宗次とサトミと女神の出会い
序
まだ、夜は明けていない。
湿ったあぜ道を、何人もの足音が通り過ぎていく。
静かに。
まるで何かから、隠れるように。
誰も、何も言わなかった。
固く閉ざされた口。
心もまた、かんぬきのかかった戸のように重く閉じられていた。
人々はしばらく歩き、一層闇の深い山に分け入っていった。
「どうか、我らが土地に平穏を…」
山の下生えを踏みしめた多くの人影が、それぞれにささやいた。
ひとつの輿が下された。
簡素なつくりの、藁で覆われた、とても簡易的な輿であった。
人々は、輿の奥、山の深淵に向かい一礼をした。
あとには。
不規則で、短い吐息と。
真っ暗な夜だけが残った。
壱 宗次とサトミと女神の出会い
「ヌシ様が、贄を欲しがっておられるのです…」
山間に切り開かれた集落には、およそ50戸ばかりの家が建ち並んでいる。
この大井村に異変が起こったのは、一月前の豪雨の後からだった。
「ヌシ様の祟りじゃ!」
村人たちは、口々にそう叫んだ。
まれにみる豪雨の被害は、本来土地を守るべきヌシが、村に対して祟っているのだと。
大雨で、田植え前の田畑は土砂に埋没した。
山は多量の水分を支えきれずに崩れ、木々は耐える力もむなしく身をたおすしかなかった。
「元来、この時期は雨が多い…。ヌシ様が贄を欲しがっておられるなど…」
村を一望できる小高い丘の上に、この村を治める豪族の屋敷があった。
今、その屋敷の中の一室で男女が向かい合っている。
「しかし、これでは税を納めることができませぬし、何より我が家が対策を示せば、民も安心できましょう?」
50歳を目前にした男の名は大井頼里。この大井村を開墾した土着の侍の子孫であった。
頼里は、イライラと爪を噛む。
そんな彼の前に行儀良く座しているのは、数年前に嫁いできた女。名は、とら。
年は二周り以上違う。後妻だった。
「ヌシ様は、お怒りなのです。男の子を差し出さぬかぎり、村の田畑は全滅してしまいますよ?」
「お前まであの伝承を信じているのか?ヌシは、見目美しい童を好むと」
「えぇ。少なくとも平安の昔にはそのようにして村が救われたと聞き及んでおりますが?」
二人の間に灯されていた紙燭の炎が、不気味に揺れた。
「ぬえの…子を差し出せと?」
大井家には、頼里と前妻の子がいた。
「しかし…あれは私の跡目を…」
「跡目には我が子八千代丸を」
頼里は、去年生まれたばかりのおさな子の顔を思い浮かべ眉根を寄せた。
「うむ、しかし…」
頼里は俯いてうなっている。
だが、もう爪に歯を立ててはいなかった。
「あの子のことは心配要りませんわ。…だって、良い子ですもの」
とらの唇に引かれた真っ赤な紅が、不快なほど釣りあがったのに頼里は気付かなかった。
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わずかな月光も闇へと変えていた深い山林は、全体的に明るさを取り戻していた。
日の出だ。
輿の中で、少年はいつの間にか寝ていた。
朝露のにおいに身体を起こすと、少々背中と首が痛んだ。
ゆっくりと輿から這い出して、森の中を歩き出す。
腹がすいていた。
だが、言い渡された目的があった。
ヌシの棲む沼へ行く。
山の奥深くにあるという、見たこともない沼。
歩む足取りは重い。
うっそうとした木々の為、はっきりと太陽は拝めなかったが、歩き始めてもう幾分も時間が過ぎたように感じられた。
――僕に出来る事なんて、何も無かったのか…?
いくら良い師範をつけても、剣術の技はそこそこにも身につかず、学問にしても字は美しいが覚えが悪いと呆れられた。
畑仕事をしようにも同じ年代の子供に比べ体力がなく、すぐに腰をつく。
父頼里と母ぬえは、そんな我が子でも目をかけていたが、ぬえが病に倒れ他界した後大井家に嫁いだとらは、たいして役にも立たない前妻の息子を疎ましげに見ていた。
そんな継母に、村のためだと言われ、父にも頭を下げられ、村人に崇められてヌシの住むという山に入ったが…
それらしき沼を、一向に見つける事が出来なかった。
少年には、このままヌシの山で誰に知られることなく朽ち果てる自分の姿が見えていた。
――ヌシ様には会えなかったけど、みんなを安心させることは出来たかな…
少年はそう思い直し、そのまま近くの木の根元に腰を下ろした。
限界だった。
「誰ぞ?」
突然かけられた声に、少年の肩が跳ねる。
こんな山奥に、人がいるわけはない。
恐る恐る声のした方へ顔を向けると、そこには少年とそう変わらない年頃の男児が立っている。
その姿は凛として、清らかで、多くの子供たちがそうであるような、丈の短いが身ごろのある衣ではなく、菊綴の鮮やかな水干を身に纏っていた。
「誰ぞ、と問うておる」
その口調からも、そこらの農民の出ではない事がうかがえる。
「…大井…大井、宗次」
少年は、生贄として差し出される前に与えられた新たな名を名乗った。
水干の少年は、おずおずと答えた宗次を見下ろして、同じ年頃の子供には不似合いな威圧感を放っていた。
「なぜ、かような場所におる」
見下す目には、感情が見出せない。
「おい、サトミ。そのように威嚇するんじゃないよ。かわいそうにおびえているじゃないか」
と。
そこに別の声が加わった。女の声だ。
だが、姿が見えない。
水干の少年――サトミは、見えない何かに向かって頭を下げると、一歩後退した。
「うわーっ!」
その瞬間。
宗次は間抜けな悲鳴をあげていた。
サトミが退いた空間に、ふよふよと中空に浮遊する女性が現れたのだ。
それも、逆さまの格好で。
「おや、驚かせたか?すまないね、少年」
女性は、宗次の知らない満足感を得て笑った。
年はとらとかわらないくらいだろうか。
いや、そもそも人間であるはずがなかった。
「あなたが…その…童を贄に求めるヌシ様ですか?」
「いや、待て。その噂、誤解だから」
いきなり宗次の前に現れた女性は、困ったように笑う。
「私はこの先の沼に住む龍神じゃ。この土地のヌシではない」
「…では…」
宗次は、困惑して二の句をつげなくなる。
探していたヌシではない、と。
「まぁ、こんなところで話すのもなんだな。サトミ、案内せよ」
「かしこまりました。童、こちらへ」
状況が飲み込めないまま、宗次は無事に目的の沼へと案内されることになった。
宗次は、沼のほとりに佇む祠へと招かれた。
祠といっても、流石神の住む場所である。中は外見よりもはるかに広く、居心地は良い。
が、殺風景で囲炉裏すらない。
いや、神が普通に食事するとは思えないが。
「お前、見たところ年頃は12、3だね?なぜこんなところまで来たんだい?」
その問いは、サトミにも聞かれたことだ。
「女神様は、童がお好きだと…。それで」
「確かにな!童はよい!お肌もきれいだしね、大きな瞳が潤んでいようものなら最高ではないか?細くて指どおりのよい黒髪にほほを寄せてみようものなら、幸せを独り占めって感じ?」
女神は目を輝かせ、妄想の世界へと落ちていく。
神が興奮などと人間くさい感情の変化を見せていることに、宗次は我が目を疑い、同時に神という存在の概念を嫌が上にも刷新せざるを得ない。
宗次にそんな革命的な思考変革をさせた女神は、頬を紅潮させさらに自分の世界へと入り込んでいく。
「つややかな黒髪!一見して気の強そうな目に雪のように白い肌!適度にふくよかでやわらかい頬と丸みの残るあご筋に形のよい唇がそろえば、次はすっと通った鼻筋!きめの細かい肌に覆われた首筋と体!細い足と腕に秘められた男の強さもまた魅力的だね」
バチン、と。
乾いた音が室内に響く。
宗次があっけに取られながら女神の話に耳を傾けていると、サトミが勢いよく女神の頬を張り倒した。
張り倒されたほうの女神は、「うっ」と小さくうめき声をあげてそのまま板間に倒れこんだ。
あまりの所業と結果に、手を出したサトミや倒れた女神以上に、宗次が肩を震わせた。
「宗次、こういう時は遠慮なく叩いて差し上げなさい。冗長されては進む話も進みません」
「はぁ」
呆れた様子で薄い眉を寄せ、サトミはそう忠告した。
「あぁ!」
そんなサトミを見て、宗次は納得し手をたたいた。
「女神さまの理想の童って、サトミさんなんですね!」
途端、サトミの顔に朱が挿したのを宗次は見逃さなかった。
そして、女神も豪快に笑い声を響かせた。
「あっはっはっはっはっはっは!かわいいよね~?サトミって」
「お止めくさだされ!それよりも、なぜ宗次がこの地にやってきたのか、お尋ねになられたのですか!?」
いささか不機嫌になったサトミが、女神に当初の目的を思い出させた。
「あ、忘れてた」
サトミは何か言い返そうと口を開くが、女神があまりにものうのうと言うので、そのまま何も言わずに口をへの字に曲げた。
最初に山へ入った理由を聞かれてから、だいぶ時間が経ってしまっていた。
「村の畑が、ここ最近の雨のせいで大きな被害をこうむりました。その雨は、山のヌシが…お怒りなのだと…」
村の惨状を思い出したのか、宗次は伏目がちにした瞼の下で視線を泳がせた。
「だから僕は、村を守るためにやってきました」
――俺は、贄なんだ
「ヌシは美童がお好みとの言い伝えでしたので…」
沈んだ空気を払拭するような女神の声が発せられたのは、その時だった。
「何を申すか!ヌシが好んで守護する土地の田畑を荒らそうか!?私がヌシだとしても!童が欲しければ自ら出向いて攫うくらいの事をしておるわ!」
――僕の事は好みじゃないのかな。まぁ、サトミさんに比べたら駄目なんだろうけど
声を荒げる女神。
「顔を上げよ!だからお主たちは私が美しい童を求めて雨を降らせているのだと思うたのか?浅はかな!」
女神も、最後は怒りというよりも村人の考えを嘆いているようで、悔しそうに下唇を噛み締めた。
しばらくの沈黙のあと。
「左様、私は雨を降らすことも容易だが…!」
女神ははっきりと宣言した。
「村に何が起こっているのか、お前教えてやろうか?」