Prologue・3
2012/04/29:文章微修正
「ん……」
小さな呻き声をあげ、エンドランツ侯爵家令嬢シェリーマイアはベッドの中で僅かに身動ぎした後、ゆっくりと身体を起こし小さく背伸びをする。それからゆっくりとサイドテーブルの上に置かれた目覚まし時計に視線を向けた。
時刻は五時一五分。
「……今日も勝ち……と」
少女はほんのわずか、幼いのによく整った容貌に喜色を浮かべると、大きめのティーポットほどの大きさの機械式目覚まし時計を手に取る。
「……っしょっと」
手の中で少女は時計をひっくり返し、背面に取り付けられていたペン軸くらいの長さ太さの金属棒を取り外し、背面の穴に差し込み目覚まし機構を停止させる。以前についうっかり忘れた時と数度寝過ごした時に、この時計が立てる目覚まし音には大分閉口させられたので忘れることは出来ない。
指定した時刻に大音響を轟かせる目覚まし機構は、市販の時計にはついていないこの時計独自の目玉機能であるのだが、物事には限度というものがある。
父の弁を借りるならば『ネムリガメが驚いて走り出す程やかましい』とのことである。
ミュレゼイア森林島固有種のあののんびりした巨大な亀が、本当に走り出すのかどうかは少女にも判断できないが、ともかくそれだけ大きくやかましい音が鳴り出すのは間違いない。
「せめて音量の調整が出来れば、安心して使うことができるのに」
父の友人である金剛族のガンドウ小父様は父よりも随分と常識人なはずなのだが、この手の試作品に関しては技術者としての都合を優先してしまうらしい。結果、少女はこの贈り物である目覚まし時計が作動するよりも早く、目が覚めるという特技を身に着けてしまったというわけである。
本末転倒というかなんというか。
「さて、と」
貴族の子女が目を覚ますにはいささか早い時刻を指し示す時計をサイドテーブルの上に戻すと、少女はベッドから足を下ろし軽く背伸びをする。続けて軽くストレッチをして身体をほぐし、眠気を落としてからカーテンを開けると、窓を解放する。
途端吹き込んできた、少しばかり肌寒い空気に僅かに身体を震わせつつも、その寒さを楽しむかのように少女は嬉しそうに呟きを漏らした。
「ん、いい天気」
男爵から侯爵へと爵位を上げられたエンドランツ家。
歴史だけはある古い家系だが、シェルラ大島の片隅で僅かばかりの所領を守ってきたしがない田舎男爵家でしかなかったエンドランツ家は、当然自島などは所有していなかった。
が、貴族には家格に見合った所領といったものが必要とされる。
無論それが適用されない例外は無数にある。が、皇国の皇自らがエンドランツ家当主サーディスの研究に対して特に高い評価を与えていたこと、サーディスの研究にはそれなりに広い土地が必要であったこと、有能と認めた者にはやたらと気前のいい皇の性格等の要因が絡み合い、巨人機械の研究開発施設を建設することを条件に、旧エンドランツ男爵領を皇家の直轄地に編入、代わりに皇家が所有する島の一つであるコーレリア連島を、侯爵位を綬爵したその日に与えられることになった。
そのような経緯はともかく、少女はこの直径約六三ロード(約四二キロ)の歪な円形をした本島と、本島の五分の一ほど面積の楕円形をした副島から構成されるコーレリア連島をいたく気に入っていた。
本島の四分の一を占める大きな湖も、同じくらい広い生物相豊かな森も、皇からこの島を賜った時に移り住んできたかつてのエンドランツ男爵領の住人も、彼らが切り開いた麦畑も少女の好きな光景だったが、特に少女が好んだのはこの朝の短い時間だけ見られる浮遊島ならではの独特の光景だった。
それは、太陽が島の際から現れる直前にだけ見られる、黒く塗りつぶされた島の表面と島の端から立ち上る強烈で荘厳な光のカーテンが織りなすコントラスト。浮遊島という特殊な環境かつ朝の僅かな時間だけでしか見られない光と闇の対比とその変化は、以前と同じ事は一度としてなく、何度見ても少女の心を強く打つ。
それを今日も同じように飽きもせず暫くの間堪能すると、少女は満足げな微笑みを浮かべ、木綿製の夜着に手をかけ思い切りよく脱ぎ捨て全裸になった。それから壁の一面にしつらえてある大きな鏡の前に立ち、その全身を鏡に映しこませる。
そこに立っていたのは、フリッツノールの絵本に出てくる妖精のような少女だった。
一カ月後に一〇歳の誕生日を迎えることになっているにしては、少々幼い雰囲気を漂わせているが、その幼さですら少女に独特の雰囲気を与えている。
極上の絹糸のようにつややかな長い銀色の髪、母譲りの整った容貌と、父譲りのやや太い意志の強さを感じさせる眉。ただ唯一底の深い泉の様な静謐さを湛える蒼い瞳の光だけは、自分の瞳ながら奇妙に老成したもので、それがまた奇妙な魅力を自身に与えていることが見て取れる。
「自分の姿ながら、正直これはないわね」
そしていつものように少女は苦笑を漏らしながら、自分の容姿に対する評価を下した。
自分の母の容姿から考えても、残念なことに自分は将来男が放っておかない美人になるだろう。
ただでさえ成り上がりとはいえ、島持ちの侯爵家の娘である。少女自身は正直な所厄介な縁談を山ほど持ち込まれる可能性は、極力減らしておきたいと思ってはいたが、この容姿ではそのささやかな望みがかなえられることはないだろう。
今はまだ社交界へのお披露目前だからさほどではないが、数少ない友人から聞かされる話からもそれは定まった未来であると、自分でも不本意ながら理解できる。
無論そのような未来を回避する術もないわけではない。
例えば最も手軽なのは、何らかの心の病を持った少女として振舞うとか、極端に身体が弱いといった風評を流すとかであるが、そのどちらも愛する両親を悲しませるだけなので行うことは出来ない。
何より侯爵になってからまだ三年しか経っていない父には、見えない敵が多すぎる。
多少奇矯な所がある父ではあるが、それでも自分の事を愛し慈しんでくれる大切な家族であり、そんな父の敵を喜ばせるような真似を少女はしたくなかった。
成り上がり侯爵は、娘の教育も真面にできないらしいなどという風評を受けるなど、少女としても言語道断。侮られることなどないように、ある一点を除けば貴族として無用な誹りを受けない行動を、子供ながらも心がけてきたつもりだ。
その結果がもたらしたモノは『幼いながらもしっかりとした淑女』という評判なのだから、何とも遣る瀬無い。
もっとも、彼女が自分の整った容貌を忌避しているのは、そんな面倒な社交界に関わることになること、それだけではないのだが。
「……いっそ前世の記憶なんて、一生思い出さなければよかったのに……」
そうであれば普通の少女として大人になり、おそらく結婚し子供を産むことに憧れを持ち続けることもできただろうに。
そう呟いてから、少女は半ば習慣になってしまった記憶の反芻……自分の頭の中にある生まれる以前の記憶を思い返した。
名前は『長谷川直人』家族とは物心がつく前に死別、したらしい。経緯は不明。親戚はいたのかどうかも判らないが、その後数か所の施設を転々とする。頭は悪くなかったおかげで高校、大学は奨学金を得て進学することができた。黒い髪、黒い瞳、身長一七二cm体重六九キロ。地方の福祉系大学の二年生。好きな食べ物は卵かけご飯、趣味は家庭菜園と読書。死因は……不明。
不幸と言えば不幸な生い立ちだが、それなりに自立、自活していた男だったはずの前世の記憶。
自分がどうしてそのような記憶を持って生まれて来たのか、三年近く経過した現在でも明確な理由を思いつけないでいた。答えが出るような問いではないと理解はしているが、それでもついつい考えてしまうのは仕方がない事だろう。
「さもなければ……どうせ思い出す事が必然なら、せめてもっと小さいころに思い出せていればよかったのに」
嘆息と共に吐き出される諦め混じりの言葉は、少女にとって至極もっともな感想だった。
この、長谷川直人の記憶が蘇ったのは、少女としての自意識がある程度芽生えてきていた七歳のころ。父があの巨大な人型機械の起動実験に成功した日の夜だった。
あの日の事は、今でもよく覚えている。
父と母におやすみなさいの挨拶をし、母親に軽く抱きしめられてからいつもと同じように自室に戻り、ベッドにもぐりこんだまさにその時あの、この世界にシェリーマイアとして生れ落ちる以前の記憶は前触れもなく、唐突に少女の頭の中に蘇ったのだ。
「本当、あの時は自分が狂ったんじゃないかと思ったわ」
あの時の自分の醜態を思い出し、少女は苦笑を漏らした。が、自分でもあれは仕方がないと理解している。
精神的には些か早熟だった様な気がしないでもないが、あの夜までは確かに普通の七歳の少女だったのだ。
その少女の頭の中に突然二〇年生きた男の記憶が蘇ったのだから、むしろ取り乱さない方が精神的にどうかしているだろう。
ともかくその、突然脳裏で展開された今までの自分が知らない言語、知らない風景、知らない人々の記憶に最初恐怖し、ついで疑問を覚え、ある程度状況を把握しようとしたのは明け方近くだったはずだ。
結局二〇年とはいえ、人一人分の記憶を思い出したせいで自分の脳は拒否反応を示したのか処理することに力尽きたのか……気が付いた時には意識を失っていた。そして、再び目を覚ました時には七歳のシェリーマイアと、二〇歳の長谷川直人の記憶や人格は大分混ざり合ってしまっていた。
後々考えてみれば、七歳のシェリーマイアでは、あれほど落ち着いて思考を巡らす事など出来るわけがないという事が判る。そしてもし、長谷川直人としての人格のままであったのならば、なかなか起き出してこない娘を心配して部屋にやってきた母の掛ける言葉を聞き取ることも、あのやたらと勘の鋭い母に対してそつのない対応を返すどころか、言葉を返すことすらできなかったはずである。
何しろここは、前世の記憶が正しいのならばかつて生を受けて生活し命を落とした日本ではなく、それどころか地球ですらないのだから。
当然そこで語られる言葉は日本語ではなく、使われる文字は日本語ではない。
「ま、暗号代わりにするには便利よね。日本語」
少女は鏡の前から身体を翻すと、鏡の隣に置かれていた衣装箪笥から下着を手に取り手早く身に着けていく。
後日自分で確認したところ、文字の方はシェリーマイアとして習った古代共通文字、皇国文字の双方を書くことができた。『長谷川直人』の知識の中にあった日本語の方も大過なく書けた。
思考に関する言語は皇国言語がベースになっているが、古代共通語と日本語の使い分けも十分にできた。しかし、いつまでもそうであっていいのかどうか。
「それでもそろそろ卒業しないといけないかな……日本語から」
来月迎える一〇歳の誕生日が多分いい節目なのだろうと思い、少女は小さく呟いた。
確かに前世の……今少女が生きているこの世界から見れば異世界の住人であった頃の、しかも男であったという記憶は、少女の在り様に深い影響を与えていた。
一時は悪霊にでも憑依されたのかと考えたこともあったし、逆にこれは悪い夢なのではないかと悩んだこともあった。
生まれ変わったこと自体にようやく納得してからも、どうして女の子になんて生まれ変わったのかと、見たこともない神様に罵倒の言葉を呟いたこともあった。
だが、いつまでも『長谷川直人』の前世に拘って生きても仕方がないのではないかと、最近ようやく折り合いを付けられるようになってきた。
女の子になってしまった事は些か不本意ではあるが、天涯孤独だった身の上としては優しくも厳しい父と母を得られたことは、むしろ望外の喜びでもあるのだ。
今年三歳になる双子の弟妹も、かけがえのない宝物だ。
この愛すべき家族とともに生活することを決意した自分が今生きているのはこの空の上、この世界なのだから。
少女は壁に掛けてあった、飛竜の革を鞣した光沢のある蒼い服……長谷川直人の知識にあるライダースーツのようなものを身に纏った。
唯一記憶にあるライダースーツと相違点があるとすれば、その背中が大きく開かれ、白い肌が露わになっているという点であろうか。
続けて少女は侯爵家令嬢が履くモノとしては些か無骨な作りの、膝まである革靴を履き、籠手も兼ねた加工をしてある手袋をはめる。
最後に巨大人型機械の開発過程で父とガンドウ小父様が造り出した、薄く透明な強化硝子と飛竜の革、人型機械の一次装甲材を組み合わせた……『長谷川直人』の知識にあるフルフェイスヘルメットに酷似した兜を被り、乱れた長い髪を背中に流した。
「ん、完了っと」
再び鏡に全身を映し、着衣……というよりも装備に不備がないか確認した少女はそう呟くと開かれたままの窓に歩み寄り、その窓枠にはしたなくも足を掛けると一息に窓の外へとその身を躍らせた。
ようやく主人公登場
ですが色々と葛藤はある程度納得済みという……
解説
ネムリガメ:全高2m最大全長8mくらいのゾウガメみたいな亀です。爬虫類かどうかは不明。
ミュレゼイア森林島というやたら植物の生育が良い島に住み(あらゆる植物がタケノコ並の成長速度を誇るので、人の移住がほぼ不可能)その長い首でもって周囲の植物を食べ、食べるモノが無くなるとようやく移動するというものぐさな亀の事を指します。
植物の成長速度から、ほぼ移動することがないので、『ネムリガメが驚いて走り出す程』という表現は、非常に珍しい物事を指す慣用句になります。
フリッツノール:皇国シュラウドネの皇都在住の絵本作家。妖精を題材にした童話、絵本を数多く手がけ、お子様の情操教育から純粋なファンまで庶民から貴族まで愛読者が多い方。