女神とヌシと京の男
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翌朝。
稲刈りの終わった稲田が、大井村のあちこちに点在するようになった。
切られた根から再び生まれたか弱い葉が風に揺れ、地面に影を落とす。
本来のヌシの帰来を分かっているのか、いつになく穏やかに成長する作物。
平穏そのものである。
山の木々たちも、動物達も、精気を得たように活発である様を、村人たちもわずかながらに感じていた。
「ヌシ様の機嫌がよいのかねー」
「今年は村にいい恵みがあるのかね」
期待に満ちたそんな会話を、ヌシと女神は沼で「聞く」。
「やはりヌシ様が要所要所に居られると、村の息吹が彩りを増しますね」
「……そうだな」
「ヌシ様……なんか避けてます?」
目を合わせようとしないヌシの顔を覗き込むように、女神は背をかがめた。
「昨夜の事、まだ気になさっているのですか?」
「……いや、いろいろ考えておるのだ」
「何を」
「どうしたら、お主と天狗が諍うことになるのかと。口を割る気はないようだからの」
女神は苦笑するしかない。
言いたくない訳ではないのだが、言えば、ヌシも口を出すに違いない。
それは、避けたい。
「天狗は我々蛇の天敵……。神と等しく祭られもする偉大な妖畏ぞ」
「気になりますか?」
「サトミ絡みであろう事は察しがついたが、まだ神になって間もなきあの稚児の霊が、天狗と因縁を作るとは思えぬ」
小さき手を顎にあてがい、ヌシは思案する。
伏された瞼の奥で、深黒の瞳がきらりと光る。
「美しい……」
女神など、うっとりしずぎて感情を声にだしてしまう。
「お主という奴は……」
女神のそんなつぶやきに辟易し、肩を上下するほどにため息をつく。
そのため息は、森の梢を抜けやわらかな風になるかと思われる程に美しく、繊細に見えた。
もちろん、女神の目だけにだが。
「お主一人の手に終える話で終われば良いが、眷属ばかりでなく土地に害が出るような事にはしてくれるなよ」
ヌシは、女神の邪な感情を払拭するかのように、厳しく諭す。
「この土地は我守護地である前に、人の大切な生計の場ぞ」
「分かっております。大丈夫です。天狗に悪さなどさせません」
「……不安でならんわ」
穏やかに。
平穏な時間が過ぎていく。
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平安の都。
かつてそう呼ばれた京。
飢饉や戦の場となり、また疫病も重なりかなり衰退してはいる。
源平の戦の後、鎌倉に政治の場が移ってなお、その影響力は大きい。
院政のしかれた朝廷によって、陰も陽も飲み込むほどの巨大権力が築かれていた。
鎌倉新仏教の台頭も、この地までは及ばない。
天台、真言と多くの荘園領地を持つ二大宗派が、強い支配体制を持ち続けていた。
「平安とはなにかな」
釣殿で酒を嗜むのを好しとするその男は、誰にとも無くそうつぶやいた。
控える侍従もなく、ただ一人杯を口に運ぶ。
うららかな日差しが、池の水紋を彩る。
それを肴に、呑む。
「惟周殿」
衣を引く音とともに、軽やかな女の声が背後に迫った。
男は顔だけ振り返り、
「政所様」
と応じる。
政所(奥様)と呼ばれ、女性は無表情の中に嫌悪を示した。
まだ若い。
惟周の二つか三つほど年上だろうか。
女盛りの、源氏物語に出てくる葵の上のようだ。
「病と申し参内もせずに、何をなさっておいでか」
「酒が飲みたくてしかたない病なのです」
「殿がおらぬようになれば、そなたがこの里見家を支えねばならぬというに」
「子を成されぬのは、私を次期家頭とされるためですか?」
カッ、と。
政所の顔に朱が走った。
惟周の嫌味が効いたようだ。
政所は後妻で、妙齢の惟周の父親との間には子はない。
夫との寝屋を政所が避けていると、家中ではもっぱらの噂だ。
この家には、家禄を継ぐことのできる男子は惟周しかいなかった。
「もしもの時は、幼い妹に婿を取られればよろしいかと」
惟周は、さらに嫌味を重ねた。
「殿に言いつけますよ!」
政所はそう言い捨て、顔を真っ赤にしたまますぐさま踵を返した。
政所が憤慨して去る様を、惟周は哄笑し眺めた。
「何ゆえに、疎む私に話しかけようとしはるんやろな」
「それは、御屋形様に好意を寄せておられるからです」
屋根の上より、低く進言する声。
影を落とさぬ、異形の供がそこにある。
まだ家督を継いでいない惟周を、「御屋形様」と呼ぶ。
「私を好いていると?これはまた異なことを。あのような態で、どうしてそうとわかるんや?」
「思い通りに自分を好いてくれぬ男子に、女子はあのような態度をとるものです。政所様のように気位の高い方なれば、なおのことかと」
「そちは、人の機微をよう解釈するよの」
くく、と喉の奥で笑いを殺し、惟周は何杯目かの酒を飲み干す。
惟周の、真黒の瞳が満足気に揺れた。