1-5 主祭司クオレリア
2012/04/11:誤字修正・ご指摘ありがとうございます
主神レグニス――
年老いた盲目の戦士、あるいは世慣れた年老いた旅人の姿でこの世界を巡り、気まぐれに預言と知恵を人々に授けると言われる、空と知恵を司る神である。
一般には最も多くの神託を下す神として、この世界の住人には認知されている。
全ての翼持つ者……鳥、翅ある昆虫、飛竜、光翅族まで……の長でもある、三つ目を持つ鮮やかな濃緑色の猛禽類に跨り、その身を旅にやつす神はまた、信仰する者達へ様々な試練を投げ与える事でも有名である。
その試練が、しばしば過酷なものであることも。
――これも……これも試しだと言われるのですか!?我が神よ!
罵倒とも取れる言葉をレグニスの主祭司という、レグニスを奉じる宗教都市国家レグニスラウムの頂点に立つ女性……若干二十歳のクオレリア=エイル=レグニスラウムは心の中で漏らす。
それは、レグニスを除く他の四柱の神々ならば仮にそれを発言した者が主祭司だとしても『不敬』……そう呼ばれる眉を顰められる言葉だった。
が、この程度の言葉は実の所レグニス信徒にとっては、神に対する罵倒どころか不敬にも値しない。
空と知恵を司るレグニスはまた、その司る『知恵』というものの持つ側面である弁論……あるいは屁理屈、詭弁すらも自分の管轄下においている。
罵倒や詭弁の中にこそある一片の真実……そういったものもまた確かに存在するのは、ある程度世慣れた者ならば理解することは出来るだろう。
だからこそ、かの神は信徒が抱く自身の神聖への疑念すら容認する。
疑って疑って疑い抜いた後に到達する信仰……信徒が苦難と試練の末に抱く信仰こそを愛する神は、だからこそその過程で生み出されるすべての言葉を容認するのだ。
それは例え主祭司であっても変わらない。
いや、未だ年若い彼女がそういった疑念、疑問を持つ事をかの神は呵々大笑して喜ぶだろうことは間違いない。
三年前、巧妙な手口で信徒からの浄財を着服していた前主祭司がその罪を暴かれ、長いレグニスラウムの歴史の中で三番目の罷免された主祭司になった。
その後一年をかけ、数度にわたる神聖な神籤により彼女が新たな主祭司として聖選されたその日から、あるいはこの試練は始まっていたのかもしれない。
「……もし仮にそうだとしても……」
クオレリアは誰にも聞こえない小さな声で、管制室に据えられた主祭司用の椅子の手摺りを強く握りながら呟く。
――このような事態を試練として与えるなど……あり得るのですか?我が神よ
彼女が指す『このような事態』とは、空賊による襲撃の事ではない。
様々な要因が重なったことによる準備不足で今この船団が受ける被害は拡大しているが、空賊による襲撃など大国の影響空域以外ではそれこそ日常茶飯事。試練の名にも値しない。
――自らが奉られる神殿……島を失ってまで、このような試練を与えられる必要があったというのですか……?
祖国たる浮遊島、主神レグニスを奉じる神殿が支配する国家レグニスラウムの崩壊は、かつてこの大空にあり、今は存在しない島々がそうであったように唐突であった。
レグニスラウムの『修正時』二時二〇分、国家と同じ名を冠された浮遊島の右端方面で崩落が確認されたとの報告が主神殿へともたらされる。
実際の崩落開始時間は深夜であったこと、既に島が存在しないことにより判然としないが……ともかく事実確認の為に神殿関係者が動き出したのが、二時五〇分。しかしその時点で崩落は島全体の二割に達していた。
島端付近に居住していた住人は、この時点で崩落に巻き込まれ始めていたらしい。
やがて時間が過ぎると共に、被害は徐々に拡大し混乱もまた同時に広がっていく。事態の深刻さから、かねてから用意されていた空船多数への乗り込みが開始されたのは『修正時』四時四〇分。
かつての崩壊に見舞われた島々の教訓から、その対処の仕方をある程度訓練していた成果だろう。それはまず的確と言ってよい判断の速さだった。あるいは限界の速さだったと言い換えてもいいかもしれない。
だからこそ、予測よりはるかに速い島の崩壊には対処しきれなかったのは……必然であったのだろう。
『修正時』七時五分、崩落により引き起こされた地割れが島を分断、それに巻き込まれた離床前の空船多数が避難民を乗せたままそのまま墜落。特に痛かったのはいざという時……金剛族の故郷であるコンフォートレット、あるいはやはり数年前に崩壊したミレイド帝国が支配していたミレイディアの状況を鑑みた上で、緊急避難用にわざわざ作られた八〇座級超大型船『神の翼』が、その墜落した船の中に巻き込まれていた事だった。
この時点で主祭司クオレリアの座上する四〇座級中型空船『しらしめるもの』の船長であるゼノス=エイラン、避難誘導の責任者でもあった枢機官サバルト=ゲシュトルの二人が、取り乱す主祭司を強引に黙らせ、生き残った空船に退避命令を下した。
この決断により生き残っていた小型~大型空船計一三七隻と避難民約一万は、無事に崩落するレグニスラウムから逃れる事が出来た。
十五万人にのぼる島民を切り捨てることによって。
あの時の事……まだ一日も経っていないあの混乱を思い起こして、主祭司の彼女はそれがまったく無駄な行為であると思いつつも自身を責め苛む。
強引な手段で意識を刈り取られた彼女が意識を取り戻したのは、レグニスラウムが完全に崩壊したその後だった。
そのことがまた、彼女の心を責めたてる。
歳が若かろうが女性であろうが、住民を見捨てて逃げるという決断を下さねばならなかったのは彼女であったはずだ。
船長も枢機官も何も言わず彼女の事を攻めもしないが、今回強引に事を進める形になってしまった彼らに非難が集まるだろうことは想像に難くない。
彼女は小さく溜息をつくと、唇を噛みしめる。
自分が意識を刈り取られたのは、避難民がまだ乗り込みを続けている主神殿前の『祈りの広場』であり、その様子を多くの者に見られているはずだ。そしてその様子を見た人々は思うだろう。
『避難民を可能な限り助けようとしていた主祭司の意に背き、自らの命惜しさに主祭司を黙らせ、多くの避難民を見捨てる命を下した者がいる』
実のところ、あの時の彼女はただひたすら取り乱していただけだったというのに。恐らくあのまま自身の我儘を押し通していたら、島から逃れる事が出来た者はもっと少なかったのに違いない。
そう、彼ら二人は間違ってなどいない。そのことは自分自身がよく知っている。
しかしその真実を口にすることを、彼女は当の二人から禁じられていた。少なくとも今後数年は、その事を口にしないことを約束させられていた。
その理由も彼女にはよく判る。
避難指示を間違え全滅させかねなかった指導者と、住人の為に意識を刈り取られるまで避難指示を出し続けた情け深い指導者……生活の場を失ったレグニス信徒の指導者として、彼らの精神的な柱に相応しいのはいずれかと問われれば……口を閉じるしかないのだ。
たとえそれがどれほどの罪悪感を、彼女の心に植え付けようとも。
空賊の襲撃という危機的状況の中ではあるが、主祭司の彼女に出来ることは実はあまりない。
操船は船長以下空船の船員の仕事であるし、他船との連携も素人の彼女に口を出せることはない。
空船が向かうべき目的地を示すことが、彼女に与えられた仕事であり、それ以外の雑事は全て専門家である船員がこなすべき仕事であるからだ。
だからついつい考えてしまう。考え込んでしまう。
もっとできることはあったのではないか?
もっと人々を助けることは出来たのではないか?
あるいはもう少し……せめて三〇座級の中型空船をあと五〇隻、用意しておくことは出来なかったのか?
確かに空船は高価ではあるが、主神殿へもたらされる浄財を遣り繰りすればそれくらいは備えられたはずだ。
前主祭司クラモードによる着服……横領による反動で、資金のやりくりが甚だ面倒になってはいたが、やろうとすれば出来たはずだ。
――つまり……島から逃れられなかったものの命を、奪ったのは自分だという事ね……
用意できた船の数と時間のなさから考えれば、一万人が逃れる事が出来たのはまさしく神の加護のおかげ、奇跡的な人数だと空運を任せる枢機官は報告をしていた。
しかし、主祭司の少女にとってそれは何の慰めにもならない。
それは逆に言えば、全島民十六万人のうちの十五万人を救えなかった……その事実を同時に突き付ける、容赦のない数字だったからだ。
十五万人……
それだけの人が……男も女も、大人も子供も……たった一夜、僅か五時間余りで失われてしまったのだから。
――レグニスよ……
少女は僅かに唇を動かして、己が祈りを捧げる対象である神の名を唱える。
彼女が神籤による聖選で主祭司に選ばれたのは、レグニスラウムにある神学校の五回生……一八歳の時であった。
最初は何の冗談かと思い、何はともあれ辞退しよう、そうでなければ逃亡でもするしかないかと考えを巡らしているうちに、巧妙に退路は断たれ、抗議の声を上げる間もなく主祭司聖任式の壇上に立たされていた。
――あの時、式に参列した人々のうちの何人が生き残れたのだろうか?
そんなことをふと思い……彼女はその亜麻色の長い髪を揺らせて頭を振る。
とにかくその後は腹をくくり、前任者の不始末の処理を何とか終え、さあこれからどうするかといった時に……今回の崩落が起きたのだ。
――我が神よ……これは貴神が私達に与えた試練なのですか?
その問いに、主神レグニスは答えない。
それは恐らくその問いの答えが、自分で見つけなければいけないものだったからなのであろう。
ならば答えを見つけて見せよう。そのためには、必ず皇国まで辿り着かなければいけない。
決意を新たにしたクオレリア=エイル=レグニスラウム主祭司は、艦橋正面の透明な風防の先にあるだろう皇国へと視線を向け……銀色の光が一瞬よぎるのを目にした。
油断すると平気で主人公が姿をくらましてしまいます。
とりあえず最後に影だけ出ましたが。
天空宙心拳伝承者のような登場は……無理かなぁ