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文具店❛柏❜  作者: 白雲
1/1

 安藤美枝(あんどうみえ)は、この春から高校に入学した新入生だ。髪は金に近い茶髪、スカートは短く、おしゃべりが好きで、身だしなみに気を遣い、化粧も少し始めてて、アクセサリーも身に着けている、そんなどこにでもいる高校1年生だった。

 美枝は元々自分の見た目が良いと思っておらず、高校に来て中学のように狭いコミュニティーではない、少し遠い中学から来た人達を見て、余計に劣等感に埋もれていた。外の世界との差異、そんなものを感じ取ってしまったのだ。自信など簡単に霧散した。それでも諦めるのが性に合わなかった美枝は、入学した当初から既に、周りの女子や雑誌から様々な情報を取り入れることで精一杯だった。

「……っていうブランド、良いよね~」

「女優の……がポスターの奴でしょ、超可愛いよねっ」

「え~あれってもっと年上向けじゃない?」

「いやいや、ティーンズ向けのもあるんだって」

「新作のコスメもう使った?」

「まだ~もしかしてもう買ったの?」

「うん。買っちゃった。ピンクの、一目惚れよ」

「うそ~見せて見せて!」

「見せてと言わず、使ってみなよ」

「え~本当? 良いの? うわ~発色良いね!」

「でしょう?」

 少女達の言葉が鉛玉のように、無秩序に乱発されていた。そこに美枝も予定では入っているつもりだったのに、既に美枝は入学当初にあぶれたまま。この5月までとうとうそんなグループに入ることなく、少し離れた場所から会話だけ聞き耳を立てて、情報を入手するという理想とはかけ離れた状態だった。立っていても座っていても、どこにいてもちやほやされて話題は向こうから持ってきてくれて、新しい情報はみんなが教えてくれて、そんな中学の立場とは正反対の孤独という檻に美枝は閉じ込められていた。意地になって綺麗所のグループと付き合おうとせずに、大人しく気の合いそうな子と話したりしていれば、少なくとも一人になることはなかっただろうに、そうすることは彼女のプライドが邪魔をして出来ず、結果、美枝が憧れたグループは愚か、他のグループにも属することも出来ないという様だった。

 美枝はどんどん自分の身なりがバカらしくなってきた。高校生になって、どうするかと悩んで髪も染めて、定まった制服という縛りの中でも遊びを入れられる部分には、工夫を加えた。シャツの色や、袖をまくったり、逆に手を覆うぐらい袖を伸ばしたり、髪もただのロングだけじゃなくて、ポニーテール、サイドテール、ツインテールは勿論、お団子やカールなど、とにかく様々な趣向を凝らした。けれども最初は食いつきの良かった変化も、段々と形骸化してきたのか、明らかに周りの空気は冷めていき、やがて相手にされなくなった。

 溜め息を吐く。

 それで何かが変われば良いのにと、無駄に溜め息を空気中へとサービス放射しながら、放課後の廊下を歩いていた。リノリウムを踏む独特の音が耳に入る。可愛らしく決めた胸元の小さなハートのネックレスが揺れているのが視界をちらつく。

「ちぇ、これ、良いと思ったのにな」

 金色で縁取られたハートのネックレス。ハート自体は磨りガラスのように、淡い桃色で、桜のような色合いが春っぽく、儚くも見えた。ハートがちゃんとしたハートの形ではなく、少し片側だけ大きく丸みを帯びた、左右非対称のハートだった。色合いも作りも気に入って買ったのに、そしてルンルン気分で学校に着けてきたのに、褒められて話題になって、どこで買ったのという話になって、今度一緒に行こうよという話になって……――、という密やかどころか見え見えの期待を持って美枝はそのネックレスを身に着けてきた。気持ち、胸を張るような姿勢になったりもしていた。

 なのに、可愛いねと誰かが言って、それ以上は誰の突っ込みもなし。以降、話題にすらのぼらなかった。そんな言葉一つで、満足したようにクラスメイトは、それ以上何も言ってくれなかったのだ。銀色のシンプルな鎖部分は、しっかり鎖の形をしているのに、作りが小さいせいで遠くから見るとボールチェーンのように見えるのが、美枝の気に入った要因でもあった。

 そんなネックレスを手に取り、小さく笑うと、歩みを止めない美枝は学校を後にした。

 校門を抜けて、大通りに出るまでひたすら下り坂の通学路を行く。直帰するような気分になれず、美枝は普段通らないような道を行こうと決めた。

 下り坂の連続、その途中で不意に曲がって、知らない住宅街を進む。高低差はあれど苦しくはなかった。坂を上ったり下ったりしながら、知らない場所を歩いているという感覚が、恐怖心より好奇心を煽り、美枝は勢いよくスカートを翻しながらスキップした。途中、買い物袋を手に下げたロングスカートの主婦に出くわし、自分のなりの悪さに気付いた美枝は、スカートの裾をこれでもかと下に引き伸ばしながら、顔を朱に染めて主婦の横を通り過ぎた。主婦が路地の曲がり角に消えるまでを目で追ってから、再び懲りもせずスキップを踏んだ。

 気分は上々で、そのまま空まで行けてしまうのではないか、そんな錯覚さえ感じた程だ。

 しかしそんな気分も、辺りが夕焼けに染まり始めた段階で、薄れていき、辺りが街灯だけになってしまってからは、先程までの意気は消え失せ、とぼとぼと歩いていた。

 当て所ない見切り発車は、終着点があるわけもなく、美枝は途方に暮れた。辺りを見回しても特に変わり映えのしない住宅街が息を潜めているだけだ。これでは現在地の把握など到底不可能だ。大通りに出る前の通学路付近は、巨大な住宅街が迷路のように張り巡らされているとうわさには聞いていたものの、美枝もまさかそれを自分が体感するとは思ってもみなかったのだろう。ただただ苦笑するほか無かった。

 とうとう足は止まった。自宅周辺などの見知った土地でさえ稀に迷う方向音痴な美枝にとって、未開の土地というのは、最悪の相性だった。

「大人しく帰っておくんだった……」

 呟く声すらも、宵闇に消え行く。

 通行人に出会えたら恥を忍んで場所を聞こう。そう考えても、思い返してみればあの主婦以来誰とも擦れ違っていないことを美枝は思い出す。

「どうして? ここ住宅街なのに」

 帰路に就く会社員や学生、はたまた主婦が一人ぐらいはいても良いはずなのに、一人として出会えない。

 不安は募り、暗い辺りが余計に気持ちを陰鬱に沈める。

 途方に暮れながらも、美枝は一箇所にとどまるのも怖く、行先も無いのに真っ直ぐ歩き続けていた。それが迷子になる最大の要因だというのに、美枝は我慢して止まることも出来ず、ただ本能のままに、一直線に伸びる道を、歩き続けるしかなかった。

 唐突に思い立って、ピンクと水色、淡い色合いのスマホを取り出してみれば、充電切れでうんともすんとも言わなかった。強いて言うなら美枝自身がすんと鼻をすすった。

 スマホに付いたイヤホンジャックは、ポップなクマのキャラクター。茶色と白のシンプルで可愛らしいキャラクターだ。子供っぽいと思いつつも、こういう子供っぽさもたまには欲しいと思うのだから仕方ない、と自信を納得させて身に着けているお気に入りだ。あまりに子供っぽいデザインなので、学校で人前にさらす事は無い。気に入ってはいても、受け入れられないだろうことは、美枝自身理解していたからだ。

 ストラップは黒と茶色のストライプ、シンプルでそれ以上は柄もなく、形も何の変哲もないストラップで、手首をかけられるぐらいの輪っかがある。イヤホンジャックのキャラものとは一転して、大人が好むようなシックなデザインだ。

 シンプル、派手、そういうのは関係なく、感覚でこれと思ったものを揃えたがる美枝は、ファッションについては一貫性を意識しているため、それなりに周りからの印象も良かったが、統一感のない小物類は明らかに浮いていた。

 それどころか、センスがないと囁かれていたくらいだった。

 美枝自身に自覚は無く、美枝自身の耳には入っていない、いわゆる陰口の類で、そういったことは囁かれている。

 小物センスの統一感の無さは、美枝が周りから忌避されている原因の一つでもあった。

 センスはアクセサリーにも表れていて、今日着けているネックレスもしかり、指輪やバックル、ブレスレット、髪留め、シュシュ、そういった小物も一つ一つで見れば可愛いのだが、トータルで見るといまいちになる。ファッション単体で見れば良いのだが、アクセサリーやキーホルダーなどの小物が、明らかに浮いていたり、逆に陰になってしまったりと様々だが、とにかく、トータルすると好印象ではないのは確かだった。

 そんな一つ一つが気に入っている美枝は、今日の小物であるネックレス、ストラップ、イヤホンジャックに触れて、少しでも不安を紛らわせようとした。それで集まってしまった不安の影が消えるわけもないし、少しも楽にもなれない。当たり前だった。美枝はせめて気休めになればいいのに、と思わずにはいられなかった。

あくびもしていないのに、涙が込み上げてくる。

 擦り切れた精神は、明らかに限界値を超えていた。今にも歩みを止めてしまおうか、そう思った時に、美枝は大きな公園を見つけた。そしてその真正面に住宅とは違う、一際大きな明かりを闇に照らしている、お店があったのだ。

「ああ」

 人に会える、道を聞けると判った途端、良かったと心底あふれてくる感情を上手くコントロールできず、ボーっとしながら店に歩み寄っていく。たどたどしい足取りで、近付く。

 店頭には『文具店❛柏❜』とある看板が立てかけられていた。

 木製の看板には、筆のようなもので店名が書かれている。妙に落ち着きを感じさせ、何故だか気持ちがより一層和らいだ気がした。

 店先で立ち尽くしたその瞬間、張っていた気がプツンと切れたのが、美枝には判った。

 声は出ないが、涙は溢れる。どうしようもない生理現象だ。先程込み上げた分も合わせてどうしようもない勢いで、両頬を伝って流れていく。

「わ、え? えっと、君? どうかしたの?」

 感情の発露に戸惑い、一番知覚しやすい前方から声がしているというのに、美枝は反応を示すことが出来ない。むしろ、気が付いていなかった。

「………………」

「えっと~弱ったな、急に可愛い学生さんに泣かれると、僕も困る……」

 困り顔の青年が苦笑気味に呟くも、未だ美枝は自己感情の処理で手一杯だ。

「………………」

「ははははは、取り敢えず中に入るかい?」

 青年の言葉が幾度めかの空気への溶解を見せたところで、ようやく感情の処理が追いついた美枝が正面の青年を知覚した。

 眼前に現れたのは紺のエプロンを身に着け、胸元に文具店❛柏❜店長柏崎と書かれた名札をつけている、背の高い男性だった。

 目視でおよそ二十台後半にさしかかるくらいの風貌。美枝はそう当たりをつけながら、泣く美枝の目の前で、どうしたらいいか判らずしどろもどろになっている男性を見上げた。

 困ったような表情でありながら、笑顔を表情に見せ、心配ないよというように、子供をあやすように、彼は自身の背後にある店のドアを開けた。

 木製の引き戸。看板よりも薄めの、木目すら判別できるドアだった。

「幸いお客さんも今はいないから、好きに見ると良いよ」

 言われながら、文具で買い足さなければならないものもないし、別段欲しいものもないのだけれどと美枝は困っていた。けれどここでお客として中に入っておけば、道に迷ったという話を切り出しやすいかもしれない。そう考えた美枝は、ポッケから取り出した黄色のレースのハンカチを目元にあてて、涙を残らず拭き取る。

「っじゃあ、少しの間」

 躊躇いがちに言葉を溜めて、美枝は言った。

 それが強がっているように見えたのか、困った表情を明確な笑顔に変えて、柏崎は執事よろしくドアを開けて美枝を手で招き、先に入るよう促した。

 促されるまま美枝は中に入った。

 と、入って、目でそこを見たとき、美枝の中で今までの陰気な気持ちや空気は一瞬で吹き飛び、空元気でもない、純粋な興奮が湧き上がってきた。

 目の前に広がる光景は、到底過去美枝が利用したことのある商店街などにあるような、老人の経営する小さな文房具屋とは、かけ離れた様相だった。

 所狭しと敷き詰められたノートやペン、ハサミ、セロハンテープ、カッター、その他にも沢山の文房具が並んでいた。手帳やマスキングテープなどの類も丁寧に陳列されている。文房具と聞いて、美枝は真っ先にペン、鉛筆、消しゴム、ノートといった筆記用具を思い起こしたのだが、そこにあるのはそれらだけではなかった。

 天井と床、壁紙がシックな木目調の造りで、棚も高すぎず、背がさほど高くない美枝でも最上段を見るのに苦労しない程度の高さに、最初に目に入ったのはつまらない単調なペンだけでなく、沢山の種類のペンが居並ぶ光景だった。一種類一種類が白と黒のペン立てに交互に入っており、ボールペン、シャーペン、鉛筆といった違いだけでなく、その中でも色や形が今まで見たことのないようなものも沢山あった。曲線気味に作られたボールペンだったり、可愛らしい虹みたいにカラフルな色合いだったり、懐かしのロケットペンシルだったり、はたまたシンプルな銀と黒のデザインなのに重厚で、何か目線を誘うようなシャーペンだったり、ペンという括りだけでもそれだけ多岐にわたっていた。

 続けてノートやハサミなども、同様に豊富な種類の文房具があるのだから、美枝の口は半開きのまま塞がらず、しかもそのまま笑みへと変わってしまう。

「どうだい? 気に入ってくれたかい?」

「はい、とても!」

 柏崎の問いかけに、間髪入れずに返答した美枝の意識は、今眼前にある文房具にしかいっていなかった。会話をしているという感覚すらなかった。

「店先にいきなり女子高生が現れたと思ったら、いきなり泣き始めるものだから、どうしたものかと驚いたけれど、それだけ笑えれば大丈夫だね。良かった良かった」

 朗らかに言いながら、柏崎は店の奥へと向かう。語るべきは終え、後は客が自由に店の中を見れるようにという配慮なのだろう。

 だがそれはこの時点での美枝には必要のない配慮だった。文房具よりもむしろ青年その人に用事があったことを思い出し、そこら中に散漫する意識をかき集めて、彼の遠ざかる背中へと意識と体を向けた。

「あの!」

「ん、何でしょうか?」

 振り返り、口角を軽く上げるだけの微笑は、大人っぽくて優雅に美枝には感じられた。

「その、私、迷子に、なっちゃって……」

「ああ、そうだったのですか。それは大変ですね。ですがご安心を、ここから駅までは近いですよ。道が入り組んでいるので判りづらいだけで、道さえわかればものの数分で最寄りの駅まで着けますよ」

 優しく柏崎が笑いかけてくる。年上の男性に免疫が無い美枝は、目線をおどおどさせながらも言葉を返す。

「ああ、ありがとうございます。もう帰れないかと……」

 安堵から言うと、柏崎は軽く息を吹き出した。

「ああ、すみません。笑うつもりはなかったのですが」

「滑稽ですか、私が」

 親切にされたことも忘れて、いきなり吹き出されたことの腹が立った美枝は、少し低い声を出して、顔を伏せ気味にして、目線はねめつける様に下から見上げた。

「いえ、そのようなことは。気を悪くしたのなら謝ります。ごめんなさい」

 急な美枝の変化に驚いた柏崎は、慌てて頭を下げた。そんな彼の様子を見ていた美枝は、年上の男性を叱りつけて、あまつさえ頭を下げさせてしまっている自分の行動が、急激に恥ずかしくなった。

「あ、と……。良いんです、自分でもそう思ったので」

 言葉尻に向けて小さくなっていく声が、美枝の感情を表現していた。

「なら良かった。では、この店のチラシをお持ちします。その道筋を反対に辿れば、駅まで辿り着けると思いますので」

 言うが早いか、柏崎はすぐさま身を翻し、レジのある奥まで行き、チラシを手にすると戻ってくる。しかし、再度美枝の前にくるより数歩手前で、一度またもやレジの方へと引き返していく。何をしているのか疑問だったが、親切をしてくれる人に無遠慮に聞くのも憚られたために、美枝は大人しく柏崎が戻ってくるのを待った。

 そうして柏崎は一枚のチラシと、一冊の文庫本を手に戻ってきた。

「こちらがチラシで、これは貴女への贈り物です。来店の記念に、お持ち帰りください」

 言われて手渡された文庫本は、文庫サイズなのにハードカバーで、背表紙にも表紙にも表題のようなものはなく、ただ桜の花柄が二つ三つあしらわれているというシンプルな装丁のものだった。

「そんな、ただ迷子になって辿り着いただけで、しかも何も買っていないのに、こんなの、もらえません!」

 美枝はいきなりのプレゼントに戸惑い、チラシは左手に持ち替えて、右手はその文庫本を突き返した。

「良いんですよ、来店の記念なんですから。買った買わないは関係ありません」

「それでも、ふつうはお買い上げした場合でしょう? そういうのは」

「そうかもしれませんが、良いんですよ。店長の私が言うんですから、良いのです」

「ダメですよ、もらえません!」

 意固地になった美枝はそう簡単には意見をひっくり返さない。

 それでも、

「でしたら、また次回、ご来店いただける前約束として、ならいかがですか?」

 と微笑む柏崎の提案には、言葉を止めた。

 正直渡された桜の装丁の文庫本は、一瞬で美枝の感情に呼びかけるような、そんな作りだった。手触りも和紙のようで優しい感じがした。手に持つとまるで昔なじみの日記帳のように、手に馴染むような代物だった。中身がどんな本であれ、自分の物にしたい。そう思ってしまえたのだ。とかく、言い換えればそれは美枝にとっての一目惚れで、その文庫本が欲しいという自身の欲は止められなかった。

 結果、押しに負けた美枝はそれなら、とチラシと一緒に桜柄の文庫本も自分の手に収めた。口元が緩んでいることにも気付かず、美枝はチラシと共に胸に抱くようにして自分の胸の方へと寄せた。ハートのネックレスに軽く当たる。

「そのネックレス……」

 柏崎が言う。

「ああ、これですか? 何の変哲もないネックレスです。露店で一目惚れして、こんなちゃちな作りなのに千円もして、なのに誰もクラスの子達は反応もしてくれなくて……」

 何言ってるんだろう。

 思うのに言葉が止まらない。零れ出すように言葉が口から溢れていく。

「子供っぽいですよね、ハートとか。しかも露店とか! もっとまともな店で買えって話ですよね、私も今頃になって呆れてたんですよ。こんなの、こんなの……――、」

 溢れだした言葉はそこで止まった。こんなの可愛くもない。そう言おうとしたのに、考えた脳とは裏腹に、美枝の口はそれ以上の言葉を紡ごうとはしなかった。嘘でもそんなことは言えなかったのだ。こんなにも可愛いと、思っているネックレスを。

 美枝は愛おしそうに、ネックレスを手に取った。あれだけ卑下したのに、それでもこれが可愛いと、そう思えてしまう自分に、涙を流しながら美枝は笑った。

「物は、所詮物ですが、それでも誰かに大切にされる。作り手に、売り手に、所持者に、どの過程であっても、たった一度であっても、大切にされるというのは、その物にとって幸せなことだと思います。そのネックレスが作り手に、売り手に大切にされず、貴方の手に渡ったのだとしたら、今こうして貴方に大切に思われて、きっと幸せだと感じていると思います。外聞や周りの評価など気にすることはありません。貴方が良いと思って身に着けているなら、それで良いじゃないですか。貴方までそのネックレスを卑下したら、誰がそのネックレスを大切に思うのですか? せっかく貴方に大切に思われているその物に、思ってもいないことをぶつけないであげてください」

 柏崎の言うことは、普通に考えれば、所詮は物でしょう。そう一蹴されてしまえば終わってしまう言葉だった。けれど、そんな言葉でも美枝には響いた。りいんと、涼やかな鐘の音が響くように、美枝の心を澄み渡らせてくれたのだ。

「そう…………ですよね。はい、そうですね。思ってもいない事、言うのは違いますよね。私このネックレス好きですもん、可愛いって思うんです。それが本心です」

「判って頂けたのなら、何よりです。こうして文具店などを営んでいるもので、物に対してはどうしても熱くなってしまうんですよね。いきなりですみません。遅くなりましたが、そのネックレスとても可愛らしいと思いますよ」

 急に説法のように告げたことが恥ずかしくなった柏崎は、そう言って照れ笑いを浮かべた。

「いえ、とても良い考え方だと思います。褒めて頂いて……ありがとうございます」

 返して、美枝はもう一度流れた涙を、今度は袖で拭った。このネックレスを買って良かった、今日付けてきて良かったと、彼女は柏崎の言葉で初めて思えたのだ。今日二度目の涙で、彼女の頬や目元などの肌は荒れてしまった。帰ってお風呂に入ったら、その後で化粧水と乳液をたっぷり塗ろう、美枝はそう思った。

「恐縮です」

 美枝の言葉に、柏崎は笑った。

 そんな柏崎に美枝も笑顔を返すと、店の出口の方へと向かう。柏崎も美枝に合わせたペースで美枝の後ろを付いてくる。

「今日はお世話になりました、また必ず来ますので」

 また必ず来ますので、そこを美枝は強く言った。

 来て早々ではあったが、スマホの充電が切れて親に連絡もとれない現状、美枝はこれ以上外をぶらつくわけにもいかなかった。美枝の母親はこういうことにやたらと煩い。下手をすれば門限を設けられる可能性すらある。縛られることが何より嫌いな美枝としては、避けたい展開だ。故に、もう少し見たいという願望と、もっと柏崎さんと話をしてみたいという願望と、結局何も買わずもらうだけもらって、慰めてまでもらって申し訳ないという思いを呑みこみ、頭を下げて、店を後にするしかなかった。

「ええ、お待ちしております」

 笑む柏崎の姿が、余計美枝の後ろ髪を引くが、美枝は、はいと強く頷いて歩き出す。そんな美枝の背に一言柏崎は追加で言葉を述べた。美枝は彼の言葉に少し疑問を感じつつも、急く思いに負けて聞き返しに行くことは諦めた。

夜闇は先程よりも深まっていたが、不思議と不安は少しもない。手元のチラシと、首元のネックレスが力をくれているみたいだった。

 歩きながら、帰り際、柏崎が言った言葉が、美枝の気に留まっていた。

 彼は、

「ノート、大切にしてくださいね。次回のご来店を心待ちにしています」

 と言ったのだ。

 渡されたのはチラシと文庫本。どこにもノートなど無い。考えながらも今はそれよりも無事帰ることが先決だと、見知った道に出ることを優先した。

 チラシ片手に住宅街の迷路、その攻略ルートを行く。道が判ってしまえばこんなにも近かったのかと呆れてしまうような距離感だった。行き来に利用している駅が目視できる長い下りの階段にさしかかったところで、やっと迷子という不安を取り除けた美枝は、手元の文庫本を目線の高さまで持ち上げて、再度柏崎の言葉を思いだした。

 疑問を氷解させるべく、それを開く。

 と、中に文字は無く、そこには薄くもしっかりとした紙質に純朴な横向きの罫線が引かれていた。それ以上の文章も絵も何も無かった。

 つまり、これは本ではなく、柏崎の言った通り、ノートだったのだ。

 美枝は驚きつつも、文庫本の形をしているのに中身はノートという不思議な構造と、その色合いに魅せられ、月夜の下、薄ぼんやりとした月明かりに照らされて、淡く輝く桜柄の文庫本の形をしたノートを誰もいない中空に、自慢げに掲げ、笑んだ。


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