賢木③
やはり……兵部卿宮に引き取られたなら。
きっと穏やかな日々の中で育ち、苦悩から遠い人生もあったのかもしれない。
美しく成長すれば、良縁にも恵まれ、無垢な心のまま愛されて暮らしてゆけただろう。
その『平穏な運命』を妨げるのは、他ならぬ——
己の、汚れきった手。
そう思えば思うほど、懺悔の念が足を重くし、
光る君はただ夜風の冷たさを受けることしかできません。
しかし、その葛藤を吹き飛ばす瞬間は突然訪れました。
紫の上が、小さな胸に拾った梅の花を抱きしめ、寂しさに耐えるように、ほとんど涙に伏した声で呟いたのです。
「尼君が……世を去られたら、わたし……どうしたら……」
夜気に消えてしまいそうなほど小さな声。
幼い魂が、どうしようもない不安を抱え、必死にこらえたその響き。
その瞬間、光る君の胸奥で、張りつめた理性という糸が、
鮮やかに、そして静かに切れました。
……やはり、放せない。
たとえ世の非難を永久に背負おうとも——
この子を、二度と『孤独』という病に触れさせてはならない。
己の知らぬ場所で、涙を堪えるこの子を思うくらいなら、
すべての咎を引き受けてでも、必ず連れ出す。
紫の上の小さな肩が微かに震えるたび、光る君の胸は裂かれるように痛み、決断は、もはや一瞬でついていたのです。
迎えに来たよ、紫——。
心では叫びながら、声には出せません。
あの最期の夜、泣かせたままの、この罪深い顔はまだ幼い彼女に見せられない。
だからこそ光る君は、己の存在を悟られぬよう、
静かに、しかし揺るぎない足取りで、尼君の庵へと歩みを進めました。
たとえ、神仏の咎を重ねることになったとしても——
もう二度と、この子を独りにはしない。
それこそが、この世で自分に与えられたただひとつの使命なのだと、光る君は深く胸に刻みつけていました。
夕刻を過ぎた深山の空は、墨を流したような濃い雲にすっかり覆われています。
山の端から吹きおろす風は、すべてを冷たく凍らせるように鋭く、竹林の枝々をざわめかせ、時折、嗚咽にも似たひゅうっとした声をあげて夜気を震わせました。
「——尼君が、まことに危篤なご様子にて」
従者の沈んだ報告の声が、光る君の胸底へ、冷たい雫のようにひたりと落ちてゆきました。
やはり——この定めの時が、ついに来たか。
紫の上を孤独のうちに喪った、あの忘れ難い晩。
最期に聞いた、あの凄絶な声は、今も耳の最も奥深くに血のようにこびりついたまま離れません。
『……孤独……でした……これ以上なく。
ずっと……ただ、ひとり……』
あれほどの深い寂しさを、華やかな衣で飾っても隠しきれぬほどの痛みを、
幼い魂に永きにわたり背負わせてしまったのは、紛れもなく己の浅はかさでした。
——だからこそ、今度こそは。
尼君の寝所に踏み入った時、灯火に照らされたその容態は、
想像をはるかに超える深刻さでした。
息は浅く、細く、肩は弱々しく震え、風に揺れる灯火の光が、
寂しい影を幾重にも部屋の中へ落としていました。
ふと、障子の向こうから、気配がしました。
息を殺し、震えるほど静かに潜む、小さな影。
——視線が、闇の中で、確かに重なります。
薄紫の袿をまとった、小さく、美しい姫君。
幼い頬には怯えの色が微かに差しているのに、その両の目だけは、溢れそうな涙を必死に堪えつつ、
未来そのもののように澄んだ光で、まっすぐ彼を見つめておりました。
……紫……
胸の奥で、その名が熱くこぼれました。
実際にはまだ幼名すら授かっていない幼子。
けれど光る君にとっては、もはや二度と見失ってはならぬ『紫』その人でした。
姫は、尼君の枕元にぴたりと身を寄せ、小さな手で尼君の袖を固く握っています。
泣くまいと、幼い唇を噛みしめ、頬を震わせて耐える姿が、
光る君の胸を裂くほどに愛おしく、痛ましい。
こんなにも幼い頃から——
すべてを、ひとりで抱え込んでいたのか。
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