女神と宗次と夜陰の密談
女神は、雷雲を引き連れ、尾根向こうへ銀の体躯をなめらかに滑らせる。
光る雨脚は、女神の勝利を祝うかの如く。
見上げて、宗次は林太郎を強く抱いた。
―――美しい。本来ならば恐ろしい雷雨だというのに。
「…う…」
「林太郎?」
小さな子が、身じろいだ。
顔色は青白く、体に力は入っていない。
だが、のどが、声が、命をささやく。
「大事ないか?林太郎」
「…せ…ん、せい」
「大丈夫だから、もう、大丈夫」
天狗に屋根を破られてしまい、雨が室内に降りこんで濡れている。
さっと視線をめぐらせ、乾いた衣装がないか探した。
「これを」
そう言って衣を差し出すのは、林太郎の父親だった。
「ありがとうございます」
謝辞とともに、衣を受け取る。
「いや、こちらこそ、林太を助けてくれて、ありがとう」
その父のほほに、涙が流れていた。
その後、林太郎の容体は回復しているという。
破壊された家屋の修繕がすむまで、親類の家に身を寄せているらしい。
幸次郎が、嬉しそうにおしゃべりしている。
「あの、女神様?」
大楠の上から境内で戯れる子供たちを眺めながら、呼びかけられた女神は眼福至極。
とろん、と穏やかな表情である。
あの日、天狗らと同じく山の向こうへ消えた女神は、宗次よりも先にサトミの社へと帰ってきていた。
そしてやはり、まだ居座るらしい。
サトミの留守中に再度天狗が襲ってこないとは限らない、ともっともらしい理由を並べていたが。
「最近お加減もよろしいようですが、サトミさんがお帰りになられるまでいらっしゃるおつもりですか?」
子供たちの遊ぶ姿を眺めたいがための、居候に違いないとはっきり分かる。
そういえば、女神の好みらしい子供が3人ほどいないではない。
「んー、そのことなんだけどね。せめて林太郎が全快するまではと思うておるのよ」
「そうですか」
「天狗はしつこいからな。それに、京の貴族も気になるしの」
「今回の失敗は、あちらに何らかの影響を及ぼしていると思いますか」
「大した影響は受けておるまい。下っ端の天狗しか使役できぬ術者が一人か二人、怪我をした程度ではないか?」
その台詞に、圧倒的な力を見せつけた女神の雄姿が思い浮かぶ。
味方でなければ、戦慄したことだろう。
「女神様は、大丈夫なのですか?」
「ふふ、お前は相変わらず優しいね」
男前に足を組み、女神こそ優しく微笑んだ。
「しばらくは、美童が側におらねば力が出ぬ」
「…はぁ」
女神らしい発言である。
どこまでが本気なのか、いつになったら判断できるようになるのだろう。
―――サトミさんは、女神様の考えなんて手に取るように分かるんだろうな…。
はたと、宗次は自分の思考に苦笑した。
―――いつになったら、など。ずっと側にいる覚悟ができているのかな、俺。
「あー、私も麓に社を建ててもらおうかの」
「サトミさんがいなくなって寂しいのですか?」
言ってしまって、女神の滞在の理由がそれだと思い至る。
なぜ、気付かなかったのか。
「すみません」
途端、謝ってしまった。
そんな宗次の姿を見下ろし、女神は息を吐く。
「なぜ謝る」
「え、あの、なんとなく」
「なんとなくで謝るな。悪い発言ではなかったぞ」
「はぁ」
「童でなくとも、宗次は好きだよ。サトミももちろん、好いておる」
「…ありがとうございます」
「まぁ、サトミがおらぬから、いくら居っても怒られはせぬしな」
「…あの、問題がない程度にお願いいたします」
「はははは、問題とはなにを指しての事ぞ」
宗次もさすがに、大井の村の事や、美童が女神の毒牙にかからぬか心配したとは言えない。
サトミだったら、何度も女神を張り倒すのだろうか。
いろんな思いを心に留め、目を細めて女神と一緒に子供たちの遊ぶ姿を眺める。
とても穏やかな毎日。
少なくとも、サトミが帰ってくる神無月の終わりまでは。
女神とともにこの景色を見ていたい。
宗次はそう思うのであった。
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夜陰。
梟の鳴く声が、おどろおどろしく沈殿していく。
波の立たない池に、月光のように炎が映る。
足元に立つ紙燭の幽玄の灯。
熱を感じさせぬ、静かな揺らめき。
「御屋形様…」
屋根の上から、低い声が降ってくる。
釣殿に腰を据え、闇の中で酒肴をもっていた男がその声に応える。
「損じたか」
「面目ない」
「いや、好機であった」
「好機?」
「あちらの陣営、野の龍神と人間の男であった。収穫や」
「然様に」
「そちの手下、申し訳ないことをした」
「もったいなく」
「にわかに正体が露呈してことを急いた」
「いつになく弱気な」
「ふ、この世で生きていくには、用心と慎重が大事なれば」
「してこの後は」
「さて、いかように攻めるか思案せなな」
男の微笑を含んだ言葉を聞き、屋根の上の気配は消えた。
それは。
宗次も女神も、いまだ知ることあたわぬ密談であった。