「口下手な子供を甘やかしているだけだ」と追放された令嬢——社交界デビューの夜、緘黙だった公爵令息が国王の前で名を名乗った
その声が聞こえたのは、辺境の村の、小さな教室の中だった。
わたくしは子供たちに文字を教えていた。板切れに炭で字を書く練習。八歳のマルテが、生まれて初めて自分の名前を正しく綴り終えたところだった。
「せ、せんせい、見て!」
マルテが板切れを高く掲げる。不揃いな文字。M-A-R-T-E。間違いなく自分の名前だ。
わたくしは微笑んで頷いた。「上手に書けたわね。あなたの名前よ」
その瞬間、マルテの声の色が見えた。明るい黄色——好奇心と喜びが混ざった、春の野花のような色。
わたくしには、声の色が見える。
人が発する声には、その人の心の形が色となって滲む。恐怖は灰色。怒りは赤。安心は淡い金色。そして声を出せない人の沈黙にも——黒は拒絶、灰は恐怖、白は諦め。
祖母から受け継いだこの異能は、わたくしの目にだけ映る、心の景色だった。
扉が叩かれた。
振り向くと、宿屋の女将が息を切らして立っていた。
「カティア先生、大変だよ。王都から早馬が来てる。あんたに用があるって」
王都。
その言葉を聞いただけで、胸の奥がきゅっと締まる。半年前に追い出された場所。もう関わりのない場所だと、そう思っていたのに。
半年前のことだ。
わたくしは王都ヴォルクハイムの片隅で、言の葉サロンという小さな教室を開いていた。
生徒は五人。全員、社交界で「話せない」子供たちだった。
アルブレヒト・フォン・ヴァレンティン公爵令息。十三歳。場面緘黙。家では普通に話せるのに、人前では声が出ない。公爵家の嫡男として社交界デビューが控えていたが、宮廷礼法院の予備審査で一言も発せず、「欠陥品」と陰で呼ばれていた。
エルフリーデ伯爵令嬢。十二歳。吃音。「わ、わたくし」の「わ」が出ない。初めて人前で自己紹介をした日、居並ぶ貴族の子女に笑われた。以来、口を開くたびに指が震える。
フェルディナント男爵令息。十一歳。父親に怒鳴られ続けた結果、大人の男性の前で萎縮して声が出なくなった。治癒魔法師は「声帯に異常なし」と診断して匙を投げた。
他にも二人。どの子も、魔法では治せない心の傷を抱えていた。
治癒魔法は万能ではない。骨折も切傷も感染症も治せるが、「話すことへの恐怖」だけは魔力の届かない場所にある。声帯が健康でも、心が凍りつけば声は出ない。
だからわたくしが必要だった。声の色が見えるわたくしだけが、子供たちの恐怖の形を知ることができた。
最初の授業の日を、今でもはっきり覚えている。
アルブレヒトの前に座り、穏やかに声をかけた。
「好きなものの名前を、言ってごらんなさい」
沈黙。
声は出ない。けれどわたくしには見えていた——アルブレヒトを包む沈黙の色。灰色。濃い、重たい灰色。
恐怖だ。
人前で声を出すことへの、底なしの恐怖。「また失敗する」「また笑われる」——その予感が、声になる前の言葉を押し潰していた。
「大丈夫、ゆっくりでいいから」
わたくしは紙と羽根ペンをアルブレヒトの前に置いた。
「声は最後でいいの。まず言葉を持つことから始めましょう」
アルブレヒトが不思議そうにわたくしを見た。これまでの教師は全員、「声を出しなさい」と命じてきたのだろう。
「今日は、好きなものの絵を描いてくださいな」
アルブレヒトは迷いながらも、ペンを取った。ぎこちない線で描かれたのは——犬だった。垂れ耳の、大きな犬。
わたくしは微笑んだ。「かわいい犬ね。名前はあるの?」
アルブレヒトが指で紙に文字を書いた。「ブルーノ」。
「ブルーノ。いい名前。明日は、ブルーノのことをもっと教えてね」
帰り際、アルブレヒトの沈黙の色を見た。まだ灰色だった。けれど、ほんの少しだけ——薄くなっていた。
エルフリーデの治療は、鏡から始めた。
鏡の前に並んで座る。わたくしが口の形を見せる。あ、い、う、え、お。声は出さない。ただ口の形だけ。
「エルフリーデ、真似してみて。声は出さなくていいのよ」
エルフリーデは小さく頷いて、口を動かした。形だけなら、震えない。言葉にしなければ、怖くない。
次の段階。わたくしと二人きりの部屋で、ささやき声。「わ」。
エルフリーデの唇が震える。声の色が見えた——灰色の中に、恐怖の筋がまだらに走っている。嘲笑された記憶が、「わ」の音に染みついている。
「うん、聴いているよ。ここにはわたくししかいないわ」
エルフリーデが目を閉じた。そして、かすかに——
「……わ」
ささやき声。けれどそれは、確かにエルフリーデの「わ」だった。
次の日は、少し大きな声で。その次は、もう少し。一段階ずつ、安心できる場所を広げていく。一週間後、エルフリーデが普通の声で「わたくし」と言えた日——声の色が変わった。
震える灰色が消えて、薄い桃色が滲んだ。
「今のあなたの声、とても綺麗な色よ」
エルフリーデには声の色は見えない。けれどわたくしの言葉を聞いて、その目がきらりと光った。
フェルディナントの治療は、最も時間がかかった。
男性の声が怖い。父親に怒鳴られた記憶が、男性の低い声と結びついて体に刻まれている。治癒魔法では消せない傷。心の中にある、音の傷痕。
わたくしは町の菓子屋の老人に協力を頼んだ。白髪の、穏やかな老人だ。
「お手を煩わせて申し訳ございません。ただ、菓子の名前を読み上げていただきたいのです。ゆっくり、優しく」
老人は微笑んで引き受けてくれた。
教室の隣の部屋で、薄い壁一枚隔てて。フェルディナントは壁のこちら側、老人は向こう側。
「はちみつ飴」
老人の穏やかな声が壁越しに聞こえる。フェルディナントの体が強張った。声の色が見える——灰色。けれどほんの少し、青みがある。恐怖と警戒。まだ逃げ出す段階ではない。
「大丈夫、ゆっくりでいいから。次は何かしら。聞いてみましょう」
「胡桃の焼き菓子」
フェルディナントの指が、膝の上で少しだけ緩んだ。
三日後には壁を取り払い、半開きの扉越しに。一週間後には同じ部屋で、距離を空けて。二週間後には老人の隣に座って、菓子を一緒に食べながら。
フェルディナントが初めて男性の声を聞いて笑った日。老人が「今日はね、新作の蜂蜜菓子があるんだ」と言ったとき、フェルディナントが「食べたい」と声を出した。
声の色が——灰色から淡い黄色に変わっていた。好奇心の色。恐怖を塗り替えた、小さな光。
こうした治療を、わたくしは五年間続けた。
声の色が見えなければ、子供の恐怖の正体はわからない。治癒魔法師は「声帯に異常なし」と診断して終わる。教育局の教官は「声を出す練習をさせろ」と言うだけ。けれど声を出すことこそが恐怖の源なのだから、それは溺れている子供に「泳げ」と言うのと同じだ。
わたくしだけが、声に乗る心の色を読み、一人ひとりに合った「言葉への道」を設計できた。
その日々が、突然終わった。
宮廷礼法院から視察が来た日のことだ。
教室では、アルブレヒトが絵を描いていた。描いたものを指さして、わたくしが名前を言い、アルブレヒトが指で空中に文字を書く。まだ声には至っていない。けれど沈黙の色は、初日の重たい灰色から、薄い灰色へと確実に変わっていた。
エルフリーデはわたくしと向かい合って、歌を歌っていた。歌なら吃らない。メロディに乗せれば、言葉は自然に流れ出す。音楽から言葉へ、言葉から会話へ。エルフリーデの声の色は桃色で安定していた。
フェルディナントは菓子屋の老人と将棋のような盤遊びをしていた。「あ、そこは取れるよ」と老人が言うたびに、フェルディナントが考え込んで「うーん」と唸る。男性の声を怖がらなくなった。
審査官の目は、冷たかった。
「クラングフェルト嬢。これが教育ですか」
わたくしは立ち上がって一礼した。「はい。一人ひとりの状態に合わせた——」
「絵遊び。歌遊び。盤遊び。子供を甘やかしているだけにしか見えませんが」
「お言葉ですが、この子たちの声には——」
「弁舌指導の教室で、弁舌の練習をしていない。それが全てです」
審査官は書類に何かを書き付けた。視線を一度も子供たちに向けなかった。
その夜、婚約者のハインリヒが訪ねてきた。
「カティア。悪いが、教育局は来期の予算をつけないそうだ」
わたくしは息を呑んだ。「まだ治療の途中です。アルブレヒトはようやく——」
「結果を出せ、と何度も言っただろう。半年で一人も人前で話せるようになっていない。効率が悪すぎる」
「言語の治療は、時間がかかるものです。急かしては——」
「甘やかしているだけだ。口下手な子供をな」
ハインリヒの声の色が見えた。青みがかった灰色。そこに感情はなかった。同情も理解も、怒りすらもない。ただの判断。数字に基づく、冷たい処理。
「それと——婚約の件も、白紙に戻させてもらう。侯爵家が、成果の出ない教師との縁組を快く思っていない」
声の色が変わらなかった。一切の揺れもなく。まるで帳簿の一行を消すように、わたくしとの五年間を処理した。
怒りはなかった。悲しみでもなかった。
わたくしの心を占めていたのは、ただ一つ。
あの子たちの声の色が、まだ——。
アルブレヒトの沈黙は、ようやく薄い灰色にまで変わったところだった。あと少し。あと少しで、声になる。なのに、ここで途切れたら。
エルフリーデの桃色は、まだ脆い。嘲笑の記憶を完全には塗り替えられていない。
フェルディナントの黄色は、老人の声にだけ反応する。他の男性の声にはまだ——。
けれどわたくしにできることは、もう何もなかった。
王都を去る日、教室に一通の手紙を残した。
『あなたたちの声は、あなたたちだけのものです。わたくしがいなくても、言葉はきっと見つかります。——カティア』
子供たちに直接会うことは許されなかった。教育局の命令で、教室は即日閉鎖された。
辺境シュティレ領。山間の、静かな村。
遠縁を頼って流れ着いたわたくしは、宿屋の手伝いをしながら日々を過ごしていた。
最初の数日は、何もする気になれなかった。
宿屋の食器を洗い、床を掃き、薪を運ぶ。体は動くのに、心だけがどこか遠くに置き去りになっていた。夜、宿屋の小さな部屋で天井を見つめていると、アルブレヒトの灰色の沈黙が瞼の裏に浮かんだ。あの子は今、誰かに「声を出せ」と急かされていないだろうか。エルフリーデは、また誰かに笑われていないだろうか。
考えても仕方のないことだと、わかっていた。
村の子供たちに出会ったのは、三日目のことだった。
宿屋の裏手で遊んでいた子供が転んで膝を擦りむいた。泣きながら駆け寄ってきたので手当てをしてやると、名前を聞かれた。
「カティアよ。あなたは?」
「……マルテ」
声の色が見えた。明るい橙。痛みはあるが、それ以上に——人懐っこい好奇心が声に乗っている。健やかな色だ。
「マルテ、自分の名前、書ける?」
首を横に振る。不思議そうな顔で——「名前って、書くものなの?」
聞けば、この村では子供の半数が自分の名前を書けないという。識字率が低く、学校もない。子供たちは親の手伝いをしながら育ち、文字を知らないまま大人になる。街道沿いの交易で暮らすこの村では、口頭でのやり取りだけで日常は回る。けれど——名を書けない人間は、契約書に署名ができない。土地の権利を主張できない。手紙が書けない。声が届かない遠くの誰かに、想いを伝える手段がない。
気がつけば、わたくしは宿屋の軒先で子供たちに文字を教えていた。
板切れに炭で書く。自分の名前。家族の名前。好きな食べ物の名前。
声の色は使わなかった。この子たちの声は健やかだ。恐怖の灰色も、諦めの白も、どこにもない。ただ、文字を知らないだけ。
王都の子供たちとは正反対だ。あの子たちは文字を知っていたが声が出なかった。この子たちは声が元気いっぱいだが文字を知らない。けれど、どちらも「言葉の一部」が欠けていることに変わりはない。
「名前を名乗れることは、人として立つことよ」
王都でも辺境でも、それは変わらない。
ラウル・シュティレに出会ったのは、教室を始めて一週間後のことだった。
辺境の領主代行。元騎士団の軍人。黒髪を短く刈り上げた、鍛えられた体躯の男。
宿屋の軒先で子供たちに文字を教えていたわたくしに、不意に影が差した。見上げると、大柄な男が無言で立っていた。
「……教師か?」
短い問い。低い声。必要最低限の言葉。
わたくしは声の色を見た。
くすんだ青。
悲しみとは少し違う。怒りでもない。もっと深い場所にある——「諦め」の色。声を使うことを、とうの昔に諦めた人間の色だ。
「……元、です」
わたくしも短く答えた。
ラウルは戦場で部隊を失ったと、後で宿屋の女将に聞いた。激戦の中で仲間が次々に倒れ、助けを呼ぶ声が届かなかった。以来、声がかすれるようになった。治癒魔法で声帯は治したが、かすれは消えなかった。心因性失声。声帯は動くのに、心が声を絞り出すことを拒んでいる。
必要最低限しか話さない。領主代行として村を守っているが、言葉を交わすのは事務的な報告のみ。村人たちはラウルを信頼しているが、彼の口から温かい言葉が出るのを聞いた者はいないという。
ある日、ラウルが教室を訪ねてきた。
「……この村の子供は、自分の名前を書けない者が半分いる」
わたくしは頷いた。
「正式に教えてくれないか。報酬は出す。教室にする小屋もある」
「わたくしに、まだ教える資格があるかどうか……」
「……資格は知らん。子供たちが笑っている。それだけだ」
声の色は、くすんだ青のままだった。けれど言葉の端に、かすかな温度があった。
小屋は古びていた。壁が傾き、屋根板が何枚か抜けている。けれど広さは十分で、窓から山の稜線が見えた。
初日、子供たちを集めて授業を始めた。文字の読み書き、自分の名前の練習、簡単な計算。
王都の言の葉サロンとは違う。ここの子供たちは声に問題を抱えていない。ただ、言葉の道具——文字を持っていないだけだ。
三日目の朝、教室に来ると壁の傾きが直っていた。
誰がやったのかは明白だった。
「ラウルさま、壁を直してくださったんですか」
ラウルは目を逸らした。「……壁が傾いていた。それだけだ」
その翌日、抜けていた屋根板が新しいものに替わっていた。さらに翌日には、窓枠に木の板が取りつけられ、子供たちの作品を飾れるようになっていた。
「ラウルさま、これは——」
「……釘が余っていた」
声の色は変わらない。くすんだ青のまま。けれどその青の中に、微かに——本当に微かに——温もりの筋が走っているのを、わたくしの目は捉えていた。
ラウルとの距離は、少しずつ縮まっていた。
といっても、言葉が増えたわけではない。ラウルは相変わらず必要最低限しか話さない。けれど教室に顔を出す時間が長くなった。子供たちが帰った後も、入り口に立って——何をするでもなく、わたくしが片づけをする気配を聴いている。
ある日、わたくしが重い木箱を運ぼうとしたとき、黙って手を伸ばして持ち上げた。「……重い」と一言だけ。わたくしが礼を言うと、いつものように目を逸らした。
そうした日々が二週間ほど続いた頃だった。
夕方、教室の片づけをしていると、ラウルが入り口に立っていた。
「……あんたは、なぜ追い出された」
不意の問いに、手が止まった。
「……子供を甘やかしているだけだと言われました」
「甘やかす?」
「絵を描かせたり、歌を歌わせたり。弁舌の教室なのに弁舌を教えていない、と」
ラウルはしばらく黙っていた。くすんだ青の沈黙。
「……あんたの教え方は、悪くない」
短い言葉だった。けれどその声の色に、わたくしは息を呑んだ。
くすんだ青の中に——緑。信頼の色。声を出すこと自体を諦めたはずの人が、言葉を選んで、わたくしに向けている。
ラウルの声を治療したいと思った。
「ラウルさま。もしよろしければ、お声の——」
「俺はいい」
即答だった。
「声が出るだけましだ。前線で死んだ奴らに比べれば」
声の色が暗くなった。くすんだ青の底に、黒い影が一瞬よぎった。——罪悪感。仲間を失った自分が、声を取り戻す資格などない。そう思っている。
わたくしはそれ以上言わなかった。急かしてはいけない。言葉は、その人の準備ができたときに出るものだ。
月日が流れた。
村の子供たちは驚くほどの速さで文字を覚えた。マルテは自分の名前を書けるようになり、他の子供たちも次々と——家族の名前、村の名前、好きな動物の名前を覚えていった。
教室は村の中心になりつつあった。子供だけでなく、大人も来るようになった。自分の名前の署名ができるようになりたい、という農夫。交易の帳簿をつけたい、という商人の妻。
ラウルはほぼ毎日、教室に顔を出した。教えに来るのではない。入り口の柱に背を預けて、腕を組んで、じっと教室の様子を見ている。子供たちが騒いでも微動だにしない。けれど、子供がつまずいて泣きそうになると、黙って近づいて頭を撫でることがあった。撫でるというより——大きな手をそっと乗せるだけ。言葉は一つもない。それでも子供たちはラウルを怖がらなかった。
ある日、マルテがラウルに板切れを見せた。「ラウルさま、あたしの名前! 読める?」
ラウルが目を細めた。「……ああ。マルテ、だな」
その声の色に、わたくしは息を呑んだ。くすんだ青の中に、淡い黄色が混ざっていた。ほんの一瞬だけ。子供の名前を読んだ、それだけのことで——ラウルの声に好奇心の色が宿った。
わたくしは忙しかった。けれど、胸の奥にはいつも王都の子供たちの面影があった。
アルブレヒトの沈黙の色は、今どうなっているだろう。
エルフリーデの桃色は、保たれているだろうか。
フェルディナントは、男性の声を怖がらずにいられているだろうか。
手紙は出せなかった。教育局の命令で、元生徒との接触は禁じられていた。わたくしに残されたのは、あの子たちの声の色が——最後に見た、あの薄い光が——消えていないことを祈ることだけだった。
半年後。社交界デビューの季節が来た。
辺境にいるわたくしには、王都の噂は遅れて届く。行商人が持ち込む新聞、旅人が語る土産話。それがその日、宿屋の食堂で耳に入った。
「今年の社交界デビュー、すごかったらしいぞ」
行商人が興奮気味に語っていた。
「ヴァレンティン公爵の息子——あの口がきけないと噂だった子が、国王の前で堂々と名乗ったんだと。それも一言も噛まず、震えもせず。居並ぶ貴族が腰を抜かしたとさ」
わたくしの手から、杯が滑り落ちそうになった。
アルブレヒトが——声を出した?
「それだけじゃない。伯爵家の令嬢——名前は何だったか——あの子も吃音があったはずなのに、完璧な挨拶をやってのけた。男爵家の坊主もだ。今年のデビュー組は異常に弁舌が立つと、宮廷礼法院の審査官が驚いてたそうだ」
エルフリーデ。フェルディナント。
わたくしの声の色を知る子供たちが——全員。
「しかも面白いのはな」
行商人が声をひそめた。
「宮廷礼法院の長が『誰がこの子たちを育てた?』と調べさせたらしい。五人全員の共通点がたった一つ——半年前に潰された、どこかの男爵令嬢の教室だったと。教室を潰した審査官が真っ青になったって話だ」
行商人は笑っていた。他人事の面白い噂話として。けれどわたくしは笑えなかった。
涙がこぼれた。
誰にも見られないように俯いて、エプロンで目を拭った。
あの子たちは、わたくしがいなくなっても——いや、わたくしが一緒に歩いた「回り道」の先に、自分の力で辿り着いたのだ。
絵を描くことから始めた指文字の練習。鏡の前のささやき声。壁越しの菓子屋の老人の声。あの一歩一歩が、半年の月日をかけて、声になった。
わたくしが種を蒔いた。けれど花を咲かせたのは、あの子たち自身だ。
それが、誰よりも嬉しかった。
そして翌日、王都からの早馬が来た。
宿屋の女将に呼ばれて表に出ると、王家の紋章が入った封書を差し出された。
封を切る。公式の文書。丁寧な筆跡で記されていた。
『カティア・クラングフェルト嬢へ。
本年度の社交界デビューにおいて、弁舌審査において特に優秀な成績を収めた若者五名を調査したところ、全員が貴嬢の言の葉サロンの教え子であることが判明いたしました。
つきましては、宮廷言語教師の称号を授与し、宮廷礼法院への着任を打診いたしたく——』
読み終える前に、もう一通の手紙が挟まれていることに気づいた。公式文書の裏に、子供の字で書かれた紙。
『カティア先生へ。
ぼくは、話せるようになりました。
先生がくれた言葉で。先生が待ってくれた時間で。
国王陛下の前で名乗りました。声は震えませんでした。
先生に聴いてほしかった。
——アルブレヒト・フォン・ヴァレンティン』
声の色は、手紙には映らない。
けれどわたくしには想像できた。アルブレヒトが国王の前で名を名乗ったとき、その声は——灰色ではなく、きっと澄んだ金色だったはずだ。安心と誇りの色。自分の名前を、自分の声で、恐怖なく発することができた瞬間の色。
返事を書いた。
公式文書への返答は、一晩考えて決めた。
翌朝、教室で子供たちの授業を終えた後、宿屋の部屋で羽根ペンを取った。
『国王陛下に謹んで申し上げます。
宮廷言語教師の称号、身に余る光栄でございます。
しかしながら——お気持ちはありがたく存じます。ですが、わたくしの教室は今、この村にございます。
辺境の子供たちは、自分の名前を書くことすら知りません。声がある子供たちが、声を言葉にする術を持たずに育っています。
王都の舞踏場で輝く声も、山間の教室で生まれる最初の一文字も——わたくしにとっては同じ重さの言葉です。
何卒、ご理解を賜りますよう。
——カティア・クラングフェルト』
手紙を封じて早馬の使者に渡した。使者は少し驚いた顔をしたが、一礼して馬を走らせた。
振り返ると、宿屋の入り口にラウルが立っていた。
どれくらい前からそこにいたのか。腕を組んで柱に背を預けた、いつもの姿勢。けれどその目は、去っていく使者の背中を追っていた。
「ラウルさま、いらしていたの?」
「……用があった。女将に」
短い言葉。けれどラウルの視線は、わたくしの手の中にある——封書の残りの一通、アルブレヒトの手紙に一瞬だけ止まった。王家の紋章が入った封筒が、まだ机の上に置いてある。
ラウルは何も聞かなかった。わたくしも何も説明しなかった。けれど——この人は、察している。王都から招かれたこと。そしてわたくしが断ったこと。
その日の夕方。
教室の片づけをしていると、入り口に影が差した。
ラウルだった。
朝とは違う空気を纏っていた。いつもの無言ではない。何かを内側で練り上げてきたような、静かな緊張。
普段は何も映さない目が、わたくしを見て——何かを探している。
「……今日は、言いたいことがある」
短い声。けれど、いつもよりわずかに力がこもっている。
わたくしは振り向いて、ラウルを見つめた。
彼の声の色が変わっていた。
くすんだ青ではない。もっと温かい色。くすみが薄れて、その奥から——淡い金色が、にじんでいた。安心の色。信頼の色。そして——もっと深い何かの色。
ラウルが息を吸い込んだ。大きな体が、わずかに震えている。この人が、言葉を絞り出そうとしている。声を出すことを諦めていたはずのこの人が。
「ありがとう」
たった五文字。
低い声。かすれてはいるが、一切震えていない。
そしてその声の色が——わたくしがこれまで見た中で、最も美しい金色だった。
諦めの青を塗り替えた、温かな光。言葉にすることを怖れていた人が、自分の意志で言葉を選び、声に乗せた瞬間の色。
アルブレヒトの金色とは違う。子供の誇りではなく、大人の——傷を知る人間の、静かな感謝の金色。
わたくしの視界が滲んだ。涙が頬を伝う。
「……今の声の色、ご自分でも聞こえましたか?」
ラウルには声の色は見えない。わたくしの問いに、少し困ったような顔をした。
「……何の色だ」
「金色です。とても、きれいな金色」
ラウルは黙った。意味はわからなかったかもしれない。けれどわたくしの涙を見て、何かを理解したらしかった。不器用に、大きな手が伸びて——わたくしの頭にそっと置かれた。
「……泣くな。俺は礼を言っただけだ」
その手の温もりが、声の色よりも雄弁だった。
翌朝。
教室に子供たちが集まる。いつもの朝。板切れと炭を配る。
マルテが新しい言葉を覚えたいと目を輝かせている。隣の子が「わたしも!」と手を挙げる。窓の外では、山の稜線に朝日がかかっている。
教室の入り口に、ラウルが立っている。腕を組んで、壁に背を預けて。何も言わない。けれどそこにいる。
わたくしは子供たちに向き合った。
「さあ、今日は何の言葉を覚えましょうか」
マルテが手を挙げた。「せんせい、『ありがとう』の書きかた!」
言葉は、治療の道具ではなかった。
成果を測るための数字でもなかった。
人と人をつなぐものだった。
わたくしは微笑んで、板切れに文字を書き始めた。
「あ」「り」「が」「と」「う」。
一文字ずつ。ゆっくりと。
声の色が見える必要はない。この子たちの声は、どれも——生まれたままの、まっさらな光の色をしている。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
「声の色」という異能を書きたかったのは、言語聴覚士という仕事を知ったことがきっかけです。場面緘黙や吃音は「甘えている」「努力が足りない」と誤解されがちですが、本人にとっては声を出すこと自体が恐怖との戦いです。治療は地味で、時間がかかり、外から見ると「遊んでいるだけ」にしか見えない——でも、その一歩一歩が声になる瞬間がある。
カティアの異能は便利なチートではなく、「見えるだけで治せない」という制約がある点が気に入っています。色が見えても、その恐怖を解く方法は一人ひとり違う。だから壁越しの菓子屋のおじいさんだったり、鏡の前のささやき声だったり、手探りで「その子だけの道」を探す必要がある。書きながら、教育の本質ってそういうものかもしれないと感じていました。
ラウルの「ありがとう」を書いた瞬間、自分でも泣きました。たった五文字なのに、この人がここに至るまでの道のりを思うと。言葉の重さは文字数ではないのだと、カティアに教わった気分です。
◇◆◇ 「捨てられ令嬢は最後に笑う」シリーズ ◇◆◇
婚約破棄・追放・裏切り——捨てられた令嬢たちが、それぞれの方法で最後に笑う短編シリーズです。
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