サトミと惟周とそれぞれの夜
「わかった。今日のところは手を引こう」
雉子が答えた。
「いいのか?」
比央がそれに口を挟む。
「御屋形様に注進せねばなりますまい」
雉子の態度は、大物主という大神の名に明らかに気おされていた。
神代にあって今は常世を支配せぬ神といえど、その名の力が見て取れた。
「わかった……。だが、惟周の考えが我らと違うときは……」
「了解している」
そして雉子は眼下を一瞥した。
大物主と話をつけると言ったヌシの力を見極めようとして、止めたのだ。
容易に口にできる名ではない。
それだけに、雉子の防衛本能が何かを呟いていた。
「では、改めてこちらから遣いを出す。それまでお前たちは自身の主人の身を守るに専念するがよいぞ」
ヌシは口元に笑みを浮かべて言った。
音もなく。
天狗たちが天高く舞う。
当面の危機が去ったことで、サトミと宗次も肩の力を抜くことができた。
女神は相変わらず宗次の腕の中で眠っている。
ヌシも再び沼のほとりに足をつけた。
「サトミ、宗次、大事ないか」
「はい。ヌシ様も」
「今宵は休め。女神の社を貸そう」
大物主命の件について、その日ヌシは何も語らなかった。
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夜目の聞く獣たちの息遣いを感じた。
下生えをうごめく音。獲物を負う羽音。かすかなさえずり。
宗次の意識は冴えわたっていた。
「眠れないのですか」
サトミが静かに声をかけた。
「サトミさん……。大物主って、すごい神様ではありませんか?大丈夫なのでしょうか」
「日本書紀にはそうあるが、実際あったこともなければ、これまでどうと意識したこともなかった」
それは宗次も同じである。
文字として語り継がれたもので見知っているだけの、それこそ雲の上の存在である。
サトミも思案していたが、
「ヌシ様にお任せするしかありません」
そう言ったっきり、社には沈黙が下りた。
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京にも、大井と同じ夜が訪れていた。
惟周は寝所の濡れ縁に片膝を立て座している。
「冷えますぞ」
いつもの通り、頭上から声がかけられる。
「たまには降りて来ぬか」
するりと、雉子の影が庭に落ちる。
低頭するわけでもなく、雉子は立ったままだ。
惟周は、ふ、と息で笑った。
「その様子だと、うまくいかなんだか」
「……」
雉子は無言のままで答えた。
「そうか」
惟周の声に咎める気配はない。
「御屋形様、奴らは大物主命に助力を乞うと」
「ほう?」
「それにて、祟りの縁を切って見せるそうです」
「さようなことができるものなのか?」
「我々もいささか驚きました。まさか、かの大神は水神なれど、そのような仕業ができようものか判じかねるので」
惟周は顎に手をやり、再び笑みを作った。
「書記によれば、神々の所業は人の思いつく範疇を超える業ばかりぞ。さもできよう」
そうは口の端に乗せたが、惟周もその真偽について正確な判断はできない。
「若くともまごうなく神殺しをしようとした我らに、なんぞ天罰でもあろうか」
ぎくりと雉子の体がこわばった。
「御身は守りまする」
「よい、それも天命」
惟周はすべてを楽しんでいるようだった。
天狗を助けた過去。
天狗に守護される今。
神殺しを暗に認めたその未来。
「これで命がのうなるときは、我も咎人であったという証やないか」
くくく、と、今度は声に出して笑った。
「なかなかに面白い人生であるかな。どう転ぶか、しばし待とうではないか」
―――はははははははは!
夜陰に惟周の笑声が響き渡った。