
ウゥゥゥーーーーーーーーー!
ウゥゥゥーーーーーーーーー!
「空襲ーーーーーー! 空襲ーーーーーー!」
けたたましいサイレン音と外の方で誰かが叫んでいる声が聞こえてきて、ボクはバッと飛び起きた。
「凛、起きろー。凛ーー!」
ボクは隣に寝る凛の身体を大きく揺すった。
「ウ…ン。どう…したのぉ?」
「空襲だ!目を覚ませー!」
窓から外を見るとすでに周りが炎で赤々と燃えているのがわかった。
するとそこに隣の部屋で寝ていたお母ちゃんが飛び込んできた。
「ワタル!凛! 準備できてるかい!?」
「ま、まって。凛のくまちゃんもーーー」
凛はいつも枕元に置いて一緒に寝ている手のひらほどのくまのぬいぐるみを探す。
「凛、早く!」
「ない、くまちゃん、どこいっちゃったの? あ、あったーーー!」
「さあ、早く! お父ちゃん、2人とも準備いいわヨー!」
「ヨシッ! じゃあ逃げるぞー。」
そのときだった
パーーーン!!!
家の真上に大きな衝撃音を感じたと思ったら
ドーーーーン!!!
いきなり家の天井がボクらの真上に落ちてきた。
そのときちょうどすでに開けてあった玄関に出る寸前まで来ていたボクと凛をお父ちゃんとお母ちゃんは勢いよく突き飛ばした。
そのためボクと凛は家の外に転がるように弾き飛ばされた。
その瞬間
ボクらの家はグシャッと押しつぶされてしまった。
さらに潰れた家のそこかしこからすごい勢いで火の柱が吹き上がってくる。
そしてその炎の柱の間に家の壁に押しつぶされている母親の姿が見えた。
「お、お母ちゃん!!!」
ボクと凛は母親の方に行こうとするが、火の勢いが強すぎて近寄れない。
「お母ちゃーーーーん!!! お母ちゃーーーーん!!!」
凛が泣き叫ぶ。
「ワタルーーーー! 凛を頼むヨーーーー! アンタが凛を守ってあげるんだヨーーーー!!!」
母親は泣き叫んでボクにそう言った。
火は次第にボクらのほうにも近づいてきてあたり一面が紅蓮の炎に包まれていった。
「お母ちゃん!!!お母ちゃん!!!」
「凛、近寄ったらダメだ!!!」
「いやだーーー!!! 凛はお母ちゃんと一緒にいるんだーーーーー!!!」
そんな凛を見て母親は
「あっち行けーーーっっ!! あっち行けーーーっっ!!!」
と狂ったように叫ぶ。
ボクは泣き叫ぶ凛を無理やり抱えて走った。
「離してぇーーー!!! 凛はここにいるーーーーっっ!!!」
そして
随分走り息が切れてきた頃
「オイッ! 小倉さんとこのワタルじゃないか!」
フッと振り返るとそこには近所の金物屋のおじさんの姿があった。
「小谷のおじさん!!」
ボクはおじさんを見てそう叫ぶ。
おじさんは凛を抱えたボクの姿を見るなり
「こっち来い!」
と言ってボクの手をひっぱり、そして近所の広場に作られた防空壕の中に飛び込んだ。
「はぁ、はぁ…」
ボクらは飛び込んだ壕の中にはすでに5人ほどの人がいた。
あまり見たこともない人たちだった。
「ずいぶんすごい空襲ですな」
そのうちの一人の40代くらいの男の人が金物屋のおじさんに話しかけた。
「まったくだ。一体どうなってるのか…。」
「アメリカがかなり近くまで来ているという噂を聞いてます」
「ここだけじゃない。 どうも今回は東京中がやられているらしい」
「それじゃ戦争に勝つとかそういう問題じゃない! このままでは日本が滅びるぞ!」
「シッ!! 滅多なことを言いなさんな。 どこで誰が聞いてるともわからない」
「ワタル兄ちゃん…。怖いヨォ…」
凛は熊のぬいぐるみを胸に当てながらボクに寄り添っている。
凛の持っている熊のぬいぐるみは、近所に住む久美子ちゃんというお姉ちゃんが作ってくれたものだった。彼女は渋谷の実際女学校に通う女子学生で、勤労奉仕でたまにお菓子などが手に入ると自分で食べずに凛に持ってきてくれたりと凛のことをとても可愛がってくれていた。
「大丈夫。 もうすぐアメリカの飛行機は行っちゃうから」
ボクは凛の身体を抱きしめてそう言った。
そのとき金物屋のおじさんが呟いた。
「何か息苦しいな。」
「あたり一面火の海ですからね。 火が酸素を奪ってるんでしょう」
そういう会話をしていると上空を飛ぶ爆撃機の音が遠ざかっていくのを感じた。
「どうやら去っていったようだな。」
ボクは
「チョット外の様子を見てきます」
と言って立ち上がった。
「ワタル兄ちゃん、行っちゃいやだー。 ここに居て」
凛がボクの腕を掴んでくる。
「チョット見るだけだから。 ここで待っててな?」
そしてボクは防空壕の中から恐る恐る頭を覗かせて地面の様子をうかがおうとした
そのとき
ゴォォォォーーーーーーーーーーーーー!!!
火の竜巻が防空壕のある広場一面を覆い
そしてその火の竜巻はボクらのいる壕にも襲い掛かった。
「アッッ!!!」
その瞬間ボクの目の前からすべてが消え去った。
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フッと気がつくと、ボクは薄暗い森らしき場所に立っていた。
「アレ…。ここは? た、助かったのか? でも…。」
周りを見回すと今まで一緒に居たはずの人たちは誰も居ない。
「凛ーーーーー! 凛ーーーーー!」
ボクは凛の名前を大声で叫んだが何の反応もなかった。
シーンとした闇の中にはときどきカサカサという木の葉が風に擦れあう音が聞こえる。
するとどこか遠くの方で何やらボーっとした明かりが見えてきた。
そこはどうやら森の奥の方で、時々暗くなったり、また明るくなったりと不安定な光のようだった。
ボクはとにかくその光を目指して歩き始めた。
随分長い間歩いたように感じた。
やっとその光の近くまで寄ったとき、それは一軒の古い日本家屋であることがわかった。
その家の玄関のところに辿り着くと、ボクは扉をドンドンと叩いた。
「すみません。誰かいませんか? すみませーーーん!!!」
誰も出てこない。
ボクは意を決してその家の中に入っていった。
すると
家の中には少し暗いながらもハッキリとした明かりが灯っていて、
そして
玄関から一番近い部屋に入ると、その部屋の中央にあるお膳の上には真っ白い山盛りのご飯、温かそうな湯気のたった味噌汁、野菜と肉の筑前煮、魚の煮付けなどが並べられていた。
「な、なんだ?これ…」
こんなご馳走を見たのはいつ以来だろう。
きっと戦争が始まる前。
まだ日本が平和で、人々の暮らしに笑いが溢れていたとき。
(ダメだ。もう我慢できない!!!)
ボクは真っ白いご飯の入ったどんぶりを抱きしめるように抱えこんだ。
ああ、うまい!!!
なんてうまいんだ!!!
こんな美味いものを凛にも食べさせてやりたかったな。
そうだ! 半分残して凛を探して食べさせてやろう。
きっと喜ぶぞーーーー。
そう思いながらパクパクと食べていく。
さあ、これだけ食べたんだから残りは凛に…。
そう思ってお皿を見ると
「アレッ!!!」
不思議なことにどのお皿の中もぜんぜん量が減っていない。
ボクがあれだけ食べたのに、食べる前と変わらない山盛り状態なのだ。
「なんで…。」
ボクはカチャッと箸を置いた。
そのとき
「もうお腹いっぱいになったかな?」
部屋の入口からいきなり男の人の声が聞こえた。
「エッッ!」
驚いて振り返ると、そこには中年風の随分高級そうな背広を身に付けメガネをかけた男の人が立っていた。
「あ、あ、あの…。 すみません。勝手に…。」
ボクは勝手に入り込んでご飯を食べてしまったことを謝ろうとすると
その男の人はまったく気にしない様子で
「ハハハ、いいんだよ。キミのために用意したものだしね。」
と答えた。
「ボクのために用意? エ、なんで?」
「キミがここに来ることはわかっていたからさ」
「わかってたって? あの、ここってどこなんですか?」
するとその男の人は部屋の中に入ってきて、そしてボクの座るお膳の前に腰を降ろした。
「ここは…生れ変りの森さ」
「生れ変りって!!! じゃあ、ボクは死んだんですか?」
「まあ、そういうことだね」
「そしてこの家は生れ変りのときまでキミが過す家。だからキミはこの家ものを何でも自由に使える」
「あ、あの凛は? 妹がいたんですけど」
「ああ、いたね」
「凛はどうなったんですか? ここに居ないってことは助かったんですか?」
「いや、キミと同じときに彼女も死んだ」
「で、でも、じゃあどこに?」
「彼女は『女の森』にいる」
「女の森?」
「そうさ。そしてキミが今いるのは『男の森』だ」
「それじゃ、ボクも凛もこれから生れ変るんですか?」
「そうだ。それぞれ別々の人間にね。今度キミたちが生れ変る世界は戦争のない平和な時代だよ」
「そ、そうですかー!」
「キミたちはしばらくの間それぞれの家で暮らし今までの人生を見つめなおす。そして『そのとき』がきたら忘却の風呂に入り今までの記憶をすべて洗い流し新しい人として生れ変るんだ」
「エ、じゃ、じゃあ、凛のことも忘れてしまうってことですか?」
「まあ、そういうことだね」
「ボクは死んだお母ちゃんから凛のことを頼まれたんです」
「しかしね、人というのは生れ変るとき前世の記憶を引きずってしまうことは許されないんだ。どんな前世であってもそれを次ぎの来世で引きずってしまうと必ず不幸になってしまうからね。まあ、とにかくここはキミの家だ。時間はたっぷり、いや時間という観念はここにはないな。あるのは心だけだ。ゆっくり色々なことを考えたまえ」
そう言ってその男の人は部屋を出て行った。
お腹はふくれた。
しかし部屋の中を見回しても何もない。
本もなければラジオもない。
だからやることが何もない。
そんなときフッと目に留まったのは部屋の片隅に置かれた大きな鏡台だった。
ボクはその鏡台に近づくとそこに映る自分の姿をじっと眺めた。
そういえばうちにもこんな鏡台があったな。
お母ちゃんがお嫁に来たときに持ってきたって言ってた。
よく凛がその鏡台でお母ちゃんが化粧するときの真似をしてたっけ。
凛のやつ、お母ちゃんの口紅を勝手につけてお化けみたいな顔になって、すごく怒られたっけ(笑)
そんなことを考えてクスッと笑いが漏れてしまった。
するとそのとき
その鏡の表面がボーっと歪み
今まで映っていた自分の顔が消えて、何かの画像らしきものが浮かび上がってきた。
(エ、なんだ?)
その画像は次第に輪郭を整え、そしてハッキリしたものになっていく。
まるで映画を見ているかのようだった。
それは凛の姿だった。
凛は大きなお風呂の中に身体を沈め、そして湯船の中で数回身体を転がせているうちに彼女は次第に人間の姿から丸い球体のような光に変わっていった。
そしてその球体はその風呂場から飛び出してどこかへ飛んでいった。
そのとき
ボクの後ろの方で
「彼女は生れ変ったんだヨ。これで安心したろ?」
という声がした。
さっきの背広姿の男の人だった。
「日本は戦争に負けた。しかし日本人は勇気を持ってそこから新しいスタートを切った。その結果この国は世界でも非常に豊かで平和な国を築くことができた。彼女はそういう時代に生れ変るんだ」
「そうですか。よかった。本当によかった」
「キミも同じ時代に生れ変るはずだ。美しいものを素直に美しいと感じ、正しいと思うことをはっきり口に出して正しいといえる時代だ。よかったな」
「ハイ、ありがとうございます。 じゃあ、凛はこの時代で幸せになっていくんですね?」
「キミはきっと幸せになれるよ」
「そうですか。それで、凛は?」
「生れ変った以上キミと彼女はもう赤の他人だ。 キミがそれを気にする必要はない」
「ボクは凛のことを聞いてくんです! ちゃんと答えてください!」
「………。」
「何か…あるんですね?」
「何かあるとしてもそれは彼女の問題だ。 生れ変ったキミにはすでに関係がない」
「嫌だ!!! ボクはお母ちゃんと約束したんだ。 凛の未来を教えてください」
すると、その背広の男は小さくため息をついてこう言った。
「ふぅ…。 どうなるものでもないのに。 それじゃ、その鏡を見て、そして念じてみなさい」
「念じる?」
「彼女の未来を見たいと念じるのだよ。目を閉じて心から念じ、そしてゆっくり目を開くんだ」
ボクは言われたとおり目を閉じて念じた。
そして恐る恐る目を開けると
凛は平成24年という時代の東京に小谷家の第一子として生を受ける。
鏡には凛が生まれたときの病院の様子が映し出された。
「オギャァー! オギャァー!」
「おおー、なんて元気そうな子じゃないか!」
ベッドの上には新しいお母さんらしき人が横たわり、優しい顔でその赤ちゃんの顔を眺めている。
そして周りには新しいお父さんらしき人やおじいさん、おばあさんがその赤ちゃんの寝る小さなベッドを取り囲んでいる。
(よかった)
(凛はこんな優しそうな人たちの子に生まれたんだ)
「名前はどうしようかしら?」
お母さんがお父さんにそう尋ねた。
すると、お父さんは手に持ったカバンの中から一冊のノートを乗り出した。
「フフフ、じつは色々考えたんだ」
「あらあら、そんな専用のノートまで作っちゃって?(笑)」
お母さんは笑って言った。
「男の子と女の子の名前をそれぞれ考えたんだ。1週間考え抜いたんだぞー」
「ハイハイ(笑)」
「それじゃあ、発表します! ジャジャーーン!この子の名前は『小谷 哲』、哲学の哲って書くんだ」
そう言ってお父さんは名前の書いた紙を広げた。
(エ、哲って? 男の名前? なんで?)
ボクは背広の男に尋ねた。
「あの、凛は男に生れ変ったんですか?」
するとその男は少し戸惑うようなそぶりで応えた。
「いや、そういうわけではない…」
「じゃあ、なんで? 哲ってどう考えても女の子の名前じゃないですよネ?」
「まあ、もう少し先を見てみなさい」
ボクは再び鏡の様子を見る。
凛の生れ変りの哲はその後すくすくと育っていく。
そして中学2年のとき、『そのとき』が来た。
彼にある日女性の生理が起こり、病院での検査で哲はじつは女性であることが判明する。
(そうか、そういうことなんだ)
(それで女の子として幸せになていくんだな)
そう思っていると画面はその先に進む。
哲は凛と名前を変えて、女性として生活をするようになった。
しかし、彼女はそれから次第に身体が女性の特徴を示すのに反して心がどうしても付いていけなかった。
ミコちゃんなどのせっかくできた女友達とも次第に違和感を持ち離れていく。
凛の両親はそんな彼女に女子の中で生活すればきっと自然に女性としての自分を受け入れていくだろうと考え高校で女子校に入れる。
その中で彼女もかなり強引な努力をして自分を女の環境に合わせていった。
高校を卒業した後、彼女は附属の女子大に入学する。
そしてそこを卒業した後24歳のとき親の勧めるお見合いである男性と結婚をする。
しかし心と身体の葛藤を続けていた彼女は女性としての結婚を自分の中で受け入れられなかった。
そうした中で彼女は妊娠をして女児を出産する。
しかしそこでとうとう彼女の心は壊れてしまう。
男として生まれたはずの自分が実は女で、そして男と結婚して子供を産んでしまった。
流されようと努力したつもりが反対に彼女の心の中で消化されず溜まってしまった。
そして彼女は25歳のとき、自らで自らの命を絶つ。
(そ、そんな…)
ボクは絶句した。
そんなボクの心を見透かすかのようにその男は
「つまり彼女は女性として生を受けるんだが、生まれたとき身体の局部が変形してしまい男性器と見間違われたため男児として育てられてしまうわけだ。彼女が悪いわけではない。しかしそれは運命であって仕方がない」
ボクは立ち上がってその男に詰め寄った。
「仕方がないだって!? ふざけるな! ボクの妹を、ボクの妹を…」
「もうキミの妹ではない。赤の他人だ」
男は淡々とそう応える。
「たとえ生れ変って他人になったって、凛はずっとボクの大切な妹だーーー!」
「困ったな…。」
「お願いします! 凛を生まれたときからちゃんと女としてーーー」
「それは無理だ。我々は現世での出来事に対し物理的な力を行使することは一切できない」
「そんな…そんな…」
ボクはその場にしゃがみこんで泣き出してしまった。
「それじゃ、凛は生まれ変わってもまた地獄を味わわなくちゃいけないっていうのか!」
「あいつがいったい何をしたっていうんだっ!」
ボクはその場に崩れ落ちてそう喚いた。
すると
「物理的な力を行使することはできない。 が…しかし…」
男は少し躊躇うように言った。
「しかし? しかし、なんですか?」
「精神的な影響力を与えることはできなくはないが・・・」
ボクはすくっと立ち上がった。
「そ、それはどういうことですか!?」
「つまりだ、彼女がそういう方向に向かわないように、女性としての心を呼び覚ましてやるというのかな」
「そのためにはどうすればいいのですか?」
「ひとつだけ方法があるが…」
「教えてください! なんでもしますから!」
「しかしな、これはキミにとってまさに修羅の道となる。せっかく生れ変るキミにとって」
「いいです!」
その男は少し考えた後おもむろに口を開いた。
「それじゃあ…。つまりキミが彼女の中の女性を覚醒させる役割を果たすってことだ」
「どうやって?」
「キミは前世で12歳まで生きた。 もしキミがこの役目を果たすなら彼女と同じ学年で12年間キミに前世の記憶と自我を持ったまま命をあげよう。 ただし彼女の生理が起こるのは14歳のときだから、キミは10歳で一度死に、そして15歳から16歳の終りまでの2年間は特別の実態を与える。それぞれの期間にできうることをやって彼女の心を矯正していくというわけだ」
「それでお願いします!」
「しかしだ…」
「なんですか?」
「キミはこれによって生れ変りの順番を逃すことになる。 こう言ってはなんだけど、今度キミが生れ変る予定の家庭はとても良い家庭で両親も素晴らしい心を持っている。家も裕福だし、それにキミ自身も容姿も頭脳もかなり恵まれている。それを他の生れ変りの順番待ちに譲ることになるが」
「いいです。譲ります」
「本当にいいのか?」
「凛は大切なボクの妹です」
ボクは男の目をじっと見つめてそう言った。
そしてボクは特別に前世での記憶を持ったまま生まれ変わっていった。
鮎川 渡として。
ボクが生まれたのは鮎川家といって、大手の出版社に勤める父親と専業主婦の母親、そしてボクの3人家族だった。
父親は温厚な人で、仕事が忙しい中体調を見てボクを遊びに連れて行ってくれた。
母親もとても優しい人で、生まれつき体が弱いボクのために毎日体力のつく食事を作ってくれた。
タイプは少し違うけど、前世の家族とどこか共通したものを感じるそんな温かい家庭だった。
だから正直いえば何度か
(こんな優しい家族ならこのままずっと…)
そういう気持ちがフッと心をよぎったこともあった。
ただボクは生まれつき心臓が弱かった。
そのため幼稚園には行かず病院に通い、そして小学校に入学してもよく休みがちな生活だった。
そんなボクがようやく哲(凛)と交わることができたのは小学校2年生のとき
ボクは哲として生活していた凛と同じクラスになった。
驚いたことに哲(凛)は、前世で凛のことをよく可愛がってくれた近所の久美子ちゃんの生まれ変わり
と仲の良い幼馴染でいた。
小学校1年生のときは1週間のうち3日は病院通いで学校を休みがちなボクには2年生に上がっても仲の良い友達は誰もいなかった。
当然同じクラスといっても哲(凛)や久美ちゃんと話したり仲良くすることはない。
いつも一人ぼっち。
でもボクは遠くからでも凛の生まれ変わりの哲を見守っていくつもりだった。
しかしある日
ボクは偶然にも哲(凛)そして久美ちゃんと親しくなるきっかけを持った。
ボクらを繋いだのは、ボク達の家の近所にある小さな公園
そう、この公園はじつはボクらが死んだ『あの防空壕があった広場だった場所』。
戦後はこの一帯も少しずつ復興し、次第にまた多くの家々が建ち並び、そして広場だったこの場所は公園になった。
ボクは体の調子の良い時はしばしばこの公園を訪れては一人静かにブランコに座って漕いでいた。
ボクの記憶ではちょうどこのブランコの下に防空壕があったんだ。
1メートルほどの幅の入口で穴が5メートルほど下斜めに掘られて、あのときはそこに7人くらいの人がギューギューに肩を寄せ合って座っていた。
暑苦しくって、土の匂いとホコリだらけ
そんな場所でボクたちは全員竜火に焼かれて一瞬で死んでしまったんだ。
2年生の初め頃のある日曜日の午後
ボクはいつものようにこの公園にやって来た。
2つ並んだブランコのうちボクが乗るのはいつも決まって右側。
キィーーーー
キィーーーー
足を小さく揺らすと前後に揺れる赤いブランコ
でも、あの時代の面影はもう何もない。
今は誰にも傷つけられることのない平和な時代。
毎日空襲の心配をせずゆっくり寝られて、お腹いっぱい美味しい食べ物を食べられる。
家の下敷きになって死んでいった僕と凛のお父ちゃんとお母ちゃん。
2人ももしかしたらこの平和な時代のどこかに生まれ変わっているんだろうか。
お父ちゃん…。
お母ちゃん…。
今世の自分の両親は鮎川の父と母なのに
2人ともとても優しい親でボクのことを愛してくれているのに
前世の両親を思い出すとなぜか涙が自然に溢れてしまう。
「前世の記憶を持ったまま生まれ変わることは自分のために良いことではない」
そう言ったあの死の森で出会った背広姿の男の言った言葉が思い出された。
するとそのとき
「ネェ?」
下を向いていたボクは突然かけられたその声にフッと顔を上げた。
ボクの前には哲(凛)と久美ちゃんの2人が立っていた。
(り、凛!!! 久美ちゃん!)
高まる心臓の鼓動を抑えながら
「エ、あの、なに?」
とボクは返事をした。
「あのさ、ブランコの順番待ってるんだけど」
哲(凛)はぼっきらぼうにそう言った。
「え、あ、ああ、ゴメン」
気がついたらボクは30分以上もここに座ってしまっていた。
ボクはブランコを降りて2人に譲る。
2人は仲良さそうに並んでそのブランコに座りキャッキャと漕ぎ始めた。
「あ、あの…」
ボクは意を決して哲(凛)に声をかけた。
「なに?」
哲(凛)は漕いでいたブランドを足で止めて、怪訝そうに僕の方を向いて応える。
「あの、小谷君と安藤さん…だよネ?」
「ウン、そうだけど。キミは誰だっけ?」
「あ、同じクラスの鮎川、鮎川 渡っていうんだ」
すると哲(凛)と久美ちゃんはお互い顔を見合わせる。
「同じクラスに? いたっけ?」
「あ、ボク、病気でよく学校休むから」
「もしかしてアタシの席の2つ後ろの席にいる人?」
久美ちゃんがボクにそう尋ねる。
「ウン、そうだよ」
「そうなんだー。2年生になっていつもその席空いてるから誰かいるのかなぁって思ってた」
「なんだー。じゃあ、同じクラスじゃん!一緒に遊ぼうヨ」
哲(凛)はボクにそう言ってくれた。
「い、いいの?」
「当たり前じゃん。ね?久美ちゃん」
「ウン!一緒に遊ぼう」
こうしてボクら3人はその日を一緒に過ごすことになった。
哲に生まれ変わった凛は言葉遣いや態度は男の子そのものだった。
ただ、体格は同年齢の男の子に比べて華奢で、身長も体型も久美ちゃんと同じくらい。
顔つきは男の子としては柔らかく中性的な感じで、あの時代と同じクリッとした悪戯そうな大きな目に亜麻色の髪の毛をしていた。
またこの頃から女の子特有の少し甘い体臭を出していた。
そしてその日からボクら3人は時々この公園で会って遊ぶようになった。
特に約束をして集まるわけではない。
ボクが2人が来るのをここで待っているのだ。
そして偶然に会ったように声をかけた。
ボクらのそんな関係は半年ほど続く。
ボクは死後の世界で、今の自我を持ったままもう一度だけ現世に生まれ変わることを許されていた。
与えられた時間は2年間。
この2年間をどう使って凛の人生の悲しい方向性を変えられるか、
ボクは悩みに悩んだ。
女として生まれたはずの凛は、母体内にいるときのちょっとしたホルモンバランスの影響で局部に男性のような変化をもったまま生まれてきてしまう。
ところが身体そのものは女性のわけで、当然のようにそのときがきて彼女は女性としての生理を迎えることになる。
女性としての身体、それに対して14年間男として過ごした心
この2つが正面からぶつかり合ってしまい
そして凛は自らで自ら崩壊していく
自分が産んだ子供を残して。
ボクはこのような凛の運命を何としてでも、絶対に、変えなくちゃならない。
ボクは、あの死後の世界の番人らしきおっちゃんからもらった人生を映す鏡を使って、凛のその後の人生を何度も繰り返して見た。
凛は中2の夏休みに女性として生活を変えるまでの間に何人かの人と出会っている。
このつながりの中に何か凛の心に変化というか刺激を与えられるような、そういうものはないだろうか。
そして
その中でひとりボクの目にとまったのが石川 渉という男の子だった。
彼は小4のとき凛や久美ちゃんと同じクラスになり、そして鮎川 渡のときのボクと同じようにあの公園で2人と偶然の出会いをして仲良く遊ぶようになった。
しかし彼はその後小5のときに両親の離婚が離婚し、そして母親に連れられて大阪へ転校してしまっていた。
「こいつは使えるな…」
ボクは鏡を使ってこいつのことを調べてみた。
「ウハ! なんかとんでもないヤツだな」
調べてみると、彼はその後グレてしまい大阪でとんでもない不良に変身。
喧嘩上等、警察に補導された回数は数知れず。
中学では入学早々不良グループのリーダー格にまでなってしまうようなワルだった。
ただ、不思議なことに、喧嘩はしても万引きやカツアゲなどには手を出していない。
女の子の絡んでいる事件もない。
「ヨシ…」
ボクはある決心をして彼の夢の中に入り込んだ。
そして彼の頭の中にある記憶をゆっくり吸い取っていく。
彼が眠りに着いてから
毎日少しずつ、ゆっくりと
そして彼の記憶をすべてコピーしてしまう。
それにしても、コイツの頭ん中すごいキョーレツな関西弁やな。
アレ!アホか!
関西弁まで完全に移ってもーたワ!(笑)
そしてそれから数日後
ここは凛たちの通う若松中の近くの商店街
ほら、凛と久美ちゃんが並んで向こうから歩いてくる。
凛は、長めのボブカットの髪のかかったなめらかな肩を揺らし
紺色のジャンパースカートにボレロ姿で
スカートから出ている白い足がまぶしい。
(ああ、凛、綺麗になったなぁ)
(もうすっかり女の子らしくなって…)
(あのヤンチャだった凛が)
(あのとき死なずにもし成長できたら、きっとこんな素敵な女の子になってたんやろなあ)
久美ちゃんは長めの髪をポニーテールにまとめて、あのときと同じように可愛らしい。
(ヨシッ!)
ボクは彼女たちの方に向かって歩き始める。
できるだけ自然に。
商店街のアーケードの道をお互い反対側から歩いて
そしてボクは2人とすれ違う
「あれ!?違ったらゴメンな。もしかして…久美ちゃんか?」
クルッと振り返る凛と久美ちゃん
「久美ちゃんやろ? 違ったか?」
「イエ、そうですけど…」
「そうやろぉ!いやー、すごい偶然やなぁ!」
そしてボクたちの『ときの流れ』は再び始まった。




