宗次とサトミと女神の思い
もし、この世の人ならざる存在を分類することができるとすれば。
できるか、できないか。
何を基準として。
そは神と。
こは鬼と。
境はなんぞや。
【美童好みの女神の逸話】
霜月。
二日を過ぎた頃。
宗次はふと目を覚ました。
月の美しい夜。
ほとんど見えぬ星の代わりに白くやわらかげな雲が月光を含み、風に身を任せている。
冴える感覚が、サトミの帰還を悟った。
若宮神社に奉祀される神。
かつて、土地の豊穣を祈願し生贄となり、実は実家より厭われた故の逐放という過去を持つ少年の霊。
憤死した霊は、若宮として神格を与えられることがある。
魂を祭り、その怒りを祟りに変えないために。
それが、宗次が仕える神だ。
「サトミさん?」
「…起こしましたか?」
「いえ、おかえりなさい」
神無月は神々が出雲へと集まる。
サトミも例外ではない。
「留守中、女神様がなにか迷惑でも?」
聡いサトミの静かな問いに、臥所から起き上がった宗次は苦笑する。
女神は、サトミに会うことなく先月の終わりに大井村に帰っている。
だが、やはり女神の濃い霊気が残っているのだろう。
「いえ…女神様は問題なかったんですが」
言いかけて、話題を変える。
「サトミさんこそ、出雲はどうだったんですか?」
「新参は、外宮にも近寄れぬ。国境で、高みにおわす神々をお迎えするだけ」
「退屈でしたか?」
「…いや?かつて我々が拠り所としていた神々は、こうも人間的かと妙に安堵してしまった」
サトミは宗次の寝所に作られた床の間に腰かけた。
「安堵、ですか?」
「女神様が、あのような方だからな」
サトミの言いように、宗次はまたも苦笑する。
「サトミさん…」
「なんです」
「神とは、どのような存在なのでしょう」
宗次の問いを、サトミは無言で受け止める。
自身の存在を問われているのか、高みにある神話の神々の偉大さに言及しているのか判然としなかったからだ。
「少なくとも、人に関わるものではない」
サトミは静かに応える。
「存在はそこにあれど、我々は地のものではなく、天のものでもない」
「…天狗が…」
「ああ、この匂いは天狗のものであったのか」
宗次の言葉を拾い、サトミは庭の彼方、村を見た。
「天狗が村に入り込んだのか」
「…サトミさんは、御霊になるのでしょうか」
「?脈絡なくどうしたのです」
宗次は、天狗と京にいた貴族の姿を思い出す。
神となった先祖を消そうとしたあの一族を。
「御霊とは、高貴な方々を祭るもの。謂われなき罪に貶められ、恨みをもって神となったものぞ」
「……」
「そなたは、私をそのように思うてか」
サトミの死した過去を思えば、子孫の家系を照らせばそうともとれると考えていた。
「ここは若宮。私の魂は、霊魂ではなく”意思”である。女神様に添い、その神格を得たにすぎぬ」
直接的ではないが、サトミは「否」と答える。
「どうしたのだ?何があった」
一重の、美しい月のような目が細められた。
霞のようにわずかに。
穏やかに空気を揺らしてサトミが座に腰を据えた。
「天狗の存在が、私の何に疑念を抱かせる?」
宗次は息を飲んだ。
サトミは、以前から聡い子供ではあるようだったが、神になってからはその威厳が増した。
500年も前に命を落とし、女神とともに「生きて」いたのだから当然と言えば当然ではあるが、正に今は別格である。
宗次も床に正座し、サトミと向き合う。
「…実は、村に天狗が忍び込んだのです」
「うむ」
「その天狗、比良の天狗の流れを組んでいると申しました」
「比良?比良は近江のはるか遠方。比良からこの地になんの用ぞ」
「京の、とある貴族の屋敷に若い男がおり、その方に使役されているようでした」
「天狗が人間に使役されると?加茂か?土御門か?いや、比良なれば比叡か?」
「いえ…その貴族の屋敷は…」
言い淀む宗次の表情を見て、サトミが先に言葉を接いだ。
「まさか、我が一族か」
さすがにサトミは理解が早かった。
そして、苦い顔になる。
「我が一族が天狗を使役しこの地に何をしに来たと言うのです?」
臥所の中にまで、小鳥のさえずりが聞こえてきた。
夜が明けようとしている。
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森の空気は沈殿している。
人の立ち入らぬ山の奥深くは、下生えの細い草木がわずかな木漏れ日を求めて懸命に枝葉を伸ばしている。
谷を抜ける風が、空を渡る雨が、森を支える。
多くの命が山に息づく。
しかし、その沼には何もいない。
蛇神たちを除いては。
「のう?夜叉…」
ヌシは珍しく女神の沼に滞在していた。
さらに珍妙なことに、女神に優しく接している。
目じりに向かって細く上向きの、長くやわらかなまつ毛に縁取られた目。
清流のように流れるつややかな黒髪。
やわらかで、丸みを帯びた肩。
四尺と少しの小柄な体に、腰巻と簡素な羽織姿で、白い足には履物はない。
稚児の姿ではあるが、本性は蛇。
女神好みの美童の姿をしたヌシ。
いや、ヌシのような美童を好む女神といった方が正確か。
「なんですかぁ?ヌシ様」
そんなヌシが側にいるのだ。女神の機嫌もすこぶる良い。
声が鈴のように転がる。
「お主、天狗と揉めたな?」
「はい?」
「とぼけるでない。鳥の匂いがする」
「いやだなー、蛇なのに鼻がきくんですね。それに仲良くお話しただけかもしれないのに」
「ふざけるでない。何故天狗どもと揉めた」
「だから、揉めたってほどでは…」
「あの童か?それとも稚児の霊か」
「あ、そうそう、サトミの出雲参向はいかがでしたか」
「今はそちの話をしておる」
怒気を含むヌシに、女神は肩をすくめた。
「なんです?何をそこまで気になさるのですか」
「夜叉」
女神の名を呼び、ヌシはしっかりとその意識を集中させる。
「そちは、自身を分かっておらぬのか」
「…私をその名で呼び続けるのは、あなただけですね」
「夜叉、そちを知るものはもはや我だけである」
「そうですね。私も、あなたと私だけの絆は大切にしているのですがね」
「では、大仰な真似をするでない」
「私からサトミを奪うような真似をされたのは、ヌシ様が私を守っての事とおっしゃりたいのでしょうか?」
にや、と。
女神は卑屈ともとれる笑みを浮かべた。
「そもそも、あなたが長くこの地を離れていらっしゃるから…、サトミに浮気してしまうのです」
「また詮無いことを…」
「サトミが消されるようなことがあれば、私は天狗ごとき敵にしても怖くない」
力強い意思に満ちた言葉。
それはまっすぐで、偽りのない気持ち。
「夜叉!」
ヌシの、叱責に等しい呼びかけを振り払うように。
女神の言が重なる。
「それで私が消えても構わない!」
にらみ合ったまま、数瞬。
「もっと早くに、帰ってきておればよかった…」
息とともにヌシは言葉を吐いた。
「…申し訳ありません。感情的になりすぎました。別に、ヌシ様を責めたいわけではないのです」
女神も、うつむいて視線をそらした。