賢木①
あれほど魂の渇きを覚えるように求めたはずの想いが、いざ成就してみれば、
心の奥底に巣食う飢えの一欠片すら満たしてはくれません。
あの夜、彼の腕の中にあったのは、永劫に恋い焦がれた理想の御姿などではなく——
ただ、光る君自身の、抑えきれぬ幼さと衝動が生み出した影絵のような残像にすぎなかったと、
時を遡った今になってこそ、残酷なほど鮮やかに理解できるのでした。
あの一度きりの禁忌の逢瀬で、光る君は何を得たというのか。
幸福でも、真の愛でもなかった。
手のひらに残ったのは、底知れぬ虚しさと、どうにもならぬ悔恨と、
心のどこかを今も灼き続ける業火のような痛みだけでした。
思い返すたびに胸を容赦なく締めつける痛みは、
初恋の淡い名残などでは決してなく——
己の身勝手な行いの果てに、紫の上を深く傷つけ、孤独の淵へ追いやったという、
消し去る術のない罪そのものから発しているのでした。
清らかであったはずの初恋を、自らの都合の良い形へ美化し、
ただ一度の出来事を、心の内で永劫の理想へと神格化していた浅はかさ。
その愚かさが、今さら胸をえぐるように痛みます。
宵の風はまだ冷たく、遠い山並みから春の生ぬるい匂いが、
ひっそりと夜気の底を渡ってくる時刻でした。
燈台の火は寂しげに揺れ、橙色の光が柱に長い影を落とすと、
胸に沈む深い思念が、影となって闇の奥へ伸びてゆきます。
引き取らない方が、あの子の幸福のためなのかもしれない。
その思いが、恐れとともに何度も胸を掠めます。
再び自らの手を伸ばせば、紫の上は、かつてと変わらず『光る君の女』という重い宿命を背負うことになる。
それは、あの悲劇の道を、またもや歩ませてしまうことに他なりません。
藤壺の宮を失う恐れに駆られ、過ちへ身を投げたあの夜と、
今この瞬間、紫の上を囲い込もうとする衝動は……
結局、何ひとつ変わらない己の欲望の延長ではないのか。
紫の上は、穏やかな心根を持つ誰かに嫁げば、清らかな魂のまま、大切に慈しまれ、幸せに暮らしたでしょう。
それでも——。
瞼を閉じれば、死の淵で見た紫の上の面影が、胸の奥を締めつけるほどの激しい痛みを伴い、鮮烈に蘇るのでした。
『……孤独……でした……これ以上なく。
ずっと……ただ、ひとり……』
あの声。
あの泣きながら見上げてきた、すがりつくような眼差し。
手を伸ばせば触れられたはずの距離でありながら、まるで永劫に届かぬかのように遠かった、その魂。
その悼ましい声が、いまも耳の奥で絶えず微かに震え続け、
光る君は一瞬たりとも忘れることなどできません。
……あの孤独を、二度と。
二度と、あの子に味わわせてはならない……
切実な願いが魂の底で熱い奔流となり、
抑えようとしても胸の内を激しく突き上げます。
俺があの子を守らねば、この世の誰が、
あのあまりにも儚い魂を守れるというのか——。
時間的な猶予は、もはやありません。
紫の上を慈しんでいた尼君が世を去る時期は、もうすぐそこまで迫っているのです。
そうなれば、理にかなった庇護者として兵部卿宮が迎えに来るでしょう。
つまり——
紫の上は、光る君の手の届かぬ場所へ、今度こそ永遠に去ってしまうのです。
そう思った瞬間、胸の奥に、ひどく静かでありながら抗いようのない衝撃が走りました。
それは、足元を揺らすような激しい衝撃ではなく——
漆黒の闇の底に、突如として一本の太い光が貫くような、
逃れようのない確信でした。
行かねばならない。
理屈ではない。欲望でも、衝動でもない。
ただ、紫の上を救うという、その唯一の道だけが、
すでに彼の肉体より先に、魂の奥で必然として形を成していたのです。
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