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「ハメットとチャンドラーの私立探偵 The Private Eye in Hammett and Chandler」は、アメリカの著名なハードボイルド小説「スペンサー・シリーズ」の著者、ロバート・B・パーカーが博士号を取得する際に提出した伝説的な論文「暴力的なヒーロー、未開原野の伝統と都会の現実、ダシール・ハメット、レイモンド・チャンドラー、ロス・マクドナルドの小説における私立探偵の研究 The Violent Hero,Wilderness Heritage and Urban Reality : A Study of the Private Eye in the Novels of Dashiell Hammett,Raymond Chandler,And Ross Macdonald」を、私蔵版として出版するためにパーカー自らが編集したものです。

日本では94年にハメット生誕100周年の記念出版という形で発売されました。

 

論文の基本的な論旨は、アメリカ文学の中に受け継がれるアメリカ人の〈原型〉とその変遷、それをダシール・ハメットのコンチネンタル・オプやサミュエル・スペイド、そして“レイモンド・チャンドラーの騎士”フィリップ・マーロウというハードボイルド・ヒーローがいかに受け継いでいるのか、というものです。(ちょっと乱暴な要約ですが……)

ハードボイルド・ヒーローと言えば基本的にミステリの登場人物である訳ですが、彼らをデュパンやホームズから今日まで連なる“名探偵”の変種ではなく、アメリカ文学の系譜の中にある“ディアスレーヤー・タイプ”の末裔と見る、非常にユニークなアメリカ人論でもある訳です。

 

さて、その“ディアスレーヤー(鹿撃ち)”とは何かと言うと、アメリカ西部劇――日本で西部劇と言うとどうしてもマカロニ・ウェスタンになりますが、ここでは西部開拓時代の物語のことです――史上最大のヒーロー、ナティ・バンポーの愛称です。

(別名をレザー・ストッキング(革脚絆)とも呼ばれるこの人物は、残念ながら日本ではほとんど知られていません。私も本書を読むまでは知りませんでした。あえて言うなら、映画「ラスト・オブ・モヒカン The Last of the Mohicans」の主人公というのが一番通りやすいかもしれませんが、この映画自体、あんまり当ってませんからね……。ちなみにGoogleで「ナティ・バンポー」を検索したら8件しかヒットがなかった……)

 

論の冒頭、パーカーはナティ・バンポーについてD・H・ローレンスが記した一文を引用しています。

 

「アメリカ人の魂の本質は堅牢で、孤立していて、ストイックで、加えうるに殺人者なのだ……そしてアメリカにとっては、鹿撃ちの姿がそれに当る。白人社会に背を向ける男。独り孤立して、ほとんど自らを顧みることなく、禁欲的で、挫折を知らぬ。死によって生を保ち、殺戮によって生きる……これこそまさに、純の純なるアメリカ人だ」

 

そしてまた、同じようにアメリカ人の“原型”について、次のようにも書いています。

 

「未開原野とプロテスタントの伝統によって育てあげられ、個人の自由という考えにとらわれ、暴力を振るうことができ、仕事をうまくやることが誠実さの証しだと確信し、理想主義者で、タフで、孤独で、無限の可能性を秘めた自由な場所に向かって西へと進むこの男こそが、”今日の多数の――たぶん大多数の――アメリカ人が抱いている自画像、アメリカ人たちの頭のなかにある過去を既定し、従って彼らのめざす未来の在り方を規定している像”である」

 

この一文は、アメリカ文化を理解する上でのキーワードになり得るものです。

 

乱暴な言い方をすると、アメリカの歴史は目の前に広がる広大な荒れ地を手当たり次第に開拓して文明地――あくまでも彼らにとって、ですが――へ変えていくことの繰り返しの歴史であり、彼らが現在も世界中でやっていることも本質的にはあまり変わっていないような気がします。

そして、彼らの正義が非常に独善的である、少なくとも“開拓”される側からはそう見えることが少なくないのは、規範を示す者がいない開拓地において、


「善悪のすべての選択は個人の善悪の判断であり、その選択が正しかったのかどうかという答えはその結果にしか表れない」


という現実によって彼らの正義が培われているからだという気がします。

 

そんな西部開拓時代を描いた作品は数多く存在しますが、その中でもっとも有名な作品がジェイムズ・フェニモア・クーパーによるレザー・ストッキング作品群と呼ばれる、いわゆるナティ・バンポーものです。

上に挙げたD・H・ローレンスの言葉は主人公、ナティが作中において置かれている立場を見事に言い表すもので、物語は未開原野の伝統によって育てられたナティと、居留地を支配する文明との軋轢を軸に展開します。

ナティは自らの良心に従って生きる男なのですが、しかし、彼の良心は法によって律される社会と必然的に小さな衝突――やがては大きな対立を生み出すものでした。「開拓者たち」の中で、ナティは禁猟期に鹿を殺していた罪で告訴され、森へと逃亡します。

しかし、そこには同じ時期に鳩や他の動物を殺していた“善良な市民”たちは告訴されず、追われるのはアウトサイダーのナティだけである、という文明地の明らかな矛盾や腐敗も描かれています。

 

社会的な正義と個人的な正義の対立――これもまた、アメリカ人の意識の根底にある個人主義の表れではないかと思います。

邦訳されるあちらの小説でしばしば見かけるのですが、アメリカ人は、というよりアメリカ社会そのものが、大きな社会共同体よりも自分たちの小さなコミュニティを尊重する傾向があります。

これもまた〈自分たちを守るのは自分たち自身だ〉という、社会という共同体に守られた経験に乏しい彼らの特質なのですが――社会を〈世界〉と言い換えると現代の世界情勢を読み解くキーワードのような気がしますが、論の目的ではないのでこれ以上は掘り下げないでおきましょう――これもこういった開拓時代の名残りなのかもしれません。

 

ナティ・バンポーという人物について、パーカーは「本質的には善良で道徳的であるが、彼のその才能は個人の道徳が支配する未開原野でのみ通用するもので、法が支配する文明社会にはそぐわない」と書いています。故に彼は開拓地から未開原野へと去らなくてはならなかった、と。


ナティの逃亡を逃避とみるか、彼の道徳基準を行使できる環境への進出とみるかは意見が分かれるところなのですが、しかし、ナティが文明地に残ったところで、彼がそこに順応することはなかった筈です。

猟師であるところの戦士が、社会の中でできることは限られています。せいぜい警官か兵士になることでしょう。

しかし、彼らは法の番人であり、良心の守護者ではありません。警官が何事かを見咎めたときに考えるのは「それは合法か?」であって「それは正しいか?」ではないからです。早晩、ナティは自分の良心と法の求める正義の矛盾にとらわれてしまったことでしょう。

結局、文明社会の中にディアスレーヤー・タイプが存在する余地はなく、彼らはその場を立ち去らなければならないのです。

 

西部劇の登場人物たるナティと、マーロウやスペイドのようなハードボイルド・ヒーローには一見、何の共通点もないように見えます。むしろかけ離れた存在にすら見えるかもしれません。作品としてまったく異なる系譜のものですし、文学的評価は――現在はともかく、発表当時は――まるで比較にはならなかったでしょう。

 

では、パーカーは何をもって彼らを現代社会に生きるディアスレーヤーであるとしたのか。

 

それは、彼らが社会の腐敗や不正、矛盾に影響されない〈世界中の悪のなかを傷つくことなく動き回っている無垢の権化〉であるからです。ナティが明確に自らの正義を持ち、それを揺るがさなかったように、マーロウやスペイド、コンチネンタル・オプは明確な道徳の羅針盤を持っています。

両者の違いはただ一つ、ハードボイルド・ヒーローには逃げ込める辺境が残されていない、という事実です。そして、故にパーカーはこう語るのです。


 

「レザーストッキングの社会に対して見せた拒絶は、今のところまだ文明化されていない西部の平原で西を向き、インディアンに囲まれて死を迎えたところで最高潮に達する。沈黙の呼びかけに答えて、若々しく”ここだ!”と言ったのは、彼はとうとう小説を超越して、もう高潔さが脅かされないところまで上りつめたのだろうということを明示している。私立探偵も、高潔さを守るために文化の公けの形態を拒否するが、今では太陽は大都会の空に沈むので、そういった形態を拒否しながらも、そこから逃れることはできない。彼はもはや西へ行くことはできない。踏みとどまるしかないのだ。彼に救いがあるとしたら、それは踏みとどまること、世界を受け入れずに立ち向かうこと、名誉を持ってその圧力に耐えることにある。悪は、社会の機構の一部となっている。逃亡はもはや不可能だ。だが、受け入れることは恥である。従って、彼の世界が持つ暴力の潜在性との衝突は避けられない。二十世紀の都会でのそうした衝突の物語が、探偵の物語である」

 

 

尤も、マーロウという人物についてはよく「自分がしがらみを捨てて大都市の探偵として生きているからと言って、そんなに他人を断罪しなくていいんじゃないか?」という論も聞かれます。個人的見解ですが、これはマーロウが「逃げ場のないナティ・バンポー」であることと無関係ではないと思うのですね。

ナティは文明地を邪悪なもの、不快なものとみなしていますし、法を“力や知恵という才能を持たない人々を保護しなくてはならないときに必要とされるもの”と考えています。


しかし、法はたびたび指摘されるように力ある人々によって都合よく捻じ曲げられるものです。上記のとおり、「開拓者たち」の中でナティは禁猟期に鹿狩りをした罪で告訴され、同時期に他の動物を殺していた町の良き市民たちはまったくのお咎めなし、という不公平に晒されます。


同じように不正や腐敗に満ちた社会の中で、マーロウはそれらを非常にシニカルな視線で捉えています。そして、彼は自分を取り巻く社会の圧力を受け入れることなく拒絶し続けています。

マーロウがナティと違うのは、真っ向から否定や批判を繰り広げたりしないという部分です。その代わりに見下しながら、その弱さに同情するのですね。しかしそれが、ときに非常に傲慢なものに映る――とりわけ、現代の読者の目にそう映る部分があるのは致し方ないような気がします。


(後篇に続く) 

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