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宗次と女神と洛中の屋敷

:::


 袖から、裾から、髪の毛から。

 滴る水を足跡に、宗次は京の道を西へ、北へと歩みを進める。

 いまだ戦の痕跡の残る、御帝のおわす都。

 飢饉や疫病、戦。幾度と脅威にさらされている、陰陽道に守護された都市。

 人々の信仰は、新たな宗教に向き始めている。

 疲弊し力を失いつつあるこの街で、新たに寺院が建つなどという事実があれば、それはたいそう歓迎さるに違いない。

 だが、洛中に新たな寺院が建ったという話の裏は取れなかった。

 はるか南。

 かすむ大気のさ中に、天に伸びる塔が見える。

 広大な伽藍を持つ寺院がそこにあると知れる。

 東山にも、愛宕にも、鞍馬にも、比叡山にも石山にも、伏見にも、高野にも南都奈良にも。

 周辺に幾多の巨刹があるにも関わらず、新たな信仰は生まれる。

 不思議なものだ。

 そこに救いを見出すと、人々の心はたやすく動く。

 林太郎と幸次郎の父もそうだ。

 蛇の祟りを受けた子を救いたいと、縁のある住持を頼った。

―――?

 今、自分の考えに違和感を覚えた。

―――住持を頼ったのは、父親か?子の病を蛇神の祟りと教えたのは誰だ?

 左官の父親は、どこの寺に仕事に出たのだ?

 考えながら市中を歩いていると、荒廃した街並みと一線を画す屋敷の塀が視線に入った。

 土塀が、まだ新しい。

 1町まるまる塀が続く様からして、そこそこ位階の高い貴族の邸宅に思えた。

 門扉に警備の武士は立っていない。

 氏姓もない。

 かわりに、結界の気配がある。

 林太郎の家で感じた、不穏な気配に似ている。

「あの、へっくし。お尋ねもうします」

 通りかかった町人らしき男に声をかけた。

「この立派なお屋敷は、どなたがお住まいですか」

 水にぬれた男をじっとねめつけ、しかし男は宗次を物乞いとでも思ったのか、答えてくれた。

「このお屋敷に取り入っても無駄や。ここは、親王家にもつながる里見様のお屋敷やよって」

「サトミ…様…」

 宗次は礼を言って、一旦屋敷から離れた。

 まさか。

 ひとつ辻を下り、振りかえる。

「サトミって…まさか…」

 里見という名の貴族が何人いるのかは分からないが。

 これは偶然だろうか?

 蛇神のヌシ様の流れを組むサトミが神として祭られた村で、蛇神の祟りを受けたという林太郎。

 洛中に仕事に出た左官の父。

 新しい土塀を持つ、洛中の里見邸。

 その里見邸に満ちる、あの住持と同じ気配…。

「まさかここはサトミさんの生家…」

 確信に近い、その推理。

 しかし、なぜ。

「なぜ林太郎が祟りに…」

 今の宗次に組みたてられる推理には限界があった。

「よし。もう少し何か手がかりを…へっくし」

 宗次は、鼻をすすり、里見邸を張ることにした。


 夜陰にまぎれ、塀を越えられる場所を探した。

 結界に触れれば中にいる術師に侵入が知れるだろうが、捉えられる前に逃げられる自信はあった。

 根拠のない自信ではあったが、女神の髪がお守りとなっているのは、なんとなく感じられる。

 どうにかなる。

 衣服の水気は、京都の湿気のせいかまだ生乾きだった。

 水神の力が、まだ加護を与えてくれている気がした。

 どこかで野鳥が鳴いている。

 月の明かりはうす雲の中。

 宗次は気合いを入れ、塀の外に飛び出した松の幹に手を伸ばした。

 塀を越えようとしたあたりで、パチリと何かの反発を感じたが、無視して庭に飛び降りる。

 目線を上げると、立派な庭園が目の当たりになった。

 小さいながら、さすがに池まである屋敷となると相当高位の人が住む邸宅と知れる。

 庭の様式までは分からなかったが、よく手入れされていた。

 しかし、人が住んでいるのが信じられないくらい暗く重い、冷たい気配が感じられる。

 バサリ。

 何かの羽音が聞こえた。

「そこの男、お主、蛇の手下か?」

 気づくと、池に伸びた釣殿に、紙燭を携えた白い狩衣姿の男が立っていた。

 植栽に隠れて宗次の姿は見えないはずである。ましてや夜。月もうす雲の中で明かりは乏しい。

 にも関わらず、釣殿の男は間違いなく宗次に声をかけている。

 懐の中で、宗次はかたく女神の守りを握った。

「答えぬか?まあ、よい」

 バサバサ。

 羽音が近い。

「我が祖先の恨みは深かろうて。いつか我が血を絶やしにくると思うておった」

 上品な話し方をする男だった。

 息をひそめる。

「まさか、誰ぞ御霊を祭り上げようとは思わなんだが、それはそれでこちらも身を守るまで…」

 バサリ。

 また、何かが羽ばたいた。

 重たい羽音だ。

 釣殿の屋根に、大きな影が舞い降りる。

 ゆっくりと流れた雲の隙間から、月の顔がのぞく。

 徐々に明るさを増す夜空に、烏のような、梟のような、羽を持つ、人の姿が浮かび上がった。

―――天狗か!

 見るのは初めてである。

 しかし、その形を持つモノを他に知らない。直感である。

「我が里見家は、平安の御世より天狗を信仰し庇護を得てまいった…。地を這う蛇に、天空の天狗が倒せるかな…?」

 恐怖とは。

 宗次は呼吸を忘れた。

 無数の影が、釣殿と言わず屋敷の屋根一面に舞い降りていた。

―――何匹いるんだ!

 相手は神としてあがめられることもある霊験ある妖しだ。

 人間の自分に相手ができる存在ではない。

 逃げなければ。

―――女神様…!!

 逃げようと腰を浮かす。

 だが、均衡を崩し池に落ちてしまった。

 生ぬるい池の水は、鉛のように重たい。

 宗次はその場から動けなくなった。

「我が家系の繁栄を脅かす者は…死ね」

 氷の刃のように。

 男の言葉が飛んだ。

 それを合図に、屋根の上の黒い羽影が飛び立った。

「――っ!!」


ばしゃん。


「…」

 再び、全身ずぶぬれになった感を覚え、防御に構えた両腕をおそるおそる外した。

 薄目を開けると、見知った社があった。

 サトミの神社の境内だ。

「え…」

「おう、宗次。無事か?」

「め…がみさ…ま?」

 そこには、男前な女神の破顔があった。

 社の縁に立膝て座り、宗次の帰還を迎えている。

「お前うまいこと水辺にいたねぇ」

 そのセリフで、女神に救われたのだと分かった。

 握りしめていた女神の髪が、いつの間にか無くなっている。

 身に危険が迫れば、助け出される仕組みにでもなっていたのだろうか。

「どれ」

 女神は縁よりふわりと立ちあがり、座り込んだままの宗次の傍らに寄った。

 近付いた女神の白い手が、宗次の額に触れる。

 貼りついた前髪を分ける。

 と。

 引かれた手のひらには、黒い羽根が握られていた。

「…烏?」

「…天狗でした」

「天狗か…。どちらにせよ、天敵だな」

 女神が、苦い顔になる。

「で?収穫は?」

「洛中に新しい寺は、やはり建立されていませんでした。ただし、塀を改築したらしい屋敷を見つけました」

 宗次は、呼吸を整えて事の次第を話し出す。

「その屋敷から、林太郎の家にいる住持と同じ気配がありました」

「あの坊主、偽物か」

「おそらくは、林太郎の病も偽りではないでしょうか。この村に入り込むための…口実になっているかと」

「なぜそのように考える?」

「その屋敷、サトミさんの、生家でした」

「ほう?」

「どうやら、サトミさんの祟りを恐れてか、天狗と手を組んでいるようで…」

「ほほう。蛇神に差し出した一族が祖先の祟りを免れようと?」

 浅はかな、と女神の唇が動いた。

「天狗の力で、サトミの霊が神格化したと知れたか」

 今までも、崇徳や天神道真、その他多くの御霊が祟り神となっている。

「林太郎の父上が、左官としてあの屋敷の改修に携わり、よい道しるべができてしまった…」

 その宗次の解釈は、宗次の父自信が、林太郎の病の原因を運んだと読み取れた。

 どこまでが偶然で、どこからが仕組まれたことなのか。

 そこまでは分からなかった。

 事実として目の前に迫るのは。

「林太郎に呪をかけ、サトミの守護地に潜入したからには…」

「サトミを消しにかかる、かな」

「神を…殺すことは可能なのですか?」

「…だから、この時期なのだろうよ」

 言外に、可能だと女神は応える。

 今、サトミは出雲にいって不在だ。

「林太郎の家で、林太郎の生気を利用し、僧にまで身をやつしサトミを消滅させる計画を練っておるのだろう」

 天狗が。

 天敵である水神を殺す。

「まだ準備が整っておらぬ様子をみるに、おそらく、サトミがひと月も早く里を空けるとは思っていなかたのだろうな」

「では、まだ何か対策を練ることができるのでしょうか」

 サトミの子孫が。

 祟りを恐れてサトミを殺す。

「私がサトミをみすみす消滅させるようなことがあると思うか?」

 たまに。

 ごくたまに。

 女神がたのもしく見える。

 今、宗次は、清廉な霊威をまとう女神を心から力強く思った。

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