後篇
さて、前回の論の中で引用したパーカーが語る〈原型〉の持つ“未開原野とプロテスタントの伝統によって育てあげられ、個人の自由という考えにとらわれ、暴力を振るうことができ、仕事をうまくやることが誠実さの証しだと確信し、理想主義者で、タフで、孤独”という部分ですが、ある小説の主人公を想起させると思われる方もいらっしゃるのではないでしょうか。
そう、ロバート・B・パーカーが生み出した私立探偵、スペンサーです。
パーカーはこの論文を書いた二年後に「ゴッドウルフの行方 The Godwulf Manuscript」でデビューを果たす訳ですが、彼自身、この本の序説の中で“この論文のおかげで博士号を取得できたし、大学の終身在職権も手に入れ、授業時間数も短くなり、そのうえ小説を何冊か書くことができた”と書いています。
ハードボイルドの歴史――そんなものがあればの話ですが――は、概ね、ハメットとチャンドラー、そしてロス・マクドナルドに代表される世代と、その後のネオ・ハードボイルド世代に分けることができます。
厳密にはその過渡期の作品もある訳ですが、その大きな違いは最初の世代の主人公たちが無条件に精神的強者でありえたのに対して、ネオ・ハードボイルドの主人公たちは決してそうではない、という点に集約されるのではないでしょうか。
この背景には、やはりベトナム戦争があろうかと思われます。
ベトナム戦争というのはアメリカという国が初めて味わった屈辱的な敗北なのですが、それは社会のさまざまな部分に混乱と疑問を生み出しました。
実際に起こった社会的な事件も多くありますし、その後のアメリカの政策にまで大きな影を落としています。
前回の論の中で、私はアメリカの世界戦略の根幹にある考え方について、根底にある個人の正義の存在を述べましたが、ベトナム戦争の混乱は彼らに自らの価値観や正義に対する疑問を突きつけました。果たして自分たちが信じてきた正義は正しかったのか、と。
そして、それは自らの正しさを信じることで成立していた〈世界中の悪のなかを傷つくことなく動き回っている無垢の権化〉の存在にも大きな矛盾を感じさせる結果となったのですね。
それが従来のただひたすらに強く、己の正義を信じるヒーローたちの存在を危うくし、同じようなヒーローを生み出すことに大きな嘘くささを感じさせたとしてもおかしくはないでしょう。ネオ・ハードボイルドに多く見られる屈折した(ちょっとおかしな言い回しですが)喜劇的なまでに悲劇的な主人公たちは、こういう背景から生まれてきているのではないでしょうか。
スペンサーは登場した年代からすれば明らかにネオ・ハードボイルド世代なのですが、そんな中でこのボストンの私立探偵はかなり独特の位置にあろうかと思われます。
彼は非常に思索的であり、ちょっと病的なライフスタイル偏重主義者であり、不必要にお節介であり、何よりもマーロウやスペイドのように孤独ではありません。
少し話が逸れますが、ハードボイルド・ヒーローは何故にあそこまで孤独なのか。まったく友人がいないことはないし、どちらかといえば主人公故に社交的な性格、少なくともコミュニケーションを苦にする人物は見かけないのですが、しかし、彼らは常に本質的に孤独を宿命づけられているように見えます。
これについては本書の中にロバート・イーデンバウムという人の本からの引用という形である種の答えが用意されていますので、ちょっと長くなりますが孫引きしてみましょう。
「ハメットの“悪魔的な”タフ・ガイの特徴は、最期の二作における重要な意味を持つ変形についても、以下のように体系化できる。彼は、感情、死の恐怖、金やセックスの誘惑などの制約を受けていない。彼は、アルベール・カミュが呼んだところの“思い出のない男”であり、過去の重荷からも解放されている。彼はどんな行動をも取ることができ、伝統的な道徳にかまわず、したがって、一見すると、敵と同じように道徳観念がないように、あるいは、不道徳に見える。普通の人間を制約している束縛に屈することを拒否することで、彼は、敵の力の及ばない神のような免疫性と独立を得る。彼はゴールに到達し、質問に答えて謎を解き、有罪の者と無罪の者の動機を再現する。そのために必要な純粋な力を彼は持っているのだ。ハメットの小説――とりわけ、この評論が主に関わるであろう初期の三作は、タフ・ガイの自由の“批評”にもなっている。彼が力のために払っている代償は、犯罪社会においてどんな犯罪者も直面する必要のない孤立を受け入れ、自ら課した仮面の後ろで切り離されることだ」
尤もこれはハメットの悪魔的なタフガイやフィリップ・マーロウ、リュウ・アーチャーなどの前期のハードボイルド・ヒーローの話で、ネオ・ハードボイルドではこの傾向はかなり緩和されています。スペンサーにも恋人のスーザン・シルヴァマンや相棒のホーク、マーティン・クワーク警部補といった仲間たちがいますし、特に後年の作品においてはかつての敵だったキャラクター(たとえば最初はギャングの用心棒として登場するヴィニィ・モリス)までがその輪に加わっています。
(余談ですが、パーカーが後年に完成させたチャンドラーの遺作「プードル・スプリングス物語 The Poodle Springs Story」や、パーカーのオリジナルの「夢を見るかもしれない(文庫本では「おそらくは夢を」に改題) Perchance to Dream」では、チャンドラーは決してやることがなかったマーロウと悪党の共闘という図式を持ち込んでいて、私などは「それは違うだろう」と思うのですが……)
にもかかわらず、スペンサーには他のネオ・ハードボイルドの探偵たちが持っている弱さや女々しさ、迷い、苦悩が存在しません。もちろん、彼もさまざまなことで悩み苦しむのですが――主にスーザンのことですが――、しかし、彼は自分を支えるものへ疑問を差し挟んだりはしません。多くの他者への理解を示しながら、同時に確固たる自分の足場を保ち続けています。
明言されてはいませんが、スペンサーというのはフィリップ・マーロウをパーカーの視点で解釈し直した人物だと言っても過言ではないと思われます。
マーロウはまだ、アメリカが己の価値観を疑わずにいられた時代のキャラクターですが、しかし、パーカーが論文を書き、そしてスペンサーを誕生させた1960年代末期~1970年代はそのままベトナム戦争の末期と重なります。したがって、そのままマーロウを焼き直したとしても、とてもリアリティを感じさせるようなキャラクターにはなりえないと考えても不思議はありません。
そこでパーカーは従来のハードボイルド・ヒーローが持つ”原型”はしっかり保ちながら、同時に他者に共感し、思索するヒーローを生み出そうとした――その結果として生まれてきたのが、スペンサーというキャラクターなのではないかと思うのです。
もちろん、パーカーだけがネオ・ハードボイルドのヒーローを生み出した訳ではありません。どこかに〈原型〉を残しながら、その破片を纏うように生まれてきた主人公たちは数多く存在します。たとえば、マシュウ・スカダーや名無しのオプ、悪党バーク、ダン・フォーチューン、そして一見とてもハードボイルドとは思えないアルバート・サムスンなど。
しかし、その後のいわゆる私立探偵モノの小説が、原点たるハードボイルドから離れていってるのも事実なのですよね……。
さて、本国アメリカではそんな流れのハードボイルド小説なのですが、では、我が日本における状況はどうなのかというと、これはもはや壊滅状態といってもいい悲惨さです。
特に近年の村上春樹による「ロング・グッドバイ The Long Good-bye」の再翻訳化に際して「ハードボイルド」という単語が使われなかったことについて、「それではハードボイルドの復興に繋がらないじゃないか」と文句を言った大沢某とかいうクソ作家までいる始末で(自分たちがこのジャンルを食いつぶしておきながらよくそんなことが言えたものですが……)、この体たらくでは斎藤美奈子に「オヤジ向けのハーレクイン・ロマンス」などと言われても文句は言えないかな、と思います。
(とか言いつつ、私はこの斎藤女史をよく知らないんですがね。フェミニズム系の方なんですか?)
ここまでの論で述べたように、ハードボイルドの根底にあるものがアメリカ人の源流から連なるものであるとするならば、そもそも、それを国外で模倣することの意味は相当に怪しくなってきます。
ネオ・ハードボイルドの多くがハードボイルドの残骸を内包しつつ、その外形を模倣することで何とか持ち応えているのは、それでもアメリカの作家たちの中に“アメリカ人の原型”が残っているからで、もともと、そんな考え方と無縁の日本人に本家のハードボイルドに迫るものが書ける筈などないのです。
私は今、自分の物書きとしての存在の根幹を揺るがしかねない発言をしてしまったのですが、しかし、「では、この国にハードボイルドは存在しないのか?」という質問に対しては、ハッキリと「否である」と答えることができます。
それは、私が敬愛すると公言する作家、原尞の一連の「探偵・沢崎シリーズ」があるからです。
沢崎の魅力について語るのは本稿の趣旨ではないので割愛しますが、私が他の国産ハードボイルドと沢崎シリーズを分けて考えるのかは、語っておく必要があるでしょう。
それは沢崎というキャラクターが、パーカーがナティ・バンポーからマーロウへの変遷を研究した過程からスペンサーを生み出したのと同じように、原氏がマーロウを彼なりの視点で解釈して生まれたキャラクターであるからです。
もちろん、それはこのシリーズ、特に処女作である「そして夜は甦る」がチャンドラーへのオマージュとして書かれたことと無関係ではないのですが、他の作品があくまでもハードボイルドの外形の模倣から始まっている――そして概ね無惨な結果に終わっている――のに対して、沢崎シリーズについては作者自身が「フィリップ・マーロウという存在に触発されて書いた」と発言しています。
ここは意外と大きな違いであるといえます。
と言うのも、もしそのキャラクターがディアスレーヤー・タイプでないのなら、少なくともその断片を受け継いでいないのなら、どれだけ筋立てや描写がハードボイルドに近かろうと、それは系譜に連なるものにはなりえないからです。
もちろん、マーロウと沢崎の間にはいくつもの違いがあります。何よりも大きいのは、主人公たる彼が他者を見つめる視線の高さです。
前述のとおり、マーロウは他者の弱さを受け入れない代わりに、相手に深い同情を示すことができます。ただ、それはあくまでも強者が弱者に向ける同情であり、そこには常に幾ばくかの憐れみが含まれています。
しかし、沢崎のそれは愚かな人間が繰り広げる所業をシニカルに見つめながら、しかし、自分もその愚かな人間の一人であることを同時に嗤っているのですね。
そのことを端的に表しているのがこの一節に凝縮されるものであるように、私には思えるのです。
「私は新宿に戻るまで、愛情や真実や思いやりのほうが、憎しみや嘘や裏切りよりも遥かに深く人を傷つけることを考えていた。商売柄、喜びを分かち合えない者たちの離反を見るのは日常茶飯なのだが、苦しみもまた分かち合わなければ癒されず、むしろ増大するものらしい。真実を明らかにするより、敢えてほかの男との関係を疑われることを選んだ女の心情を、私は理解しようとしてみた。絶えずどこからか”真実は告げられるべきだ”という声が聞こえたが、私自身そんなことを信じてはいなかった」
原尞「そして夜は甦る」より引用
ハードボイルドというジャンル自体に嘲笑にも似た視線が向けられ、下火どころか、火そのものがいつ消えてもおかしくない時代にも関わらず、原氏の次作「私が殺した少女」が見事に直木賞を射止めたのは、ハードボイルドが云々という以前にこの作品の完成度の高さがあるとは思います。
しかし、そんな中でこれまでの日本の小説界にはいなかった沢崎というハードボイルド・ヒーローが、多くの読者の琴線に触れる何かを持っていたのは間違いないでしょう。
それが何であるのか、ハッキリとした言葉で言い表すのは容易なことではないのですが、しかし、沢崎というちょっと斜に構えた中年の私立探偵は、現代の日本においても誇り高きレザー・ストッキングの末裔が生きていける、決して楽ではないにしても存在しうることを証明していると思います。
願わくば今後もそういうヒーローに登場してもらいたいし、できることなら、自分もそういう人物を誕生させたいという思いがあります。
もちろん、それは並大抵のことではないのですが。
(補稿に続く)