天狗と惟周と惟周の過去
「人のことはわかりますが、あの蛇神のことはとんと理解できませぬ」
屋根の上の黒い影は、声音を落として続けた。
「女性の蛇神は嫉妬深い…とはいえ、あの執着は異常かと」
「はは、同類に異常といわれるとは、よほどの神やな」
惟周が笑う。
彼らに女神の性癖は理解しがたいらしい。
「面白いではないか…」
「して、今後の策は」
「お前に任せる。私は、この身を守ることかなえばそれで良い。好きにしてよいぞ?」
「御意」
惟周の身を守るため、災いをなす可能性のあるサトミの御霊を消滅させる。
先の、サトミの守護地を穢す案は失敗した。
神の居ない好機を逃しはしたが、次の手はまだある。
「では、邪魔者から手を付けましょう」
ばさり
烏のような、されどそれよりも大きな影が庭に影を落とし空に舞った。
惟周は、再び杯を傾けた。
しびれるような麹の風味が口に広がる。
初めて酒を口にした日のことが思い出された。
あの時は、父親に黙って家人の子と遊び歩き、どことも知れぬ河原で水浴びをしていた。
例に漏れず、幼い子は深みにはまってしまう。
急流に足を取られおぼれかけた自分を救ってくれた僧侶が、気付にと酒を飲ませてくれた。
今思えば僧侶が酒を持ち歩くなど、破戒以外の何ものでもない。
しかし。
命は救われた。
そして言われたのだ。
――先祖の霊が、祟っている。
その霊はお前と同じくらいの姿をし、成仏することなくこの世にとどまっている。
先祖の怒りを静めなければ、おぬしは今後も命の危機にさらされ続けるだろう。
息ができずに苦しい思いをしている子供に、何を言うのかと。
その時は理解できなかった。
しかし、忘れもしなかった。
怪我をすれば、その言葉を思い出し、病にかかればこれが祟りかと思いもした。
同じ年頃のものに比べ思うように出世がかなわぬのも先祖の怒りのせいかと責任を追及してもみた。
あの強烈な予言は呪詛にも似ていた。
そして。
月日は過ぎ。
ある日、天狗の子を拾ったのである。
その日は、父の遣いで近江の何某という薬師のもとまで出向いていた。
母の病平癒の為、名の知れた妙薬を求めて旅の途中だったのである。
「惟周様、この先に琵琶湖が見えてまいります」
従者の声に顔を上げると、馬上からはまばゆいばかりの水面が見えた。
「おお、聞きしに勝る広大さやなぁ」
水は流れず、波寄せている。
「海を見たことはないが、海のようとはよく言ったもんや」
久しぶりに清々しい気分になった。
と、打ち寄せる波間になにやらうずくまるものをみとめた。
童のように見える。
溺れているのではないか?
とっさに、過去の自分を思い起こした。
馬を駆り、岸を走る。
波打ち際で馬からとび降り、うずくまる童に駆け寄った。
果たしてそれは、珍妙な姿をしていた。
濡れてちじこまった羽根がある。
鳥のような足をしており、顔にはくちばしがあった。
「こ、これは天狗ではありませぬか!」
慌てて後を追ってきた従者が悲鳴のように叫ぶ。
天狗だと。
京には妖異あまた巣くうといわれているが、現物ははじめて見た。
そも、本当にこの世に姿をもって存在していたのかと。
「この天狗の子、助ける」
「惟周様!?何をおっしゃるのです!」
「命に変わりはない」
若き惟周は、体温の低い弱った幼い天狗を腕に抱きあげた。
自分の衣で体をぬぐってやる。
「火を焚けぬか?近くに住民はおらぬか」
せわしなく辺りを見渡すも、街道沿いに民家はない。
薬師のもとまで行くが早いか。
そう判断した惟周は、天狗の子を抱えたまま馬にまたがった。