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Dragon AI SIM  作者: GAKU
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前編

1. 主要な子供たち

物語の中心となる、対照的な価値観を持つ13歳の二人です。

森口もりぐち あお

•役割: 本作の主人公。

•性格: のんびり屋でマイペースだが、土壇場での適応力が高い。

•信念: ドラゴンを兵器や道具ではなく「対等な友達」として信頼している。

•行動原理: 祖父・博の「経験は最良の師である」という教えを無意識に実践している。

•ビジュアル: ドラゴンと心が通じ合うと、着用しているパーカーと同じシアンブルーの光がドラゴンの体表を走る。

戸山とやま すい

•役割: ヒロインであり、蒼のライバル。

•性格: 気が強く非常に几帳面で、自分にも他人にも厳しい。

•信念: ドラゴンを「制御すべき完璧なシステム」として扱い、高い精度で操作する。

•背景: 父・誠一郎の期待に応え、世界の秩序を守ることを義務と考えている。蒼の自由さに苛立ちつつも、心の奥底では自由への憧れを抱いている。

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2. 森口家(蒼の家族)

「体験」と「調和」を重視する一族です。

渡瀬わたせ ひろし

•役割: 蒼の祖父で、ドラゴンの基礎技術を築いた科学者。

•教育方針: 「多くは教えず、体験させることで成長を促す」タイプ。

•現状: 死の間際、自らをエネルギー生命体へ変換し、ネットワーク側の「住人」として蒼を導く。

•森口 菜々もりぐち ななこ

•役割: 蒼の母で、博の娘。

•性格: ちょっと天然で周囲を和ませるが、割と核心を突くタイプ。

•特徴: 蒼や周囲が迷っている時に、本質的な助言を与える。

森口もりぐち 伊織いおり

•役割: 蒼の父。

•性格: 理想主義者で、自分の感情と正義に従って行動する。

•背景: 10年前のC国の爆発事故に深く関わっており、その真っ直ぐな行動が物語を動かす。

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3. 戸山家・トヤマ製薬

「力」と「秩序」による支配を信奉する陣営です。

戸山とやま 誠一郎せいいちろう

•役割: 翠の父で、トヤマ製薬社長。

•信念: 「争いを無くすために、絶対的な力(秩序)で人々を導くのが正しい」と信じている。

•特徴: 冷徹な戦略家だが、根底には平和への強い執着がある。

戸山とやま ゆず

•役割: 翠の母。

•性格: 正義感が強く男勝り。

•背景: C国での慈善活動中に武装ゲリラに誘拐され、その悲劇が誠一郎や翠の価値観に多大な影響を与えた。

加藤かとう 彩芽あやめ

•役割: 社長秘書。

•性格: 超合理主義者で感情を表に出さない。

•特徴: 誠一郎の意図を汲み取り完璧に実行する、トヤマ製薬の要といえる存在。

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4. 研究者・工作員

それぞれの野心や目的のためにドラゴンの力に関わる人々です。

本田ほんだ れん

•役割: 博の元教え子で共同研究者。

•性格: 自己顕示欲と上昇志向が異常に強い。

•経緯: 博のやり方に不満を持ち、自らの功績のためにトヤマ製薬へ合流した。

後藤ごとう まもる

•役割: トヤマ製薬第六営業部部長。

•性格: 徹底した現実主義者で自分至上主義。

•行動原理: 誠一郎の理想には無関心で、常に自らの利益のために動く。

本田ほんだ 絢斗あやと

•役割: 第六営業部の社員・工作員。

•技能: ドラゴンの操作に特化している。後藤に弱みを握られ、誠一郎や翠を襲うよう命じられる。

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5. ドラゴン(エネルギー生命体)

太古から地球に存在し、現在は主にネットワーク世界に生息する存在です。

•アルファ

•体長30cmほどの赤いドラゴンで、蒼が初めて契約した相棒。

•蒼の「一緒に戦ってほしい」という願いに応え、紅蓮の炎の中から顕現した。

•ベータ

•蒼が二番目に契約した白いドラゴン。

•後に伝説の神獣「麒麟」へと変化し、黄金のヒールブレスで浄化の力を発揮する。

•シータ

•後藤の負の感情(怒り・混乱・恐怖)を吸い込み、黒い靄を纏って暴走したドラゴン。

•蒼が「お前も仲間だ」と受け入れたことで正気を取り戻し、蒼の相棒となる。




1. 旧C国特殊部隊(現・研究所警備隊)

C国の軍事的利益のために送り込まれたが、のちに蒼たちの「信じる力」を目の当たりにし、離脱したプロフェッショナルたちです。

•トーマス(Thomas)

•役割: 元C国第3特殊部隊隊長。現在は渡瀬研究所の警備隊長。

•性格: 徹底した実力主義者だが、部下への情誼が厚い。

•設定: 13歳の翠が自分たちを客観的に判断し、指揮する姿に「真の指導者」の資質を見出し、亡命を決意する。誠一郎の「秩序」には懐疑的だったが、蒼の「共存」という結果を見て、それを守る盾になることを選ぶ。

•特徴: 関節を外して拘束を解くなどの特殊技能を持つ。

•レオ(Leo)

•役割: 特殊部隊の技術・工作担当。

•設定: 電子錠の突破やハッキングのスペシャリスト。トーマスが「レオが来た方が良かったか」と漏らすほど、複雑なシステムの解除に長けている。現在は研究所のセキュリティ・システムを、デジタル化した博たち(Three Fools)と共に構築している。

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2. 物語の影・C国陣営

ドラゴンの力を「運搬不要の核兵器」と見なし、独占を狙う勢力です。

•大佐(The Colonel)

•役割: C国の地方軍最高責任者。本作の「純粋な悪」の象徴。

•性格: 徹底した結果主義者。前任者を暗殺して今の地位に就いた。

•信念: ドラゴンを「支配者のための究極の暴力」と定義している。誠一郎が「平和のための秩序」を願うのに対し、彼は「個人の欲望のための支配」を追求しており、誠一郎の思想の危うさを映し出す鏡のような存在。

•悪行: 後藤に偽の家族惨殺映像を見せ、絶望によるドラゴンの暴走(シータの誕生)を誘発させた。

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3. 森口家と研究所の協力者

蒼の日常と、博の研究を支える人々です。

佐山さやま

•役割: 渡瀬博の第一助手。

•性格: 実直で、博の「体験型教育」の最大の理解者。

•設定: 物語冒頭、菜々子に「博は研究旅行に出た」と(半分嘘の)報告をした人物。博がデジタル化した後も、現実世界における研究所の維持管理と、蒼の身の回りの世話(ピザの注文など)を一手に引き受けている。

森口もりぐち 伊織いおり

•役割: 蒼の父(故人)。

•設定: 理想主義者で、翠の母・柚を救うために独断でドラゴンを持ち出し、C国へ向かった。ドラゴンの暴走による「C国の惨劇」の中心にいた人物。彼の「正義感による暴走」が、誠一郎に「力は管理されるべきだ」という強い強迫観念を植え付ける原因となった。

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4. 運命に翻弄される家族

工作員たちの人間的な弱さと、物語の切実さを象徴する人々です。

優香ゆうか優里ゆうり

•役割: 本田絢斗の恋人と、その妹。

•設定: 後藤によって居場所を特定され、絢斗を脅迫するための人質とされる。絢斗が誠一郎を刺すという暴挙に出たのは、彼女たちの命を守るという極限の恐怖によるものだった。

•意義: ドラゴンという「強大な力」が、名もなき市民のささやかな幸せをいかに容易く破壊するかという、本作のテーマを強調する存在。

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5. 研究所AI:Three Fools(三人の愚者)

肉体を捨て、デジタル世界の住人となった三人の科学者。

•渡瀬 博(創設者・教育者)

•本田 蓮(技術者・上昇志向の結晶)

•戸山 誠一郎(管理者・秩序の信奉者)

•設定: かつては対立し、道を違えた三人が、最終的には一つのコンピュータの中で「次世代(蒼と翠)が間違った方向へ行かないよう見守る」という共通の目的のために共生している。このユニット名は、自分たちの知識や信念が、蒼たちの「純粋な経験」の前では無力(愚か)であったという自嘲と敬意を込めて名付けられた。


第1話:沈黙の予兆

 窓の外は、燃えるような朱色から深い群青へと溶け始めていた。

 キッチンで夕飯の支度をしていた母・菜々子が、鳴り響く電話の音に手を止める。

「はい、森口です」

 その声は明るかったが、受話器から漏れる微かな声に、母の眉がピクリと跳ねた。

「……え? お父さんが、ですか?」

 一瞬の静寂。あおはリビングのソファで、開いたままのノートに視線を落としたふりをしながら、全神経を耳に集中させた。母は困り果てたように吐息をつき、首を振る。

「……また古臭い文献でも見つけ出して、勝手に研究旅行にでも出かけたんでしょう? あの人は昔からそうですから」

 その言葉を聞いた瞬間、受話器の向こうから、緊張感のない朗らかな笑い声が漏れてきた。

『ですよねぇ。あははは! いやぁ、先生の好奇心には僕ら助手もついていくのが精一杯ですよ。今回も「面白いものを見つけた」って目を輝かせておられたんで』

 その軽すぎる笑い声が、蒼には妙に耳障りだった。いつも通りの祖父、いつも通りの困った日常。けれど、何かが噛み合っていないような、薄い膜を隔てたような違和感。

「いつもすいません。うちの父が、皆さんにご迷惑ばかりおかけして」

『とんでもない! 迷惑だなんて誰も思っていませんよ。じゃあ、また連絡があればお伝えしますね』

 電話が切れると、家の中にはまた平和な日常の音が戻ってきた。母が包丁で野菜を刻む小気味よいリズム。テレビから流れるニュース番組。けれど、蒼の胸に落ちた小さな影は、消えるどころか少しずつ広がっていた。

 それから数日間。世界は、気味が悪いほど「普通」だった。

 母は「あの歳で大冒険なんて元気な証拠ね」と笑い、蒼はいつものように学校へ行き、友人と他愛のない話をして帰ってくる。

 だが、祖父の博から届くはずのメッセージは、一通もなかった。

 博は自由人だが、情に厚い。孫の蒼に対しては、どれほど辺境の地にいようが、研究に没頭していようが、「今日見つけた変な石の画像」や「くだらないダジャレ」を送りつけてくるのが、彼なりのルーティンだった。

 それが、三日。五日。一週間。

 既読すらつかないトーク画面。蒼は何度もスマホをスワイプし、その空白の時間を確かめる。

 そして、運命の夜がやってきた。

 時計の針が深夜一時を指した瞬間。枕元で、スマホが喉を鳴らすような鋭い振動を上げた。

 心臓が跳ね上がる。画面に浮かび上がった差出人の名は――『おじいちゃん』。

 震える指でロックを解除し、メッセージを開く。だが、そこに並んでいたのは、いつもの冗談ではなかった。

『このままでは、世界が大変なことになる』

 絵文字も、前置きもない。

 ディスプレイの冷たい光に照らされたその一文は、まるで血を吐くような切実さを帯びていた。

「……おじいちゃん、これ、どういうことだよ」

 蒼は急いで返信を打ち込んだ。

 『どこにいるの?』『何があったの?』

 しかし、送信ボタンを叩いた瞬間、画面に無機質な警告が浮かび上がる。

【メッセージを送信できません。サーバーとの通信に失敗しました】

 電波は正常。ネットも繋がっている。

 なのに、祖父のいる「場所」へと繋がる道だけが、何かに遮断されたかのように閉ざされている。

 カーテンの隙間から見える深夜の街は、変わらず静まり返っていた。

 だが、その静寂の裏側で、巨大な歯車が音を立てて回り始めたことを、蒼の肌は本能的に感じ取っていた。


第2話:経験という名の師

 翌朝、食卓に差し込む朝日はどこか刺すように鋭かった。

 蒼は、昨夜から一睡もできないまま、使い込まれたリュックに必要なものだけを詰め込み、キッチンに立つ母の背中に声をかけた。

「……ちょっと、おじいちゃんの研究所に行ってくる」

 母・菜々子が手を止め、驚いたように振り返る。その瞳には一瞬の懸念が浮かんだが、真っ直ぐに自分を見つめる息子の眼差しに、彼女はすぐに力を抜いて苦笑した。

「……本当に、あの人に似てきたわね」

 反対はされなかった。血は争えないと諦めているのか、それとも蒼の中に宿った「覚悟」を感じ取ったのか。母はそれ以上何も聞かず、「気をつけてね」とだけ言って息子を送り出した。

 祖父の研究所は、幼い頃から何度も遊びに行った、蒼にとっては馴染み深い場所だ。電車の乗り継ぎも、駅から研究所までの並木道の風景も、すべて頭に入っている。

 けれど、今日踏み出す一歩は、今までとは決定的に違っていた。

 なぜ行かなければならないのか、自分でも明確な言葉にはできない。ただ、あのエラーで返せなかったメールの残像が、背中を強く押し続けていた。

 ガタン、ゴトン。

 電車は一定のリズムで揺れ、窓の外には見慣れた住宅街が、まるでスライドショーのように後ろへと流れていく。

 蒼はつり革を握りしめたまま、ポケットの中でスマホの角に指を触れていた。

(世界が大変なことになる――)

 その言葉の意味を反芻するうち、記憶の底から懐かしい感覚が呼び起こされる。

 ――思い出すのは、幼い頃のキャンプの記憶だ。

 博は多忙な研究の合間を縫って、よく蒼を山へ連れ出した。テントの張り方も、火の起こし方も、地図の読み方も。祖父は、説明書の類を一切使わなかった。

「やってみろ」

 ただ短くそう言って、少し離れた岩に腰掛け、煙草をくゆらせながら見守っているだけ。

 蒼がペグを打ち間違えたり、火おこしに失敗して顔をすすで汚したりすると、祖父は意地悪そうに、けれど本当に楽しそうに笑うのだ。

『ほらな。言っただろう?』

 そして、薪がはぜる音や森のざわめきの中で、決まってこう言った。

『蒼、覚えておけ。――経験は、最良の師である』

 教科書を読むより、誰かの言葉を鵜呑みにするより、自分の手で触れ、失敗し、そこから這い上がった記憶こそが本物の力になる。それが、偏屈な天才科学者が孫に遺した、唯一にして最大の教育方針だった。

「……経験は、最良の師」

 電車が大きく揺れた衝撃で、蒼はハッとして顔を上げた。無意識にその言葉を口に出していたことに気づき、少しだけ顔が熱くなる。

 祖父は大事なことほど、言葉で説明しようとはしなかった。「覚えろ」とも「メモしろ」とも言わない。ただ、一緒に体験させ、後から気づかせる。

(もしかして、今回も……?)

 この「異変」さえも、祖父が自分に与えようとしている「経験」の一部なのだろうか。

 蒼はスマホをポケットの奥へ押し込み、顔を上げた。車内アナウンスが、目的地の駅名を告げている。

 電車のドアが開くと同時に、蒼はホームへと踏み出した。

 そこにはもう、昨日までの退屈で安全な日常は待っていない。


第3話:静寂の砦

 電車を乗り継ぎ、窓の外の景色が高層ビルから住宅街へ、そして広大な緑へと塗り替えられていく。さらに単線のローカル線に揺られる頃には、車内の乗客は数えるほどになっていた。

 蒼は、電車の心地よい振動に身を任せながら、流れる景色を眺めていた。

 等間隔に並ぶ田植え前の水田。穏やかな稜線を描く低い山々。そして、忘れた頃にぽつぽつと現れる古い民家。

「……ここまで来ると、本当に何もないな」

 独り言が、無人の車両に小さく響いた。

 祖父の研究所は、彼が籍を置く大学の研究室からは程遠い場所にある。正確には、大学の施設ではなく、祖父が私財を投じて建てた住居兼研究所だ。

 かつて、なぜこんな不便な場所に拠点を構えたのかと尋ねたことがあった。その時、祖父は少年のような悪戯っぽい笑みを浮かべてこう答えた。

『都会の狭い箱の中じゃあ、本当に大きいものは作れなくてね』

 潤沢な資金も、組織的な人手もない。けれど、ここには誰にも邪魔されない広大な土地と、無限の沈黙があった。祖父は必要な時だけ研究員や助手を呼び寄せ、それ以外の時間は、たった一人で思考の海に潜り、自らの手で試行錯誤を繰り返す。そんな孤高のスタイルを貫いていた。

 最寄りの無人駅から研究所へと続く道は、蒼にとって「冒険の記憶」そのものだ。

 幼い頃の蒼にとって、そこは最先端の研究所というよりは、魔法使いが住む「変わった家」だった。

 広い庭には、用途も名前も分からない金属製の装置が転がり、物置には古びたノートや膨大な資料が詰まった段ボール箱が積み上げられていた。

『蒼、いいか。大きな研究所を造りたいなら、最初は誰も来ない場所を選ぶことだ。静かな方が、自分の考えがよく聞こえるからな』

 当時はその言葉の意味を深く考えもしなかった。けれど、リュックの重みを感じながら一人で歩く今なら、少しだけ分かる気がする。

 祖父はこの静寂の中で、世界を揺るがすような何かを、たった一人で見つめ続けていたのだ。

 並木道の先に、見覚えのある錆びた鉄門が見えてきた。

 いつもなら、こちらに気づいた祖父が、白衣の裾を揺らしながら建物から顔を出すはずだ。

 だが、視界に飛び込んできた研究所の姿に、蒼は息を呑んだ。

 門は固く閉ざされ、いつもは整えられていた庭の木々が、不自然にざわついている。

 静寂は、もはや「思索のため」のものではなかった。

 そこには、持ち主を失った場所特有の、冷たく重い拒絶の気配が漂っていた。


第4話:異分子の影

 並木道の先に、ようやく見覚えのある錆びた鉄門が見えてきた。

 いつもなら、訪れる者を拒まぬよう開放されているはずの門が、今日は固く閉ざされている。手入れが行き届いていたはずの庭も、どこか雑然としており、風に舞う枯れ葉が不自然に一箇所に溜まっていた。

「……?」

 胸の奥で、またあのざわつきが頭をもたげる。

 ここは祖父・博が何よりも大切にしていた、平穏と沈黙の聖域だ。誰にも邪魔されず、ただ真理のみを追求するための場所。

 ――その静寂が、今は「拒絶」の気配を帯びて変質している。

 蒼は無意識に足速になり、鉄門の隙間を抜けて玄関へと向かった。

 玄関の重い扉は、拍子抜けするほどあっさりと開いた。

 一歩足を踏み入れれば、そこは外観からは想像もつかない異空間が広がっている。高い天井、迷路のように入り組んだ広い廊下。生活の匂いが漂う居住スペースと、冷たい金属と電子音が支配する研究施設が、いびつに同居している空間。

(相変わらず、広いな……)

 ふと、幼い頃にここでかくれぼをした記憶が脳裏をよぎる。祖父が実験に没頭している間、巨大な機材の影に隠れて、助手たちに見つからないよう息を潜めていたあの時間。

 けれど、今のこの静寂は、あのかくれぼの時のワクワクするような静けさとは決定的に違っていた。

 廊下を曲がり、メインホールへと足を進めたその瞬間。

「……ッ!?」

 視界の端に、動く「影」を捉えた。

 正面の資料保管庫の前に、一人の男が立っている。

 見覚えがない。

 祖父が好んで着るしわくちゃの白衣でもなければ、出入りする業者の作業着でもない。年齢は判別しがたいが、質の良いジャケットを羽織ったその姿は、この無機質な研究所において明らかに異質で、場違いだった。

 男はこちらに気づくと、驚く様子も見せず、親しげに軽く手を挙げた。

「ああ、君が。……博士の知り合いなんだよ」

 穏やかで、聞き取りやすい声。

 男は事も無げに、迷いのない足取りでこちらへ歩み寄ってくる。

「博士に、急ぎで資料を探すように頼まれてね。少し中を拝見させてもらっていたんだ」

 説明は理路整然としており、一見すれば不自然な点はない。

 だが、蒼の脳内では警報が鳴り響いていた。

 おかしい。

 祖父を訪ねてくる研究員や助手、共同経営者、そのすべてを蒼は顔まで把握している。そして何より、この研究所の枢密なエリアへと続く扉は、すべて高度な顔認証システムで制御されているはずなのだ。

 身元の確かな登録者でなければ、廊下をうろつくことさえままならないこの場所で、なぜこの男は「資料を探して」自由に歩き回っているのか。

「……君も、何か探し物かな?」

 男がゆっくりと距離を詰めてくる。

 柔らかな笑みを浮かべているはずの男の瞳は、まるで奥底の見えない淵のように冷たく、蒼を射抜いていた。

 一歩、また一歩。

 縮まる距離とともに、研究所の空気が凍りついていくのを、蒼は肌で感じていた。


第5話:扉を隔てた対話

 次の瞬間、思考より先に体が跳ねた。

 蒼は、無我夢中で駆け出した。

 背後で男が何かを呟いた気がしたが、振り返る余裕などない。心臓が喉まで競り上がり、肺が焼けるような熱を帯びる。

 突如、右肩に焼けるような衝撃が走った。

「ッ……!」

 男の手がリュックのストラップを鷲掴みにしていた。強引に引き戻されそうになり、蒼の体が宙に浮きかける。

 ――だが、迷いはなかった。

 蒼は走りながら腕を抜き、リュックをその場に捨て去った。床に荷物が叩きつけられる鈍い音を背に、さらに加速する。

 迷路のような廊下を抜け、この研究所で最も巨大な防壁を備えた場所――メインルームへと飛び込んだ。

 重厚な金属製の扉が、背後で音もなく滑らかに閉まる。

 カシャリ、という無機質なロック音が、静まり返った部屋に響いた。

「……はぁ、はぁ……っ!」

 膝をつき、激しく肩で息をしながら蒼は振り返った。

 メインルーム。

 壁一面を埋め尽くすサーバーラック、複雑に絡み合う配線、そして中央に鎮座する巨大な実験装置。そこは祖父・博が人生の半分以上を捧げた、聖域中の聖域だった。

 数分待っても、扉が開く気配はない。

 当然だ。この部屋のセキュリティは特別製で、博本人か、事前に登録されたメンバーである蒼や他の研究員の顔認証なしには、物理的な破壊以外で侵入することは不可能だった。

 あの男は、今も扉のすぐ外にいる。

 蒼は近くに立てかけてあった清掃用のモップを手に取った。

 武器と呼ぶにはあまりに心許ない代物だ。けれど、何も持たずに震えているよりは、その木製の柄の感触がわずかな支えになった。

 扉から数メートル離れた位置で腰を落とし、モップを構える。視線は、一点も逸らさずに扉のインジケーターを見つめ続けた。

 ドクン、ドクンと、自分の心臓の音が耳元でやけに大きく聞こえる。

 慣れ親しんだ祖父の研究所で、これほどまで明確な「命の危険」を感じる日が来るとは思いもしなかった。

 やがて――廊下を歩く足音が、ピタリと止まった。

 扉の向こう、誰かがそこに佇んでいる。ノックはない。代わりに、防音扉を透過して、落ち着き払った声が響いた。

「……逃げ足の速い子だ。感心するよ」

 低く、深く、静かな声。

 そこには怒りも焦燥もなく、まるで庭を散歩している時のような余裕すら感じられた。

「安心していい。今君に、これ以上手を出すつもりはない。……今はね」

 蒼は答えない。モップを握る手に、さらにじっとりと汗が滲む。

「君たちは、あの力の使い方が分かっていないようだ」

 男は唐突に、けれど朗々と語り始めた。その言葉は、まるで呪文のように蒼の耳にこびりつく。

「あの力があれば、世の中からあらゆる争いを根絶することも可能だ。……だが、強大な力というのは、正しい人間が振るわねば、最悪の凶器になり果てる」

 男は一瞬、言葉を選ぶように間を置いた。

「いや、もっと正確に言おう。――正しい人間『だけ』が、使わなければならないのだ」

 その独善的な言い草に、蒼の胸の奥で反発心が火を噴いた。思わず、叫ぶように問い返す。

「……『正しい』なんて、一体誰が決めるんだよ!」

 扉の向こうで、微かに衣擦れの音がした。男が小さく、満足そうに息を吐く気配。

「いい質問だ。……それを決められなかったからこそ、人類の歴史は争いの連鎖だった」

 声に、微かな熱が宿る。

「だからこそ、決める者が必要なのだよ。力が広く、雑多に散らばれば、不平等は加速する。持てる者と持たざる者が生まれ、そこから憎しみが芽生える。ならば、最初から使う者を限り、統制し、管理し、間違いを許さない秩序を築けばいい。……これを非情だと思うかね?」

 短い沈黙。

「……私は、そうは思わない。それが真の慈悲だと信じている」

 蒼は言葉を失った。男の言っていることはあまりに傲慢で、けれど恐ろしいほどに一貫したロジックがあった。完全に否定しきれない自分がいることに、背筋が寒くなる。

「……おじいちゃんは、そんなこと望んでない」

 絞り出すような蒼の声に、男の声が一段と低くなった。

「渡瀬博士は、優しすぎた。……理想を夢想するには向いているが、それをこの残酷な現実で実現するには、あまりに繊細すぎたのだよ」

 それだけ言うと、男が扉から一歩遠ざかる気配がした。

「今日は、ここまでにしよう。よく考えてみるといい、少年。……力を、誰が振るうべきなのかを」

 遠ざかっていく足音。

 やがて研究所は、再び元の静寂に包まれた。

 蒼は、強張っていた体を解き、モップを床に落とした。肺に溜まっていた熱い空気を、大きく吐き出す。

 

 あの男は何者なのか。祖父の失踪に関係しているのか。

 そして、男の語った「力」とは一体何を指しているのか――。

 答えの出ない問いだけが、無機質なメインルームを支配していた。


第6話:沈黙の合言葉

 扉の向こうから、完全に気配が消えた。

 蒼は、重い鉄扉の前に立ち尽くしたまま、しばらくの間、自分の荒い呼吸の音だけを聞いていた。

「……行ったのか?」

 モップを握りしめていた指の力を、ゆっくりと緩める。張り詰めていた空気がわずかに弛緩した、その瞬間だった。

 ――ウィィィ……ン。

 背後で、地響きのような低い駆動音が鳴り響いた。

 心臓が跳ね上がり、弾かれたように振り返る。さっきまで死んだように眠っていたメインルーム中央の巨大な制御端末が、意志を持っているかのように独りでに息を吹き返していた。

 幾重にも並ぶ冷却ファンが回転を速め、部屋の温度がわずかに上がる。暗闇に沈んでいたメインモニターが、青白い光を放ちながらゆっくりと浮き上がった。

 画面いっぱいに表示されたのは、無機質な六文字。

『 PASSWORD 』

 蒼は、乾いた喉を鳴らした。

 導かれるようにコンソールの前へ進み、恐る恐るキーボードに指を置く。バックライトに照らされた指先が、微かに震えていた。

「パスワード……。おじいちゃんなら、何をかける?」

 まずは、祖父の誕生日。

 ――『IDとパスワードが一致しません』

 冷たい警告音が室内に響く。

 次に、母の誕生日。自分の誕生日。研究所の設立記念日。

 思いつく限りの数字を打ち込み、祈るようにエンターキーを叩く。だが、画面に返ってくるのは、拒絶を示す無機質な文字列だけだった。

「……違う」

 蒼は、キーを叩く手を止めた。

 額に滲んだ汗を乱暴に拭い、深く息を吐く。

 祖父・博は、こういう人じゃない。

 大切なものを守るための鍵を、単なる数字や形式的な記念日で済ませるような男ではないはずだ。

 目を閉じると、脳裏に断片的な記憶が浮かび上がる。

 パチパチとはぜる焚き火の音。夜の森の匂い。隣で薪をくべていた祖父の、いたずらっぽく笑う横顔。

『蒼、いいか。覚えなくていい。メモも取らなくていい。……ただ、これだけは忘れるなよ』

 何度も、何度も聞かされたあの声。

 困った時に思い出しなさいと、お守りのように手渡されていた言葉。

「……経験は、最良の師である」

 蒼は、小さく呟いた。

 数字でも、誕生日でもない。祖父が残した答えは、二人で過ごした「体験」の中にあったのだ。

 蒼は迷いなく、キーボードに指を走らせた。

『 E-X-P-E-R-I-E-N-C-E 』

 最後の一文字を打ち込み、静かにエンターキーを押し込む。

 一瞬、すべてが静止したような無音が訪れた。

 

 ――ピッ。

 短く、快い電子音。

 画面が鮮やかに暗転し、中央に白い文字が浮かび上がる。

『 NOW LOADING 』

 円形のインジケーターが、光の粒子を振りまきながらゆっくりと回り始めた。

 蒼は、固唾を呑んでそれを見つめる。

 

 今、この瞬間。

 世界の裏側に隠されていた扉が、音を立てて開こうとしていた。


第7話:半分の真実

 暗転していたメインモニターが、瞬く間に鮮やかな光を放った。

 ノイズの向こうから浮かび上がったのは、蒼がずっと待ちわびていた、見慣れた顔だった。少しだけ増えたしわも、悪戯っぽく細められた目も、記憶にある祖父・博そのものだった。

「……おじいちゃん!」

 叫ぶように、蒼の声が震える。

「どこにいるの!? 今まで何があったんだよ!」

 画面の中の博は、いつものように屈託なく笑ってみせた。

『ここにおるよ。ふふふ、そんなに慌てなさんな』

「……え?」

 思考が停止する。目の前の光景を脳が受け入れようと拒否していた。

『実はな、蒼。私はもう、ここの「住人」になってしまったんじゃよ』

 博が肩をすくめると、画面の背景に微かなノイズが走り、抽象的なデータの海のような光景が歪んで見えた。それは肉体という器を捨て、電子の海へと溶け込んだ者の姿だった。

『心配させて、すまんの。少しばかり、無茶をしすぎた。……だがな、生きとるか死んどるかで言えば、ちょっとばかりややこしい状態じゃ。ただ、こうして話すことはできるし、考えることも、研究を続けることもできる』

 にやり、と快活に笑う祖父。その姿に安堵を覚えつつも、蒼の胸には拭いきれない不安が広がっていく。

「……じゃあ、そこからもう、出られないの?」

 蒼の問いに、博は少しだけ目を細めた。

『今は、まだな。だが悲観することはないぞ。ここには、現実世界では拝めないほど面白いものが山ほどあるからな』

 そんな悠長なことを言う祖父に、蒼は意を決して、ずっと胸に引っかかっていたことを尋ねた。

「……さっきの人は、誰なの? あの人は……悪い人なの?」

 博はすぐには答えなかった。

 画面の向こうで、ゆっくりと、深く目を閉じ、それから諭すように優しく笑った。

『悪い人かどうかはな、蒼。お前が、決めることじゃよ』

「でも……あの人は嘘をついたよ。おじいちゃんに資料を探すように頼まれたって。勝手に入り込んで……」

 博は少しばつが悪そうに視線を逸らし、小さくため息をついた。

『……ふぅ。それは半分嘘で、半分は本当なんじゃよ。彼は、私の古い友人でな』

 博の声に、微かな懐かしさが帯びる。背景が切り替わり、古い設計図や書き殴られたメモ、かつて二人が交わした議論の痕跡がディスプレイに流れていく。

『この研究所の建築費も、研究費用も、その多くは彼が出してくれた。かつてはよく二人で話し合ったもんじゃよ。どうすれば、この世から争いを無くせるかをな』

 蒼は言葉を失った。あの冷徹な雰囲気の男と、自由を愛する祖父が、同じ夢を共有していた。

『私に何かあった時は、研究を引き継いでくれと頼んだこともある。……あの時は、心から彼を信じておった』

 博の言葉が、重く沈んでいく。

『じゃがな、少しずつ、意見が食い違っていったんじゃ。争いを無くすために、「力」をどう使うべきか。どこまでが許されるのか……。気がついた時には、私たちは争うようになっておった。そして――道を違えてしまったんじゃよ』

 重苦しい沈黙がメインルームを支配する。

 博は、真っ直ぐに画面越しに蒼を見つめた。

『だからな、蒼。さっきの人が正しいのか、あるいは悪いのか。それを決めるのは私でも彼でもない。――お前自身じゃよ』

 画面の中で穏やかに微笑む祖父。その瞳は、孫である蒼がこれから直面するであろう過酷な選択を、静かに見守っているようだった。


第8話:秩序の代償

 夜の都市を見下ろす、巨大なガラス窓。

 トヤマ製薬本社最上階の社長室には、必要最低限の照明だけが灯り、闇に浮かぶ高層ビルの群れを無機質に映し出していた。

 長い会議用テーブルには、三人の男達が座っている。

 重苦しい静寂の中、窓の外を眺めたままの戸山誠一郎が、低く、刺すような声で問いかけた。

「……誰の判断だ」

 返答はない。誠一郎は視線を動かさぬまま、言葉を継いだ。

「なぜ、私の許可なく渡瀬博士を始末した」

 その言葉に、幹部の後藤がわずかに身を強張らせる。

「……博士が生きていれば、我々より先に研究を完成させ、計画に支障をきたす恐れがありました。排除は、組織にとって最も合理的な判断です」

 後藤は感情を排した口調で、淡々と報告した。その「合理性」という言葉に、同席していた共同研究員の本田博士が激昂し、机を強く叩いた。

「……それは、私より渡瀬の方が優秀だと言いたいのか! 彼の研究など、私がすべて引き継ぐと言ったはずだ!」

 本田の怒号に対し、後藤は眉一つ動かさずに言い放つ。

「実際、現時点での進捗は渡瀬博士の方が上だった。それだけの話だ」

 部屋に、より深い沈黙が落ちる。誠一郎はゆっくりと椅子を回転させ、二人を振り返った。その冷徹な瞳には、怒りも、嘲りも宿っていない。

「我々は、無法者ではない…。」

「暴力で支配する独裁者でもない…」

 誠一郎の静かな声が、部屋の隅々にまで染み込んでいく。

「我々は、無知で無能な衆生を、正しい道へと導くための存在だ。秩序を持って行動できない者は、この組織には必要ない」

「……申し訳ございません。二度と、このような事は」

 後藤が即座に深く頭を下げる。誠一郎はそれ以上責めることもなく、短く告げた。

「次は、無い。……二人とも、下がれ」

 ドアが静かに閉まり、広大な社長室には誠一郎だけが残された。

 彼は再び窓に向き直り、ガラスに映る自分の顔を凝視する。

「……なぜ、こんなことになった」

 かつて、志を共にした友の顔を思い出す。

 もっと早くに非情になり、無理矢理にでも渡瀬をこちら側に引き込んでいれば。あるいは、自分がもっと徹底した秩序を強いていれば。

「……もっと。もっと非情に。もっと、秩序を……」

 自らに言い聞かせるような独白が、夜の街に溶けていく。

 ふと、彼はある矛盾に指を止めた。

「……もし、博士が本当に死んでいるのなら」

 窓ガラスに触れた指先が、冷たく凍える。

「一体誰が、研究所の顔認証プロテクトを更新した?」

 脳裏に、昼間に遭遇した少年の姿が浮かぶ。メインルーム――最後まで開かなかった、あの聖域の扉。

「あの子供が中に入れたということは、博士が何らかの形で権限を譲渡した、あるいは……」

 誠一郎の瞳に、迷いのない光が宿る。

「……協力してもらうしか、ないか。どんな手段を使っても」

 眼下で無数に瞬く都市の灯りは、これから始まる巨大なうねりを予見するように、静かに揺れていた。


第9話:胎動する悪意

 窓一つない薄暗い研究室。

 乱雑に散らばった設計図と、無機質に発光するモニターの群れ。その中心で、本田博士は椅子に深く座り込み、吸い込まれるような天井を凝視していた。

「……渡瀬が、死んだ……」

 それは声にならない、掠れた呟きだった。

 積年のライバルであり、越えるべき壁だった男の死。だが、本田の胸に去来したのは安堵ではなく、行き場のない激しい憤りだった。

「これでは……私はもう、あの男より優秀であることを証明することすらできない。……なぜだ。どこで、私は間違えた……!」

 震える拳を強く握りしめ、机を叩く。その執念は、すでに純粋な科学への情熱を離れ、歪んだ渇望へと変質していた。

 ――ピン、と冷たいインターホンの音が、静寂を切り裂く。

 本田は一瞬、剥き出しの感情を隠すように身を強張らせ、応答ボタンを押した。

『……ノートのコピーは、何冊できた?』

 スピーカーから流れてきたのは、誠一郎の静かな声だった。

「……現在、七冊。プログラムの書き込みも終了し、即座に使用可能な状態です」

 本田の声には、もう先ほどまでの動揺はない。氷のように冷徹な「科学者」の面を被り、報告を続ける。

『いいだろう。今から戦闘員を向かわせる。……残りの量産も、急げ』

「……かしこまりました」

 通信が切れる。部屋にはサーバーの唸るような機械音だけが虚しく残り、本田は再び闇の中に沈んでいった。

 所変わって、豪華な調度品に囲まれた広い執務室。

 トヤマ製薬の幹部・後藤は、苛立ちを隠そうともせずに机を叩いた。

「……社長は、何も分かっていない。あの力が、どれほどの富を生むのかを」

 後藤は席を立ち、獲物を探す獣のように部屋を歩き回る。誠一郎の語る「秩序」や「支配」など、彼にとっては甘い幻想に過ぎなかった。

「誰が支配しようと、民衆は必ず反乱を起こす。歴史がそれを証明している。……ならば、戦うための力を売りさばき、その過程で生まれる利益こそが真の価値だろう……!」

 そこへ、再びインターホンが鳴る。後藤は舌打ちを漏らし、不愉快そうに応答した。

『今、ノートを使える戦闘員は何名いる?』

 誠一郎の問いに、後藤は口角を歪めながら答えた。

「……十名です。全員、想定されていたすべての訓練を終了しています」

『一拍。……スコアの高い順に七名を選抜しろ。本田博士の所へノートを取りに行かせ、そのまま渡瀬博士の孫の元へ向かわせろ。残りの三名も、予備戦力として待機させておけ』

「……かしこまりました」

 通信が切れると同時に、後藤は一人、暗い笑みを漏らした。

 それは、彼が望む「混沌の市場」への第一歩だった。

「……ようやく、始まったな」

 最先端の「武器」を手にした実行部隊が、静かに、しかし確実に蒼の待つ研究所へと放たれた。


第10話:電子の海の龍

 モニターの青白い光が、薄暗いメインルームを淡く照らし出している。

 蒼は、使い込まれた研究用の椅子に深く腰掛けたまま、画面の中にいる祖父・博を見つめていた。

「……おじいちゃん。あの人……誠一郎さんは、何を、何を探しているの?」

 その問いに、博はいつもの茶目っ気を消し、真剣な眼差しを孫に向けた。

『まずな、蒼。お前に知っておいてほしいことがある。……ドラゴンを知っておるな?』

 画面の背景に、蛍の光のような抽象的な粒子の群れが浮遊し始める。

『ドラゴンは、おとぎ話の住人ではない。太古の昔から、この地球に存在してきた実体を持たないエネルギーの塊じゃ。……じゃが、間違いなく彼らは“生きている”存在なんじゃよ』

 祖父の語る「真実」は、あまりに突飛だった。だが、この研究所を包む異様な静寂が、その言葉に重みを与えていた。

『ドラゴンにとって、一番の敵は武器でも暴力でもない。人間の“認識”じゃよ』

 祖父は少し間を置く。

『知的な生命である人間に見られ、恐れられ、勝手な姿を想像されると、彼らはその先入観に引っ張られてしまう。姿を維持するために、とてつもないエネルギーを消耗してしまうんじゃ。だから、長く人前にはいられん』

 画面の中で、光の像が苦しげに歪む。

『昔は、山奥や海底、空の彼方……人が立ち入らぬ場所がいくらでもあった。彼らはそこでひっそりと暮らしておったんじゃよ。だが今は、開発が進み、安住の地はほとんど残っておらん。そこで、彼らが選んだ“見られる可能性の低い場所”……。それが、ネットの世界じゃ』

 背景が、膨大なデータの奔流へと切り替わる。

『情報として流れ続ける場所なら、人間は見ているつもりで、その実体を認識してはおらん。そこなら、彼らは自分らしく存在を保てる。……だがな、蒼。彼らを力として利用しようとしたり、恐怖で縛ろうとすれば、ドラゴンはまた弱ってしまう。敬意を持って接すること。それが何より大切なんじゃ』

 祖父はかつて、ドラゴンと契約し、対等に支え合って生きた部族がいたことを静かに付け加えた。蒼は思わず、その壮大な歴史の断片に息を呑む。

『私はな、エネルギー生命を研究するうちに、一つの仮説に辿り着いた。……生物を、エネルギー生命に変える可能性じゃ』

 博は少し照れたように笑う。

『危ない賭けじゃった。……じゃが、わしは死ぬ瞬間に、それを自分に使ったんじゃ。いちかばちか、じゃな。結果は――見ての通りじゃよ』

 蒼の心臓が、今日一番の衝撃で強く跳ねた。画面の向こう側にいるのは、ただの映像でもAIでもない。「祖父そのもの」が電子の海に魂を移した姿なのだ。

『心配するな。後悔はしとらんよ。ここは研究者にとって、夢のような場所じゃからな。……じゃが――』

 博は表情を引き締め、低い声で釘を刺した。

『この話は、まだ誰にもするな。特に、あの人たちにはな』

 蒼は、声が出なかった。ただ、画面の中の祖父を真っ直ぐに見つめ、静かに、深くうなずいた。


第11話:宿題と境界線

 モニターの中の祖父が、ふと画面の端に視線を走らせた。その動きは人間のそれというより、システムが新たなログを検知したような鋭さがあった。

「……蒼。お前の携帯に、お母さんから通信が入っておるようじゃな」

 その言葉に、蒼は弾かれたように立ち上がった。

「あっ……スマホ、リュックの中だ……」

 廊下で謎の男に襲われた際、身を守るために放り出したリュック。今もあの冷たい床に置き去りにされたままだ。取りに戻るには、まだ外の気配が恐ろしい。

『とりあえず、ここのシステムにバイパスを繋いでやろう。少し待っておれ』

 博が楽しそうに指を弾くような仕草を見せると、メインモニターの表示が瞬時に切り替わり、見慣れたビデオ通話の画面が展開された。

「……もしもし?」

 画面いっぱいに映し出されたのは、母・菜々子の顔だった。その眉間には、蒼が最も恐れる深いしわが刻まれている。

『あなた、今どこにいるの? 何時だと思っているの!?』

 間髪入れずに言葉が飛んでくる。

『おじいさんには会えたの? 連絡もなしにこんな時間まで……一体どういうつもり!?』

 明らかに怒り心頭の母を前に、蒼は一瞬だけモニターの隅にいる祖父を見た。博は声を出さず、静かに、しかし力強くうなずく。

「……ごめん。おじいさんは、いなかったんだけど……」

 蒼は震える声を整え、必死に言葉を選んだ。

「おじいさんが、僕に『宿題』を作っておいてくれてて。それがすごく難しくて、夢中でやってたら、こんな時間になっちゃって……。今日は、このままここに泊まっていくよ」

『……また、“宿題”なの?』

 母の言葉から、トゲが抜けた。代わりに混じったのは、深い溜息と諦めだ。

 祖父・博は昔から、蒼に風変わりな課題を出しては楽しんでいた。数学パズル、歴史の暗号、時には機械の分解。一度没頭すれば夜を明かす蒼の癖を、母はよく知っていた。

『わかったわよ。でも、連絡だけはちゃんとしなさい。明日は必ず帰ってくるのよ、いいわね?』

 通信が切れると、部屋に再び静寂が戻った。蒼は、モニターの中の万能な祖父に向き直る。

「……すごい。おじいちゃん、そんなこともできるの? 何でも思い通りなの?」

 その感嘆に、博はくすっと力なく笑った。

『何でも、というわけではない。ネットに接続された事象なら、大抵のことは介入できる。……じゃがな、蒼。一度この研究所のサーバーを出ると、もう戻れなくなる危険があるんじゃ』

 博の声が、少しだけ低く、湿り気を帯びる。

『今の私には、“距離”の感覚がひどく曖昧なんじゃよ。それに、時間の感覚も厄介でな。世界中の時刻データが頭の中で混ざり、一瞬が一時間にも、一時間が一瞬にも感じられる』

 超越的な存在になった代償。それは、人間が当たり前に持っている「今、ここ」という座標を失うことでもあった。

『だが、安心せい。この研究所のシステム内なら、ほぼ私の手中にある。ここにいる間は、お前を全力で守ってやれるからな』

 祖父の言葉に、蒼は少しだけ口角を上げた。

 けれど、胸の奥を通り過ぎる「嫌な予感」を消し去ることはできなかった。

 

 守られているはずのこの聖域に、目に見えない「牙」が刻一刻と近づいていることを、蒼の防衛本能が告げていた。


第12話:契約と紅蓮の鼓動

「リュック、取ってこなきゃ――」

 スマホを取り戻し、母との約束を守るため、蒼がメインルームのドア開閉に使うタッチパネルに手を伸ばした瞬間。

「……待つのじゃ、蒼!」

 背後で、祖父の鋭い声が響いた。これまでにない緊迫感に、蒼の指が凍りつく。

 メインモニターの映像が強制的に切り替わり、玄関に設置された防犯カメラのライブ映像が映し出された。そこには、トヤマ製薬の制服に身を包んだ数名の男たちが、無機質な足取りで建物を包囲する姿があった。

 その男たちの手には、独特の光沢を放つ一冊の「ノート」が握られている。

「……ノート? あれ、おじいちゃんのと同じ……」

『まいったな……。早すぎる。奴ら、もう実用化までこぎつけておったか』

 博が苦々しく呟く。その表情は、モニター越しでも分かるほど険しい。

『あのノートを持っているということは、奴らはすでにドラゴンと契約している可能性が高い。……蒼、今この場で動ける味方は、お前しかおらんのじゃ』

 蒼の心臓が、早鐘を打つように速くなる。

『部屋の机の上を見ろ。そこにある一冊のノート……それを開くのじゃ。お前も、ドラゴンと契約を結べ』

「え……? 契約って、僕が?」

 戸惑いながらも、蒼は吸い寄せられるように机へ向かった。表紙には何も書かれていない、けれどどこか温かみを感じるノート。恐る恐るそのページをめくった瞬間、視界が真っ白な光に塗りつぶされた。

 ――共存のために、あなたのエネルギーを差し出しますか?

 頭の奥底に、直接響く声。感情はないが、決して冷たくはない。不思議な重みを伴った声が、契約の条件を蒼の脳裏に刻み込んでいく。

 一、ドラゴンが傷ついた時、あなたの生命エネルギーは著しく消費される。

 二、あなたが恐怖や過剰な想像を抱けば、ドラゴンの姿は乱れ、あなた自身の活力も奪われる。

 以上を理解した上で、自らの意志で選択してください。

「おじいちゃん……。これ、エネルギーがなくなったら、僕……死ぬの?」

 震える声で尋ねる孫に、博は穏やかに、けれど真実を告げた。

『死にはせん。……ただ、極限まで腹ペコになって、指一本動かせなくなる。相当、しんどいぞ』

 一瞬の沈黙。蒼は深く息を吐き、覚悟を決めたように顔を上げた。

「……それくらい、我慢するよ。僕にしかできないなら、やるしかない。……どうすればいい?」

『強く思うのじゃ。支配するためでも、恐怖に屈するためでもない。ただ、共に在ると。対等な友として、望むのじゃ』

 蒼は静かに目を閉じた。瞼の裏に、あの男の冷徹な言葉と、祖父の優しい笑い顔を浮かべる。

(……僕に力を貸して。一緒に戦ってほしい!)

 刹那、ノートから淡い光が溢れ出した。印字された文字がページを離れて空間に溶け込み、螺旋を描いて一点に収束していく。

 光が収まった時、そこには一匹の小さな存在が浮遊していた。

 体長はわずか三十センチほど。紅蓮の鱗を思わせる淡い光を帯び、力強い四肢と透き通った翼を持つ、小さなドラゴン。

 ドラゴンは、金色の瞳でじっと蒼を見つめている。そこには、言葉を超えた意思の疎通があった。

『……ふっ、成功じゃな。蒼、それがお前の相棒じゃ』

 祖父の安堵した声が響く。

 手に残るノートの重みと、目の前の小さな鼓動。蒼の物語は、ここから真の始まりを告げようとしていた。


第13話:リアルとゲームの境界線

 モニターに、煤けた古い皮紙のイメージが浮かび上がる。そこには、現代の言語体系とは明らかに異なる、うねるような紋様がびっしりと記されていた。

『太古の昔、ドラゴンと共生していた部族がおった。彼らは、羊の皮にドラゴンの行動パターンを記し、契約を交わして共に生きていたのじゃよ。……私はまだ、その言語のすべてを解読できてはおらんがな』

 博はそう言って、机の横に整然と並ぶ、小さな半透明のプレート状のものを指し示した。

『解読できた断片を、現代の技術で「チップ」として再現した。それをノートのページに並べることで、ドラゴンに一定の指示を与えることができる。私の研究は、そこまで進んでおる』

 傍らの小さなドラゴンが、まるで自慢するように蒼の周りを一周した。翼が空気を切り裂く微かな振動。頬を撫でる確かな体温。それは画面の中のデータではない、明確な「生命」の感触だった。

 突如、祖父の顔色が変わる。

『む……いかん! 招かれざる客が動きおったわ』

 モニターが切り替わり、外壁側のカメラ映像が映し出された。そこには、トヤマ製薬の制服を着た男が、宅配ボックスへと続くコンベアの基部を冷徹に調べ、巨大な工具を取り出す姿があった。

『奴ら、ライフラインを断つつもりじゃな。コンベアを破壊されれば、物流が止まる。……私はエネルギー生命じゃからネット経由で補給できるが、お前は違うぞ、蒼』

 その言葉に応えるように、蒼の腹が「ぐぅ」と情けない音を立てた。

『お前は飯を食わねば、ドラゴンに命じるエネルギーすら保てん。物理的に供給路を断たれれば、私にはどうすることもできんぞ。……幸い、先ほど届いたピザが手元にある。その「二枚分」のエネルギーを燃料に、コンベアを修理しに行ってもらうしかないの』

 あまりに現実的で切実な制約に、蒼はごくりと唾を飲み込んだ。

『一応、出くわした時のために戦い方を教えておこう。まず、ノートにチップを並べ、ドラゴンの行動パターンを登録する。必要な時、ドラゴンはそれに従って自動で動くが……動けば動くほど、お前の腹は減る。もし相棒が倒れれば、お前も空腹で動けなくなる。いいか、無茶は禁物じゃぞ』

 モニターにはコンベアの破損予測箇所が拡大表示され、タブレットには修理手順が転送されていく。

『直し方はこれを見れば分かる。机の工具箱を持っていくのじゃ。……最後に、蒼』

 博の声が、一瞬だけ重くなった。

『……危なくなったら、迷わず逃げなさい』

 それは科学者としてではなく、祖父としての本心だった。

 タブレットの画面に、最短かつ敵の視線を潜り抜けるための青いラインが描かれる。周囲の敵対エリアを示す赤色が、すぐそばまで迫っていた。

「……あの、おじいちゃん。ボクのリュックも取りに行きたいんだけど」

 数秒の沈黙の後、画面が変わる。戦闘員の一人が、廊下に落ちていた蒼のリュックを無造作に拾い上げ、持ち去っていく光景が映った。

「……そんな。あのスマホには、やっとレベル99まで育てたドラゴンのデータが入ってたのに……っ」

 個人的な、けれど少年にはあまりに大きな損失。胸を締め付けられるような喪失感に肩を落とす蒼に、祖父は穏やかに、けれど力強く笑いかけた。

『蒼よ。今、お前はゲームの中にいるのではない。……その肩を見てごらん。本物の、生きたドラゴンが共におるのじゃよ』

 小さなドラゴンが、蒼の肩に止まり、顔をすり寄せた。

 画面越しの数値ではない。指先に伝わる心音。自分に託された、熱い命。

 蒼は、震える肺いっぱいに息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。

「……そっか。そうだね。……なんか、うまく出来そうな気がしてきたよ」

 失ったデータの代わりに、蒼は本物の「勇気」をその手に握りしめた。


第14話:揺らぐ輪郭、確かな絆

 タブレットに表示される図解に従い、蒼は震える手で工具を動かした。ネジを締め、外れかけていた配線を一本ずつ慎重に差し込み直す。

 ――ガガッ、と重苦しい金属音が響いた後、コンベアがゆっくりと一定のリズムで動き出した。

『よし、これで当面は補給路を確保できる。上出来じゃ、蒼』

 モニター越しの祖父の言葉に、蒼は肺に溜まった熱い息を吐き出した。だが、安堵の時間は長くは続かない。

『急いで戻るのじゃ。長居は無用じゃぞ』

 指示に従い、薄暗い廊下を急ぐ。前を飛ぶ小さなドラゴンが、曲がり角の手前でふいに静止した。

 背中の鱗が逆立ち、喉の奥から低い唸り声が漏れる。

「……どうしたの?」

 空気の密度が、一変した。

 角の向こうから、一人の青年が姿を現した。トヤマ製薬の制服を端正に着こなし、その瞳は驚くほど落ち着いている。

「……社長が言っていた子供というのは、君のことか」

 青年の視線が、蒼の傍らに浮かぶドラゴンに落ちた。わずかに口角が上がる。

「ドラゴンと契約しているのか。……ちょうどいい。大人しく付いてきてもらうわけにはいかないかな? 社長からは手荒な真似はするなと言われているが……」

 青年は懐から一冊のノートを取り出した。

「この世から争いを無くすために、我々には力が必要なんだ。……悪いが、ここで『腹ペコ』になってもらうよ」

 ノートが開かれた瞬間、青年の前に一回り大きなドラゴンが顕現した。

 鈍い銀色の鱗。感情を削ぎ落としたような冷たい眼差し。対する蒼のドラゴンは、小さな体で一歩前に出た。守るべきパートナーを背負い、決して退こうとはしない。

(勝てるの……? 怖い……っ)

 蒼の心に恐怖がよぎった瞬間、異変が起きた。

 小さなドラゴンの身体が激しく揺らぎ、鱗の隙間からどす黒い煙が滲み出したのだ。目の光は濁り、輪郭が禍々しく膨張していく。

「……まだ制御すらできていないのか」

 青年が眉をひそめる。蒼の腹部が不自然にきゅっと収縮し、立っているだけで意識が遠のきそうになるほどの疲労が襲った。

 タブレットから祖父の叱咤が飛ぶ。

『見たままを信じるんじゃ、蒼! 怖れるな、歪んだ想像をするな! 自分自身を、そしてその相棒を信じるんじゃ!』

 黒煙の向こう側を、蒼は必死に見つめた。

 そこにいるのは、制御不能の怪物ではない。震えながらも、自分のために牙を剥いている、たった一人の小さな相棒だ。

「……ごめん。怖がって、ごめん……!」

 蒼が叫ぶと、禍々しい煙は嘘のように霧散し、ドラゴンは元の紅蓮の姿へと戻った。その瞳には、かつてないほど強い意志の光が宿っている。

「君では私に勝てない。……来なさい」

 青年の静かな宣告に、蒼はノートを強く握りしめた。

「お兄さんの言っていることが正しいのか、今はまだ分からない。……でも、相棒は負けたくないって思ってる。だから、僕も負けない!」

 二体のドラゴンが交差した。

 銀と紅蓮の炎が激突し、火花が散る。だが、次の瞬間――。

 青年のドラゴンの動きが、わずかに停滞した。論理ロジックで制御された銀のドラゴンに対し、蒼の相棒は本能のまま死角へと回り込む。

 鮮やかな一撃。

 銀のドラゴンが力なく崩れ落ち、同時に青年が膝をついた。

「なぜだ……。制御すら未熟なはずの子供に……この強さは一体……」

 蒼もまた、激しい空腹感に襲われ、その場によろめいた。足に力が入らない。

「……だめだ、動けない……」

 その時。研究所の奥から「ウィィィン」という間の抜けた機械音が近づいてきた。

 現れたのは、一台のお掃除ロボットだ。それは倒れた青年の服を器用に掴み上げると、そのまま出口へと運び始めた。

『お掃除ロボくんのプログラムを、ちょっといじっておいてな。こんなところで餓死させるわけにもいかんじゃろ?』

 祖父の茶目っ気のある声に、蒼は力なく笑った。

 初陣の勝利。だが、それは同時に、トヤマ製薬という巨大な存在を本格的に敵に回したことを意味していた。


第15話:ロジックの深淵と古き執念

 壁を背に、体中の力が抜けた状態で蒼はメインルームへと戻ってきた。

 モニターの中の祖父が、静かに、けれど厳格な口調で口を開く。

『蒼よ。精神の……「信じる力」の純度においては、お前は奴に負けておったな』

 蒼がはっとして顔を上げる。

『しかしな、彼らは皮肉なことに“信じる訓練”だけを盲目的に受けておった。ゆえに、肝心の行動ロジックが脆弱だったのじゃよ』

 博はニヤリと、科学者特有の不敵な笑みを浮かべた。

『ドラゴンと契約するための古語は、まだ完全には解読されておらん。奴らは私が初期に実験で作ったロジックのコピーを使い回しておったようじゃな。条件分岐も最適化も甘い。……私が数十年を投じて磨き上げた最新のロジックに、あんな付け焼き刃が勝てるはずもない』

 蒼は自分の肩で羽を休める小さな相棒を見た。あの銀色のドラゴンとの一瞬の交錯。そこで勝敗を分けたのは、情熱だけでなく、祖父が積み上げた緻密な「知性」の壁だった。

『お前も、本格的にこのロジックを学んでみるか? 知識は、お前と相棒を守る最強の盾になるぞ』

ボクの心は、もう決まっていた

「やってみたい」

 蒼は短く答え、深い椅子に体を預けた。窓の外、研究所は静かに夜の闇へと沈んでいく。

 戦闘の余韻が残るメインルーム。空腹と疲労で限界に近い蒼を気遣い、博が穏やかに告げた。

『今日はもう遅い。修行は明日、朝からじゃ。……お掃除ロボくん、布団を運んでやってくれ』

 指示を受けたロボットが、居住エリアからふかふかの布団を運び込んでくる。小さなドラゴンは蒼と一度視線を交わすと、促されるように隣のエネルギー安定室へと消えていった。

 一方、研究所の玄関前。

 退却した工作員たちは、苦渋の表情で上司である後藤へ報告を入れていた。

「……子供がドラゴンを操っていました。しかも、こちらより遥かに複雑なパターンで動き、二手、三手先を読まれていました」

 後藤の表情が凍りつく。

「まさか……。渡瀬の隠居先で、そこまで研究が…実用レベルに達していたというのか……」

 その時、専用端末に誠一郎からの通信が入る。後藤は工作員を下がらせると、恭しく回線を切り替えた。

『報告は受けている。……先ほど、本田博士が古語の追加解読に成功した。ドラゴンの行動パターンを飛躍的に多様化させる、新たな構文だ』

 誠一郎の声は、湖面のように静かだった。

『一度工作員を引き上げさせろ。新チップ構成の運用を徹底的に叩き込む。道具は、扱えなければ意味がない』

「……かしこまりました。直ちに」

 通信が切れると、後藤は即座に命令を下した。

「見張りを二人残せ。あのガキを研究所から一歩も出すな。残りは帰還し、再訓練だ。……次は、逃さんぞ」

 トヤマ製薬、研究室。

 巨大なモニターの前に立つ本田博士は、精鋭の工作員たちを前に、熱を帯びた解説を行っていた。

「いいか。この前進チップの動作APアクションポイントは24。つまり約一秒間、ドラゴンは思考系チップの命令に従って動く。だが、その合間に行動系チップを無秩序に挿入すれば、必ず競合コンフリクトが起きる。……結果、フリーズするのだ」

 画面に流れるタイムライン。本田はそれを眺めながら、意識を過去へと滑らせた。

 ――若き日の、あの眩しい研究所。

 ホワイトボードに複雑なフレーム図を描きながら、渡瀬博は楽しそうに笑っていた。

『本田くん。この一見無駄に見えるブランク、この「間」こそが、ここでの動きに意味を見出すのじゃよ』

(この人は、化け物だ……。思考の跳躍が、私とは根本的に違う)

 本田は震える手でメモを取っていた。尊敬していた。この男を超えてみたいと、心から願った。

 しかし、共同研究で画期的な論文を出すたび、世間が称賛するのは常に“天才・渡瀬”の名ばかり。メディアも学会も、本田の理論が組み込まれていることなど一顧だにしない。

 焦燥。劣等感。そして、消えない敬意。

 その矛盾に心が磨り減っていく中、誠一郎から誘いがかかった。

『我々は、世界の争いを終わらせたい。あなたの計画を完成させるために、最高の環境を約束しましょう』

 誠一郎の掲げる「秩序」は、本田にとってどうでもよかった。ただ、潤沢な資金と設備。それがあれば、渡瀬博を超えることができる。

「渡瀬……見ていろ。今度こそ、私が貴様を……」

 本田はモニターを見つめたまま、歪んだ笑みを浮かべた。

 過去から続く因縁が、最新のロジックとなって蒼の前に立ちはだかろうとしていた。


第16話:すれ違う背中、死者の鼓動

 かつての渡瀬研究所。まだ若く、野心に燃えていた頃の本田蓮は、師である渡瀬博の講義を一言も漏らさぬよう食い入るように聞いていた。

『いいか本田くん。ドラゴンには「ターゲット」と「目的地」という明確な概念がある。他のドラゴンのターゲットにされると、個体は強い警戒反応を示し、その先を阻まれてしまうんじゃよ』

 本田は無言で頷き、その理論を脳に刻み込む。渡瀬はそんな助手の真剣な横顔を眩しそうに見つめ、心の中で独りごちた。

(この若者は、実に素晴らしい。後発でありながら、もう私の背中に手が届くところまで来ている。一刻も早く、彼を一人前の科学者として世に出してやりたいものだ)

 だが、渡瀬は自嘲気味に笑い、言葉を継いだ。

『……だが、今の論文に私の名がなければ、世間は君の理論など読みもしないじゃろうな。科学の世界も、つまらんしがらみが多いものじゃ』

 それは渡瀬なりの、権威主義への皮肉であり、愛弟子を守るための配慮だった。しかし、説明が足りなかった。その一言が、本田の心に「自分の力だけでは認められない」という歪んだ劣等感の楔を打ち込むことになるとは、当時の渡瀬は思いもしなかった。

 現在――トヤマ製薬、敵本社研究室。

 本田博士は、工作員たちへのレクチャーを終え、資料を閉じた。

「以上が新ロジックの構造だ。実戦シミュレーションに移れ」

 モニターに映る「24フレームの空白」。かつて師が言った、あの中空の意味。本田は一瞬だけ目を伏せ、胸の奥で問いかけた。

(あの人なら、今のこの状況をどう組むだろうな……)

 だが、すぐにその感傷を撥ね退ける。感情は、研究の邪魔でしかない。

 研究室を出ようとした瞬間、工作員の一人が本田を呼び止めた。

「博士。例の子供のリュックから、スマートフォンが見つかりました。社長の指示で、博士の部署で解析せよとのことです」

 本田は眉を潜めた。

「……社長は何を考えている。古語の解析で手一杯だ、端末の解析に割ける人員などない」

 本田は即座に誠一郎へ通信を繋いだ。スピーカーから流れる誠一郎の声は、どこまでも静謐だった。

『聞いているよ、本田博士。だが、不自然だとは思わないかね? 子供が一人で顔認証プロテクトを書き換え、高度なチップ理論を構築する……合理的に考えて不可能だ。誰か「協力者」が内部にいると考える方が自然だろう。端末の中にそのヒントがあるかもしれん』

 さらに誠一郎は、声を潜めて続けた。

『内容次第では、他部署に知られるとまずい。まだこの件は、第6営業部と、君のチーム以外には伏せているのだよ』

 第6営業部。あの利益至上主義の後藤に知られれば、強硬策に出て研究対象を破壊しかねない。誠一郎の言葉に、本田は沈黙の末、工作員からリュックを受け取った。

「……端末をこちらへ。私が直接解析する」

 自室に戻った本田は、蒼のスマートフォンを起動した。ロック解除は容易だったが、指先がわずかに震えるのを自分でも感じていた。

「……何が隠れている?」

 解析を開始する。検索履歴には「ドラゴン」の文字が並ぶ。

まさか…

一瞬、心臓が跳ねたが、中身は流行の育成ゲームの攻略情報ばかりだった。

「……ただの子供、か」

 落胆に似た溜息をつき、指を滑らせる。着信履歴には「佐山くん」、そして「菜々子」。

「菜々子さん……。彼女には、世話になったな」

 かつての師の娘の名に、本田の表情がわずかに和らぐ。しかし、その直後に開いたメール一覧で、彼の時間は凍りついた。

 送信者:渡瀬博。

 スクロールする指が止まる。死んだはずの男から届いた、1通の痕跡。

 本田の背筋を、氷のような違和感が駆け抜けていった。


第17話:杜撰な幕引き

「……渡瀬博士を始末したのは、間違いないんだろうな?」

 本田の声は、冷徹な響きを帯びていた。回線の向こうで、後藤は苛立ちを隠そうともせずに吐き捨てる。

『何を今さら。……とっくに終わった話だ』

「確証はあるのかと聞いているんだ」

 その問いに、後藤の脳裏にはあの日の光景が鮮明に蘇っていた。

 数日前――研究所メインルーム。

 詰め寄る後藤を前にしても、渡瀬博は驚くほど落ち着いていた。

『誠一郎くんも、久々に接触してきたと思えば、こんなやり方か』

「ふざけるな! このプロジェクトにどれほどの巨費が投じられていると思っている!」

 怒鳴り散らす後藤に対し、渡瀬は憐れむような視線を向けた。

『……これは、あいつの指示ではないな? お前の独断か。やり方が、あまりに稚拙すぎる』

 核心を突かれ、後藤の顔が屈辱に歪む。

「黙れ! 力尽くでも、研究成果はすべて回収させてもらう!」

 渡瀬は無言でコンソールのボタンを押し込んだ。室内にけたたましい警告音が響き、カウントダウンが始まる。

『この部屋はロックされる。人が来るまでは出られん。今のうちに、何もなかったことにして帰るんじゃな』

 渡瀬は後藤を追い出すように、セキュリティドアを閉鎖した。後藤は舌打ちをしながら、閉まりゆく重厚なドアのわずかな隙間へ、一つのカプセルを投げ込んだ。

 プシュッ、と音を立てて、ガスが室内に拡散する。

「先に完成させられるくらいなら、ない方がマシなんだよ。本田博士さえいれば、時間はかかっても再現は可能なのだからな……」

 ドア越しに聞こえる、渡瀬の苦しげな呻き声。そして非情なカウントダウンの音。

 後藤はそれを見届けることなく、その場を後にした。

 現在。

 後藤は忌々しそうに回想を振り払った。

『ゾウが30秒で昏睡する強力なガスだ。あんな密室で、人間が生きていられるはずがない!』

 本田は冷めた声で、短く返した。

「……つまり、死体を確認したわけではないのだな」

 沈黙。それが肯定であることを理解し、本田は一方的に通信を切断した。

 本田は即座に、誠一郎への回線を開く。

『何か分かったかね、本田博士』

「渡瀬博士が生存している可能性が出てきました」

 誠一郎の纏う空気が、一変した。

『……どういうことだ?』

「後藤部長が接触した時刻の後に、博士の端末から子供へメールが送信されています。タイムスタンプが一致します」

『第三者のなりすましという可能性は?』

 本田は即答した。

「あの研究所の周囲に、この研究の真の価値を理解できる人間などいません。ましてや、これほど高度な偽装を行える者も。……あれは、間違いなく彼本人の意志によるものです」

 短い沈黙。誠一郎の思考が加速し、一つの結論を導き出す。

『……よかろう。移動研究所、R1.02号を出す』

 その名の響きに、本田の目が見開かれる。トヤマ製薬の軍事技術を詰め込んだ、文字通りの「切り札」だ。

『準備しておけ。これ以上の不確実性は許容できない』

 通信が途絶え、静寂が戻った。

 死んだはずの師の影、そして動き出した巨大な牙。

 蒼たちの籠もる聖域は、まもなくトヤマ製薬の全力を挙げた侵攻に晒されようとしていた。


第18話:経験という名の師

 トヤマ製薬本社、地下。巨大なハッチが重々しい音を立てて開放された。

「……R1.02号だと?」

 共同研究者である本田博士は、目の前の偉容を前に、呻くように呟いた。そこに鎮座していたのは、製薬会社が誇る移動型極秘研究所である。

 大型バスを改造した車体には、スパコン、量子演算装置、衛星通信、そして独立電源が完備されている。本来は新型ウイルスの発生現場でワクチンを緊急生成するための「走る研究都市」であり、同社の科学力と資金を惜しみなく注ぎ込んだ最終兵器だ。

「なりふり構わんということか、社長……」

 一人の子供を捕らえるためにこの怪物を動かす。その執念に本田は戦慄した。



 翌朝、研究所の一室。

「ほれ、そろそろ起きんか」

 モニター越しに、祖父・博の快活な声が響く。

「起きてる……起きてるから……大丈夫だから……ムニャムニャ」

「何が大丈夫なんじゃ……」

 博がやれやれと笑いながらコンソールの操作を行うと、電子音と共にケージのロックが解除された。

 次の瞬間、解き放たれた影が勢いよく飛び出した。

 ドンッ!

「うっ……!」

 蒼の胸の上に正確に着地したのは、紅蓮の鱗を持つ小さなドラゴンだった。

「……もう少し優しく起こしてよ」

 睨む蒼に対し、ドラゴンは悪びれる様子もなく、不思議そうに首を傾げた。その仕草には、知性と愛嬌が混在している。

「そろそろ授業じゃぞ。準備をせい」

 午前中は「ロジックの基礎」に費やされた。

 モニターには、ターゲット検知、優先順位判定、移動、そして行動といった、ドラゴンを制御するためのチップ構成図が並ぶ。

『ロジックはシンプルでなければならん。隙のない構造こそが、ドラゴンの無駄なエネルギー消費を抑えるんじゃ。不必要な条件分岐は迷いを生み、それがドラゴンの弱点となる』

 博の講義は専門的でありながら、どこか哲学的な響きを帯びていた。蒼が集中して図面を読み解くうちに、時間はあっという間に正午を過ぎていた。

「昼食にしよう。」

「午後の授業も楽しみだな」

蒼が言うと博は

「午後はドラゴンを信じる訓練じゃ」

 博の宣告に、蒼の箸が止まる。

「信じる訓練……?」

『お前はもう、世界から狙われる立場じゃからな。ロジックという剣と、信じる心という盾。その両輪がなければ、自分を守ることはできん。……」

蒼の緊張が高まる

「……わかった…何をすれば良い?」

と蒼が尋ねると

博は『ドラゴンと遊ぶんじゃよ』とちょっとイタズラっぽく笑った

 昼食後、博は研究所の「真実」について語り始めた。

『蒼、いいか。私はこの研究所のシステムを掌握しておるが、意識をネットの深淵に飛ばしておる間は、外の状況がわからん。時間の概念も曖昧で、戻るタイミングも一定ではないんじゃ』

 つまり、タブレットに話しかけても返事がない時は、博が「不在」であることを意味する。

「それって結構困るんじゃないの?」蒼は尋ねる

『だから対策はしてある。パスワードを入力すれば、強制的に私を呼び戻せるプログラムを組んでおいた。お前が最初にここへ来た時のようにな』

 あの時、ドアが開いたのは偶然ではなかったのだ。

『何か質問はあるか?』

「え?ドラゴンを信じる訓練については……?」

『経験は最良の師じゃよ。私は古語の研究を続ける。必要な時は呼び出すのじゃ』

 モニターが暗転し、部屋には蒼と一匹のドラゴンだけが残された。

 蒼は、自分を見つめる紅蓮の瞳を見つめ返す。昨日までは「戦うための存在」だった。だが、これからは「相棒」として向き合わなければならない。

「よし……まずは名前をつけなきゃな。いつまでもドラゴンじゃ呼びにくいし」

 蒼の言葉に、ドラゴンが小さく鳴いた。

「……アルファ。最初の一歩、っていう意味を込めて。『アルファ』って呼んでもいいかな?」

 ドラゴン――アルファは嬉しそうに蒼の周りを一周した。頬を撫でる空気の揺れ。確かな体温。

 蒼は小さく息を吐いた。

「……そっか。なんか、うまく出来そうな気がしてきた」

 相棒の重みを感じながら、蒼は初めて「現実」のドラゴンと共に歩み始めた。その背後で、R1.02号の影が刻一刻と近づいていることも知らずに。


第19話:冷徹なる三位一体

 トヤマ製薬が誇る移動研究所、R1.02号。

 無機質なホワイトの外装とは裏腹に、その内部にはスーパーコンピューターや古語解析装置、そして高度な行動ロジック生成システムが密に詰め込まれている。工作員たちが慌ただしく機材を積み込む中、本田博士は静かに端末を確認していた。

「お嬢様、自ら出向くほどの案件ではございません」

 後藤部長が低く進言するが、背後から響いた凛とした声がそれを遮った。

「いいのよ、後藤」

 **すい**は、年齢に見合わぬ落ち着きで淡々と続ける。

「導く者は常に、人より考え、人より努力し、人より働くものなの。休息や娯楽は導かれる者のためのもの。私には必要ないわ」

 彼女は自ら準備の最終確認を行い、父・誠一郎から手渡されたノートを手に、漆黒の瞳を研究所の方角へと向けた。

「準備が整い次第、出るわよ」

 R1.02号の重厚なエンジンが唸りを上げ、静かに、しかし確実に動き出した。

 その頃、研究所のメインルーム。

「アルファはかくれんぼが好きなようだ」

ー蒼が真顔で言う

ドラゴンは呆れたように尻尾を揺らし、相棒に付き合っていた。

かくれんぼが好きなのは蒼の方である

 その時、メインモニターが警告音と共に自動で起動した。映し出されたのは、研究所入口に停まった巨大なバスと、数人の男たち。

「……蓮おじさんだ!」

 画面の隅に映った本田蓮の姿を見つけ、蒼は歓喜に顔を輝かせた。幼い頃、自分を可愛がってくれた優しい「おじさん」。裏切りの事実など知らない蒼は、期待に胸を膨らませて外へと飛び出した。

 しかし、外で待っていたのは歓迎ではなかった。

 一瞬にして工作員に包囲され、蒼の心臓が激しく跳ねる。だが次の瞬間、午前中の訓練が身体を動かした。

「……信じる。アルファ!」

 蒼が強く願うと、アルファのロジックが淀みなく起動した。渡瀬が構築した最新の行動系チップが展開され、襲いかかる工作員たちを次々と払いのけていく。自分でも驚くほどの連携に、蒼は手応えを感じていた。

 だが、本田の姿を探して視線を泳がせていた蒼の前に、一人の少女が立ちはだかった。

「道を開けなさい」

 静かな、しかし抗いがたい重みのある声。

 工作員たちが左右に分かれ、自分とさほど変わらない年齢の少女、**すい**が歩み寄ってくる。

「女の子……? この人たちの仲間なの……?」

 蒼に迷いが生じた、その刹那。翠が手にしたノートを鮮やかに開いた。反射的に蒼も対抗しようとするが、地面に落ちた影を見て、言葉を失った。

 影は、三つ。

「一人で……三匹……!?」

 理解が追いつかない。三体のドラゴンを同時展開し、並列制御するなど、理論上は不可能に近い。

 パニックに陥った蒼のロジックは乱れ、アルファの反応に致命的な遅れが生じる。三体の流れるような連携攻撃を受け、一撃でアルファが沈んだ。

「……あ、……お腹が……」

 膝から崩れ落ちる蒼。アルファが受けたダメージが、激しい空腹と脱力感となって蒼を襲う。

「メインルーム開放。渡瀬博士は不在です」

 工作員の事務的な報告を聞きながら、翠は感情を一切乗せずに命じた。

「……その子にパンを与えて、お父様の所へ連れて行って」

 戦いを「勝利」ではなく「処理」として完遂した少女の瞳。

 工作員に抱えられ、黒い車へと運ばれる中、蒼の意識は急速に遠のいていく。

(あの瞳……どこかで見た気がする……)

 記憶の糸が解ける感覚と共に、蒼の視界は深い闇に塗りつぶされた。


第20話:盤上の支配者

 深い意識の底、古い記憶が静かに解けていく。

 まだ幼い頃、研究所を訪れた一人の男。その傍らには、自分と同じくらいの年齢の女の子が立っていた。

『大事な話をするから、子供同士で遊んでいなさい』

 祖父の言葉に促され、二人はぎこちない沈黙の中で向き合った。「チェス、する?」という蒼の誘いに、少女は小さく微笑んで「いいよ」と応えた。

 当時の蒼には自信があった。祖父を相手にしても三回に一回は勝てる。同い年の子に負けるなど、微塵も思っていなかった。

しかし…結果は、惨敗だった。

 しかも彼女は、盤面に集中している様子すらなかった。大人たちの会話に耳を傾けながら、片手間で打っている。それでも、蒼は一度も王手をかけることすらできなかった。

『もう少し先を読んで、盤全体の動きを把握してから打つといいわね』

 涙目になる蒼に、彼女は淡々と言い放った。負けたことよりも、本気で向き合ってもらえなかったことが悔しくて、唇を噛んだ。

 記憶の中の男の顔や声は曖昧だが、あの瞳だけは鮮明に覚えている。すべてを俯瞰し、支配する瞳。

(……あれは、あの時の女の子だ)

 甘く温かい香りと共に、蒼の意識が浮上した。

 目を開けると、そこは高く白い天井と、整えられた調度品に囲まれた見知らぬ部屋だった。清潔なベッドの上で、蒼の腹が情けなく鳴る。

「……腹ペコだ」

 ドアが静かに開き、ワゴンを押してあの少女――翠が入ってきた。

「目が覚めたのね」

「君は……あの時の……」

「今頃気付いたの? 相変わらず、のんびりした人ね」

 翠の声に冷たさはないが、温度もなかった。

「安心しなさい。あなたのような危機管理能力の低い人でも、安心して暮らせるように必ずしてあげるわ」

 その言葉は優しさの形をしているが、響きは「支配」そのものだった。

「食事を済ませたら、お父様の話を聞きなさい」

 それだけを言い残し、彼女は部屋を去った。

 食事を終えた頃、規則正しいノックの音が響き、誠一郎が入室してきた。

「娘が失礼なことを言ったようだね。すまない」

 穏やかな口調だが、その目は冷静に蒼を観察している。誠一郎は椅子に腰を下ろすと、単刀直入に切り出した。

「我々は二つの可能性を考えている。君に協力者がいるのではないか。そして、渡瀬博士は生きているのではないか……。だが今は、そんなことは重要ではない」

 誠一郎の視線が、蒼の瞳の奥を射抜く。

「君たちの勢力に協力してもらいたい。もし協力者がいるなら、帰って相談するといい」

 彼はドラゴンの本質について語り始めた。物理攻撃を無効化し、ネットの海からどこへでも現れ、近代兵器を無力化するエネルギー生命体。

「そんな力を、様々な思想を持つ人間がバラバラに保有する……それは危険だと思わないかい?」

 誠一郎の声は、淀みない理想を紡いでいく。

「世界には、子供が飢えても銃弾を買う国がある。誰かが秩序を持って導くしか、争いを無くす方法はない。主導者が正しく導けば、普通に暮らす人の生活は守られる。富を独占する者と、飢える者を減らす。平等に生産し、消費し、分け合える世界。……それが私の理念だ」

「……難しいけど、言いたいことはわかる」

 蒼は少し迷ってから、一つの疑問を口にした。

「それが一番いいことなら、どうして今まで誰もそうしなかったの?」

「人は、地位が高くなると欲が出るからだ。民のためではなく、己の欲のために侵略を始める。だからこそ、自分を律することができる者だけが、力を持つべきなのだよ」

 誠一郎は小型のレコーダーを机に置いた。

「今の会話は録音してある。もう一度ゆっくり考えるといい。協力者がいるなら、一緒に聞きなさい」

 手渡されたレコーダーは、蒼の手の中でずっしりと重く感じられた。誠一郎の言葉はあまりに「正しく」、抗う理由を見つけることさえ困難なほど、静かな説得力に満ちていた。


第21話:母の覚悟、祖父の招集

「今日はもう遅い。入口の車で家まで送らせよう。……リュックも返しておく」

 誠一郎は淡々と告げ、傍らに置かれたリュックを差し出した。

「計画のためにスマートフォンの中身は確認させてもらったよ」

 隠し立てをしないその誠実さが、逆に逃げ場のない圧力となって蒼にのしかかる。

「一週間後、渡瀬博士の研究所で返事を聞こう」

 提示されたのは、強制ではない「猶予」。しかし、それは世界を天秤にかけるにはあまりに短い一週間だった。

 送迎の車に揺られながら、蒼は窓の外を流れる街灯を眺めていた。手の中には、誠一郎の理想が詰まった重いボイスレコーダー。

 自宅に着くと、玄関の灯りの下で母・菜々子が立っていた。

「……今、何時だと思っているの?」

 怒鳴るのではなく、感情を押し殺した低い声。二日間で起きたあまりに濃密な出来事に、蒼の頭は追いついていない。まるで何年も異世界を旅してきたような、奇妙な疲労感が全身にまとわりついていた。

「心配したんだから……」

 小言の最後に漏れたその一言だけが、やけに胸に残った。

 湯船に浸かりながら、蒼は必死に思考を巡らせる。

 誠一郎が説いた秩序と平等。翠の圧倒的な三体操作。そして、自分とアルファの絆。もっとロジックを理解しなければ、相棒を守れない。

 けれど、母はまたあの研究所へ行くことを許してくれるだろうか。

 風呂から上がると、リビングから菜々子の苛立った声が聞こえた。

「ボクのせいでごめんなさい…」

とばっちりを食った知らない人に心の中で謝りながら通り過ぎようとした蒼に彼女は鋭い視線のまま受話器を差し出してきた。

「おじいさんからよ。……」

『……菜々子に気づかれないようにな』

 受話器から漏れる祖父・博の声は、いつになく低く、真剣だった。

『防犯カメラの映像はすべて見た。詳しい話は、明日、直接しよう』

 心臓が跳ねる。

『菜々子には話をつけてある。明日から夏休みの間は、こちらの研究所で過ごしなさい。……お前に話しておかなくてはならないことがあるんじゃ』

 電話越しでも、祖父の揺るぎない決意が伝わってくる。蒼は短く、しかし力強く頷いた。

 翌朝。

「起きなさい! 早く準備しなさい!」

 菜々子の怒声で目が覚めた。昨夜の不機嫌はまだ尾を引いているようだが、彼女はテキパキと蒼の荷物をまとめ始めた。

「おじいさんの所に行くんでしょ! 着替えと宿題も持っていきなさいよ!」

 急いで支度を整え、玄関を飛び出そうとした瞬間。

「……ちょっと待ちなさい」

 呼び止められ、蒼が振り返る。菜々子は、どこか遠くを見つめるような、見たこともないほど厳しい表情で息子を見つめていた。

「おじいさんの言うことを、ちゃんと聞くのよ。……もしかしたら、とても辛い話を聞くことになるかもしれない。でも――」

 菜々子は一歩歩み寄り、蒼の肩に手を置いた。

「おじいさんは、あなたがもう子供ではなく、大人になったと認めたの。だからこそ、あなたを呼んだのよ。……しっかり受け止めて、自分で考えなさい」

 そこには、一人の親としての覚悟と、息子への深い信頼が混ざり合っていた。

「……いってきます」

 母の想いを背負い、蒼は再び「境界線」を越えて、祖父の待つ場所へと走り出した。


第22話:砂漠の残照

 ガタゴトと規則正しく刻まれる電車の振動。蒼は窓に額を押し当て、流れる景色をぼんやりと眺めていた。誠一郎から手渡された、冷たく無機質なボイスレコーダーの重みがポケット越しに肌に伝わる。

「支配されていると気づかなければ、それは不幸ではないのか……」

 誠一郎の言葉が、呪文のように脳裏をリフレインする。争いのない、平等な世界。それは確かに美しい響きを持っているが、翠のあの「すべてを俯瞰する瞳」を思い出すたび、蒼の心には正体不明の寒気が走るのだった。

 研究所の気圧が抜けるような自動ドアの音。蒼は駆け込むなり、メインコンソールへと向かった。

「おじいちゃん! 誠一郎おじさんから……預かったんだ。協力者がいるなら一緒に聞けって」

 メインモニターの中、博のエネルギー体――青白く発光する幾何学的な粒子が集まった「影」――が、僅かに明滅した。

『……そこに置け。有線スロットへ繋ぐのじゃ。』

 蒼が端子に繋ぐと、モニターの端にプログレスバーが走り、膨大なデータが吸い込まれていく。

『解析には時間がかかる。その間に……蒼、アルファの様子を見てやりなさい。今のあやつには、ロジックよりもお前の「信頼」という名のエネルギーが必要じゃ』

 博が電子処理でケージの電子ロックを解くと、紅蓮の小さな影が弾丸のように飛び出してきた。

「アルファ!」

 蒼がしゃがみ込むと、ドラゴンは低く喉を鳴らした。仕方ない、かくれんぼの続きをしてやるか、と言わんばかりに。

 アルファは物陰に溶けるように姿を消す。蒼は目を閉じ、気配を探った。

――信じる訓練。

 姿が見えなくても、そこにいると「信じる」。その心の張力が、蒼とドラゴンの「絆」を物質的な強度へと変えていく。

『蒼、こちらへ来なさい』

 モニター越しに響く博の声に呼び戻され研究室に入ると、そこには重苦しい空気が立ち込めていた。

『この答えを出す前に、お前に話しておかねばならんことがある。……お前の父、伊織くんと、翠ちゃんの母親――ゆずさんの話じゃ』

 父は事故で亡くなった。そう聞かされてきた蒼の心臓が、一瞬止まる。

「なぜ……今、その話を?」

 博はその問いには直接答えず、代わりに一つの世界地図をモニターに広げた。

『蒼よ。お前は「C国」という国を知っておるか?』

「……ニュースで…昔からずっと戦争を続けてる国だって、それくらいしか」

『そうじゃ。一国の中に二人の独裁者が並び立ち、国民が飢えようとも互いを滅ぼすことだけに心血を注いでおる。兵士でない者は、ただ絶望の中で泥を啜って生きるしかない、そんな場所じゃ』

 画面が切り替わり、荒廃した街並みが映し出される。

『誠一郎くんの会社――トヤマ製薬は、そこへ長年、救援物資を送り続けていた。「貧困こそが争いの苗床になる」という彼の強い信念のもとにな。……そして、その危険極まりない現地で物資を届ける責任者を担っていたのが、翠ちゃんの母親、柚さんじゃった』

 博の声は落ち着いているが、電子的なノイズが混じるほどに重い。

『だが、いつの頃からか物資を積んだトラックが、武装ゲリラに奪われ始めたのじゃよ』

「え……? 同じ国の人を助けるためのものを、奪うの?」

『……戦争は、人を狂わせる。周囲は柚さんを必死に止めた。「これ以上は自殺行為だ」とな。しかし、彼女は止まらなかった。……そして、最悪の事件は起こってしまった。柚さんは武装ゲリラに誘拐された。身代金を目的とした、卑劣な拘束じゃ』

 蒼の手が、微かに震え始める。

『誠一郎くんは半狂乱になり、私の元へ駆け込んできた。当時、まだ研究段階に過ぎなかった「ドラゴン」を使わせてほしいとな。お前が翠ちゃんと初めて出会い、チェスをしていたあの日の裏側で、彼は必死に私に縋っておったのじゃ』

『私は……断った。ドラゴンはまだ制御不能な力。それを暴力の場に持ち込めば、柚さんの身にさえ何が起きるか分からん。科学者としての倫理が、私に首を横に振らせた。……だが、翌日。私の管理下からドラゴンの初期ロジックノートが持ち出され、お前の父、伊織くんも姿を消したのじゃ』

 画面に映し出されたのは、当時の軍事衛星が捉えた古い記録映像。砂漠のど真ん中。

 小さな閃光。次の瞬間、世界が真っ白に塗りつぶされるほどの爆発が起きた。

『何が起きたのか、正確には分からん』

 博が映像を巻き戻し、拡大する。そこには、眩い光を放つドラゴンの傍らで、ノートを抱えて立ち尽くす一人の男のシルエットがあった。画質は荒い。だが蒼には分かった。

「……お父さん……」

『この爆発で半径二キロ、生物はすべて死滅した。柚さんは、伊織くんが到着する直前にすでに殺害されていたという。……誠一郎くんが今、これほどまでに焦り、異常なまでの「秩序」を求めているのは、この拭い去れぬ過去があるからじゃろう』

 蒼は言葉を失い、ただ明滅するモニターを見つめていた。父は、翠の母を救うために禁忌を犯し、そして、何も救えなかったのか。真実はまだ、砂塵の向こう側に隠れている。


第23話:資質の証明

「そしてC国は三年間、戒厳令を敷いた」

 博の淡々とした解説が、蒼の肺を圧迫する。モニターに映る不毛の地は、かつて父が、そして翠の母がいた場所なのだ。蒼の呼吸は浅くなり、視界がわずかに歪む。

 部屋を支配する重い沈黙。

「その後、C国はトヤマ製薬からドラゴンのデータを奪おうと執拗にスパイを送り込んでいる。すべては軍事利用のためじゃ。」

「……お父さんが…お父さんが、悪いことをしたの?」

 かすれた声で問う蒼に、モニターの中の博は少し困ったようにノイズを走らせた。

「まだ分からんことが多い。誠一郎くんは何かを隠しておる……。関連データには厳重なプロテクトが施されていてデジタル化したわしの演算能力を持ってしても、解除には時間がかかるのじゃ」

 博の光が、蒼の瞳をまっすぐに見据える。

「すぐに受け入れるのは無理じゃろう。だが、歩みを止めても時間は待ってくれん。質問があれば何でも答えよう」

 蒼はうつむいたまま、言葉を紡ぐことができなかった。

「今日はアルファとのんびりしなさい。そして自分で考えて、誠一郎くんへの返事を決めるのじゃ」

 博は静かに締めくくり、最後に低く念を押した。

「今後、誰が来ても――たとえ菜々子であっても。パスワードを入力し、わしを呼び戻してからドアを開けなさい。これは絶対のルールじゃ」

 蒼は小さく頷き、逃げるように庭へ出た。

 アルファが不安げにこちらを見上げている。その温かい頭に手を置きながら、蒼は自問する。父は悪者なのか、それとも…。

その答えは、まだどこにもなかった。 


トヤマ製薬 社長室

 その頃、トヤマ製薬の本社ビル。最上階の社長室では、誠一郎と翠が対峙していた。

「お父様……あのまま帰して良かったのですか?」

 翠が静かに尋ねる。誠一郎は窓の外、広大な街並みを見下ろしたまま答えた。

「このまま逃げ出すようなら、大した脅威にはならん。ノートを回収すれば済む話だ」

 一拍置いて、彼は娘を振り返る。

「……翠。彼には『導く側』の素質があるとは思わないか?」

 翠はわずかに目を見開いた。

「あんな、のんびりしていて危機管理能力も低い人が……ですか?」

「上に立つ者に必要なのは才能や努力だけではない。己を律する力だ。資質があっても、すべてを少数で管理するのは不可能だ。志を同じくする協力者が要る」

 誠一郎の目が、獲物を定めるように鋭くなる。

「ドラゴンを制御できなかった子供が、数日で第六営業部の工作員を手玉に取った。ドラゴンは自律できぬ者の意志には決して応えん。お前もそれは分かっているだろう?」

 翠は言葉を失い、黙り込んだ。やがて、覚悟を決めたように短く告げる。

「……分かりました。もし彼が協力の道を選ぶなら、私がコーチをします。でも、見込みがないと判断すれば、即座にノートは取り上げます」

「それでいい」

 翠は一礼し、自らに課した厳しいカリキュラムへと戻るべく立ち上がった。入れ替わるように、本田蓮からの緊急通信が社長室に響き渡る。

 運命の一週間。蒼の修行と、トヤマ製薬の次なる一手。物語は静かに、加速を始めていた。


第24話:統治者の孤独

「どうした?」

 本田蓮からの通信に、誠一郎が短く問う。

「社長、新しいロジックの一部を解読しました。プログラムへ組み込みますか?」

「まずは翠にテストさせろ。その後は翠の指示に従え。訓練はすべて翠に任せている」

「かしこまりました」

 通信が切れると、誠一郎は一瞬だけ、疲弊を隠すように目を閉じた。

(……気負い過ぎではないか、翠)

 だが、その歩みを止めさせることはしない。もし今、彼女の足を止めれば、あの決意に満ちた瞳は、絶望に曇ってしまうことを知っているからだ。


トヤマ製薬 本社・第三会議室

 翠は、大学レベルの高等数学の講義を受けていた。講師の熱弁が響く中、手元のスマートフォンに通知が走る。

《新規行動ロジック解読完了。使用可能。如何いたしますか?》

 翠の指先が迷いなく画面を叩く。

《フランス語の講習をキャンセルして研究室に向かいます。講習の準備を》

 返信を終えると、何事もなかったかのように講義へと意識を戻す。

 母・柚を亡くしてから、翠は自ら望んで過酷な教育課程を自身に課した。数学、語学、経済、戦略論。すべては「優れた指導者」になるための血肉。

 母のような、慈悲深くも無力な犠牲を二度と出さないために。

研究室

「本田博士、お願いします」

 翠の促しに、本田はモニターに複雑なロジックツリーを表示させた。

「新しい分岐チップです。ターゲット指定の有無によって、ドラゴンの挙動をリアルタイムで変化させられます」

 十五分に及ぶ専門的な説明。本田が「質問は?」と問いかけるのを待たず、翠は本質を突いた。

「攻撃後のクールタイムに判定を割り込ませれば、敵にロックオンされた場合のみ、緊急降下で回避する構成が可能ですね。スコア75以上の育成プログラムに即時組み込んでください」

「……了解しました」

 訓練ルームへ向かう翠の背中を見送りながら、本田は戦慄していた。

(あの一回の説明だけで、ロジックの最適解まで導き出すのか……)

 この会社で尊敬に値するのは社長とお嬢さまくらいだが、お嬢さまの知性はもはや別格だ。本田は、あの子の期待に応えねばと、再びモニターに向き直った。


訓練ルーム

 ガラス越しにスタッフが固唾を呑んで見守る中、六体のドラゴンが翠の前に整列していた。

「今日こそ……全員、完璧に制御してみせる」

 翠がノートを広げ、精神を極限まで研ぎ澄ます。

 六体のドラゴンが一斉に飛翔し、空中で複雑な幾何学模様を描く。軌道は分岐し、再び一点へと収束する。脳を焼き切るような演算負荷。

 五分。六分。

 七分が経過しようとした瞬間――翠の膝が、糸が切れたように崩れ落ちた。

 ドラゴンが霧散し、スタッフが悲鳴とともに駆け込む。

 ベッドへ運ばれ、点滴を打たれる翠。数分後、薄く目を開けた彼女の第一声は、周囲を拒絶するような自らの意思だった。

「訓練を……再開します」

「お嬢様、いけません! 今は安静に!」

「C国はこちらの動きを察知しています! 想定を超えなければ、守るべきものも守れない……!」

 震える足で立ち上がろうとした、その時。

「やめなさい」

 低く、重厚な声。誠一郎だった。

 彼は一瞬だけ、眉根を寄せて「父親」の顔を見せた。

「……母さんに、そっくりだ」

 だが、次の瞬間には冷徹な「社長」の顔に戻る。

「自分を律せぬ者に、指導者は務まらん。倒れるまで戦うことが正しいと思うか?」

 翠の瞳に、悔しさと情けなさが混じった涙が滲む。

「……すいません」

「今日は座学だ。新しいロジックを理解しろ。身体を休めるのも、導く者の仕事だ」

「……はい」

 翠は静かに頷き、横たわった。

 親子でありながら、指導者と後継者。二人の間に流れるのは、甘い愛情ではなく、同じ悲劇を繰り返さないという鉄の誓いだった。


第25話:覚悟の産声

 渡瀬研究所の静寂の中、森口蒼は机に向かったまま、深い沈黙に沈んでいた。

 足元ではアルファが落ち着きなく歩き回り、時折立ち止まっては、主人の顔を不安げに覗き込む。ふと顔を上げた蒼と、金色の瞳が真っ向から合った。

「……ここ二、三日の出来事は、さすがにボクのキャパシティを超えてるな」

 蒼は小さく呟き、スマートフォンを取り出した。溢れかえる情報を整理するため、思いつく限りの事象を指先で弾くように入力していく。

• 父の失踪と過去の惨劇

• ドラゴンの存在意義

• 誠一郎の「秩序」という提案

• 翠の圧倒的な三体同時制御

• トヤマ製薬研究所の隠蔽されたプロテクト

• トヤマ製薬・第六営業部の動向

 入力が終わると、AIが即座に演算を開始した。数秒後、画面には複雑に絡み合う立体相関図が表示される。【確実/不確実】【期限の有無】【短期/長期案件】――整理された優先順位が浮かび上がる中、蒼は一つの明快な結論に辿り着いた。

「……やっぱり最優先は、自分で自分を守れるようになることだ」

 父の謎は、今どれほど頭を抱えても解けない。博によるデータ解析を待つしかないのだ。だが、来週には誠一郎が「返事」を聞きに来る。それまでに、対等に渡り合えるだけの力を付けなければ、交渉の席に座ることすら叶わない。

 蒼は迷いを振り切るように立ち上がり、メインコンソールへと向かった。


教育プログラムの始動

『経験は最良の師』

 スマートフォンにキーワードを打ち込むと、モニターに博の顔が映し出された。

『何か質問かな?』

「来週までに、ドラゴンのロジックを完璧に覚えたいんだ。専用の教育プログラムを組んでほしい」

 一瞬、博は驚きに目を見開いたが、すぐに柔らかく、誇らしげに笑った。

『……わかったよ。だが、来週までとなると相当に厳しいぞ。今日は早めに寝なさい。体調管理もまた、訓練のうちじゃからな』

 博はそう言って、温かい食事を摂るよう促した。

 食事の最中、蒼はふと箸を止め、モニターを見つめた。

「おじいちゃん……お父さんのこと。何かわかったら、隠さないで教えてね」

 博は一拍の間を置き、まっすぐに答えた。

『約束しよう』

猛勉強と「三体」の理屈

 翌朝から、地を這うような特訓が始まった。

 ロジックの構築、エネルギー配分の最適化、そして契約理論。膨大な知識を吸収しながら、蒼はふと疑問を口にする。

「翠ちゃんは、三匹を同時に操っていたよね。どうすればあんなことができるの?」

『「信じる力」が強ければ、不可能ではない。お互いの信頼が深まるほど、情報の同期効率が上がり、エネルギー消費は劇的に下がる。燃費を三分の一まで抑えられれば、理屈の上では三匹連れていても一匹分の負担で済むのじゃ』

 言われてみれば、特訓を重ねるほどに以前のような激しい疲労を感じなくなっていることに蒼は気づいた。

「……ボクも、もう一匹契約できるかな?」

『ふむ。……明日、試験をしてやろう』

 博のアイコンが、悪戯っぽくニヤリと笑った。


試験:相棒の証明

 翌朝。博が作成した高難度のテストプログラムに対し、アルファが対峙した。

 仮想空間に現れたのは、高度な連携攻撃を仕掛けてくる二匹の敵ドラゴン。しかし、蒼の心は驚くほど冷静だった。翠の洗練された三体制御をその目で見た経験が、敵の動きを先読みする「目」を養っていたのだ。

 流れるような回避と、無駄のない一撃。戦闘終了の合図が鳴る。

『蒼。……腹は減ったかね?』

 博の問いに、蒼は不思議そうに首をかしげた。

「ん? 朝ごはんを食べたばかりだよ。」

 その答えを聞いた博は、満足そうに頷いた。

『合格じゃ。お前とアルファの絆は、すでに次の段階へ進んでおるようだな』


第26話:急襲のプロトコル(改訂版)

 午後の柔らかな光が差し込む研究室。新たな「契約」の刻が訪れた。

 蒼がノートの新しいページをめくると、未契約のドラゴンのリストが淡い光を帯びて並ぶ。その中で、一際目を引く一匹がいた。透き通るような白銀の輝きを放つ個体。理由はわからないが、抗いがたい引力に蒼の指先が止まる。

「……君にするよ」

 召喚陣が白光を放ち、実体化した白い影が静かに着地した。蒼は安堵に似た微笑みを浮かべる。

「よろしく、ベータ」

 モニターの中の博は、その白い個体を見た瞬間、データの粒子を一瞬だけ激しく明滅させた。

『あれは……まさかな』

 博は何かを言いかけ、すぐにデジタルな首を振った。

「やれやれ、またかくれんぼの相手が増えたな」蒼が苦笑しながらアルファとベータを見ループと、二匹は示し合わせたように、互いにぷいと視線を逸らした。


決断の前夜

 誠一郎が提示した「一週間」の最終日。講義と訓練を終えた蒼に、博が静かに問いかけた。

『……どうするつもりじゃ?』

 蒼は手の中のスマートフォンを見つめ、迷いのない声で答えた。

「もう少し、誠一郎おじさんと翠ちゃんの話を聞いてみるよ。その上で、ボクの考えも伝えてみる。ちゃんと向き合えば、きっと分かり合えると思うんだ」

 その言葉が終わるか否かのタイミングで、スマートフォンの着信音が鳴り響いた。表示されたのは見覚えのない番号。

「もしもし……?」

『早く! そこから逃げなさい!』

 受話口の向こう、翠の切迫した声が響く。

「翠ちゃん? なんでボクの番号を――」

 言い終える前に、研究所全体を巨大な衝撃が襲った。

 地響きとともに棚が軋み、精密機材が次々と床に叩きつけられる。

「うわっ!」

『間に合わなかった……! すぐに向かうから、絶対に研究室から出ないで! 他に人がいるなら全員集めて閉じ込もりなさい!』

 一方的に通話が切れる。後に残されたのは、不気味な静寂と、遠くで建物が崩落していく轟音。蒼が傍らのアルファとベータに視線を走らせると、二匹の瞳は侵入者を迎え撃つ野獣のように、鋭く発光していた。


三日前:トヤマ製薬 第六営業部

 物語を三日前に巻き戻す。重苦しい空気が漂う訓練室。

 後藤護は工作員たちと並び、ドラゴンを制御するノートを睨みつけていた。周囲の若い工作員たちが次々とドラゴンを自在に操る中、後藤のドラゴンだけがノイズ混じりのように不安定な挙動を見せていた。

(この力を……完全に扱えさえすれば。支配、優位、特権。すべてが俺の手に入る)

 焦燥が後藤の心を黒く塗りつぶしていく中、彼のスマートフォンに一通の「通知」が表示された。

【本日 16:00〜18:00 メンテナンス:期間中はログイン不可】

 その文字を見た瞬間、後藤の目が蛇のように細くなる。

 それはトヤマ製薬のシステム部が送ったものではない。C国の諜報機関が、潜伏するスパイたちへ向けて放った**「作戦開始チェックメイト」**の暗号だった。

「……各自、訓練を続けておけ」

 冷たい声で命じると、彼は一人、シャワー室へと姿を消した。壁の裏に隠された予備の端末を取り出し、返信を送る。

《目標、渡瀬研究所。ノートおよびコアデータの回収。了解した》

 トヤマ製薬の「盾」であるはずの男が、今、牙を剥いた。


第27話:背信のカードキー

 本社ビルを後にした後藤護は、平然とした足取りで駅前のタワーマンションへと向かった。

 1618号室の集合ポスト。その内側の死角に貼り付けられた一枚のカード。後藤がスマートフォンをかざすと、読み取られたデータが自動的にナビを起動させた。行き先は二駅隣の、どこにでもあるハンバーガーショップだ。

 後藤はブラックコーヒーを注文し、店内の最も奥まった席に腰を下ろした。数分後、一人の女子高生風の人物が背後を通り過ぎる。その刹那、テーブルには一本のUSBメモリが音もなく置かれた。

 女は一言も発せず、雑踏の中へと消えていく。

 後藤は即座に鞄から、ネットワークを完全に遮断したノートPCを取り出し、内容を確認した。

『実績を作れ。複製ではなくオリジナルを。成功すれば、即座に幹部待遇を約束する』

 無機質なテキストを読み終えると、後藤は迷わずUSBを飲みかけのコーヒーに沈めた。褐色の液体に濡れたそれをジップロックへ放り込む。証拠は一切残さない。

(オリジナルか……。くくっ、安い御用だ)


翌日:トヤマ製薬 社長室

「……以上が昨日の定例報告です」

 後藤は、何食わぬ顔で誠一郎に報告書を手渡した。誠一郎が手元の資料に目を落とし、ページをめくる、わずかな隙。

 後藤の視線が、誠一郎が椅子の背に掛けていたジャケットへと走る。

 呼吸を止めるほどの一瞬。熟練した手つきで、内ポケットからマスターカードキーが抜き取られた。

「わかった。不自然な挙動については、本田博士に対策を依頼しておこう」

「承知いたしました。では、失礼します」

 後藤は微塵の動揺も見せず、静かに部屋を退出した。

 その足で向かったのは、本田蓮の研究室だ。奪い取った社長専用キーによる認証は、あらゆるセキュリティを一時的に無効化する。

 狙いは、トヤマ製薬の心臓部――「ドラゴンのマスターノート」。

 後藤はそれを手中に収めると、何事もなかったかのようにビルを後にした。

発覚

 社長室のインターホンが、悲鳴のような音で鳴り響いた。

「社長! オリジナルが……マスターノートが消えました!」

 受話器から漏れる本田の狼狽した声。

「ドアに破壊や細工の痕跡はありません! 犯人は……内部の、それも特定以上の権限を持つ人間だと思われます!」

 誠一郎は即座に立ち上がり、ジャケットのポケットを確かめた。

 ――空だった。

「……あの時か」

 すぐさま警備部へ連絡を入れる。だが、答えは最悪のものだった。

「後藤部長なら、先ほど『急用で外出する』と言い残し、すでにビルを出られました」

 一歩、遅かった。

 窓の外、厚い雲に覆われ始めた空を見上げ、誠一郎の胸にどす黒い予感がよぎる。

(オリジナルを持ち出して……あの男、一体何を企んでいる?)

 その予感は数刻後、渡瀬研究所を揺らす爆鳴となって現実のものとなる。


第28話:亡命の航路

 深夜の港。後藤護は周囲を警戒しながらタクシーを降り、接岸されていた一隻の大型タンカーへと音もなく乗り込んだ。

 迷いなく船長室の扉を開けると、室内では数名のスパイたちが、C国の言葉で談笑しながら船長を囲んでいた。後藤の姿を認めると、彼らは短く頷き、地図を指し示す。

「準備が整い次第、出航だ」

 後藤は窓の外、漆黒に塗りつぶされた海を見つめた。手の中には、トヤマ製薬から奪取した「オリジナル」のマスターノート。

「……これで俺も特権階級か。悪くない」

 誰にも聞こえないほどの低い呟き。彼の瞳には、かつての同僚や祖国への未練など微塵も映っていなかった。


トヤマ製薬 緊急解析室

 本社ビル内は、凍り付くような緊張感に包まれていた。

 後藤のPC、個人ロッカー、デスクの引き出しに至るまで徹底的な調査が行われたが、不自然な痕跡は一切見当たらない。あまりに整然としたその様子に、調査にあたっていた工作員が困惑した声を漏らす。

「……デスク周りもロッカーも、まるで明日も普通に出勤してくるつもりのような片付け方です。本当に逃亡したのでしょうか? 何かの間違いでは……」

「そんなわけないでしょ」

 翠の冷徹な声が、室内の空気を切り裂いた。

「今まで何の痕跡も残していない人間が何も隠さないで行動に出た…この場所へ戻るつもりがない何よりの証拠よ。 彼はもう、私たちの手の届かない場所にいる可能性が高いわ」

 その時、モニターを監視していた別の工作員が叫んだ。

「後藤の端末、位置情報を一瞬だけ補足! ……オーツニー海です!」

 GPSは切られていたが、船舶通信網を経由した際、微弱な接続ログが発生したらしい。

「まさか……C国か」

 誠一郎が呻くように呟いた瞬間、彼の脳裏に忌まわしい過去の記憶が蘇った。

 妻・ゆずが誘拐されたあの日。犯人グループは迷うことなく、護衛の隙を突いて彼女だけをピンポイントで狙い撃ちにした。当時の物流ルートを完全に把握し、内部から手引きできた人間は、極めて限られている。

「……後藤か…すべて、辻褄が合う。あいつはあの時から……」

感情の揺らぎ

「あいつが……あいつがお母様を……!」

 翠の声が激しく震え、その背後に控えるドラゴンたちが呼応するように禍々しい黒いオーラを纏い始めた。室内の気圧が歪み、機材がミシミシと軋む。

「落ち着け、翠!」

 誠一郎の鋭い叱咤が響く。

「最悪を想定することと、想像を事実にすり替えることは違う。感情に呑まれるな!」

 翠は強く目を閉じ、肺の底から大きく息を吸い込んだ。そして、ゆっくりと吐き出す。

 呼応するように、ドラゴンたちの放っていた黒い光が霧散し、静寂が戻る。

「……すみません。もう大丈夫です」

 誠一郎は短く頷き、娘の立ち直りを確認した。

「それで良い。マスターノートが持ち出された以上、最悪の場合は武力衝突になる。明日、緊急幹部会議を開く。お前も出席しなさい」

「わかりました」

 翠は再びモニターへと向き直った。解析はまだ終わらない。

 だが、事実は一つだけはっきりしていた。

 懐に牙を隠していた裏切り者は、今、海の向こうの敵へと渡った。そして――トヤマ製薬のすべてが詰まった「オリジナル」が、日本の主権を離れようとしていた。


第29話:砂塵の軍靴

 タンカーの甲板から軍用ヘリへ。重く低いローター音が夜の海を切り裂き、後藤護を未知の領域へと運んでいく。窓の外、遠ざかる日本の灯を見つめる後藤の横顔には、もはや引き返せぬ者の冷たい決意が張り付いていた。

 やがてヘリが降り立ったのは、荒野の中にそびえ立つ、厳重な警備に囲まれたC国の軍事施設だった。威圧感の漂う執務室で、この地方の最高責任者である大佐との謁見が始まる。

 同行したスパイが、感情を排した声で状況を説明した。

「日本企業から持ち出した、戦略級の次世代技術です」

「実演を」

 大佐は短く、氷のような声で命じた。

 後藤は震える手で奪取したマスターノートを開き、ドラゴンを召喚する。光の粒子が収束し、小型の個体がデスクの上に姿を現した。

 それを見た大佐は、鼻で笑うように無表情で言い放つ。

「ずいぶん可愛らしいな。保育園で見せれば、子供たちも喜ぶことだろう」

 後藤の背中に冷や汗が流れる。すかさずスパイが一歩前へ出た。

「このドラゴンは、あらゆる電子機器へ干渉する特殊なエネルギー波を放ちます。基地内部に潜入させれば、通信網、レーダー、果てはミサイル制御までを完全に無効化することが可能です。物理的な破壊を伴わない、究極の制圧兵器なのです」

 大佐の細められた目が、獲物を値踏みするように後藤を射抜いた。

「……貴様一人で、敵の全兵器を無効化できるというのか?」

 問いかけに、後藤は言葉を詰まらせた。自身の適性の低さは、トヤマ製薬での訓練で嫌というほど思い知らされている。

「私では……不十分かもしれません。しかし、これを完璧に扱える人間に心当たりがあります。まだ年若い子供です。洗脳を施せば、御意のままに動く兵器となるでしょう」

 大佐は椅子に深くもたれかかり、数秒の重苦しい沈黙を置いた。

「よかろう。特殊部隊を貸してやる。その子供をここに連れてこい。そこで実証してみせろ」

 大佐が立ち上がる。

「二日間の猶予をやる。結果が出なければ――覚悟しておく事だ」

 軍靴の音と共に扉が閉まり、室内には後藤とスパイだけが残された。

「話が違う……! 亡命すれば最高の待遇を約束すると言ったはずだ!」

 後藤が掴みかからん勢いで詰め寄るが、スパイは淡々とした表情を崩さない。

「先週、前任の責任者が部下に暗殺されました。その部下は前任者の首を手土産に、敵陣営へ寝返ったようです。今の大佐は徹底した結果主義者……失敗すれば、即座に消される。それがこの地のルールです。不満を漏らす暇があるなら、早く行動することをお勧めします」

「そんな馬鹿な……。俺には、俺にはもう、帰る場所などないのだぞ……」

 ガクりと肩を落とす後藤。トヤマ製薬の重鎮という地位を捨て、理想郷を夢見て渡った先は、一歩間違えれば命を落とす弱肉強食の戦場だった。


第30話:臨界のカウントダウン

 トヤマ製薬・本社ビルの最上階。緊急会議室の空気は、かつてないほど重く沈んでいた。

 誠一郎は、集まった幹部たちを冷徹な眼差しで見渡し、重口を開いた。

「本田博士、被害状況の報告を」

「……最悪と言わざるを得ません」

 本田は苦渋に満ちた表情で、端末のデータをモニターに映し出した。

「研究室に侵入された時点で、全データの流出を前提とすべきです。緊急時のバックアップ体制として、社長、第六営業部部長、そして私の三名いずれかの認証で全閲覧を可能にしていました。後藤はその特権を、最悪の形で利用したのです」

 誠一郎は微動だにせず、隣に座る娘へ視線を向けた。

「翠、訓練への影響は?」

「部員たちに動揺はありますが、プログラムの進行に支障はありません。ただ……」

 翠は言葉を切り、震える拳を握りしめた。

「持ち出されたのが『オリジナル』であるという事実が、最大の問題です」

 その言葉に、室内がにわかにざわめき立つ。

「オリジナルとして認識されているのは、私、盗まれた物、そして蒼のものだけ……。量産型のコピーでは、どんなにスコアが高かろうと、オリジナルの圧倒的な演算負荷には太刀打ちできません。それは、蒼との接触でも証明されています」

 誠一郎は秘書へ問いかける。「業務への影響範囲は?」

「一般業務への支障はありません。第六営業部は独立機関として切り離されていますから」

「そうか……。博士、もし後藤がこの技術を戦争に利用した場合、どうなる?」

 本田は震える声で答えた。

「世界規模で軍事バランスが崩壊します。電子防衛を完全に無力化し、一方的な蹂躙が可能になる……。文字通り、神の視点からの戦争です」

 翠が弾かれたように立ち上がった。

「今すぐ奪還すべきです! 放置すれば取り返しのつかないことに……」

「戦場へ行く許可は出せん」

 誠一郎の声は低く、しかし断固とした拒絶が込められていた。

「ドラゴンを扱えても、現代兵器の銃弾までは防げない。お前を死なせるわけにはいかん」

 重苦しい沈黙が会議室を支配した、その時。扉が勢いよく開き、通信士が駆け込んできた。

「後藤のスマートフォンを捕捉! ヘリで移動中、進路は――渡瀬博士の研究所に向かっているようです!」

 翠の顔色が、瞬時に真っ青に染まる。

「研究所には……今、誰がいるの!?」

「蒼くんのスマホに反応があります!」

 本田が即座に端末を操作し、隠しファイルのリストを呼び出した。

「蒼くんのスマートフォンは、万が一に備えバックアップしてある。番号はこれだ!」

 モニターに表示された数字を、翠は一瞬で網膜に焼き付けた。誠一郎の鋭い指示が飛ぶ。

「機動部隊 R_1.02、出動待機! 全員、迎撃態勢に入れ!」

 翠は会議室を飛び出しながら、震える指でスマートフォンを操作した。数回のコールの後、受話口から暢気な、しかし今は愛おしくさえある声が響く。

『もしもし?』

 蒼の声だった。


第31話:防衛の共鳴

 トヤマ製薬の本社地下。誠一郎は現状を即座に整理し、迷いなく断を下した。

「加藤さん、通常業務は君に任せる。これより我々は緊急対応に入る」

 秘書の加藤が無言で深く頷くのを確認し、誠一郎、翠、本田の三名は特殊車両『R_1.02』へと乗り込んだ。

 R_1.02――未知のウイルスパンデミックを想定した、医療・警備のハイブリッド緊急対応車両。認可なしには使用できない特殊装備の数々を搭載している。中でも最大の懸念は、特権的な走行を可能にするサイレンの使用だ。正当な理由なき起動は、企業の認可取り消しすら招きかねない。

 だが、誠一郎の目に迷いはなかった。一度戦場へ逃げられれば、マスターノートの奪還は絶望的になる。それ以上に、一人の少年と老科学者の命がかかっている。

「サイレン起動。最短ルートで研究所へ向かえ」

 誠一郎の鋭い声に、車内の空気が鋼のように引き締まる。助手席で翠は祈るように目を閉じ、小さく呟いた。

「お願い……間に合って」


渡瀬研究所:籠城の知恵

 その頃、襲撃を受けている研究所の内部では、蒼と博がモニター越しに冷徹な分析を続けていた。

『防壁は爆発物に耐性がある構造じゃ。じゃが……奴ら、バーナーで物理的に焼き切るつもりらしいな』

 博の声は低い。外部の熱感知センサーが、入り口付近の異常な高温を捉えていた。

『長くはもたん。法治国家に、あんな物を持ち込むとはな……』

 蒼は唇を強く噛み締める。

「どうすればいい、おじいちゃん」

『ここを突破されるまでに、新しいロジックを組むのじゃ。ドラゴンが二体になった。連携を取らせ、鳴き声チップを組み込め。戦力は三倍以上になるはずじゃ』

 博の目が、かつての天才科学者の鋭さを取り戻す。

『わしは少し、システム側から“意地悪”をしてくる。心配するな、研究所からは出んわい』

 博のエネルギー体がモニターから消えた直後、アルファとベータが何かの気配を察したように、低く唸り始めた。


ロジック構築:二体の共鳴

 蒼は震える手でノートにペンを走らせる。

 まず、特殊な周波数の「鳴き声A」をアルファに設定した。

「ピーッ!」

 アルファが短く鳴く。それを見たベータは、まだ状況を飲み込めず、きょとんとした表情で首を傾げた。

 蒼は続けて、ベータに条件分岐を入力していく。

【条件:鳴き声Aを受信した場合 ➔ ベータは即座に回復ヒールブレスを実行】

 再びアルファが鳴く。その瞬間、ベータの口元から柔らかな光の粒子が溢れ、アルファを包み込んだ。

「やった……成功だ!」

 蒼は一気に防御配置のロジックを組み上げていく。

 ベータを後衛に置き、もしベータが攻撃対象に選ばれた場合は、アルファが即座に割り込み、攻撃者へターゲットを強制的に移す。

 そこへ、博が不敵な笑みを浮かべて戻ってきた。

『エリアBの空調出力を最大にし、室温をマイナス15度まで下げてやったわい。これでバーナーの火勢も幾分かは弱まるじゃろ。……どれ、ロジックを見せてみい』

 蒼がノートをカメラに向け説明すると、博は満足げに頷いた。

『ふむ……理想的じゃ。短時間でよくぞここまで整理したな』

翠からの警告

 その時、蒼のスマートフォンが激しく震えた。

「もしもし……?」

『今の状況を説明しなさい』

 翠の声は驚くほど冷静だった。蒼が現状を簡潔に伝えると、数秒の沈黙ののち、翠は核心を突いた。

『……研究所には、他に誰がいるの?』

「ボクひとりだよ」

『そう。……聞きなさい。電子機器はドラゴンのエネルギー波で一時的に機能を停止させられる可能性がある。入り口の扉が開く直前にドラゴンを召喚して、バーナーのヘッドへ向けてエネルギー波を撃ちなさい』

 蒼はその意図を瞬時に理解した。バーナーには精密な制御チップが内蔵されている。そこを直接ショートさせれば、物理的な破壊を食い止められるかもしれない。

『できることは全部やって、後で結果を報告しなさい。……死なないで』

 通話が切れる。蒼は深く息を吸い、ノートを握りしめた。

 バーナーの熱が、防壁を越えてじりじりと肌を焼き始めている。

 決戦の時は、すぐそこまで迫っていた。


第32話:初陣の攻防

「おじいちゃん、入り口に直接召喚するにはどうすればいいの?」

 焦る蒼に、博の声が鋭く飛ぶ。

『一度ノートを閉じ、ネット(仮想領域)へ戻せ。配置フェイズで座標を書き込み、再びページをめくるのじゃ。初期位置はお前のイメージが基準になる。意識を集中させろ!』

 蒼は震える手でノートを閉じ、脳裏に玄関横の光景を強く描き出す。配置フェイズに座標を記し、一気にページをめくった。

「……あれ?」

 目の前に現れたのは、所在なげに首をかしげるアルファとベータだった。

もう一度繰り返す

『イメージが甘い! 座標がズレておる、食堂じゃな』

 モニターには、食卓の前で立ち尽くす二体のシュールな映像が映し出されている。

「もう一度……やり直しだ!」

 二度、三度。バーナーの熱が防壁を焼き切る音が迫る中、蒼は極限の集中力で空間を定義した。

「――成功だ!」

 入り口の直近にアルファとベータが出現する。

「アルファ、エネルギー波!」

 蒼の号令とともに、火球のような衝撃波がバーナーのヘッドを直撃した。制御チップがショートし、轟音とともに火勢が弱まる。だが、歓喜の瞬間は続かなかった。

 直後、死角から放たれたエネルギー波がアルファを襲う。

「他にもドラゴンが……!?」

 衝撃にゆらぐアルファ。蒼は即座にロジックを起動させた。「鳴き声A!」

 アルファの鋭い叫びに呼応し、後衛のベータが即座にヒールブレスを放つ。淡い光がアルファの傷を癒していく。

 防犯カメラが、煙の向こう側に立つ侵入者の姿を捉えた。

 手にノートを携え、冷酷な眼差しを向ける男。

「……後藤。トヤマ製薬の人間じゃな」

 博の苦々しい声が響く。敵はすでに、自分たちと同じ「力」を武器として携えていた。

『目的は果たした、引き上げじゃ!』

 蒼はノートを閉じ、アルファとベータを粒子へと戻した。


第33話:潜伏の十五分

 蒼はアルファとベータをケージへ戻し、即座に回復シーケンスを走らせた。ステータスが安定したのを確認するやいなや、翠へとダイヤルする。

「翠ちゃん、言われた通りにしたよ。バーナーは止まった! 次はどうすればいい?」

 受話器の向こうで、翠は一瞬だけ驚きに目を細めた。

(感情に振り回されず、指示を完遂した……。思ったより優秀ね)

 父・誠一郎が口にしていた「資質」という言葉が、翠の脳裏をかすめる。だが、彼女の声はどこまでも淡々としていた。

『あと十五分で到着します。それまで死守しなさい』

「それと……後藤っていうおじさんがいたんだ。ノートを使って攻撃してきた。あの人は、敵なの?」

 翠は感情を排して答える。

『今は断定できません。でも、攻撃を仕掛けてきた以上、明確に「警戒対象」であることは理解できるわね?』

「……そうだね。わかった」

『相手の出方を観察しなさい。次に何をしてくるか予測し、対策を立てるの。それと、絶対に研究室から出ないこと。いいわね?』

 通話が切れた。

 静まり返った研究室。防壁の向こう側では、後藤たちの次なる一手が静かに準備されている。

 翠が到着するまでの十五分。それは、蒼にとって人生で最も長く、過酷な十五分になるはずだった。


第34話:迎撃の陣形

 モニターの中で、博が険しい表情を浮かべた。

『今度はドリルじゃ。奴ら、物理的に穴を開けて内部へ突入するつもりらしいな』

 映像には、激しく火花を散らしながら防壁を削る巨大なドリルの先端が映し出されている。

「おじいちゃん、またドラゴンで迎撃する?」

 蒼の問いに、博は静かに首を振った。

『存在が露呈している以上、迂闊な出撃は罠に嵌る。敵はあえてお前を誘い出し、背後を突く準備をしておるはずじゃ。……ここは、トヤマ製薬が到着した瞬間に完璧な共闘ができるよう、準備を整えるのが最善じゃな』

 博はモニターの図面を指し示す。

『研究室の入口横、通路の陰……あそこへ正確に、かつ「見えないよう」に召喚する練習を積め。死角からの奇襲こそが、今のわしらの唯一の勝機じゃ』

 蒼はノートを開き、精神を集中させる。

「召喚!」

『……甘い。もう少し奥じゃ。通路から鱗が見えておる。それでは奇襲にならん』

 ミリ単位の微調整。実戦の重圧が、蒼の空間認識能力を急速に研ぎ澄ませていく。経験不足を補うのは、みんなを守りたいという強い気持ちだった。


R_1.02:機上の作戦会議

 高速で走行する特殊車両R_1.02の車内では、研究所から転送された防犯カメラの映像が、大型モニターを埋め尽くしていた。

 後藤がドラゴンを召喚し、蒼のアルファが被弾する瞬間。そして今まさに、迷彩服の男たちが火花を散らしてドリルを押し当てる光景。

「……本当に、あの少年がこれほど短時間でドラゴンの特性を理解し、介入しているというのか?」

 誠一郎の低い呟きに、翠は迷いなく答えた。

「この極限状態で、彼が虚偽を語る理由はありません。お父様、彼は信じるに足る『戦力』です」

 誠一郎は鋭く工作員へ命じる。

「敵の人数と配置を即座に解析しろ!」

「確認出来る範囲で六名。全員が軍用の重武装です。後藤の姿は現在のところ確認できません」

 誠一郎が翠を見つめる。

「……できるか?」

「やるしかありません」

 翠は即座に思考を巡らせ工作員たちへ、淀みない指示を飛ばした。

「No.1からNo.6は、前線の六名を無力化することに全力を注いで。残りの四名は後方バックアップ。……いい? 後藤が現れたら即座に距離を取りなさい。あなたたちの量産型ノートでは、マスターを持つ彼には勝てない」

 一瞬の沈黙の後、彼女は覚悟を込めて続けた。

「……私は、後藤を叩きます。お父様と本田博士は、状況を見て隙を突き、蒼を安全な場所へ連れ出してください」

 目的地まで、あと数分。

 空を裂くサイレンの音が、ついに渡瀬研究所の地平へと届こうとしていた。


第35話:死線の共鳴

「入口、突破されました!」

 監視員の鋭い声が響く。モニターには、重厚な防壁に穿たれた直径50センチほどの無機質な穴が映し出されていた。そこから煙と共に、特殊部隊の兵士が一人、また一人と、獲物を狙う獣のような手際で内部へと滑り込んでいく。

 空気が一変した。

 もはや戦闘は「外」の出来事ではない。蒼のすぐ側、冷たいコンクリートの廊下で、確実な「死」が歩みを進めていた。

潜伏の牙

 研究室の内部では、蒼が極限の集中力の中でついに「その時」を完成させていた。

 研究室入り口横、通路の死角。防犯カメラからも侵入者の視界からも完全に外れた完璧な位置に、アルファとベータが音もなく佇んでいる。

「……よし」

 呼吸は浅く、心臓の鼓動は耳の奥でうるさいほどに鳴っている。だが、ノートを握る指先は、驚くほど静かに安定していた。

 その時、翠からの通信が割り込む。

『穴を開けて部隊が侵入したわ。モニターで確認できる?』

「……うん、見てたよ。防犯カメラで」

『もうすぐ私たちが到着します。突入の妨げにならないよう、入口のロックは解放しておきなさい。何としても、私たちが着くまで持ち堪えるのよ』

 蒼は静かに、しかし力強く答えた。

「ドラゴンを通路に待機させてる。敵が突入してきた瞬間に前に出すよ」

『……いい? うちの工作員が攻撃を開始したら、必要に応じてバックアップに回って。後藤がどこに潜んでいるか分からないけれど、彼が出てきたら、私とあなたのノートでしか対処できない。見かけたら最優先で無力化する。協力して』

 一拍置いて、翠の声にわずかな体温が混じった。

『カメラは研究所内部の全域に切り替えておきなさい。……危険を感じたら、即座に退避するのよ』

終焉のカウントダウン

 通話が切れる。

 入口の防壁は無惨にも半開きとなり、今度は研究室の重厚な扉に直接ドリルが当てられた。キィィィィンという鼓膜を突き刺すような金属音が、蒼のすぐ目の前から響き渡る。

 侵入部隊は、まだ死角に潜む二体の「牙」に気づいていない。

 博が見取り図を送信し、蒼のコンソールへ最後のデータを流し込む。

『奴らが突入してきた瞬間にロジックを走らせるだけじゃ。……蒼、あと五分。いや、三分もつかどうかじゃな』

 研究室の扉にも、ついにドリルが貫通し、小さな穴が開き始めた。

 時間は、もうない。

 蒼はノートを開き、アルファとベータのステータスを見つめる。

 翠たちのサイレンが近づく音と、扉が崩れ落ちる音。

 どちらが早いか。運命の秒読みが始まった。


第36話:撤退の火蓋

 C国軍司令部。大佐は無機質なモニター越しに、エネルギー波によって焼き切られ、沈黙したバーナーの映像を凝視していた。

「……確かに、その『力』。使いようによっては、これまでの兵器を無力化するかもしれんな」

 大佐は手元の極秘報告書を閉じると、冷徹な響きを含んだ声を無線に乗せた。

「後藤に代われ。……」

「貴様、確実に成果を上げられそうか?」

 ノイズ混じりの受話器の向こうで、後藤の焦燥しきった声が返る。

『か、必ず……必ず成し遂げます!』

「よかろう。猶予を二週間に延長してやる。その代わり、ノートのプレイヤーだけでなく、研究所内の全データも持ち帰れ。それが条件だ」

 後藤の顔色が、瞬時に土気色へと変わる。

『そんな、今更……! 既にトヤマ側の増援が迫り、攻撃を開始して――』

「……できぬ時は、己の命で贖う覚悟をしておけ」

 一方的に通信が切れた。


空上の混迷

 旋回する軍用ヘリの内部で、後藤は頭を抱え、半狂乱に近い状態で毒づいた。

(あの男、正気か!? 命令さえすれば、不可能が可能になるとでも思っているのか……!)

 傍らの通信士が、同情とも脅しとも取れる低い声で囁く。

「大佐は言葉通り、結果を出さぬ者を容赦なく切り捨てる御方です。死ぬ気でやる以外、貴方に道はありませんよ」

 後藤は奥歯が砕けんばかりに歯を食いしばる。強行突破か、一時撤退か。

 その時、機内のレーダーが警告音を発した。

「接近物体あり……車両です。大型のバスか?」

 視界の端、猛スピードで研究所へ肉薄する特装車両『R_1.02』の姿を捉える。

「ちっ、最悪のタイミングだ……! 内部部隊へ伝えろ。突入を中止し、即刻撤退。入口から脱出させろ!」

 後藤の怒号が機内に響く。

「離陸高度を維持しつつ、地上部隊をピックアップする。あの車両には、トヤマの『ドラゴン使い』が乗っている可能性が高い。同じ座標に留まるな、召喚の餌食になるぞ!」

 ヘリはローター音を激しく撒き散らしながら、急上昇を開始した。


R_1.02:突入の号令

「到着三十秒前。全員、突入準備!」

 R_1.02の車内、翠の鋭い指示が飛ぶ。

「敵は軍用銃器を携帯している可能性が極めて高い。各自、防弾装備を確認。命を最優先にして!」

 車窓の先に、煙を吐く渡瀬研究所の全容が見え始めた。上空には低空飛行を続ける軍用ヘリの影。

「敵部隊、撤退行動に入った模様です!」

「逃がさないわ……!」

 翠は即座に決断を下した。

「入口付近で全員降車! R_1.02は直ちに物陰のドックへ。ヘリからの攻撃を警戒しなさい。……内部の残存部隊を無力化した後、上空のヘリを叩くわよ!」

 スキール音を立てて車両が停止。

 重厚なドアが跳ね上がると同時に、トヤマ製薬の工作員たちが扇状に展開する。

 その中央、翠、誠一郎、そして本田もまた、戦場へと足を踏み入れた。


第37話:喪失と転移

 研究所上空。ヘリの騒音の中で、後藤は冷徹な眼差しでモニターを見下ろしていた。

 赤外線センサーが捉えた熱源を双眼鏡で探り戸山誠一郎と本田蓮の存在を確信する。

「……ボスと主任みずから現場に同行させるとは、正気か? まあ、ドラゴンの正体を秘匿せねばならん以上、動かせる人員は限られているということか」

 後藤の唇に、歪んだ笑みが浮かぶ。

「利用させてもらおう。――特殊部隊、聞こえるか。戸山誠一郎、または本田蓮を人質として確保しろ。片方は、排除しても構わん」

 その非情な命令を受け、撤退しかけていた部隊が反転した。彼らは慣れた手つきでエリアB、入口側のコンベアの陰へと移動し、静かに銃を構えて獲物を待つ。


孤独な観測者

 その様子を、あおはモニター越しに捉えていた。

 心臓が早鐘を打つ。

(……待ち伏せだ。不味い、翠ちゃんたちはもう移動を始めてる!)

 翠はすでにR_1.02を離れ、死角へと進んでいた。後藤の指示によるこの迎撃態勢に、彼女はまだ気づいていない。

 通路の陰では、アルファとベータが蒼の指示を待ち、低く息を潜めている。かつて遊んだ“かくれんぼ”が、これほどまでに心臓を削る実戦になるとは夢にも思わなかった。

(今動けば、隠し駒としての効果は失われる。……でも、このままだと……!)

 蒼は震える手を握りしめ、自分を律した。窮地に陥った瞬間に放つ一撃こそが、最大の価値を持つ。少年は動かず、ただ最善の瞬間を見極めるべく画面を凝視し続けた。


一瞬の迷い

 研究所内部。

 翠は三体のドラゴンを展開し、前衛と後衛に分けた鉄壁の陣形で慎重に進んでいた。

「来るわよ」

 二つ目の角でドラゴンが低く唸ると同時に、翠はノートを開く。

 姿を現した特殊部隊員六名。翠たちは訓練通り、即座に高出力のエネルギー波を放ち、敵の火器を無効化することに成功した。

 ――勝てる。

 そう確信した、次の瞬間だった。

 銃を失った特殊部隊員たちは、一切の動揺を見せず、流れるような動作でタクティカルナイフを抜いた。

 反射的に突撃してくる兵士たちを前に、翠の指先が止まった。

 彼らは人を殺す訓練を受けてきたプロだ。対して、翠たちはただの学生に過ぎない。ドラゴンという強大な力を、生身の“人間”へ向けることへの本能的な躊躇。

 そのわずか一秒に満たない迷いが、決定的な隙を生んだ。

 兵士たちの影が、翠の視界を覆い尽くした。


第38話:断絶のチェックメイト

 研究所の廊下。撤退を開始したC国の特殊部隊員が無線機を叩くが、ドラゴンの放った残留エネルギー波が妨害となり、ノイズしか返ってこない。焦燥に駆られ出口へと急ぐ彼らの背後で、空気が爆ぜた。

「ガッ……!?」

 先頭の二人が、糸が切れた人形のように崩れ落ちる。アルファとベータによる超近接・高精度のパラライズ攻撃。

「ドラゴンだと!? どこから現れた!」

 死角からの奇襲に部隊はパニックに陥る。殿しんがりを務めていた兵士が、近くにいた『HONDA』の名札を付けたトヤマ製薬の工作員を、ターゲットの本田蓮博士だと思い込み、盾にするように組み伏せた。

「動くな! 撃ち殺すぞ!」

 翠がその前に立ちはだかる。「待ちなさい!」

 しかし、追い詰められた兵士のナイフが、容赦なく振り下ろされた。

「お嬢様、危ない!」

 叫び声と共に割り込んだのは、本田蓮博士だった。

 鈍い音と共に、博士の背中に刃が深く沈み込む。

「……ぁ……」

 鮮血がコンクリートを汚し、博士の体が崩れ落ちる。一瞬の硬直。凍り付くような沈黙を突き破り、特殊部隊は「本田」の名札を付けた青年――本田絢斗あやとを抱えたまま、強引にヘリへと撤退していった。

「博士! 蓮博士!」

 翠が駆け寄り、その体を抱き起こす。蓮は青ざめた唇で、途切れ途切れに言葉を紡いだ。

「……落ち着いて、ください……。社長とお嬢様は、生きていなければ……。まだ、終わって、いません……」

 繋いだ手に力が失われ、蓮は意識を失った。


後藤の冷徹と宣戦布告

 上昇するヘリの内部。特殊部隊員たちが意気揚々と連行してきた「人質」の顔を見た瞬間、後藤の表情が不快そうに歪んだ。

「……おい、誰を連れてきた。こいつはれんじゃないぞ」

「えっ? ですが名札には『HONDA』と……ターゲットの博士ではないのですか?」

「馬鹿者が。こんなに若いはずがないだろう。……これは本田絢斗だ。第六営業部の工作員だよ」

 かつての部下の顔を冷徹に見据え、後藤は忌々しげに吐き捨てた。しかし、すぐに思い直したように冷酷な笑みを浮かべ、スマートフォンを取り出す。

『後藤! 貴様、何ということを……!』

 電話に出た誠一郎の怒声が、静かな機内に響く。

「社長、ゆっくり話している時間はありません。私はこのまま、C国に亡命する。ドラゴンのマスターデータと蒼くんを土産に、あちらで上級国民として迎えられる。それが私の新しい人生だ」

 誠一郎の抗議を嘲笑うように、後藤は続けた。

「……おっと、部下が人質を間違えたようだが、本田絢斗を連れてきた。貴方の信頼する工作員の一人だ。蒼くんは『オリジナル』を持つVIPだから殺されることはないでしょうが、この男は違う。……奥さんの二の舞にしたくはないでしょう?」

 後藤は、誠一郎の最も深い傷口を抉るように、一週間後の「期限」を告げた。

「一週間後、返事を聞きに行きます。それまでに用意しておいてください。まぁ無理矢理にでも奪って行きますが」

 一方的に切られた通信。

 研究所の廃墟に残されたのは、血を流し倒れる本田蓮博士と、部下を再び奪われようとしている誠一郎の、深淵のような絶望だった。


第39話:デジタルの揺り籠

 血の匂いが漂う廊下に、突如として異質な現象が起きた。

 天井から降り注いだ青い光の線が、横たわる本田蓮の体をスキャンするように高速で走る。直後、彼の輪郭をなぞるようにノイズが走り、肉体が透き通るように薄くなっていった。

「なっ……!?」

 誠一郎と翠が息を呑む間もなく、本田の姿は光の粒子となって霧散した。床に残っていたはずの鮮血すら、最初から存在しなかったかのように跡形もなく消え去っている。

 静寂が支配する戦場。そこへ、研究室の奥から蒼がゆっくりと歩いてきた。

「おじさんと、翠ちゃん。……こっちに来てほしいんだ」

 翠は、目の前で起きた理解不能な事態に取り乱し、蒼の肩を掴んだ。

「今、それどころじゃないの! 博士が……博士が刺されたの! なのに、どうして……!」

「翠ちゃん、落ち着いて」

 蒼の声は、驚くほど静かで、凪いでいた。

 誠一郎が鋭い視線で蒼を見据え、問いかける。

「……どこへ行くというんだ」

「研究室。おじいちゃんの話を聞いてほしい」

「博士は……本田は生きているのか?」

 誠一郎の眉間に深い皺が刻まれる。蒼は少しだけ視線を落とし、迷うように答えた。

「どちらとも……。でも、ついてきてくれたら分かると思うんだ」

 誠一郎は翠の肩にそっと手を置き、娘の動揺を鎮めるように頷いた。翠は唇を噛み締めながら、ゆっくりと立ち上がる。消えた血痕への拭いきれない違和感を抱えたまま、二人は蒼に導かれ、研究室の深部へと足を踏み入れた。

遡ること数分前:研究室

 研究室のモニターには、今まさに粒子化して「回収」されたばかりの本田蓮の意識が、驚愕の表情で映し出されていた。

『渡瀬博士! 私は……私は死んだのですか……!?』

 メインコンソールから、渡瀬博が穏やかな、どこか慈しむような声を返す。

『死と生の定義というのは、実に難しいものじゃな。本田くん、まずはそこに表示されている「192.186.0.2」のアーカイブを閲覧してみなさい』

 本田の意識体は、吸い込まれるようにモニターの奥へと消えていった。

 博は防犯カメラの映像に目を戻し、翠の絶望に満ちた表情を見て短く息をついた。

『いかん、翠ちゃんが壊れてしまいそうじゃ。……蒼、誠一郎くんと翠ちゃんをここまで呼んできておくれ』

「わかった」

 蒼は頷き、重厚な扉を開けて外へと向かった。

 やがて、アーカイブの海から本田が再び姿を現す。その瞳には、恐怖ではなく、科学者としての純粋な驚喜と畏怖が宿っていた。

『博士……これは一体、何なのですか? この……あまりに素晴らしい世界は!』

 渡瀬博は満足げに、深く微笑んだ。

『君なら、真っ先にそう言うと思ったよ。ようこそ、本田くん。ここは肉体の限界を超えた、純粋なる情報の楽園じゃ』


第40話:情報の楽園、肉体の牢獄

 研究室の重厚な扉が開いた瞬間、誠一郎と翠は、信じられない光景にその足を止めた。

 大型モニターに映し出された二人の姿。数分前に目の前で消えたはずの人物が、そこにはいた。

「「博士!」」

 父娘の声が重なる。翠はコンソールに駆け寄り、画面を食い入るように見つめた。

「……どういうこと? 博士、どこから通信しているの? 血も、傷も……全部消えていたわ。説明して!」

 モニターの中の本田蓮は、かつてないほど穏やかな、そしてどこか晴れやかな表情で答えた。

『お嬢様……驚かせてすみません。私はどうやら、ここの「住人」になってしまったようです』

 続いて渡瀬博が、蒼に語った時と同じ真実を、噛み砕くように説明し始めた。

 莫大なエネルギーを消費する演算の代償。生物のタンパク質を直接エネルギーへと変換する、禁断の装置。肉体という物理的な檻を脱ぎ捨て、情報としてネットワーク側に偏在する存在へと昇華したという、科学の常識を覆す事実を。

「……信じられん」

 誠一郎の低い呟きに、博が補足を加える。

『恐ろしくエネルギーが必要な研究でな、それを賄うために変換機を開発したのじゃ。肉体が消滅してしまうゆえ、世間一般の定義で言えば「死んでいる」と言えるのかもしれんが……』

「そんな……」

 翠の視界が急速に滲んでいく。敬愛する師が、もはやこの世界に触れることのできない「データ」に成り果てたという現実に、言葉を失う。

 しかし、本田は静かに、かつ情熱を込めて続けた。

『お嬢様、悲しまないでください。ここは……素晴らしい場所です。肉体の衰えも、時間の制約もありません。死ぬまで、いえ、死を超えていくらでも研究に没頭できる。私にとっては、これ以上ない環境なのです』

 混乱が室内を包む。だが、感傷に浸る時間は一秒たりとも残されていなかった。


決戦への一週間

 沈黙を破り、現実の重みを突きつけたのは誠一郎だった。

「一週間……。当然、蒼くんを渡すわけにはいかない。だが、軍事訓練を受けた特殊部隊を相手に、互角以上に戦えなければ、全てを奪われることになる」

 誠一郎はモニターの博へ鋭い視線を向けた。

「博士。ネットに干渉できるのなら、最初から奴らの無線や兵器、果ては司令部そのものを無力化することはできないのですか?」

 博はゆっくりと首を振った。

『まず、軍用の無線や兵器は座標もプロテクトも随時変化しており、外部からの干渉は極めて困難じゃ。何より、この世界では時間の概念が希薄でな。我々にとっての一瞬が、現実の数時間になることもあれば、その逆もある。いつ無力化できるかの保証ができん以上、それを作戦の主軸に据えるのは危険すぎるわい』

 誠一郎は一瞬の沈黙の後、覚悟を問うように尋ねた。

「……正面から、迎え撃つしかないと?」

『私は科学者だよ、誠一郎くん。軍事的な作戦については、君の方がよほど詳しいはずじゃろ?』

 博の言葉を受け、誠一郎は数秒の間、深く思考の海に沈んだ。やがて決然と顔を上げ、蒼と翠を真っ直ぐに見つめた。

「作戦を決める前に……話しておかなければならないことがあります」

 それは、トヤマ製薬の闇、あるいは亡き妻・柚にまつわる「あの日の真実」か。

 誠一郎は静かに、しかし重い口を開いた。


第41話:あの日、空は黒く染まった

 研究室の空気は、誠一郎が語り始めた「あの日」の記憶によって、氷点下まで冷え切ったようだった。

 蒼の父・伊織、翠の母・柚、そして本田蓮。彼ら3人は渡瀬博の愛弟子であり、天才的な若き研究者たちだった。誠一郎は自ら起業した「トヤマ製薬」を一代で巨大企業へと成長させ、そこで得た利益を、彼らの夢である渡瀬研究所へと惜しみなく出資し続けてきた。

 未知のエネルギーを操作し、細胞レベルで生命を制御する――。その純粋な探究心の果てに辿り着いたのが、高エネルギー体としての「ドラゴン」だった。しかし、平穏な日々は柚が誘拐されたあの事件によって、音を立てて崩れ去る。

「あの夜、伊織くんから電話があったんだ。『渡瀬博士からノートを借りられた。自分が交渉に行くから、プライベートジェットを用意してくれ』と」

 誠一郎は止めた。だが、伊織の決意は岩のように固かった。

『すぐに動ける者でドラゴンを扱えるのは僕しかいないんだ。一刻を争う……柚さんが危ないんだよ、誠一郎さん!』

 誠一郎は答えを出せぬまま、親友を飛行場へ呼び寄せ、用意したプライベートジェットで見送った。それが、伊織と柚、二人との永遠の別れになるとも知らずに。

「……この先は、当時の衛星カメラと音声の記録だ。パスワードを教える」

 誠一郎が震える指でコンソールを操作する。彼は渡瀬へ不安げな視線を向けた。「蒼くんには……酷ではないか?」

 渡瀬は静かに、しかし断固として答えた。

『蒼はもう、現実を受け止める強さを持っておるよ』


記録映像:絶望の黒き焔

 再生されたモノクロの映像。砂塵が舞う荒野で、蒼の父・伊織が武装ゲリラと対峙していた。

『身代金は払ったはずだ。柚さんを返してもらおう!』

 伊織の声は、張り詰めた糸のように鋭い。傍らには、念のためノートから待機させたドラゴンが浮遊している。

 だが、武装ゲリラのリーダーは、嘲笑うようにタブレットを操作した。

『残念だが、人質はもういない。次はお前だ、もう一度身代金払ってもらうとしよう』

 突きつけられたモニターに、柚が処刑される最期の瞬間が映し出された。

『あ……』

 伊織の口から、魂が漏れ出したような掠れた声が漏れる。

『ああ……あああああ!』

 守りたかった、救いたかった。その祈りが断ち切られた瞬間、待機していたドラゴンから、どす黒い煙のようなオーラが噴出した。

 映像が乱れる。伊織以外の人間たちが、デジタルノイズに呑み込まれるようにして次々と消滅していく。叫び声すら上がらない、無機質な「消去」。

 やがてドラゴンが太陽をも凌駕する激しい光を放ち、画面はホワイトアウトして沈黙した。

 映像が終わっても、誰も言葉を発することができなかった。

 初めて母の凄惨な最期を知ったすいは、思考が追いつかず、ただ呆然とモニターを見つめている。蒼もまた、実の父が振るった力の恐ろしさと、その背負った悲しみに、胸の奥からせり上がる感情を抑えきれずに拳を強く握りしめていた。

 誠一郎は重い沈黙を破り、二人を見つめて言った。

「これが、私が出資し、彼らが作り出した力の正体だ。そして……後藤が狙っている『オリジナル』が引き起こす、最悪の結末だ」

 ドラゴンの力は、希望などではない。

 それは、愛する者を失った絶望を燃料に、すべてを無に帰す「絶滅兵器」だったのだ。


第42話:再起の火光

 静寂を破ったのは、モニター越しに見つめる本田の声だった。

『お嬢様、蒼くん。落ち着いて聞いてくれ。辛いとは思うが、今まさに世界が危機に瀕しているのは理解できるね。……まだ若い君たちにすべてを託すのは非常に心苦しい。だが、我々にはもう、迷っている時間は残されていないんだ』

 誠一郎が重苦しく付け加える。

「……少しソファーで休んでなさい。こちらで作戦の骨子を立てておく。心の整理がついたら合流すればいい」

 蒼は静かに翠の手を引いた。「翠ちゃん、行こう」

 いつも気丈な彼女が、今にも崩れ落ちそうなほどに震えていた。

(今度は、僕が守らなきゃいけない)

 蒼は翠をそっと座らせると、温かいココアを淹れて手渡した。その湯気が、凍てついた彼女の表情をわずかに溶かしていく。


惨劇の理論

 研究室では、科学者たちによる「あの日」の解析が続いていた。

『半径二キロ圏内の生物からタンパク質を強制徴収し、エネルギーへ変換。あのサイズのドラゴンでは保持しきれないほどの超高密度圧縮が行われた結果、核融合に匹敵する大爆発を引き起こした……それが、私の推論です』

 本田の説明に、渡瀬が険しい表情でモニターの計算式を追う。

『そんなことが……。それはつまり、蒼や翠ちゃん、そして後藤が持つ「オリジナル」のすべてに、その可能性があるということか』

『ええ。これほどの人数のエネルギーが一度に暴走すれば、甚大な被害は免れません。何としても、あの現象の再発は避けねば……』

「……データが少なく、トリガーが解明できていないのが痛いな」

 誠一郎が低く唸る。

「使い手の精神状態が影響するのは間違いないが、他にも要因があるのか。できることなら、蒼くんたちに極限状態でオリジナルを使わせたくはない。だが、後藤がノートを振るう以上、対抗できるのは二人しかいないんだ」

 さらに、誠一郎は最悪の想定を口にした。

「次は奴らも電子機器に頼らない、純粋な火器を持ち込んでくるだろう。そうなれば、こちらの電子干渉は通用しなくなる」


決意の再起

「……おかわり、いる?」

 蒼の問いに、翠は小さく首を振った。「もう大丈夫。ありがとう。……ねえ、男の子って、みんなそんなに強いの?」

 蒼は少し考え、言葉を選んだ。

「……守らなきゃいけない人がいると、みんな強くなれるんだと思うよ。翠ちゃんだって、さっきナイフを持った大人に向かって行ったじゃないか」

 翠は小さく息を吐き、そして、わずかに微笑んだ。

「そうよね……私は、すべての人間を守ると決めたのだから。……ありがとう、蒼。もう大丈夫。私たちも、やるべきことをやりましょう」

 彼女はゆっくりと立ち上がり、大人たちの輪へと戻っていった。その瞳には、すでに迷いはない。

「電子機器を介さない火器には、蒼が使ったパラライズのスキルが有効です。工作員のうち六名は、パラライズ持ちのドラゴンと再契約させておきます」

 大人たちがその立ち直りの早さに驚く間もなく、翠は淡々と指示を継続した。

「私たちは作戦立案には不向きです。そちらは大人たちで進めてください。私たちは工作員と交代で、見張りと訓練プログラムを実行します。毎晩十九時からミーティングを設けるので、急ぎでなければそこで報告を。……蒼、来なさい。あなたも私の訓練に参加して」

 驚いて渡瀬の顔を見る蒼。渡瀬もまた、孫の幼馴染の豹変ぶりに唖然とするしかなかった。二人が研究室を去った後、渡瀬がぽつりと呟く。

「……柚さんに、そっくりじゃな」

 誠一郎はわずかに口元を緩めた。

「困ったもんです」

 その声には、亡き妻の面影を残す娘への、隠しきれない誇らしさが滲んでいた。


第43話:陥落の二日間

 その頃、C国大使館の地下会議室では、重苦しい空気が漂う中でミーティングが行われていた。長机を囲むのは、戦場を渡り歩いてきた屈強な特殊部隊員たち。その中央で、後藤は静かに一冊のノートを開いた。

「未知の兵器に順応してもらう。……現れろ」

 歪む空間からドラゴンの姿が具現化する。一瞬の静寂の後、隊員たちからは失笑が漏れた。

「おい、どんな仕掛けなんだ? 手品か何かか?」

 冗談めかした声が響く。だが、後藤の目は笑っていなかった。

「……やれ」

 命令一下、ドラゴンの口からエネルギー波が放たれる。直撃を受けた隊員が、断末魔のような悲鳴を上げて吹き飛んだ。焼け焦げた戦闘服の奥で、皮膚が真っ赤に変色していく。

 部屋の空気は、瞬時に氷点下まで凍りついた。

「これがドラゴンの威力だ。近代兵器の多くは、この前で無力化される。……拳銃とライフルを、アナログな作動方式のものを準備しておけ。無線も使えなくなると思え。敵はこの化け物を少なくとも十体は操ってくるぞ」

 隊員たちの顔から余裕が消え、戦慄が走る。

「作戦の詳細は任せる。研究所のメインルームに侵入し、全データのバックアップを取った後、この子供を連れて離脱しろ。目的さえ達すれば、他はどうなっても構わん」

 ホワイトボードに貼られた蒼の写真を一瞥し、後藤は部屋を後にした。


牙を剥く「上司」

 自室に戻った後藤は、スパイが収集した本田絢斗の身辺資料に目を通すと、人質の拘束部屋へと向かった。

 扉が開いた瞬間、椅子に縛り付けられた絢斗が叫ぶ。

「部長……! あなたは、一体何を……!」

「黙れ」

 後藤は至近距離まで詰め寄り、冷酷に告げた。

「お前の親の居場所も、女の居場所も、すべて調べはついているんだ」

 絢斗の顔色が、みるみるうちに土気色へと変わる。

「優香には……優香には手を出さないでください……!」

「……優香ちゃんだけではない。妹の優里ちゃんも、揃って地獄を見ることになるだろうな」

 後藤は薄く笑い、屈み込んで絢斗の耳元で囁いた。

「難しいことではない。お前がトヤマへ帰還し、周囲が安堵した瞬間に、隙を見て社長かお嬢様を始末しろ」

 絶望に喘ぐ元部下の視界を、後藤は無慈悲に目隠しで遮った。

「ゆっくり考えるんだな。答えが出たら、眠らせてやろう」

 直後、鼓膜を劈くような大音量の音楽が流れ始める。椅子にはリズムに合わせた微弱な電流が流れる仕掛けが施されていた。精神を削り取る、静かな拷問が幕を開けた。


偽りの猶予

 翌日、後藤は再びミーティングルームに顔を出した。

「作戦を前倒しする。四日後に決行だ」

「一週間待つのではなかったのか?」

 隊員の問いに、後藤は鼻で笑う。

「どうせ、大人しく蒼を渡すはずがない。いずれ戦闘になるのなら、不意を突くのが兵法の常だ」

 後藤は大使に連絡を入れ、禁忌の自白剤を準備させた。

 繰り返される電流、睡眠剥奪、そして意識を混濁させる薬物投与。軍隊経験のない若者が、その洗脳に抗い続けられるはずもなかった。

 

 二日と経たぬうちに、本田絢斗の瞳から光が消えた。

 トヤマ製薬への帰還という名目の「毒」が、着々と精製されていく。


第44話:双璧の錬成

 渡瀬研究所の工作員待機ロビー。すいの凛とした声が、緊張感に包まれた空気を切り裂く。

「二人一組でペアを組み、休憩・見張り・訓練をローテーションしてください。入口はあえて開放しておきます。異常があれば即座に報告を」

 翠は手元の端末で施設マップを共有し、淀みのない指示を続けた。

「ルーム6から12を解放します。私と蒼は対後藤の特訓のため6を使用。10から12は休憩室、7から9を皆さんの訓練室に充ててください」

 その視線が、刃のように鋭さを増す。

「……後藤の姿が見えなくても、常にそこに『いる』と思って行動してください。敵と接触した際は、まず自身の生存を最優先に」

 短く言い捨てると、翠は隣に立つ少年に声をかけた。

「では、私たちは訓練に入ります。蒼、来なさい」


訓練室6:求道

 防音の効いた訓練室に入ると、翠は一転して、静水のような落ち着きを取り戻した。

「蒼。あなたは実戦を通じて成長するタイプのようね。だから今回は、模擬戦を主体に進めます。質問は?」

「……とりあえず、やってみないと分からないかな」

 蒼の正直な言葉に、翠は小さく頷いた。

「目標はもう一体、同時に操れるようになること。それだけで、私たちの戦術は劇的に有利になる。そのつもりで挑んで」

 翠がノートを広げると、蒼の対戦相手となるドラゴンが咆哮と共に具現化した。さらに、翠の周囲には三体のドラゴンが音もなく現れ、複雑な軌道を描いて旋回を始める。

 蒼を鍛えながら、自身の同時制御能力を極限まで高める――。

「翠ちゃんは、やっぱりすごいや……」

 思わず零れた蒼の呟きに、翠は答えない。ただ、その瞳の奥には、愛する人々を守り抜くという静かな決意の炎が燃え盛っていた。


C国軍司令室:独裁の種子

 その頃、C国軍司令室では、大佐が狂気的な執着をもってドラゴンのデータを解析していた。モニターを見つめるその瞳は、まるで禁断の果実を手にした子供のようにぎらついている。

 膨大な戦闘記録をスクロールさせていた大佐の手が、ある映像で止まった。

 かつて砂漠を飲み込み、すべてを無に帰したあの暴走の記録。画面を埋め尽くす巨大な閃光と、核爆発にも似た惨劇の跡。

「……この爆発にも、ドラゴンが関わっているのか?」

 呼び出された軍の研究者は、困惑を隠せない様子で答えた。

「私が就任する以前の事案でして……。資料はこの映像以外、一切残されておりません。おそらく、としか申し上げられません」

「徹底的に解析しろ。この件は最高機密だ。漏らした者は消せ」

 研究者が退室した後、大佐は再びモニターへ向き直った。その口元が、醜く歪んでいく。

「運搬の必要すらない、核に匹敵する兵器……。それをただ、ネットワークから『取り出せる』というのか」

 大佐は、指先でモニターに映るドラゴンの影をなぞった。

「この力を独占すれば……私が、この世界の支配者となることも可能だ」

 独白は、冷たい司令室の中に不気味に溶けていった。


第45話:急襲の開戦

 渡瀬研究所の深部。メインルームの巨大な壁面モニターには、かつてないほど鋭い眼光を湛えた渡瀬博と戸山誠一郎の姿が映し出されていた。その傍らでとすいが立ち、モニター内の2人と対話しながら作戦の最終確認を行っていた。

 博士が画面上のマップを指すと、エリアBの通路が青く発光する。

『ここで待ち伏せるのが最善じゃな。この通路は死角が極めて多い。ネットワークを介してわしが監視をサポートすれば、工作員たちが「パラライズ」を撃ち込む絶好の猟場となるはずじゃ』

 誠一郎が腕を組み、慎重に問いを投じた。

「……しかし、孤立した際に各個撃破され、捕縛されるリスクは拭えません」

『そこを読んでの二段構えじゃよ、誠一郎くん』

 博士が指を鳴らす仕草をすると、別の地点が赤く点滅した。

『捕縛に来た敵を、さらに別の角に配置した予備兵力で背後から麻痺させる。わしがモニター越しに敵の背中を指示してやるわい。包囲網の中に、さらに包囲網を作るのじゃ』

 デジタルとアナログが融合した重層的な防衛案に、誠一郎と翠は深く頷いた。

「分かりました。今日のミーティングで、全員にこの概要を伝達しましょう」

19:00 決戦のブリーフィング

 夜19時。見張りを除くすべてのメンバーがミーティングルームに集結した。モニターの向こうから、誠一郎が作戦の骨子を告げる。構造図、配置、そして各自の役割。

 説明が終わると、誠一郎は翠へと視線を送った。「翠、詳細を」

 翠は静かに頷き、並み居る工作員たちを見渡した。

「私とあおは、後藤の警戒に専念します。暴走の引き金が不明である以上、彼がドラゴンを召喚した瞬間に――全力で叩き、無力化します」

 翠の声は、凪いだ水面のように落ち着いていた。

「特殊部隊の相手は、皆さんにお任せすることになります。……覚悟は、できていますか?」

「……もう、躊躇はありません」

 一人の工作員が即答し、他の者たちも決然と続いた。「任せてください」

 翠が小さく頷こうとした、その時だった。


予定外の咆哮

『こちら入口! 緊急連絡!』

 静寂を裂いて無線が吠えた。全員の視線が、震えるスピーカーに釘付けになる。

『ヘリらしきライトを確認! 急接近しています!』

「早すぎる……!」

 翠が即座に立ち上がり、叫ぶように指示を飛ばした。

「見張りはすぐにエリアBまで退避して! 全員、配置についてください!」

 モニターの中で、渡瀬博の表情もまた険しく歪んだ。

『やはり……約束など、最初から反故にするつもりだったようじゃな。奴ら、一週間の猶予を待たずに牙を剥いてきおったわ』

 工作員たちが一斉に部屋を飛び出していく。その背中に、誠一郎の祈るような声が投げかけられた。

「……気をつけてな」

 闇を切り裂くローター音と共に、渡瀬研究所の長い夜が始まろうとしていた。


第46話:毒の帰還

 エリアB――。

 見張りと合流した工作員たちは、訓練通り素早く闇に溶け込んだ。停止したコンベアの影、大型設備の死角、重なり合う資材の隙間。それぞれが己の鼓動すら制御し、獲物を待つ。

 その静寂を、館内スピーカーから流れる誠一郎の沈痛な声が切り裂いた。

「……やはり後藤だ」

 一瞬、通路の空気が凍りつく。

「奴らは本田くんを連れている。……繰り返す、本田アヤトくんに攻撃を当てることのないよう、細心の注意を払ってくれ」

 エリアBを支配していた緊張は、救出対象を守らねばならないという重圧へと変貌した。

罠:二段構えの包囲

 やがて、強引にこじ開けられた研究所の入口から、特殊部隊が侵入を開始した。彼らがエリアBの深い闇に踏み込んだ、その瞬間。

「……撃て!」

 闇の底から、青白い光線――パラライズが放たれた。

「ぐっ……!?」

 最前列の隊員が、何が起きたか理解する間もなく崩れ落ちる。

「伏せろ! 伏せ――」

 駆け寄ろうとした後続の隊員にも、死角から放たれた第二の「パラライズ」が直撃する。渡瀬博士がモニター越しに指示した二段構えの罠は、音もなく完璧に決まった。

 混乱する特殊部隊の隙を突き、前衛の工作員が拘束されていた本田絢斗アヤトのもとへ疾走した。

「本田くん!」

 素早く拘束を解き、その腕を引く。しかし、救出された絢斗の瞳には、かつての快活さは微塵もなかった。ただ濁り、どこにも焦点の合わない虚空を見つめている。


偽りの撤退

 その光景を、後藤は最後尾から冷然と見守っていた。翠が蒼と共に前に出、彼を射抜くような視線を向ける。

「約束の日まで、まだ三日あるはずですが?」

「……それすらも作戦の一部なのだよ」

 後藤の口元が、わずかに吊り上がった。

「撤退だ」

 その一号令で、部隊は即座に統制の取れた後退を開始した。倒れた仲間を回収し、一気にヘリコプターへと引き返していく。

 だが、奇妙なことが起きた。ヘリは通信士とパイロットだけを乗せると、部隊を残したまま轟音を立てて夜空へと上昇していったのだ。

 地上に残された特殊部隊員たちは、ヘリを見送るのではなく、その場に低く匍匐ほふくの体勢を取った。彼らは夜陰に紛れ、完全に気配を消して潜伏する。

 入口の工作員がその一部始終を確認し、安堵と共に研究所へと戻っていった。

 暗闇の中で、後藤は独り小さく笑った。

「……第一段階は成功だ」

 隣で麻痺の残る隊員が、憎悪を込めて呻く。

「あいつら……必ず殺してやる……」

 後藤は答えなかった。ただ、本田絢斗という「毒」が運び込まれた研究所の方角を、蛇のように冷たい目で見つめていた。


第47話:毒牙の報復

 後藤たちが去った後、研究所内には張り詰めていた糸が切れたような安堵の空気が流れていた。

 人質だった本田絢斗アヤトを奪還し、敵部隊も撤退した。犠牲を最小限に抑えたこの夜の戦いは、完全なる勝利に思えた。

 しかし、すいだけは、胸の奥をざわつかせる拭いきれない違和感に眉をひそめていた。

「……蒼」

 隣に立つ少年に、声を落として告げる。

「後藤が、あんなに簡単に引くとは思えません。……警戒を解かないで」

「僕も……なんだか変だと思う」

 二人が視線を交わしたその時、スピーカーから見張りの報告が入った。

『ヘリは完全に離脱。視認しました』

 モニター越しの誠一郎が、ようやく深く安堵したように息を吐き出す。

「……ひとまず、作戦は成功だな」

 その言葉を受け、工作員たちの肩から、ようやく強張った力が抜けていった。


洗脳:時限式の刃

 本田絢斗は医務室のベッドに横たえられ、翠がその傍らで見守っていた。

「優香……優香……」

 うわ言のように繰り返される、彼の恋人の名前。その憔悴しきった姿を見つめ、翠は自責の念を込めて静かに呟いた。

「私がもっとしっかりしていれば……こんな目に合わせずに済んだのに。ごめんなさい……」

 そこへ、誠一郎が労うような足取りで入ってきた。

「容態はどうだ?」

「まだ意識がはっきりしないようで……」

 翠が振り返り、誠一郎と視線を合わせる。

「交代するから少し休みなさい。……これでも飲んで落ち着け」

 誠一郎が冷蔵庫から飲み物を取り出し、翠へ差し出そうと向き直った、その瞬間――。

 誠一郎の網膜に、戦慄の光景が焼き付いた。

 翠の背後。ベッドの上で、人形のような虚ろな目をした絢斗が、いつの間にか隠し持っていた果物ナイフを高く振り上げていた。

「っ!!」

 考えるより先に、筋肉が跳ねた。

 誠一郎は迷うことなく翠へと飛び込み、彼女の体を抱きしめるようにして自らを盾にした。

 鈍い感触と共に、誠一郎の背中に鋭い激痛が走る。

 冷たい刃が深く、深く肉を切り裂いた。

「……お父、さん……?」

 腕の中に守られた翠の目に、苦悶に歪む父の顔が映る。

 直後、研究所の静寂を切り裂き、翠の悲鳴が轟いた。


崩壊の序曲

 叫び声を聞きつけ、廊下にいた工作員二人が部屋になだれ込む。

 彼らは即座に暴れる絢斗を組み伏せ、呆然と立ち尽くす翠を部屋の外へと連れ出した。

 

 取り押さえられた絢斗は、ただ子供のように泣きじゃくりながら震えていた。

「こうしないと……」

「優香が…………優香が……」

 洗脳という名の呪縛は、もっとも信頼していた仲間を、最愛の父を傷つける刺客へと変えてしまった。

 崩れ落ちる誠一郎。絶望に染まる翠。

 後藤の描いた「第一段階」は、これ以上ないほど完璧な成果を上げていた。


第48話:継がれる意思

 凄惨な光景にわずかに遅れて、あおが部屋に飛び込んできた。

 床に横たわり、血の海に沈む誠一郎の姿。その致命的な傷を目にした瞬間、蒼の瞳から迷いが消え去った。

「ストレッチャーを!」

 叫びながら即座に行動を開始する。手際よく誠一郎の体を移すと、動揺で足の震えるすいの手を強く引いた。

「翠ちゃん、来て! 急ぐんだ!」

 二人はストレッチャーを押し、迷いなく渡瀬博士の待つ研究室へと廊下を駆けた。


転送:情報の海へ

 研究室の重厚な扉が開くと同時に、モニターの中の渡瀬が装置を起動させた。

 天井から降り注ぐ青い光のラインが、誠一郎の体をなぞるように高速スキャンしていく。空間に激しいノイズが走り、肉体が現実の質量を失って薄れていく。

 そして――。

 現実世界のストレッチャーから誠一郎の姿が消え、同時にメインモニターの中へ、驚愕に目を見開いた誠一郎が具現化した。

「これは……」

 自らの手を見つめ、周囲の電子の海を見渡す誠一郎。その傍らで、渡瀬がいたずらっぽく微笑んだ。

『悪くはないじゃろ、誠一郎くん?』

 誠一郎はしばしの沈黙の後、かつて本田蓮が口にしたのと同じ言葉を、噛み締めるように呟いた。

「……素晴らしい。実に見事だ、博士」


デジタルの絆

 しかし、モニターの前に残された翠は、その場に崩れ落ちるように泣き崩れていた。

「私のせいで……。二人も、私の身代わりになって、犠牲に……」

 その肩を抱くように、モニターの中から誠一郎の優しい声が降り注ぐ。

「泣かないでくれ、翠。ここにいれば、今までよりずっと多くのことが分かる。じっくりと思考する時間も、渡瀬博士も、本田くんもいるんだ」

 誠一郎は娘を見つめ、静かに、しかし力強く続けた。

「お前の顔もいつでも見られる。今までと何も変わらない。いや……肉体の制約から解き放たれた今の方が、お前たちをより確実に導く方法を考えられるはずだ」

 父の言葉に、翠は溢れる涙を必死に拭った。肉体は失われても、その意思はすぐそばにある。

 ふと、誠一郎が周囲を見回して尋ねた。

「そういえば……本田くん(蓮博士)の姿が見えませんが、どこに?」

『ああ、彼ならアーカイブの中に没頭して戻ってこんのじゃよ。研究資料を探しに行くと言ったきりじゃ』

 渡瀬が苦笑交じりに答える。

『わしもここに来た当初は、三日間もデータを閲覧し続けたからの。彼も今、科学者としての至福を味わっておるのじゃろう』

 父たちの軽妙なやり取りを聞きながらも、翠の心にはまだ重い影が落ちていた。

 だが、絶望に沈んでいる暇はない。後藤の「毒」はまだ、この研究所の中に潜んでいるのだ。


第49話:籠城のロジック

 誠一郎の意識がモニターへと吸い込まれ、倫理的な「死」を回避した直後。研究室に充満したわずかな安堵は、氷点下の緊張へと一変した。

 メインモニターの奥、先に「情報」へと昇華していた本田蓮と渡瀬博の傍らに、誠一郎の姿が具現化する。三人の先駆者がデジタル世界で揃い踏みしたその瞬間、渡瀬が苦渋に満ちた声を上げた。

「まずいな……敵の作戦じゃったか」

 モニターが映し出したのは、研究所入口の監視映像だ。そこには、撤退したはずの特殊部隊が、夜陰に紛れて再び侵入を開始する姿があった。一度退いたのは、こちらの警戒を解き、防衛網を内側から崩すための冷徹な罠。そしてその中心には、オリジナルの一冊を懐に抱いた後藤の影があった。

「見張り、即座に撤退しろ! 走るんだ!」

 誠一郎の鋭い咆哮が全館スピーカーを通じて響き渡る。そのわずか一分後、研究所の堅牢な外壁が破られる重低音が、足元から伝わる微かな振動となって研究室を揺らした。


最終防衛線の静寂

 工作員たちが、肺を焼くような息を切らしながら研究室へと雪崩れ込んできた。最後の一人が滑り込むと同時に、あおが防護扉の重厚なレバーを力任せに引き下ろす。

 ガキン、という無機質な金属音。

 それが、外の世界との繋がりを完全に断絶した合図だった。

 静まり返った室内で、すいは壁際に立ち尽くしていた。うつむいたまま、結んだ唇は白く震えている。自分の甘さが、父を、そして敬愛する本田をも肉体なき存在に変えてしまった。その自責の念が、目に見えない重圧となって彼女の肩にのしかかっていた。

 モニターの中から、誠一郎が冷徹な軍師の眼光で一同を見渡す。

「皆、聞け。ここを最終防衛ラインとする。扉は開けない。コピーノートのドラゴンでは正面突破は不可能だ。パラライズ持ちを交互にドアの向こう側へ直接召喚し、こちらの姿を晒さず一方的に兵士の神経系を焼くんだ」

 工作員たちが、手に持ったノートを握りしめる。オリジナルに比べれば出力も持続力も劣るが、誠一郎のロジックがあれば戦いようはある。モニター内の誠一郎は、隣に立つ本田蓮と視線を交わし、冷徹に続けた。

「翠は今の精神状態では、まともに作戦に参加できない。翠は戦列から外しておけ」

 その言葉は、翠の心に深く突き刺さった。誠一郎はあえて娘を戦いから遠ざけることで、これ以上の精神的負荷を防ごうとしていた。

「後藤がオリジナルを使えば、コピーでは太刀打ちできない。その時は、蒼くん……君の持つオリジナルの一冊だけが頼りだ」

 モニター越しに射抜くような視線を向けられ、蒼は血の滲むほどに拳を強く握りしめた。

「……わかってる、おじさん。僕が、みんなを守る」


暗雲、扉の向こうに

 別のモニターが、防護扉の真向かいにある通路を映し出す。

 暗視ゴーグルの緑色の光が闇に並び、タクティカルギアの擦れる微かな音がマイクを通じて拾われる。特殊部隊はすでに整然と、獲物を袋小路に追い詰めた確信を持って陣形を組み、一点の綻びもなく入口を包囲していた。

 死地を前にして、誠一郎の声が静かに、しかし決然と響く。

「……準備はいいか。ここから先は、一秒の迷いも許されない」

 工作員たちは互いに視線を交わし、ノートのページを捲った。デジタルの海に沈んだ三人の先駆者と、現存する三冊のオリジナルをそれぞれに抱えた少年少女、そして宿敵。

 希望と絶望が入り混じる籠城戦の幕が、今、残酷に上がろうとしていた。

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