宗次と女神と住持の念仏
ここ二日、すでに三日目に突入しているが。
女神の様子がどうもおかしい。
サトミに会いにきた、とは言っていたが、こうも長く大井の山を離れたことはないのではないだろうか。
これまでにも月に一度か二度、ふらりと現れてはいたのだが、日没までには村に帰っていた。
サトミがいないから、とも納得できるが、ふた月帰らないという事実は明白である。
童が必要だと、昨日言ってはいたが…。
「…一緒に行けないんだよねー」
さも残念そうに呟きながら、女神は社の床をごろごろと寝転がっている。
以前も、神の領域から外へは出られぬのだと説明していた。
「林太郎、会いたいなー」
「あの、女神様、俺が行ってきますから。大人しくしておいてください」
「幼子の麗しい姿が拝みたい…」
「本当にそればかりおっしゃっていますね」
その言葉を女神が口にするたび、半ば冗談だと思っていたが。
「美童はあたしの生きる源だもの…」
だんだん、女神の鋭気が少なくなっているような気がするのは、勘違いではあるまい。
宗次は、社の消灯を済ませ女神に向き直る。
「でも、別に林太郎は女神様の好みかどうかなんてわかりませんよ?少なくとも、サトミさんみたいな容姿ではないですし」
「お前も違っただろう」
「…はぁ」
「なんだろうねぇ、この倦怠感…」
重症である。
「では、行ってきますね」
「おう、気をつけてな」
後ろ髪を引かれる思いである。
しかし、いたしかたない。
幸次郎とも約束している。
「女神様も、お気を確かに」
「んー」
―――神様って、死んだりしないよな?
不謹慎にもそんなことを思うほどに、重症である。
幸次郎の家は、村の中心部、市がたつ通りの裏路地にあった。
父親は左官をしていると聞いている。
それなりに見識のある職である。市の裏に住むのも、需要がそこにあるからだ。
佇まいには、むしろがかかっている。
手をかけようとしたところへ、声をかけられた。
「もし」
振り向くとそこには、若々しい、肉付きもよい上体をあらわにした男が立っていた。
幸次郎と林太郎の父である。
「若宮の先生か」
問われて、是と首肯する。
「幸次郎から聞いたのか」
眼光鋭く、威圧してくる。
「お前様にできることは何もねぇ。帰ってくださらぬか」
「しかし…」
「今、都のお偉い住持様が念仏唱えてくださっているんだ」
確かに。
居住の前まで来ることなく、護摩のにおいと低い念仏が聞こえていた。
「そのようになさるほど、悪いのですか?」
さし障りなく、感情を逆なでしないよう言葉をかける。
「蛇神がとりついているのだと、言われました」
一瞬、「じゃしん」という言葉面を「邪神」と捉え、女神の顔が浮かぶ。
そんな邪推を内心苦笑しながら振り払い、
「蛇、ですか?」
正しい字面を思いあて、問う。
このあたりの蛇神といえば、ヌシ様か、その系統を組むサトミである。
「しかし、何かたたりをもらうようなことがあったので?」
「…わかりませぬ」
祟り神の類でなければ、もはやあやかしの類ではないか。
「ひと目でも、叶いませぬか?幸次郎は、会えないと申しておりました。恐れながら、この佇まいでは…」
少し、食い下がってみなければ。
平均的な庶民の家である。間取りも多くはない。
外からみても、土間をのぞいても二間がいいところである。
人にうつる病であれば、家族どころかこの界隈の人々も危険である。
「先生!」
父親の、悲壮ともとれる土気色の顔が、みるみる怒りに満ちる。
「帰ってくれ!!林太郎は!お住持様に見てもらっているから大丈夫だ!」
その迫力に、気押されてしまう。
そして。
何かを隠しているのだと、宗次には感じられた。
「では、せめて、幸次郎に会わせてくださいませんか?」
「…幸は、少し行った親類の家に預けている。おっかあもそこだ」
家族ぐるみで遠ざけているのか。
「わかりました。ありがとうございます」
宗次は軽く叩頭し、父親と幸次郎の家から離れる。
去り際、少しだけ読経が止んだ。
その代わりに。
≪去れ、愚かなる龍神のしもべよ≫
頭の中に、低く、どす黒く。
人ならざるものの、声。
―――女神様、やばいことになっているかもしれません…。
宗次は、聞こえなかったように振る舞い、振りかえることなくその場を去った。
幸次郎が仮住まいしている親類の家には、幸次郎とその母親、そして父親の兄という男が住んでいた。
「先生!」
父親と同じように宗次を呼ぶその声は、しかし、凛として切迫した緊張感はない。
「兄ちゃん、どうだった?」
母親の膝の上で、幸次郎は期待を込めた目で宗次を見る。
母親も、幸次郎の叔父も事情を知っているためか、暗澹たる表情だ。
「ごめんな。家の前まで行ったんだけど会えなかったんだ」
なるべく優しく、そう告げる。
みるみる内に、幸次郎の顔色が沈む。
「ごめんね」
宗次は、もう一度謝罪を重ねた。
「失礼ですが、林太郎が病に伏せる前に、何か兆候はありませんでしたか?」
母親に、聞けることは最大限聞いておかなければ。
「…それが…特に思い至らないのです。いつものように、若宮様で遊んで帰ってきたくらいで」
その証言ではまるで、サトミか宗次が要因のような態である。
その推理がわかったのか、母親は続ける。
「あの、別に帰ってからも普通で…お話も面白かったって。申し訳ございません…」
「いえ、すみません」
宗次も、なぜか謝ってしまう。
「父ちゃんが…」
「ん?」
幸次郎が、何かを思い出したように二人の間に入った。
「父ちゃん、ちょっと前に都のお寺を直しにいったんだよ」
「そうか。幸次郎の父上は腕のいい左官だものな」
「とても徳の高いお寺だって、自慢してた」
幸次郎が何を言いたいのか、ふと気づいて言葉の案内をする。
「…このたび祈祷に訪れている寺の住持というのは…」
「ええ、そのお寺さんのご住持様というお話です」
「祈祷料は…」
「実は、寺を直していただいた礼に、いらぬと」
本当に、善行を行っているだけなのか?
その可能性が脳裏によぎる。
だが、しかし。
念仏の切れ間に聞こえたあの声は、功徳の高い坊主の霊験ではない。
あんな冷たい言葉は。
「若宮の先生!しかしわたくしからみても、おっとうの成すことは恐ろしげに感じます!この母ですら、林太の様子もわかりませぬ!」
―――ああ、やはり何かがおかしい。
「わかりました。今日のところはお暇いたします。ですが、気落ちしないでください。私も力添えいたします」
宗次の申し出に対し、母親は深々と頭を下げた。