第24話 トオル君とのお付き合い
こうしてアタシたちのお付き合いが始まった。
カレは高等部を卒業した後、系列の青葉学院大学に進学したが、高等部と大学は同じキャンパスの中にあるので機会を作っては会えることも多い。
そしてカレはやはりまた空手部に入部した。
練習は高等部時代よりさらに厳しいそうで、カレは日曜日を除くほとんど毎日、授業が終わると大学体育館で3時間ほどハードな練習をする。
そしてアタシもチア部の練習が終わると夕方の6時くらいになることが多い。
そのためアタシたちはお互いの練習が終わったころよく大学の学食で待ち合わせをしている。
今日は少し早めに来たアタシが、学食の隅にあるいつもの席で本を読みながらカレが練習が終わるのを待っている。
(あ、そろそろ6時半だ)
アタシはふっと本から目を離して自分の腕の時計を見た。
すると
アタシは少し離れた入り口のほうから学食に入ってくるカレの姿を見つける。
アタシはニコッと微笑んでカレのほうに小さく手を振る。
「待たせちゃってゴメンな」
カレはそう言いながら手に持った空手部の大きなバッグを下ろして隣の席に腰を下ろした。
「遅くまでお疲れ様。」
「そっちも今日もチア部の練習だったんだろ?」
「ウン。ね、聞いて?」
「ウン、どうした?」
「 あのね、アタシ、スタンツのパートリーダーになっちゃった」
「ヘェー!高校から始めたのにすごいじゃないか」
「エヘヘ、それでね、みーちゃんが副キャプテンになったんだヨ」
「あの娘が?そっかぁ。じゃあ、2人ともこれから後輩の面倒をしっかり見なくちゃな。」
2人の間で自然とこんな会話が始まる。
でもちょっとまだぎこちない雰囲気なのは、お互いの主語がないこと。
つまりお付き合いが始まってまだ1ヶ月ほど、お互いに相手をなんて呼んだらいいのかまだはっきりしていないのだ。
お付き合いを決める前までは、アタシはカレを『トオル先輩』
カレはアタシを『凛ちゃん』って呼んでいたんだけど
お互い恋人として意識するようになって、名前で呼ぶのがなんか照れくさかったりする。
だからアタシはカレと一緒にいて「ねえ」なんて呼んでしまうし
カレはアタシに「なあ」なんて言ったり…
それでアタシはカレに提案した。
「ね、あの…」
「ん?なに?」
「アタシ、トオル君って…呼んでもいいかなぁ?」
するとアタシのこの言葉にカレは自分のこめかみを指で数回ポリポリと掻くしぐさをする。
このしぐさをするときはカレは照れているとき
そしてカレは次第に本当に照れた顔になり
「エ、あ、ああ、もちろん」
と答えた。
「じつはオレもちょっと考えてたんだ。付き合っててお互いなんか名前を呼びづらくなったっていうか」
「ウン、アタシも(笑)なんか照れちゃって(笑)」
「そうかもな(笑) でも、お互いちゃんと名前を言わないとって思ったし。それでオレは何て呼べばいいかな? 今までどおり凛ちゃん?」
「できたら…もう『ちゃん』ってつけない方が…いいかなって…」
「凛…って呼び捨てでいいの?」
「ウン。親とか女友達以外でそう呼んでくれるのがトオル君でいてほしいから」
「じゃあ、エット、…凛。そうしよう」
「ハイ。トオル…君」
「ハハハ、慣れるまで少し時間かかりそうだな。」
「フフフ…」
「なあ、凛ちゃ…あっと、凛。ハハ、まだなんか慣れないな(笑)」
「アハハ、ウン。なに?」
「凛は今度の日曜日はなんか予定ある?」
「ウウン、なにもないヨ。もしかしてどっか連れてってくれるのかな?」
「ああ、それでどっか行きたいとこあるかな?」
「ウーン…あるにはあるけど…」
「あるけど?」
「初デートはトオル君のエスコートに任せます(笑)」
「エ、なんで?」
「これからトオル君のこともっとたくさん知りたいから。だからトオル君の行きたいとこに連れてってほしいの。ダメ?」
「あ、いや、ダメじゃないけど。でも、オレの行くとこってそんな大したとこでもないぜ。女の子の喜びそうなとこってよくわからないし。それでもいいの?」
トオル君はアタシの言葉に照れたような、そして少し困ったような表情になった。
「うん、いいの。お願い!」
さてそして日曜日
アタシはトオル君と待ち合わせをした新宿駅の南口改札前へと向かう。
カレは「気を使わない普段着でいいから」と言っていたので、アタシもそれらしい服装を選んだ。
薄いブルーのシャツにストライプのパーカー、そしてデニムの生地に小さな白いフリルのついたスカートという感じでまとめた。
約束は朝の10時
10分くらい早めに来たつもりだけど、カレはもうすでに来ていて目印の柱のところに立っている。
アタシはカレに気づかれないようにそっとその方向に近づき、そして柱の反対側に隠れた。後ろから背中をたたいて脅かしてやろうと思ったからだ。
身長が180センチを超えて、さすがに空手をやってきただけあって精悍な顔をしているカレは人ごみの中にいてもけっこう目立つ。
高等部のときもカレのことを好きだという女の子がかなりいたのを知っているし、その中には実際カレに告白をしたという娘もいたらしい。だから、カレがアタシに気持ちを打ち明けてくれたとき本気なのかどうかが正直少し心に引っかかったりもした。
するとそこに制服姿の2人の派手そうな感じをした高校生の女のコが近づいてきた。
(エ、誰!?)
カレに声をかけようとしたアタシは思わず身を引っ込めて柱の裏側でその様子をうかがう。
「あの、誰かと待ち合わせなんですか?」
その2人のうちひとりがカレにそう話しかけた。
カレは少し驚いたように顔を上げると
「あ、ああ。うん、待ち合わせしてるけど」
と答える。
「もしかして友達とか?よかったらアタシたちも2人だから一緒にどっか行きません?」
するとカレは困ったような顔をして言った。
「ゴメン。彼女を待ってるから」
「じゃあ、アドレス教えて? 別のときならいいでしょ?」
その娘はそこで食い下がらずそう続けてきた。
するとトオル君は優しい口調で、でもはっきりと
「いや、ゴメン。オレ、そういうことしたくないし、できないんだ。キミだってもし自分のカレが知らないところでそういうことをやってたら嫌だろ?」
とその娘に言った。
その言葉を聞いたその2人の女のコは、その言葉にようやくその場を去って行った。
正直言って安心した
っていうか
なんかすごく嬉しかった。
アタシはそれから少しだけ時間をおいて、柱の裏から身を出してカレの前に進み出た。
そのときカレは自分の腕の時計で時間を見ようと目を下に落としていた。
そしてアタシが
「あの……」
と声をかけたとき
カレは顔をあげながら
「ゴメン!彼女と待ち合わせだからダメッ!」
今度は少しきつい口調で言ったのだった。
そして顔を上げた瞬間
「エ、あ、、凛か。びっくりした。ア、アハハ」
そう言ってカレはテレを隠すように笑った。
「どうしたの?アタシもびっくりしたヨ」
「あ、いや、さっきさ、知らない女のコ2人に突然声をかけられちゃってさ。それでまた戻ってきたのかと思って」
あ、意外…
アタシは、さっきのことはアタシの気を悪くさせないようにカレは誤魔化すのかって思ってた。
でもカレはそういうことをいちゃんとアタシに話してくれたのは意外だった。
嬉しい!
すごく嬉しかった!
そして身長157センチのアタシは180センチを超えるトオル君の腕の先に自分の腕を絡ませる。
今までしたことのない大胆なアタシの行動にカレは少し驚くような顔をする。
「じゃあ、行こうか」
そしてアタシたちはホームのほうに向かって肩を並べて歩き出した。
「さて、トオル君。今日はどこへ連れてってくれるんでしょう?」
アタシはカレにそう尋ねた。
「今日はね、オレが行くいろんな場所に凛を連れてってやろうって思ってるんだ」
カレは少し得意そうな顔をしてそう言った。
「トオル君が行くいろんな場所?」
「そうさ。いろんな場所。じつはさ、オレ空手のほかにもうひとつ昔からやってる趣味があるんだ」
「へぇ、それって知らなかったなぁー。空手一筋なのかと思ってた。」
「アハハ、そりゃ空手は好きさ。でももしかしたらそれと正反対の趣味っていえるかもしれないな」
「正反対の?なんだろう?」
「じつはさ、これなんだ。」
トオル君はそう言って自分の肩に下げた大きめのバッグからかなり高そうなカメラを取り出した。
「カメラが趣味だったの!?」
「ああ、小学校のときからずっとな。意外だろ?」
「ウン、意外ー!そんな芸術家っぽいところもあったなんて」
カメラオタクといえば中学校までずっと一緒だった安田を思い出す。
アイツもこういう大きなカメラを持ってたっけ。
ただしアイツの場合カメラ一筋だったから部活も写真部と徹底してたけど(笑)
「ハハハ、芸術家なんてカッコいいもんじゃないさ。街を歩いてて、ふっと気になった風景とか目に留まったものとかを撮ってるうちにそれが趣味になったんだ。それでな、今日は凛を被写体にしてみたくなってさ。嫌?」
「ウウン。嫌じゃないヨ。でもそれならもっとオシャレしてくればよかった」
「それじゃダメだよ(笑)普段着の凛を撮りたいんだから」
「普段着のアタシ?」
「そう。笑った顔も怒った顔も、つんと澄ましている顔も、優しい顔も」
「フフフ、なんか楽しそうかも(笑)」
そんなことを話しながらトオル君がまず最初に連れてってくれたのは本当に意外な場所、そこは「三ノ輪」だった。
それも日比谷線の電車を降りてそこからどこかへと向かって歩く。
「三ノ輪って…何かあったっけ?」
不思議そうに尋ねるアタシにカレは
「さあ、スタート地点に着いた」
そう言って指をさしたのは都営荒川線の停留所、つまり『ちんちん電車』だった。
「凛は同じ東京でも反対側のほうだからこういうのは乗ったことないだろ?」
「ウン。初めて。話は聞いたことあるけど。 昔はたくさん路線があったらしいよね」
「そうらしいな。昔は渋谷の青葉学院の正門前にも路線があったらしいぜ。でも今はこれ1つだけなんだ」
「さて、それじゃ今日のほんとうに大雑把なスケジュールをここで発表します」
「ハイ、トオル君。どーぞ!」
「えっと、今日はこの電車の1日乗車券を買って乗ります。そして気まぐれに思いついたところで降りて、その街をぶらっとして、そしたらまたこの電車に乗って前に進む。ゴールは早稲田の街です」
「へぇー、楽しそうー!予定を作らないで気まぐれっていうのがいいよね!」
「だろ? だから昼メシも腹が減ったところで偶然見つけた店に入ればいい。オッケー?」
「オッケー!」
「じゃあ出発だ」
こうしてアタシとトオル君の1日小旅行はこうして始まった。
のんびり気ままな都内の小旅行
直線にすればわずか数キロの距離なんだろうけど、その途中にはホントにたくさんの風景が溢れていた。
まずは荒川遊園地前で降りてふらっと園内を散策
トオル君はたくさんの花畑をバックにしてアタシを何枚かの写真に収めた。
そういえばワタルにはこうやって写真を撮る趣味はなかったけど、カレと一緒に写した何枚かの写真もあった。
でもその写真もワタルが最後に行ったアタシについての周囲の記憶のすり替えでみんな消えてしまったり他の写真になったりしていて…。
結局カレが写っている写真は小学校時代のカレが亡くなる前にワタルAたちと一緒にとった1枚だけだった。
アタシはこの写真をワタルAからもらって、そしてワタルのために編んでいた編み掛けのマフラーと一緒に箱の中にしまってある。
そして今アタシの横にはワタルではなくトオル君がいる。
中2のあの夏
それまで男のコとしての人生を過ごしていたはずのアタシに思いもしない初潮というものが訪れて、そしてアタシの人生はまったく別の未来を描き始めた。
そういう過去を思い出すと、ああ、こんな人生ってあるんだなぁって、ホント不思議に思えてくる。
結局『ワタル』という人物は何者だったんだろう?
カレはどこから来てどこに去って行ったのか
そしてカレはなぜそこまでしてアタシのためにしてくれたのか
それは今でもほとんどすべてが謎のままだった
「ーーー凛?」
そんなことを考えながら歩いているとトオル君がふっと話しかけてくる。
「どうした?なんかボーっとしちゃってたけど」
「あ、ウウン。ゴメンね。なんか初めてトオル君と出会ったときのこと思い出しちゃった。それで今こうやって一緒に歩いているのがちょっと不思議だなって思って」
「そうだよなあ。あれからもう3年経ったのか」
「ね、トオル君は初めてアタシと会ったときどんな印象だった?」
アタシは唐突にこんな質問をした。
「ウーン…そうだなあ。偶然っていうか、今から思えば逆に言えば運命っぽい感じだった気がするな」
「運命っぽいって?」
「じつはさ、あのときオレあの道を通るつもりじゃなかったんだ」
「そうなの?」
「ああ。あのときオレはセンター街を歩いてたんだけどさ、そしたらその先のほうで知り合いを見かけたような気がして…。 そいつを追いかけてスペイン坂のほうに走っていったんだよ」
「知り合いって、友達?」
「うーん、友達っていうか…、ほら、前にディズニーランドで少し話したろ?ガキのころ家の近くの公園で偶然会ったヤツ。もちろんお互い成長しているからすれ違ったってわかるはずないのに、でもそのときなぜだかわからないけど「コイツだ!」って直感したんだな。それでオレは無意識にそいつを追いかけていった。そしたら凛とミコちゃんがナンパに絡まれているとこに出くわしたんだ」
「そうなんだぁ。それでその人はその後見つかったの?」
「いや、見つからなかった。っていうか、もともとそいつが本当にそのときのヤツだったかさえわかんないし、だいたい小3のときに1回しか会ったことなかったのに高校生になったヤツをわかるはずないんだよな。でも、そのときはただ直感だけで、考えるより先に足が動いちゃったような感じだったし。ひとつ確かなことはそれがきっかけで凛に出会えたってことかな」
「そっかぁ…。 ね、トオル君の記憶に残ってるその男のコってどういう感じの子だったのかなあ?」
「うーん、もううっすらしか記憶しかないけど、痩せててひょろっとした感じのヤツだった気がするな。ただニカッて笑うとなんか気持ちがいいっていうか、もしオレに弟がいたらこういうのかなって思った」
「なんて名前だったかなあ…。たしか浅田とか浅川とか…『あ』で始まる名前だと思ったけど、いや、違うな、綾野だったっけ?もう思い出せないな(笑)そのとき2回ほど手紙をもらったんだけど、それも今ではどこにいったかわらないんだ。確かオレの1学年下だったから凛と同じ高3のはずだな」
「へぇー、アタシも会ってみたかったなあ。なんか幻の少年って感じだよね?」
「あ、凛。それ、うまい表現だな(笑)そう、まさにアイツは幻の少年だったのかもしれないなぁ…」
緑に囲まれた並木道で、アタシとトオル君はそんなことを話しながらゆっくり歩いていた。
フッと横を見ると男のコと女のコのカップルが芝生の上にシートを敷いてお弁当を広げている。
(あ、カップルかな。なんかかわいい)
2人とも顔を後ろに向けていてよくわからないけど、その女のコは男のコに水筒のお茶をついで渡してあげたりしながらいろいろと世話を焼いているみたいだ。
フフフーーー
いいなあ、ああいうのって
そういえば前にアタシもワタルにお弁当を作ってあげたっけ
それなりに上手にできたつもりだったけど、中には焼きすぎで焦げてしまった玉子焼きなんかもあったし、ワタルの好物の筑前煮はちょっと味が濃すぎたかもしれない。
いつか、トオル君に作ってあげる機会があったら今度はもっと上手になっていたいなぁ…。
そんなことを考えながら、アタシたちがそのカップルの横を通り過ぎようとしたときだった。
「ほら、悟。これも悟の好物でしょ。みー姉ちゃん、頑張って作ってみたんだヨー」
そんな声が聞こえてきて、アタシは「エッ!」と思い足を止めてとその2人の方を振り返った。
すると
「み、みーちゃん!……と悟」
そして
アタシの声にその2人はくるっとこっちを振り返った。
「あ、あーーー!凛ーーー!」
みーちゃんはびっくりした顔でそう叫ぶ。
「どうしたの?2人で。びっくりしたあーー!」
しかし悟はばつの悪そうな顔もせず
「ああ、みー姉ちゃんにお弁当作ってあげるからピクニックに行こうって言われてさ」
そう言いながら、彼はみーちゃんの作ったお弁当をパクついている。
一方でみーちゃんはけっこう動揺した表情
「あ、ほ、ほら、さ、悟は、中3で毎日受験勉強ばっかりみたいだから、ちょっと息抜きさせてあげたいなって…アハハ(笑)」
彼女は呂律が回ってなくしどろもどろだ。
あらあら…
彼女が悟のことを自分の弟みたいにべたっかわいがりしてるのは知ってたけど、まさかここまでとはね…(笑)
そこに
「凛の弟さん?」
トオル君が悟のほうを見てアタシに尋ねた。
「あ、ウン。今年中3なの」
「そっか。やあ、はじめまして。笹村透っていいます。ヨロシク」
ニコッと笑ってトオル君は悟にそう挨拶した。
すると悟は口にくわえていたみーちゃんお手製のサンドイッチをゴクッと飲み込んで
「もしかして、凛ちゃんの彼氏?」
ぶっきらぼうにトオル君にそう聞いてきた。
「え、ああ、まあ」
トオル君は答えに困ったような顔で少し照れながらそう答える。
「悟!アンタ、ちゃんと挨拶してヨッ!」
アタシは悟にちょっと怖い顔で睨みながらそう言うと
悟はすくっとシートから立ち上がって
「小谷 悟です。凛ちゃんって甘えんぼなとこあるけど、可愛がってやってね。」
そう言ってぺこっと頭を下げた。
「さ、さとるぅぅ~~~~、アンタ、可愛がってやってねって…」
もうアタシの顔は真っ赤になっていく。
「あ…」
一瞬答えに詰まったようなトオル君は0.5秒ほどの間を置いて大きな声で笑い始めた。
「アハ・・・アハハハ!わかった、ウン。ちゃんと可愛がるから」
「さとるぅぅぅ~~~~~」
もうアタシは返す言葉が見つからない。
その横ではみーちゃんもクスクスと笑っていた。
「とにかく、凛たちも座らない?」
みーちゃんがお弁当を脇に寄せて場所を空けてくれた。
アタシとトオル君はそのシートにお邪魔して座ると、みーちゃんはバッグの中から紙コップを2つ取り出し、そこに持ってきたジュースを注いでアタシとトオル君に渡してくれる。
「さっき、佐倉さんのことを『みー姉ちゃん』って呼んでたけど」
トオル君が悟にそう尋ねた。
「ああ、ウン。そうだヨ」
悟は平然とした顔で答える。
「もうね、みーちゃん、悟にベタ甘だから。アタシのことは凛ちゃんでミコのこともミコちゃんなのに、みーちゃんだけみー姉ちゃんって呼ぶの。不思議でしょ?」
アタシはほぅっとため息をついてそう言った。
「だって、凛ちゃんって怒ると怖いんだもん。みー姉ちゃんはいつも優しいんだぜ」
悟は悪びれのない顔でそう返してきた。
するとトオル君は
「ハハハハハ!!そうかあ。本当のお姉ちゃんは怒るとそんなに怖いんだ?」
面白がって悟に尋ねた。
「そうさー!この前なんかねーーー」
「ウンウン!」
そしてアタシは次の瞬間悟の口を手でばっと覆った。
「ムグムグーーーー」
「アハハハ、いいじゃないか。」
トオル君はさらにゲラゲラと笑い始める。
「ぷはぁー!ほらね、ときどきだけど怒るとメチャクチャ怖いんだ」
ああ、もうアタシのトオル君へのイメージぐちゃぐちゃ……
まったく!この弟はっっ!!
するとトオル君はこう言った。
「いや、いいんだ。オレはそんなところも全部含めてキミのお姉さんのことを好きになったんだからね」
カレのその言葉に思わずアタシの顔は真っ赤になる。
でもうれしい…
トオル君
意外な場所で聞けたトオル君の気持ちだった。
「羨ましいなあ、凛」
みーちゃんがそう言ってアタシの脇を軽く小突く。
「エヘヘ…」
「あ、よかったら凛たちも食べて?」
みーちゃんはそう言ってお弁当をアタシたちにも勧めた。
するとトオル君は
「ありがとう。でもせっかく2人で来たんだから、悟君にいっぱい食べさせてあげなよ。オレたちもそろそろ行かなくちゃ」
そう言ってすくっと立ち上がった。
「エ、もう?」
アタシがちょっと不思議そうにそう言うとトオル君は
「あ、ウン。じつはふらっと気ままな旅のつもりだけど、昼メシ食う場所はちょっと考えてあるんだ」
そう言ってカレは少し悪戯そうな表情で微笑んだ。
そしてみーちゃんたちと分かれ、アタシたちは2人と分かれてまた都電に乗る。
電車の中で
「ねぇ、あの2人もしかして付き合ってるのかな?」
アタシはトオル君にそう尋ねた。
「さあ。でも、佐倉さんは凛の弟さんのことが可愛くてしょうがないって感じではあったな」
「そうだねー。そういえば前にね、みーちゃんにちょっと聞いたことがあったの。みーちゃんにも昔弟さんがいて、でも事故で亡くなっちゃったんだって。その子がちょうど悟と同じ年だったって」
「そっかあ。でもきっかけはカップルそれぞれだからな。オレが凛と出会ったのだってあのときアイツが…」
そこまで言ってトオル君は突然ふっと考え込んだ。
「どうしたの?」
アタシが尋ねると
「いや、アイツがさ、今思い出した!」
「何を思い出したの?」
「アイツはやっぱりあのときのアイツだったんだ」
「もしかしてその人の名前を思い出したとか?」
「いや、名前は思い出せない。でも、あのとき、オレはセンター街からスペイン坂の方に向かう角に立っていたアイツを見かけたんだ。そしてオレはアイツを追って行った」
「そのとき、すごい人並みの中でなんで突然アイツの姿が目に入ったかってずっと思い出せなかったんだ。でも今思い出せた。アイツはオレのほうに向かって確かに「トオル君!」と言って微笑んだんだ」
「でも、人がたくさんいたんでしょ? それにそのときトオル君とその人ってけっこう離れてたって」
「ああ、50mくらいは離れていた。でも確かに聞こえたんだ。「トオル君!」って、アイツの声が。でも不思議だな…そんなに叫ぶような声じゃなかったはずだ。それなのになんでそれだけ離れてて聞こえたんだろう?」
トオル君はそう言うと少し考え込んでしまう。
「あ、いや、ゴメン。せっかくのデートなのにこんな話ばっかりになっちゃつまらないよな」
「ウウン。いいヨ。だって、たとえ偶然だって、その人がアタシとトオル君をつないでくれたんじゃない」
「ああ、そうだな。そうなんだよな。アイツ元気でやってるかなあ。オレさ、もし、もしいつかアイツと会えるようなことがあったら凛を紹介したいって思ってるんだ。オマエのおかげで彼女とめぐり合えたんだって」
「ウン。アタシもその人に会ってみたいな」
そんなことを話していると都電は停留所に近づこうとしていた。
「まもなく面影橋~~~、面影橋です」
電車のアナウンスが流れてきた。
「さあ、ここだ。ここで降りよう」
そう言ってトオル君は座席から立ち上がった。
そこはこの都電の最終停留所の早稲田のひとつ手前の駅だった。
駅から降りた町並みは神田川沿いのビルの間に低い民家があったり、そして路地の奥に突然喫茶店があったりと、アタシの住んでいる街の雰囲気とはかなり違った感じだ。
でもそれが何か不思議な空間で、たくさんの人の生活の匂いがする。
アタシはトオル君に連れられてそんな町並みの中をしばらく歩いていく。
カレが案内してくれたのは小さなビルに囲まれて、ふっと見逃してしまいそうなそんな小さなお好み焼きのお店だった。
「じつはこの前早稲田大学との交流試合があってさ。そのとき知り合った早稲田の人に連れてきてもらった店なんだ。」
「へぇー。教えてくれればアタシ応援に行ったのに」
「ハハハ。オレは1年だし、まだ試合になんか出してもらえないよ。まあほとんど先輩たちの世話だな。でも、別の大学でも仲良くなったら自分の後輩みたいに可愛がってくれたり、大学って高校よりずっと世界が広いんだよな。ここは早稲川の空手部の人がよく行くらしいんだけど、そのときある早稲田空手部の3年生の人が店のおばちゃんに「もしコイツが来ることがあったらサービスしてやってよ」って言ってくれたんだ。だから、凛のこと連れてきてやりたくってさ」
(なんか嬉しいな)
自分がいいなって思ったものをアタシにも教えてくれる。
そうやって2人でいいなって思うものが増えていったらすごく嬉しい。
アタシが女として生活し始めてもう3年が経とうとしている。
ミコがときどき芦田さんのことをアタシに話すとき、彼女は「カレがいいと思うものをたくさん知りたいの」ってよく言ってた。
その感覚は男として生活していたときの自分には多分ないものだったと思う。
最初はそういうミコの言葉を少し不思議に感じたりもしていたけど、ワタルとの付き合いの中でその感情は次第に自分も持てるものだと感じ始めた。
そして、今トオル君と同じ気持ちを分け合いたいって思っている自分は、もう『あの頃の自分』とは別の自分なのかもしれない…なんて感じたりしていた。
ガラガラーーーーー
トオル君がお店の引き戸を開けてアタシも中に入っていく。
中は30畳ほどの大きさで、店内には鉄板のついたテーブルが7卓ほどがある素朴な感じ
そのうち2卓にはすでにお客さんが座ってお好み焼きを焼いている。
ソースの焦げたいい香りが漂ってきた。
「いらっしゃいませーーー!」
奥のほうから年配の女の人の声が威勢良く聞こえてきた。
出てきたのは50歳ほどに見える感じのショートカットの優しそうなおばさん。
「はい、いらっしゃい。あら、アナタもしかしてこの前早稲田の田口君たちと来た青葉の人じゃない?」
オバサンは少し驚いたような顔で嬉しそうに言った。
「あ、はい。青葉の笹村です。あのときはどうも」
「まあ、まあーー。さっそくまた来てくれたのね。ありがとう。さあ、こっちの席にどうぞ」
おばさんにそう言われてアタシとトオル君は奥のほうの席に着く。
「今日はお嬢さんと一緒なのね。もしかして笹村さんの?」
「あ、はい。ボクの付き合ってる彼女です」
アタシは席から少し腰を浮かせて挨拶した。
「あらー、可愛らしいお嬢さんじゃない!笹村さんモテそうだって思ったけどやっぱりね(笑)」
おばさんはそう言ってケラケラと笑い、アタシもトオル君も真っ赤になってしまう。
とにかく2人も席について、トオル君は広島焼きお好み焼きの大盛りを注文する。
すると、しばらくするとやってきたのは、すごい大きなどんぶりに並々と入っているお好み焼きの元と卵が2つそして生焼きそばだった。
「わぁー、すごい量じゃない!2人で食べきれるかなあー!」
アタシがその量にビックリしてそう言うと
「アハハ、ここは早稲田の学生さんの溜まり場みたいな店だからねぇ。みんないつも腹を減らせて来るからそれくらい軽く平らげちゃうのヨ」
おばさんはそう言って笑う。
「ああ、大丈夫さ。今日は俺がいつも作る特製のお好み焼きを凛にご馳走してやる」
「わぁ、楽しみー。アタシ、家で作るといつもひっくり返すとき失敗しちゃうの」
トオル君はまず熱くなった鉄板にサラダ油を薄く。
「いいか。油はビチャビチャにしちゃいけないんだ。薄く引いて生地の香ばしさを出す。少し焦げてるくらいがパリッとしてうまいんだ」
次にその大きなどんぶりの中の元をその鉄板の上に一気に空けた。
ジュゥゥゥーーーーーーーー
鉄板からフワァーーっとした香りがあがってくる。
それをトオル君は2つのヘラで上手に円形にまとめていった。
するとトオル君は今度はそのお好み焼きを焼く鉄板の空いたスペースで焼きそばを炒め始め、胡椒とソースで軽く味を付けていく。
「へぇー、そうやって別々に作っていくんだ?でもトオル君広島風のお好み焼きの作り方まで知ってるなんてすごいねー」
「ああ、これは大学の空手部の先輩から教わったんだ。ここみたく青葉大の近くにも溜まり場の店があってさ。そこで先輩が作ってくれて、そうやって青葉空手部代々受け継いでいってるんだってさ」
アタシの家は昔からの東京人だ
それでも広島風のお好み焼きはお祭りとかで食べたこともあったけど、こんな豪快な作り方だとは思わなかった。
そしてトオル君の表情は少し緊張したようになる。
「さあ、ここからがいよいよ勝負だ」
「勝負?」
アタシがそう尋ねると、トオル君は焼きあがった焼きそばを半生のお好み焼きの生地の上に乗せ、そして卵2つを割って鉄板の上に落す。
そして
「さあ、いくぞ!」
そう掛け声をかけると
一気にその上にその丸いお好み焼きをひっくり返しながら乗せた。
ジュゥゥゥゥーーーーーーー!!
辺りが卵や生地の水分の焼けて出る水蒸気に包まれる。
そしてその厚さはたっぷりと入った具のキャベツで優に3センチある。
「すごい厚いんだねぇ。ボリュームありそう(笑)」
アタシが驚いたように言うと
「いや、ここからが大切なんだ。見てろ」
そう言うとトオル君はヘラをその分厚いお好み焼きにぎゅぅーっと押し付けて体重をかけた。
すると3センチほどもあったお好み焼きはその半分ほどの暑さに圧縮されてしまう。
そして仕上げにソース、マヨネーズ、青のり、鰹節をかけていった。
ん~~~~~、もうたまらないいい香り
ソースの焦げる香りでアタシのおなかはぎゅぅっと小さな音を立てそうになる。
「さあ、できた!凛、皿を出して」
トオル君はそれを上手に8等分して、その一切れをアタシのお皿に乗せてくれた。
「さあ、凛。食べてみてくれ」
満足した仕上がりのようで、得意げな顔でそう言うトオル君
「ウン。じゃあ、いただきまぁーす」
パクッ
じゅわぁ~~っとソースの絡まったキャベツと焼きそばの甘い汁が口の中に広がった。
「どうだい?」
「う~~~~ん。お・い・し・い。トオル君お好み焼きの天才だヨー!」
アタシがニコッと微笑みながらそう言うとトオル君は満足したように今度は自分もほおばった。
ああ、なんかすごく幸せな気持だな。
今、自分が感じている幸せはきっと昔はわからないものだろうなって思う。
でも、アタシは今の自分がすごく幸せな気持ちでいることをはっきり確信できた。
こんなふうに2人で同じものを分け合って食べられることがすごく嬉しい。
オシャレなお店でオシャレな服を着て高級なものを食べるんじゃなくても、2人でいればこんなに楽しくてステキな時間を過せるんだ。
それはワタルと過した時間とはまた違う、アタシとトオル君の時間のような気がしたのだった。
アタシはこの人のことをきっともっと好きになっていくだろう
そのときアタシは心の中ではっきりとそう確信することができた。




