1話:火の用心
〈プロローグ〉
仲間達は、全員地に伏している。
唯一立っているのは――ヒュルネ=シュルーケン、彼女のみ。
金細工のごとき髪はくすみ、幼くも整った顔立ちは泥と血とススで戦場の化粧を施されていた。
血が足りない。視界がぼやける。意識が朦朧とする。左腕が動かない。右膝が痛い。息をするのが辛い。
今すぐにでも仲間達のように気を失いたかった。
彼女の意識を淵へと誘う悪魔の手。その手を取ってしまえば、彼女の使命はここで失われる。
前を向け。右腕に力を入れろ。両足で立て。
自分の体に対して罵倒する。だが彼女の決意を削るように、腹部から痛みが伝わってきた。次の瞬間、彼女は血で染まった吐瀉物を地面にぶちまけた。
辛い。痛い。辛い。痛い。辛い。痛い。
けれど。
「諦めませんわ……!」
ようやく、ここまで来たのだ。ようやく、ここまでたどり着いたのだ。
この好機を逃したら次はない。
ヒュルネは一歩踏み出す。ただ足を前に出す、それだけの動作で全身を鞭で打たれたかのような痛みが走った。
目を剥き、奥歯をかみしめる――その程度のことしか、痛みに耐える術はない。
今、ヒュルネの前には敵がいる。
大陸で最高額の賞金がかけられた凶悪な男。その実力は化け物のような強さを有する。知略は歴代の策士の中でも群を抜き、話術に長け、他人を平気で裏切る。
そのような力を持ちながら、彼の行動理念は子供じみたものだった。
――曰く、大陸全土に自分の存在を教えてやる。
全く以て厄介な理由であり、矯正できない性格でもある。
故に、ここで決着をつけなければならない。それがヒュルネに与えられた使命、割り当てられた役目だ。
ヒュルネは敵を見た。
男は無傷で、ヒュルネは満身創痍で。勝敗はすでに決まっている。
しかしそれが役目を放棄する理由にはならない。
ヒュルネは揺るぐことのない意志を胸に抱き、
「わたくしの実力、見せてあげますわ! お兄様!」
駆ける。
これは最悪と呼ばれた事件から三年後、兄に振り回される悲しき妹の――喜劇。
〈Ⅰ:火の用心〉
昼下がりのシュルーケン家の館。広大な敷地を持て余しながら、建てられた館のエントランスホールは舞踏会が開けるほどのスケールで作られている。
今、そのエントランスホールには数十人の使用人と衛兵が行き交い、まるで館内で大火事でも起こったかのような慌てようだった。
だが、喧噪の中で唯一不動として立ち尽くす一人の男がいた。初老ではあるものの、その風貌には老いを感じさせない気迫がにじみ出ている。表情は硬く、しきりに周囲へ指令と罵倒を交互にぶつける姿は、この館の主であることを語っていた。
男に衛兵が近寄る。
「やはり、『十二錠の門』は破られています!」
「抑止力として雇った五人衆は、何をしている! 高い給料を払っていたんだ! 絶対に、奴を外に出させるな!」
噛みつかんばかりの勢いで男は叫んだ。
「駄目です! 五人衆全員、完膚なきにまで敗北し、自信を喪失してます! 全員体育座りで、部屋に閉じこもってます!」
「あの金食い虫がぁ! 奴ら、一生臭い飯を食わしてやる!」
ムキイイイイ! と奇声を発し、地団太を踏む男。
「お館様、一刻も早くこのことを王国に連絡した方がよろしいかと」
「いかん! 奴が生きていたことが王国に知れれば、シュルーケン家は完全に終わりだ! ……そうだ! ヒュルネ、ヒュルネはどこだ!?」
男は自分の娘の名前を呼ぶ。今日は、朝から部屋にいるはずなのだが――
「現在、お昼寝中です」
「あの乳だけデカい馬鹿娘がぁ! いつも寝てるから、栄養分が胸に行くんだ!」
「あら、お父様。お腹に虫が止まってますわ」
鋭いパンチが男の腹部をえぐった。
「レバァァァァッ! ごふっ……ひゅ、ヒュルネちゃん? 起きていたのかい?」
現れたのは、寝間着姿の少女。金色に光る髪は金属質でありながら、太陽の光を含んでいるかのような柔らかい色彩をしている。齢17とは思えないほどの完璧なスタイル、二重瞼の黒目がちの瞳。それはもう絵に描いたような容姿であるのにも関わらず、繰り出した正拳は格闘王が放つ拳のごとき荒々しさを有した。
そう。いきなり、男に正拳突きを放った少女こそが、娘のヒュルネ=シュルーケンなのであった。
「お父様、次は首筋にウジ虫が――」
ヒュルネは笑顔を崩さず、追い打ちの準備を始める。
「やめい! 父を殺す気か!」
「いいえ、肥満気味のお父様のダイエットを手伝おうと思って、首と体を切り離す軽量化を考えていましたの」
「殺る気満々っ! こんな凶悪な娘に育ってくれて、お父様びっくりだよ!」
首を押さえながら、父親は微妙にヒュルネから距離を取る。
「それで、能なしのお父様。どうかしましたの?」
ヒュルネは腰に手を当てて、慌ただしい周囲を見回した。
「実はな、鬼畜娘ヒュルネよ……、アレンが逃げた」
ヒュルネの表情に驚きと不安が混じる。
「お兄様が? 王国が作った最高峰の完全牢獄『十二錠の門』を、どうしましたの?」
「ポッカリ、風穴が開いてる」
「元王国直属エリート集団の五人衆は?」
「全員、心が根本から折られてる。今は体育座りしたまま、引きこもりになってしまった」
ヒュルネ、ため息を一つ。
「……さすがは私のお兄様」
熱を帯びた頬をゆがませ、恍惚とした表情にシフトする。それはまるで恋心を抱く乙女のようにも見えた。
「お嬢様。アレン様から、お嬢様宛に書き置きが……」
衛兵の一人が、おそるおそるヒュルネに手紙を差し出す。
「私に? あのカス野郎から?」
「ヒュルネ、尊敬するのか貶すのか、どちらかにしなさい」
汚物を拾うような仕草で手紙を受け取り、紙面に書かれた文章に目を通した。
『でぃあ、ヒュルネちゃんへ。我が愛しきおっぱいちゃん。もうこれでもかってくらい愛しきおっぱいちゃん。俺の人生の大半を意味するおっぱいちゃん。元気の源おっぱ――』
ピリッ。
「殺します! 存在ごと殺してやりますわ!」
「待て待てぇい! 破くのはすべて読んでからにしろ!」
嫌がらせメールを引き裂こうとするヒュルネを、父親が羽交い締めにする。
「こっちはストレスで胃が破けそうですのよ!」
荒い息を整え、父親を振り払うヒュルネ。
深呼吸を数回。心を落ち着かせ、続きを目で追った。
『――いつか、兄妹という囲いを捨てて愛し合おうよおっぱいちゃん』
「ク、ソ、ム、シ、がっ!」
「読んだところまでぇ! 破いていいのは、読んだところまででいいからぁ!」
「ふーっ! ふぅっ!」
肩で息をしながら、ヒュルネは手紙を破るか破らないかの葛藤に堪え忍ぶ。
『と、まあ、冗談はさておき。おっぱいちゃんへ、俺は旅に出ます。探さないでね。追伸:趣味のお昼寝も程々にしないと、ヒュルネが垂れてしまい――』
ビリィビリビリッ!
「あのクソお兄様ぁぁぁぁぁ! おっぱいと名前が逆じゃねぇかぁぁああああ!」
紙吹雪が舞う中、ヒュルネは高々と吼える。
かくして、彼女の物語は――始まった。
*
ガルバメント大陸――広大でありながら限られた狭き大地を、人間はそう呼ぶ。
大陸には数多くの国が存在していたが、過去に起きた戦乱により、衰退と繁栄、崩壊と増大、分散と合併を繰り返し、現在では指で数えられるほどとなった。
そんなガルバメント大陸で、最も領土と軍事力を持つのがツァラスト王国である。
王国領土・地方都市タクン。都市から少し外れ、木々に囲まれた森林の奥にひっそりと佇んでいる館が、ヒュルネが暮らすシュルーケン家の館だ。
「うーあー……」
自室のベッドの中で、ヒュルネはうめき声を上げた。
ヒュルネの部屋は豪華絢爛という言葉に尽きる。部屋に置かれたシックなデザインの椅子でさえ、農民が一生働いても手に入れることのできない大金で作られた代物だ。
滑らかな手触りのシーツを乱雑に退かし、ヒュルネはベッドから降りる。
欠伸と背伸びを一セット。脳に酸素が行き渡ったところで、ヒュルネは部屋のカーテンをすべて開けた。
日の光が部屋に射し込む。すると、日の光に反応するようにベッドの上に残されたシーツがもぞもぞと動き出した。
ヒュルネは薄く笑みを作り、
「起きなさい。セルドラ」
「クル~」
返事は人の言葉ではない。
寄せられたシーツから顔を出すのは火竜の子供だった。長い首にトカゲのような顔、ずんぐりとした体からはコウモリの翼に似た双翼が生えている。
竜は非常に稀少な生き物であり、世間一般では伝承でしか縁のない存在でもある。
火竜の子供――セルドラは、三年前にヒュルネの元にやってきた。竜という生き物は人懐っこい性格ではないはずなのだが、セルドラはヒュルネに非常に懐いており、世話に手を焼くことはない。
だがここ最近、ヒュルネにはセルドラに対して一つの悩みがあった。
『なんですか、ヒュルネ様? 僕の顔に何かついてますか? そんなに見つめられると、恥ずかしいんですけど……』
「…………」
人語は話していない……はず。ならば、これは夢なのだろうか。
それにしては長い夢である。かれこれ一ヶ月は、セルドラの言葉を理解してしまっている夢を見ているのだ。
『ま、まさか! 昨日、ヒュルネ様のお気に入りのティーカップを壊したことを怒って……そ、そんな! 証拠はバレないようにゴミ箱にポイしてきたのに!』
「あなたでしたのね」
ひとまず夢か現かの疑問を放棄して、セルドラの細い首をガッチリとホールドする。
『ひぐぅ! 首をつかまないで! チョーク、ダメ! 首はウィークポインツなんです!』
「怒ってませんわよ? えぇ、微塵も怒ってませんわ」
ニッコリと笑みを浮かべるものの、その微笑からは陰鬱なオーラが放たれていた。
「今晩のサイドメニューは火竜の竜骨スープが良いと思いますの。どうかしら?」
『贅沢ですね、さすがヒュルネ様! 竜を食べるなんて貴族のスケールが違います! ……ところで、その火竜って僕のことじゃありませんよね?』
セルドラが脂汗を掻き始めるが、ヒュルネは涼しい表情のままだ。
「うふふっ」
『笑ってごまかさないでぇぇぇ!』
手の中で、じたばたと暴れ出すセルドラ。まな板の鯉ならぬ、手中の竜である。
『ぼ、僕だけじゃないんですよぉ! ティーカップ壊したの、僕だけじゃないんです!』
「あら? そうでしたの? 今日は食材に困らない日ですわね」
『うわぁ! 僕が食材になるのは決定事項ですかー!?』
「どなたですの? 答えたら、スープはやめてあげますわ」
『使用人のヴァンです!』
「そう……今日は火竜の丸焼きですわね」
『下拵えがハブかれた!?』
――共犯のヴァンはどんな料理にしてやろうかしら?
悲鳴にも似た懇願を叫ぶセルドラを余所に、使用人の調理法を考えていると、
「お嬢様。おはようございます」
当の本人が現れた。
黒髪・黒い瞳・褐色の肌・燕尾服という、やけに黒色の配分が多い出で立ちの男――使用人ヴァン=ノディアス。彼はまだ二十歳を過ぎたばかりなのだが、洗礼された落ち着きのある雰囲気は使用人として生きてきた時間が短くないことを語っていた。
ヴァンの背後には、ヒュルネの着替えを持つ侍女が控える。おそらくヴァンが連れてきたのだろう。できる男ではある……が。
「ヴァン、ちょうどいいところに。わたくしに何か言うことはありませんの?」
「今日も花のように可憐なお姿。ツァラスト王国の次期王女は、ヒュルネ様以外には考えられません」
「そんなことより、わたくしに言うべきことがあるでしょう?」
心にもない薄っぺらいお世辞を聞き流し、ヒュルネは鋭い眼光をヴァンに向ける。
「……も、もしやアレのことでしょうか?」
表情を曇らせるヴァンの反応は、完全にクロである。
「わかっているのなら、あなたの口で言いなさい」
高圧的な態度を全面に押し出すと、ヴァンだけでなく侍女もたじろいでしまった。
「わ、わかりました。私もいつかはお嬢様に言わなければならないと思っていました……。この場を借りて言わせていただきます」
ヴァンはゴクリと生唾を飲み込み、一拍の間を置いた後、再び口を開いた。
「お嬢様。前々から思っていたのですが、人前で鼻をホジるのは――」
「しとらんわ、ボケぇ!」
激しい口調と比肩するほどの強烈な飛び膝蹴りが、ヴァンの顔面に直撃した。
「――! ――!」
声なき叫びを上げ、ゴロゴロゴローと床を転がり回るヴァン。
「わたくしがそんな下品な振る舞いをするはずないでしょうが!」
『でも、僕の前では――』
「スープ!」
『品行方正なお嬢様でございますぅ!』
セルドラの『声』がヴァン達に届くはずがないのだが、思わず黙らせてしまった。
「さて……ヴァン? あなたとセルドラが、お気に入りのティーカップを割ったことは、すでに知っていますのよ?」
「……そんな馬鹿な!? 証拠はバレないようにゴミ箱にポイしてきたのに!」
「ハンバーグの材料か、焼き肉の材料か……どちらがお好みですの?」
「お嬢様、原因は私ではありません!」
「見苦しいですわよ? この場に於いて、まだ罪から逃れようとしてますの?」
一切の猶予を認めない零下の瞳が、ヴァンを睥睨する。しかし大蛇に首を絞められているような状況下であっても、ヴァンは己の主張を挫くことなく、『原因』の名を口にした。
「……アレン様の仕業です」
「…………何を言ってるのかしら?」
有り得ないことだ。ヒュルネの兄、アレン=グランド=シュルーケンは館の地下に作られた牢獄で閉じこめられている。厳重な警備と最新のセキュリティにより、牢獄からは虫一匹さえ出入りできない。たとえ、それが兄であろうと例外ではない。
だから昨晩の『アレンが脱走した』という大事件は、夢でしかない。ただの悪夢に決まっているのだ。
「現実を見ましょう、お嬢様。アレン様は脱走――」
「あー、あー! 何も聞こえなーい! 聞こえませんわー!」
耳を押さえ、ヒュルネはその場にしゃがみ込んで叫ぶ。
「いやですわー! どうせ、この後の展開は分かってますものー! いやですわー!」
「子供ようなワガママを言わないでください。これからお嬢様は、アレン様を連れ戻しにいくためのスケジュールで一杯なんですから」
「いぃやっ! もう、あんなカス野郎のために、旅になんか出たくありませんのぉ!」
三年前もそうだ。たった一人の兄を捕まえるために、ガルバメント大陸をほぼ一周してしまった。
その道中は過酷の一言に尽きる。乗り越えた死線は数知れず、潜り抜けた刃は数え切れず、振り払った危機は数多い。一介の兵士が体験するであろう一生分の経験を、一回の旅で味わった。
だから旅の果てで兄を見つけたときは、それはもう喜びと怒りが溢れて入り交じり、笑いながら兄を血ダルマにしてやった。
……思い出したくもない思い出である。
「お嬢様、ひとまず落ち着いてください。お館様からお手紙が来ております」
スッと差し出される手紙から、ただならぬ嫌な予感が伝わってきた。
「お父様から? というか、なぜお父様は直接言わないんですの?」
同じ家に住んでいるというのに、手紙という回りくどい手法が胡散臭さを倍増させる。
「お館様は、昨晩からバカンスに行ってしまいました」
「逃げましたのね、あのクズ」
「私も連れていって欲しかったのですが、断られてしまいました」
つまりは一緒に逃げたかった――そんな意味合いを持つ台詞を、いけしゃあしゃあと吐ける使用人の図太さには、怒りが湧くどころか逆に一種の爽快さを感じる。
ヴァンに呆れたヒュルネは、仕方なく手紙の封を切った。
そこには一枚の紙に『ガンバってネ(はぁと) お父様より』と書かれていたが、無言で破り捨てる。そして手紙を踏みにじりながら、何事もなかったかのようにヴァンへと視線を向けた。
「それで? お兄様を“見つける”ための、私兵は動かしてますの?」
「お館様の命で、日の出前にガルバメント大陸の東西南北に兵を送り出しましたが……。お嬢様、もしややってくれるのでしょうか?」
「仕方ありませんわ。お兄様を捕まえられるのは、わたくししかいませんし。それに……三年前の『最悪』を繰り返すわけにはいきませんもの」
髪を掻き上げながらヒュルネは言う。陰りのある表情は歳とは不相応な大人びた空気を醸し出していた。
『三年前の最悪?』
セルドラが小さな鳴き声を上げる。
「貴方はそのときに拾いましたのよ。知らないのは当然ですわ」
『どんなことがあったんですか?』
「大陸内にあった全ての国が、たった一人の男によって混乱に陥りましたの。いずれの国も大損害を受け、たくさんの人に迷惑がかかりましたわ。……とにかく最悪ですのよ。思い出すだけでも最悪ですわ」
『はぁ。とりあえず最悪なんですね』
「最悪なんですの」
「お嬢様? お一人で何を語られているのですか?」
不信感を伴った視線は、ヴァンと侍女から発せられていた。
「ハッ! ち、ちちち違いますわよ! べっ、別にセルドラと喋ってるわけじゃありませんのよ!?」
「……最近お嬢様が情緒不安定になってる気がするのですが、やはり年頃の女性というのは、ああいったものなのでしょうか?」
侍女は曖昧な表情で答えを渋ったものの、ヒュルネの奇行に引いている感があった。後でどう弁論すべきか、考えておかねば。
『そういえば、僕とお話してますね! うわぁ! すごーい! さすがはヒュルネ様! 人の域を軽く通り越してますね!』
「……ドラゴンに人外呼ばわりされましたわ……」
「おや? お嬢様? 急に四つん這いになってどうなさいました?」
「気にしなくてよろしい」
軽く凹んだ後、深呼吸を一回。気分を一新してヒュルネは立ち上がった。
「思い立ったが吉日ですわ。どうせお父様のことです、準備はできているのでしょう?」
「さすがはお嬢様」
破顔一笑を決め、ヴァンが指を鳴らすと扉が勝手に開き、荷物を抱えた侍女二名が追加された。
「準備は万全でございます」
*
シュルーケン家の館前には、およそ五十を越える使用人が一列に並んでいた。みな直立不動で館に背を向ける姿は、十年も前から鎮座する石像のごとき風格を持ち合わせている。
彼らは見送りのために集められた使用人だ。
使用人達の視線の先には、旅衣装に身を包んだヒュルネがいる。
獣の皮で作られたブーツに、身動きのしやすいハーフパンツ。インナーシャツの上には袖無しのジャケットを羽織っている。服装だけならば貴族らしかぬ地味な色彩で固められているが、ヒュルネの秀麗な容姿と高貴な振る舞いが貴族の品格を周囲に再認識させる。
「お嬢様、スイミーに荷物を括りつけておきました」
ヴァンが馬を引き連れてやってくる。ちなみにスイミーとはヒュルネの愛馬の名である。
「ありがとう。気が利きますわね」
「いえ、お嬢様に仕える者でしたら当然のことでございます」
「そう。良い心がけね。これから長い旅路になりますけど、その調子で頼みますわよ」
ヴァンは命により、ヒュルネと共にアレンを探す旅に出ることとなった。
性格などに多少問題あるが、ヒュルネはヴァンに強い信頼を置いている。度胸もあり、護衛として文句は一切ない。
「……ところで、先ほどからセルドラが見当たりませんけど、あの子どこにいるのかしら?」
着替え終えたあたりに気づいたのだが、いつの間にかセルドラはヒュルネの近くから忽然と姿を消してしまっていた。
せめて別れの挨拶くらいはしたいと思い、出発時間ギリギリまで館内を探したものの、結局見つけることはできなかった。
「さあ……」
ヴァンの目が泳ぎに泳いでいる。ヒュルネが眼に力を入れて睨むと、ヴァンはスイミーに括りつけられた小さな皮袋に視線を逃がした。
「そこですのね」
「いえ、あれは非常食です」
「非常食の袋が先ほどから、小刻みに動いているのはなぜかしら?」
「活きの良い非常食ですので……って、あぁ!」
むんずと皮袋を手に取り、中身を確認する。
内容物:ドラゴン一匹。
非常食にしては下拵えに手間のかかるものである……が、活きが良いのは否定できない。
『あっ、見つかっちゃいました?』
ヒュルネの目が、殺人光線でも放つかのようにギラリと光る。その矛先はヴァンへと向けられた。
「どういうつもりですの? セルドラは連れていけないことには、貴方も賛同していたでしょう?」
「非常食が火竜に変わるとは、これまた摩訶不思議なこともあるのですね」
「ごまかしませんの」
「申し訳ございません」
ヒュルネの圧力に抗うことは出来ず、ヴァンは彫刻のように整った土下座を決めた。
「竜は希少な生き物ですの。旅に連れていけば、狙われることもありますわ」
旅の邪魔になる、という言い方はしない。ヒュルネの本心では、セルドラの身の安全を案じているだけだ。
『ええー!? 僕って、そんな人気者なんですかぁ!? さ、サインの練習しといた方がいいんですかね?』
無視。
「ですが、お嬢様」
土下座姿勢のまま、ヴァンは食い下がる。
「この館には、セルドラの世話を出来る者がおりません。というか、ぶっちゃけ、みんな誰も世話したくないんです。ドラゴンとか怖いですもん」
「これまた。ぶっちゃけましたわね」
『酷いですっ! 僕が火を吹くのは、ご飯がおいしいときだけなんですよ!?』
感極まって――というやつなのだろうか。あまりにも下らないので、問う気は起きない。
「困りましたわね……」
ヴァンが言ったことは否定できない事実である。
セルドラの人生(?)のほとんどはヒュルネと共に過ごしてきたため、人に懐いているわけではなくヒュルネに懐いているだけなのだ。不用意にセルドラに近づき、火を吹かれて腰を抜かす使用人も少なくない。
ヒュルネが夜会などに参加するときはヴァンが世話をしているが、旅に同行するために、セルドラの面倒は見れない。
『ヒュルネ様、ところで何の話をしているんですか?』
つぶらな瞳でこちらを見てくるセルドラ。
ヒュルネはしばし熟考した後、深いため息と共にセルドラを旅に連れて行くことを告げた。
*
館を出発し、街道の道なりに進むこと二時間。四つ辻に行き当たり、ヒュルネ達が選ぶべき進路は森林へと続く道だった。四つ辻を直進すると一時間もしない内に、周囲は木々に覆われる。ヒュルネ達が入り込んだ森は交易路として使われており、生い茂る木々を切り開いて舗装された道が続いていた。
ヒュルネは馬のスイミーに乗り、セルドラはヒュルネの肩に乗る。唯一、ヴァンだけは何も乗っていない。今までヴァンはずっと徒歩移動だった。本当なら馬をもう一頭用意すべきだったのだが、ヴァンが頑なに拒んだため、現在のような状況に陥っていた。
『綺麗な森ですねぇ……』
青々とした緑の葉から差し込む木漏れ日が、ステンドグラスのように地面を彩る。
「ところでお嬢様、なぜコアパレイを目指すのですか?」
当初の予定では最初の目的地は水上都市ユグヒムだったが、ヒュルネの発案によりコアパレイに変わった。
魔法都市コアパレイ。魔法という技術に魅了された者達が集い、魔法研究における非政府組織『魔法教導院』が設立されたことが、魔法都市の始まりとなる。
魔法教導院による魔法開発は著しく、その魔法技術を欲した大国・ツァラスト王国が庇護下にする代わりに技術提供を行うことになった。以後、メキメキと力を付けた魔法教導院は現代魔法の基本概念を構築し、エルフなどの亜人が使用する古代魔法の分類化を行うことで魔法の理論が確立した。もとより、魔法とは――
『ぐぅぐぅ……』
「お嬢様、なぜコアパレイを目指すのですか?」
「なぜ二回も言いましたの?」
「いえ、なんとなく……」
「まあいいですわ。わたくしが、コアパレイを目指す理由は一つだけでしてよ。ずばり、魔法大宴祭ですわ」
近日、コアパレイでは大規模な祭りが開催される。そこにヒュルネは目を付けた。
「なるほど。確かにアレン様は馬鹿が付くほどのお祭り好きでした。さすがはお嬢様、目の付けどころが違います」
『え!? ヒュルネ様は目が違うところに付いてるんですか!? ……って、うわぁ! 本当だ! 僕と違うところに目が付いてる! さすがはヒュルネ様!』
そもそも生物としての形が違う。
アホな仔は放っておいて、ヒュルネは進行方向へと目を向ける。
森の奥へと延々と続く道。その道の中央に、一人の女性が立っていた。
「おや、旅人でしょうか?」
「――ありえませんわ」
女性を旅人と呼ぶには、異様な点が多い。
一つ、この森を抜けるにしては軽装すぎる。女性は荷物らしきものを一つも持っていなかった。
一つ、服装がおかしい。森の中だというのに濃い紫色のドレスをまとっている。しかもドレス姿が長いのか、あっちこっちが破れ、解れていた。
一つ、女性が握る『く』の字に曲がった刀剣――ククリ刀。普通、旅人がそんな物を抜き身で持っていたりはしない。
様々な要素から鑑みるに、女性を旅人と呼ぶのには無理があった。
彼女をなんと呼ぶのかと問われたら、ヒュルネはこう言うだろう。
「頭のおかしい野盗ですわね」
馬の足を止め、相手の出方を窺う。
女性――女野盗は、ヒュルネの顔を見た瞬間、下卑た笑みを浮かべる。そしてドレスをひらめかせ、手に持つククリ刀の刃先をヒュルネに向けた。
「お嬢ちゃん、そうそこのお嬢ちゃん! 命がほしければ持ってるもの全部置いていきなさい! そう、置いておゆきなさい! 安心しなさい、そう安心しきって! 運が良ければ、なにもされずにお家に帰れるから! そう、帰れるのだから!」
何とも形容しにくい人物を前にして、ヒュルネの顔には『面倒くさい』と、はっきり書かれている。
『変な口調ですね。過去に母国でも滅ぼされたんでしょうかね?』
「お嬢様。アレと目を合わせてはいけません」
「そうね。アレを直視してしまったら、気が狂ってしまいそうですわ」
ひとまず、女野盗の呼称をアレと決めた。
「逃げますか?」
「全力で逃げましょう」
一秒たりともアレと関わりたくない。
ヒュルネが手綱を引き、ヴァンが姿勢を低くした瞬間、アレは高らかに笑った。
「ニヒッ! 無理ね、そう無理なのよ! お嬢ちゃんは我が大盗賊団“マティマ=ハルヴィニアとそのお友達”によって完全に包囲されているのよ、そう囲まれちゃってるんだよ!」
「はいしどうどう、はいどうどう!」
狂人の言葉が耳に入らないように、ヒュルネは謎のかけ声を張り上げた。そんなヒュルネの声に反応したのか、馬のスイミーが、ぶるるッと鳴いて蹄を地に叩きつける。
威圧的な蹄の音が鳴り響くと、途端にアレの顔が青白く染まった。
「ちょっと待って! そうお待ちなさい! 命令――ううん! お願いしちゃう!」
「はいしどうどう!」
ヒュルネは聞く耳など持ち合わせていない。完全に無視を決め込むヒュルネに対して、アレは慌て出し、ククリ刀をしまい、その場に土下座を始めた。
「ごめんなさい! うん、ごめんなさいです! どうか、お助けください! そうお助けてくださいまし!」
「はいし……はえ?」
突然の行動にヒュルネは素っ頓狂な声を上げてしまった。
「実は、このマティマ=ハルヴィニア率いる大盗賊団は、たった一人の悪党によって壊滅させられました! そう潰されてしまったのよ!」
野盗が他人を悪党呼ばわりするのは、いささか矛盾しているような気がするが、そこを突っ込む気力はない。というか必要以上に関わりたくないから、突っ込まない。
「あれは人の面を被った鬼よ。そう鬼なのよ! 私のお友達を一瞬にして……心を折って、全員引きこもりにしてしまったの! そう、絶賛引きこもり中なのよぅ! 全員体育座りで、自室にこもっちゃってるの! そう、立てこもりね!」
女野盗――マティマと名乗った女は、両方の鼻の穴からぶら下がる鼻水を拭うこともせず、オイオイと泣き出した。
「お嬢様、デジャヴですかね? 似たようなことを最近聞いたような気がするのですが」
「そうですわねぇ~。うわぁ~、すごい既視感ですわ~。本当、イヤになりますわぁ」
ヒュルネにはマティマが言う悪党が誰なのか、嫌と言うほどわかってしまう。
「知ってるの!? そう、知っちゃっているのね!?」
『えぇ!? ヒュルネ様、知ってるんですか!?』
なぜおまえは気づかない――そんな視線をセルドラに向けるが、尊敬の眼差しを返されるだけだった。
「教えなさい! そう、教えてください!」
四つん這いになって、昆虫のごとき動きでスイミーの足下まですり寄ってくる。
「誰なの!? 誰だったの!? どなた――ぼふぅ!」
スイミーの前足がマティマの顔面を踏みつけた。
「良い子ですわね、スイミー」
ぶるるっ、と返答するように鳴くスイミー。
ヒュルネは仰向けに倒れるマティマに、その名を告げた。
「アレン=グランド=シュルーケンですわ」
『誰ですか、それ? ……ひぐぅ! ごめんなさい! 悪ふざけしてごめんなさい! 知ってます! アレンは知ってます! だっ、だからヒュルネ様! 首はらめぇぇぇぇ!』
とりあえず、喧しいドラゴンの首を締め付けておく。
「あ、アレン? ……あの“無血のアレン”?」
マティマが目を丸めて呟いた。
「そうですわ。三年前、大陸内全ての国を混乱に陥れた最悪の男」
アレンの異常性を大陸内に示したのは、規模の大きさではない。いくつもの大国をたった一人で翻弄した偉業を達しながらも、彼はその混乱で誰も死なせなかった。
異様な事態を目の当たりにした国々はアレンを危険視し、多額の賞金をかけた。その賞金は事件が収束した後でも累積され、現在の大陸内最高額に値する。
本来なら捕まった時点で賞金額が増えることはないのだが、アレンはヒュルネ個人が捕まえて実家の独房に叩き込んだため、世間では消息不明として扱われた。その結果、賞金首のリストから姿を消すことなく、現在も伝説レベルの賞金がかけられている。
「お分かりになりました? 良かったですわね、引きこもり程度で済んで」
「ニヒッ、ニヒヒヒヒッ!」
不気味な笑い声を上げるのはマティマだった。
「賞金首ね、そう賞金首なのね! ニヒヒッ! いいじゃない! そう! いいじゃないのよ! なぁんだ! わざわざ泣き落としをして、金をかすめ取る必要なんてないじゃない! そうなかったのよ! 大陸一の賞金を手に入れれば……ニヒッ! ニヒヒヒヒッ!」
「あなた、正気ですの? お兄様……いえ、アレンに近づけば、不幸になるだけですのよ?」
マティマの狂気に怖じ気づくも、ヒュルネは言う。
「ニヒヒヒッ! 関係ないわ! そう関係ないのよ! もともと、私の大切なお友達の仇を討たなきゃいけないし! 討たなければならないし!」
ゆらりと立ち上がるマティマは、悪いモノにでも憑かれたかのように顔を歪めていた。
「止めますわよ?」
「止めるの? そう、私を止めてしまうの? お嬢ちゃんが? ただのお嬢ちゃんが?」
『ヒュルネ様、これはもしやバトルパートですか? そう戦闘シーンなのですか!? ――あうちっ!』
マティマの真似をしているドラゴンの頭を叩きつつ、浅い溜息を付いた。
「仕方ありませんわ。わたくしの最強魔法であなたを倒させていただきます」
「お嬢様!? まさか、あの禁術を!? おやめください! あの魔法は危険すぎます!」
「な、なに!? 何なのよ!? 教えなさい! そう教えてください!」
ヒュルネとヴァンのやりとりを見たマティマは、動揺を露わにする。
「魔法教導院が禁術として定めた四番目の炎獄魔法“深淵なる焔”ですわ。大丈夫ですわよ。痛みを感じさせずに、灰にしてあげますの」
「お嬢様! いけませんって! その魔法によって、お嬢様が大切にしていた子豚のピーちゃんが、ローストポークになったことをお忘れですか!」
「ピーちゃんのことは思い出させないで!」
今でも時々、ピーちゃんのことは思い出してしまう。あの素晴らしき豚肉の味。あぁ、絶妙な焼き加減でジューシーな肉質が香ばしい匂いを引き立て……じゅるり。
「に、ニヒッ! そんな脅し、通じないわよ! そうよ! 信じるもんか!」
マティマの震える声が、トリップしかけたヒュルネの思考を正常値にまで取り戻させた。
「脅しかどうかはご自分の目でお確かめくださいませ」
まるで照準を合わせるかのごとく、右手をマティマに向ける。
「――我が血潮に流れる赤き焔よ」
詠唱が始まった。
「憤怒の叫びは天をも焦がし、宙を赤く染めよ。さあ、始まりの焔よ。我と共に叫べ。燃やせ! その名を焼尽させよ! その姿を焼失させよ! 我と共に、称せ! “深淵なる焔”」
シンと静まり返る森。
……誰がどう見ても、なにも起こっていないのは明白であった。
「おかしいですわね。失敗してしまいましたわ」
ヒュルネは心底不可解な表情を作り、小首を傾げる。
『ヒュルネ様、ドンマイです!』
「というか、お嬢様。基礎魔法しか扱えない実力で、超上級魔法を使おうとするのは無謀です。以前は、それで庭が一つ消失しましたし……正直、迷惑でしかないですよ」
「うっ……わたくしだって見栄を張ってもいいでしょう!」
見栄の代価が焼き豚と焼け野原だけで済んで良かったですね――チクチクと嫌味を言ってくるヴァンの言葉を堪え忍びつつ、ヒュルネはマティマの様子を窺った。
「……………………」
『白目剥いて失神してますね、これ』
マティマは立ったまま、気絶していた。
「肝っ玉の小さい野盗ですこと」
「そういえばハルヴィニアという名、どこかで聞き覚えがあるのですが……」
ふと何かを思い出したかのようにヴァンが腕を組んで、考え出す。
「あなたの知り合いですの?」
「いえ、変態の知り合いはお嬢様くらいなのですが、いやはや少しも思い出せませんね」
「さらっとわたくしを変態呼ばわりしたわね?」
「さあ、行きましょう」
「スルーですの!?」
「お嬢様、時間がありませんよ。これでは森を抜ける前に日が落ちてしまいます」
正論を言っているものの、陳腐に聞こえてしまうのはヴァンの日頃の行いのせいなのだろうか。正論は言った本人に依存する――それを我が身で理解したヒュルネであった。
ヴァンのお仕置き方法は追々考えるとして、今は一刻も早く森を抜けるべきだった。
スイミーを歩かせ、ヒュルネたちは気絶しているマティマの脇を通り過ぎる。
「……それにしても、おかしいですわね。わたくしの感覚では魔法は発動したと思っていたのですけど」
実力に不相応な行動だったことは充分に理解していたが、それでもヒュルネは納得できなかった。
しかし――彼女の不満は、ある意味で的を射ていた。
マティマとの遭遇から三十分後。ヒュルネたちは予想よりも早く、森を抜けることができた。
なぜなら、森の半分以上が焼け野原と化していたからだ。
原因は誰も口にすることはしなかった。
ただ……ヒュルネは二度と例の禁術を使わないことを心の中で堅く誓った。